27 その日から玲子は子作りをするべく発奮するのだが、対して 夫の匠吾は週末しか相手にしてくれない。 だが妊娠する時はたった一度の夫婦の営みでもするという話も 聞いたことがあり、当初はそんなに焦ってはいなかった。 4か月目に入っても妊娠の兆しはなく、この辺から玲子に焦りが 見え始める。 実は匠吾は軽度ではあるものの不妊と診断を受けていた。 治療次第で子供は授かれるレベルと言われていて、だからこそ 玲子との夫婦生活において、スキンを使わなくてもやり方次第で 妊娠しない方向へもっていけるという根拠があり、家族会議の上での 計画となった。 そんな具合で夫のほうに元々子作りする意志がないものだから 妊娠などするはずもなく、しかし厚顔無恥な玲子も流石にりっぱな家を 買ってもらうために早く妊娠したいなどとは、そこはやはり新婚さん妻で 夫の匠吾には言えなかった。 悶々としていた玲子は、ある日閃いた。 夫と同じ血液型の男を探し、パパになってもらえばいいや、と。 出会い系マッチングアプリで血液型と見た目、学歴などを加味し、 無事? 妊娠し玲子は喜びを噛み締めるのだった。 たまたまこの年からちょうど母子に危険を及ぼす可能性のある羊水からの 採取ではなく母親の血液から簡単にDNA鑑定できるようになっており 天は沙代たちに味方した。 玲子の妊娠7週目を待って玲子にはDNA鑑定であることは伏せ 内臓疾患があると妊娠にリスクが出て来るので検査を受けなさいと 知り合いの病院で血液検査を受けさせた。 念のため匠吾も頬の内側を綿棒で擦るという口腔上皮細胞の採取を行った。 10日後検査結果が簡易書留で送られてきた。 結果は予想通りで匠吾の子ではないと判定が下りたのだった。 正直判定を聞くまで匠吾は内心ドキドキだった。 性交渉をしているからには万が一ということもあったからだ。
28 玲子は妊娠9週目に入ったところで匠吾と共に沙代洋輔夫妻に 呼びつけられた。 出産まではまだ随分と日があるものの約束通り家と土地の話を されるのだろうと義両親に呼ばれた玲子はウキウキだった。 反して匠吾はこんなクソのような女のために花との未来を奪われたのかと 思うと今更ながらに憤懣やるかたない気持ちになるのだった。 そして、そんな玲子を待っていたのは罵倒と慰謝料請求だった。 リビングに設けてある応接コーナーに若夫婦が座ると 後から義両親が対面に座り話し合いとなった。 「玲子さん、あなたやってくれたわね。あなたのくだらない戯言《ザレゴト》で花ちゃんとうちの匠吾との仲を平気でぶち壊したあなただもの、流石よねぇ~」「えっ……」 話がどこへ向かおうとしているのか分からず固まる玲子だった。「DNA検査って知ってるわよね?」「はい」 DNA検査という単語を出され玲子は焦った。 自分の子は疑われているのだろうかと。 検査を勧められたらどうやって切り抜けようか、などと頭の中は そのことでいっぱいになった。 しかし切り抜け方など焦って考える必要などなかった。「これ、検査報告書見てご覧なさい」 渡された書類を見ると夫の匠吾とは親子関係がほぼ0に近いと 書かれてあるのだ。 だけど何故? 自分はDNA検査などしていない。 夫の匠吾だってそんな検査したことなど聞いてない。 何がなにやら分からぬまま❔マークを顔に貼り付けていると 沙代からフォローが入った。 「この間の病院での血縁検査で分かったのよ。 あなたには黙ってたけど……あれって今年からできた新しい方法での DNA検査だったのよ。 あなた不貞を働き、その上托卵する気だったでしょ。 犯罪よ、これって。 慰謝料300万円請求の上、離婚を要求します。 さっさと離婚しないと慰謝料を500万円に増額するわ」
29 玲子は突然のことに隣の匠吾を振り返った。 匠吾は玲子を一瞥することもなく険しい顔で前方を見ているだけだった。 「あなた、ごめんなさい。 お義母さんから早く孫を生みなさいと言われてプレッシャーだったの。 それで……」 「うちの母親が欲しかったのは俺の子だよ。 誰か顔も知らない他所の男の子を欲しがる人間なんていないだろ。 プレッシャーだなんてどの口が言うんだろう。 リッチな暮らしがしたいばかりに勝手にプレッシャー感じてただけだろ? 2、3日猶予を与えるから出て行って。 お金はご両親に建て替えてもらうか、どこかで借りてでも支払うように」* 玲子はひとり、自宅に返された。 匠吾は玲子が家を出て行くまでは両親の部屋で過ごすことにしていた。 そして玲子の実家へも報告書は送られており、すべからく当初の予定通り 沙代たちの計画は準備万端完了したのだった。 玲子は離婚届を置いて迎えに来た両親に連れられて帰って行った。 部屋に残された緑色の紙を匠吾はビリビリに破き、ゴミ箱に捨てた。 次回何かで戸籍を見るまではその実、結婚歴などなかったことを 玲子が知ることはないだろう。『ご愁傷さっま』と匠吾は呟いた。 玲子が愚かだったため復讐に1年も掛からず済んでしまった。* 沙代と洋輔は玲子から巻き上げた慰謝料300万円を持って 再度の謝罪をするために父の自宅を訪れた。 総帥の茂は言った。 「ご苦労様」と。 匠吾しかり沙代も洋輔も元来今回のように人を貶めたりすることのできない人間でこれでやるべき仕事が終わったかと思うとほっとするのだった。 そしてこの後3人は(祖)父や掛居家から離れた土地へと引っ越しして行った。
30 良かったのか悪かったのか……ほどなくして、玲子は自然流産してしまった。 玲子は自分の今回の不遇を浅はかなことをしてしまった自分のせいだと考えていて、沙代や匠吾たちの思惑には幸か不幸か気付かなかった。 そして今回だけに留まらず不運がずっと付いて回る可能性があることにも とんと頭が回らなかった。 ◇ ◇ ◇ ◇ 流産のあと、身体が回復すると玲子は近所にあるコンビニで働き出した。 そしてコンビニで働きながら就職活動も開始した。 開始した時期ももうすぐ4月という時期で良かったのかもしれない。 公益財団法人緑の協会というところで契約社員だったからか就職はすぐに決まり、コンビニも申し出てから1か月ちゃんと勤めて辞めることになった。 公園や動物園の受付や案内、イベント運営、施設の広報、ブログ掲載のための記事や画像撮影そして事務一般というのがそこでの割り振られた仕事で、それは何でも屋的で職員の勤怠管理、支払い関連の経理など、座ってする仕事だけでもなく立ち歩いたり座ったりとバランスの良い仕事だった。 5年は長いと感じたが5年契約社員で勤めれば正社員になれるらしいのも魅力のひとつだ。 そんなわけで玲子は『採用が決まりました。来てもらえませんか』との連絡を受け、即座に『ありがとうございます。行きます』と返事をしたのだった。 職場の雰囲気はすごく良かったし、仕事も思っていた通りいろんなことをさせてもらえて楽しく長く続けられそうだと思っていた……のに。 入社して10日ほどして支部長から個室に呼ばれ突然の解雇を言い渡されてしまった。
31 「仕事も意欲的に取り組んでもらっていて言いにくいんだけど 辞めてもらうことになりました。できれば今すぐにでも」「どうしてですか?」 「圧力がかかりました。 あなた、誰かに恨みをかっていませんか? 普通は恨みをかっていたとしても、新しい就職先を解雇されるって ことまではないでしょうけどね。 あなたが恨みをかった相手はおそらく大物なのでしょう。 私が言えるのはこの辺《あたり》までです」 恨み、恨みといえば掛居花と向阪匠吾の仲を引き裂いたことくらいしか 思いつかない。 でも結局匠吾は私と結婚したんだよ……結局自分の不貞のせいで 離縁されてしまったけれども。 犯人は掛居花なのか? だけど会社を辞めさせられるほどの大物だというのなら、 私が匠吾と結婚した時に邪魔するのじゃない? 結婚は阻止しなかったのに会社へは行けなくするって……なんか 変じゃない? いくら考えても玲子には恨みをかってるという人物を特定することが できなかった。 ◇ ◇ ◇ ◇ 次はバイトもせずに就職を探すだけに時間を使って過ごし、早々に 前回に負けず劣らず働き甲斐のある事務仕事を見付けた。 しかしこの時もやはり仕事についてすぐに圧力がかかり、仕事を 継続することは叶わなかった。 もう誰かの見えない力のせいでちゃんとした会社には就職できないと 落胆したものの、よくよく考えてみればコンビニでバイトしていた時には 横槍はなかったはず。 そこでしばらく就職活動を断念してバイトで食いつなごうと 玲子は自分の生活の有り方を切り替えることにした。 前回1か月余り働かせてもらったコンビニに連絡を入れると ぜひにと請われ、少し気恥ずかしくもあったが、そこは割り切って 働くことにした。 他のバイトの人とも上手く連携が取れて仕事は順調にいった。 ◇ ◇ ◇ ◇ そして半月ほどした頃、週に何度かコンビニ弁当を買って帰る男性《ひと》から玲子はメモ付きの名刺を貰う。
32 『4月になってあなたの顔を見なくなり、寂しく思っていました。 今回職場復帰したのを知りうれしく思います。 よろしければ一度食事をご一緒していただけませんか。 連絡をいただければうれしいです』と記されていた。 どうしようか、と玲子は考えた。 これといった特徴のない男だったからだ。 就職活動はしばらく中止していたのでバイトのない時間は暇ではある。 たぶん1、2度デートしたら『さよなら』だと思うけど、ちょっと美味しいものをご馳走してもらおうという軽いノリでその田野浩司《たのこうじ》という男との食事を楽しむことにした玲子だった。 夜ごはんに行ったりドライブをしたりと思ってたよりも楽しい時間を過ごせたことでデートは2度までで終わらなかった。 何と言ってもリッチな食事が無料で食べられるのは正規雇用で就職できない玲子にとって大きな魅力だった。 そして数回デートする中で大きな収穫があった。 田野もその父親もサラリーマンだが父方の祖父が今だ健在で資産家らしいということが分かってきて、祖父亡きあと父親にその遺産がいくがもう少しすると生前贈与で孫の田野に幾ばくかのまとまったお金が贈与されることになっていると聞く。 人の良さそうな田野を見ていると結婚後も大事にしてくれそうに見える。 彼ならお給料も全部妻になった自分に管理させてくれそうな気がする。 恋人には物足りないが夫として考えると申し分のない人じゃないか。 相手は元々玲子を気に入っているのだから玲子さえその気になれば……なんのことはない、事は順調にそして素早く進んだ。 交際2か月で婚約をし、それからしばらくして入籍をと考えていた矢先に玲子にまたもや暗雲が立ち込めた。 例の圧力という名の横やりが入ったのだ。
33 田野はこう言った。「玲子ちゃんを守れなくてごめん。 両親は元より祖父から結婚するなら絶縁すると言われた。 生前贈与の話もなくなるだろう。 それでもいいっていうことなら、絶縁して俺は玲子ちゃんと結婚してもいいかなって思ってる……けど、一文無しの俺なんて玲子ちゃんヤだろ?」 田野は最初のデートではその気のなさそうな素振りだった玲子が祖父からの生前贈与の話、遺産の話など口にしてからコロリと態度を変えたことをちゃんと見抜いていた。「私たちの結婚に賛同してくださってたのに今になって反対と言うようになったのは何が原因なのかなぁ?」「玲子ちゃんが婚約者のいる男を好きになり、ないことないことを婚約者女性に嘘を吹き込んでふたりの仲を裂いたってことらしいよ」「私は嘘なんてついてない。 相手の女性のメンタルが弱すぎて婚約者と上手くいかなくなっただけのことなのに、酷いわ。 私だけを悪者にして。 今までも就職を2度も邪魔されてるの。 ね、その横槍を入れてきてるのは誰なのか分かる? 知ってるなら教えて」「今玲子ちゃんが話したメンタルの弱い女性の婚約者って向阪っていう性の人では?」「えっ、何で知ってるの?」「俺も知らずにいて、祖父と父親の話を小耳に挟んで知ったんだけど、ごめん、肝心のところは話が聞けてなくて……」「分かった、いろいろ教えてくれてありがとう。 田野さんにこれ以上迷惑かけられないから私は身をひくわ。 じゃあ、そういうことで」 玲子は田野にこれっほっちの未練も残さず、カフェから出て行った。『参ったなぁ~』 自分は絶縁してでも玲子と一緒になってもいいと清水の舞台から飛び降りる覚悟で告白したというのに、あの女はあまりにも分かりやすい態度であっさりと自分の前から去って行ったのだ。いっそ清々しいくらいの体で。 自分の後ろにあるもの(お金)で彼女の心を射止められたのかもしれないとは思っていたものの、こうもあからさまな態度を取られ未練がなくなったのはよかったかもしれない。 だが、そう思いつつもなんだかもやっと胸が痛むのを田野は止められなかった。
34過去の確執で家を出ていた蘭子だったが、ここのところの玲子の不運続きを心配した両親から相談にのってほしいと自宅に呼び寄せられた。 二度と敷居を跨ぐまいと決めていたがふてぶてしい妹が不運と聞いて来ないわけにはいかなくなった。 妹の不幸は蜜の味……だから。 ――――花や匠吾の生きてる世界がどのようなものであるかを、 ことごとく幸せを掴もうとするたび幸せが逃げてゆく 玲子は……身近な親族で玲子の生き方を軽蔑している 姉の欄子の口からポロっと聞かされるのだった。―――――「どうして、幸せが目の前にあって掴もうとするとスルスルっと手の指の隙間からスルリと逃げていくの? 酷い、酷すぎる」 思わず結婚話が破談になり自宅に戻って来た玲子は姉の欄子がいるにも係わらず、なりふり構わず怒りに駆られて自分の感情を爆発させた。『ふふんっ』「あんたってさ、自分の損得勘定だけで生きてるピラニヤみたいな人間だから周りのことがナンも見えてないようだけど。正規雇用された会社がどれも内定を覆されて駄目になったり、プチ玉の輿に乗れそうな相手に出会って上手くいきかけてたのに途中で結婚の話がご破算になるって……どう考えても不自然よね。 どうして? とか酷すぎるっていう前に少しは頭に付いてる脳みそ使ってみればぁ~!」「何か心当たりがあるならもったいぶらないで言って。 分かるように話してよ」「あなたが最初に準社員で入社した会社は戦国時代、江戸時代から続いてる旧財閥系なのよ」「だから何? 戦後財閥なんてGHQ最高司令官マッカーサーによって解体されちゃって財産は没収され、凋落してるわよ。 旧財閥が何だっていうのよ。 ふざけんじゃないわよ」「一時的にはね。 だけど金属鉱山の創業をはじめ、金融、保険、建設業などさまざまなグループ企業を起こし、莫大な利益を上げてるのよ。 調べてみたの、掛居花という女性のことをね。 あなたはね、とんでもない相手に唾を吐いたようなものでこのままだとあなたも家族である私や両親もロクな人生が待ってないわぁ~。 憐れな末路が待つのみ」
111 メールアドレスを残して帰ったものの、相原からは次の日の日曜Help要請が入らなかったので体調は上手く快復したのだろう。 今日は出社かな、週明け、そんなふうに相原のことを考えながらエレベーターに乗った。 自分のあとから2~3人乗って、ドアが閉まった。 振り返ると気に掛けていた人《相原》も乗り込んでいた。「あ……」「やぁ、おはよう」「おはようございます」 挨拶を返しつつ私は彼の顔色をチェックした。 うん、スーツマジックもあるのだろうけれど元気そうだよね。 土曜はジャージ姿で服装も本人もヨレヨレだったことを思えば嘘のように元の爽やか系ナイスガイになっている。『凛ちゃんのためにも元気でいてくださいね』 心の中でよけいな世話を焼きながら先に降りた彼の背中を見ながら同じフロアー目指して歩いた。 歩調を緩めた彼が少しだけ首を斜め後ろにして私に聞こえるように言った。「土曜はありがと。この通りなんとか復活できたよ」「……みたいですね。安心しました」 私たちの間にそれ以上の会話はなく、各々のデスクへと向かった。 昼休みにスマホを覗くと相原さんからメールが届いていた。「土曜のお礼がしたい。 残業のない日がいいので明日か明後日、いい日を教えて」「ありがとうございます。気にしなくていいのに……。 凛ちゃんのことはどうするんですか?」「デートの予定が決まれば姉に預けるよ」 お姉さんがいるんだ、相原さん。 じゃあこの間はお姉さんの方の都合が付かなかったのね、たぶん。「私はどちらでもいいのでお姉さんの都合のいい日に決めてもらって下さい」「じゃあ明日、俺の家の最寄り駅で19:30の待ち合わせでどう?」「分かりました。OKです」 すごい、私は明日相原さんとデートするらしい。 そんな他人事のような言い方が今の私には相応しいように思えた。
110 気が付くと、凛ちゃんの『あーぁー、うーぅー』まだ単語になってない 言葉で目覚めた。 ヤバイっ、つい凜ちゃんの側で眠りこけていたみたい。 私はそっと襖一枚隔てた隣室で寝ているはずの相原さんの様子を窺った。『良かったぁ~、ドンマイ。まだ寝てるよー』 私の失態は知られずに終わった。 私はなるべく音を立てないよう気をつけて凛ちゃんの子守をし、 彼が目覚めるのを待った。 しばらくして起きた気配があったので凛ちゃんを抱っこして近くに行く と、笑えるほど驚いた顔をするので困った。「えっえっ、掛居さんどーして……あっそっか、来てもらってたんだっけ。 寝ぼけてて失礼」 それから彼は外を見て言った。「もう真っ暗になっちゃったな。遅くまで引っ張ってごめん」「まだレトルト粥が2パック残ってるけど明日のこともありますし、 土鍋にお粥を炊いてから帰ろうかと思うので土鍋とお米お借りしていいですか?」「いやまぁ助かるけど、君帰るの遅くなるよ」「ある程度仕掛けて帰るので後は相原さんに火加減とか見といて いただけたらと……どうでしょ?」「わかった、そうする」 私は何だか病気の男親とまだ小さな凛ちゃんが心配でつい相原さんに 『困ったことがあれば連絡下さい』 とメルアドを残して帰った。 帰り際病み上がりの彼は凛ちゃんを抱きかかえ、笑顔で 『ありがと、助かったよ』と見送ってくれた。 私は病人と小さな子供にはめっぽう弱く、帰り道涙が零れた。 こんなお涙頂戴、相原さん本人からしても笑われるのがオチだろう。 たまたま今病気で弱っているだけなのだ。 普段は健康でモーレツに働いている成人男性なのだから泣くほど 可哀想がられていると知ったらドン引きされるだろうな。 そう思うと今度は笑いが零れた。 悲しかったり可笑しかったり、少し疲れはあるものの私の胸の中は 何故か幸せで満ち足りていた。
109「知りませんよー。 適当に話を合わせただけなので」「酷いなー。 俺との付き合いを適当にするなんて。 雑過ぎて泣けてくるぅ」 ゲッ、付き合ってないし、これからも付き合う予定なんてないんだから適当で充分なんですぅ。「別に雑に接しているわけではなく、分別を持って接しているだけですから。 そう悲観しないで下さい」「掛居さん、俺とは分別持たなくていいから」「相原さん、私、今の仕事失いたくないので誰ともトラブル起こしたくないんです。 特に異性関係は。 ……なのでご理解下さい」「わかった。 理解はしたくないけど、取り敢えずマジしんどくなってきたから寝るわ」 私と父親が話をしていたのにいつの間にか私の隣で凛ちゃんが寝ていた。 私はそっと台所に戻ると流しに溢れている食器を片付けることにした。 それが終わると夕食用に具だくさんのコンソメスープを作り、具材は凛ちゃんが食べやすいように細かく切っておいた。 それから林檎ももう一つ剥いてカットし、タッパウェアーに入れた。 スーパーで買って食べる林檎は皮を剥いて切ってそのまま置いておくと色が変色するけれど、家から持参した無農薬・無肥料・無堆肥の自然栽培された林檎は変色せず味もフレッシュなままで美味しい。 凛ちゃんが喜んでくれるかな。 そしてそこのおじさんも……じゃなかった、相原さんも。 苦手だと思ってたけどクールな見た目とのギャップが激しく、子供っぽいキャラについ噴き出しそうになる。 芦田さんに教えてあげたいけど、変に誤解されてもあれだよねー、止めとこ~っと。 ふたりが寝た後、私は自分用に買っておいた菓子パン《クリームパン》と林檎を少し食べてから持参していた缶コーヒーでコーヒーTime. ふっと時間を調べたら15時を回っていた。 さてと、重くなった腰を上げて再度のシンク周りの片づけをしてと……。 洗い物をしながらこの後どうしようか、ということを考えた。 もうここまででいいような気もするけど相原さんから何時頃までいてほしいという点を聞き損ねてしまった。 あ~あ、私としたことが。 しようがないので彼が起きるまでいて、他に何かしてほしいことがあるかどうか聞いてから帰ることにしようと決めた。
108 「ね、真面目な話、どうして保育士の仕事してるの?」「ま、簡単に言うと芦田さんにスカウトされたから、かな」「ふ~ん、相馬から苦情来ないの?」「相馬さんにはその都度仕事の進捗状況を聞いて保育のほうに入ってるので大丈夫なんですよ~」「ね、相馬ってどう?」「どうとは?」「仕事振りとか?」「相馬さんとはバッチし上手くいってますよ」「……らしいよね、周りの話を聞いてると」「周りの話って?」「相馬ってさ、甘いマスクの高身長で癒し系だろ、掛居さんの前任者2人は相馬を好きになったけど相手にされず早々に辞めてしまったっていう噂なんだけどさ」「……みたいですね。 私もチラっと聞いたことあります。 でも1人目の女性《ひと》はどうなんだろう。 相馬さんは仕事上での相性が悪くて辞められたのかもって、話してましたけど」「相馬らしい見解だな。あいつは察知能力が低いからね」『……だって。自分はどうなのって突っ込み入れそうになる』 相原さんにお粥と林檎を出し、彼が食べている間に凛ちゃんにはお粥にだし汁と味噌、卵を投下したおじやを、そしてすりおろした林檎を食べさせる。 その後、凛ちゃんの歯磨きを終えると相原さんとは別の部屋で寝かしつけをした。 眠ってしまうまでの凛ちゃんの仕草がかわいくてほっぺをツンツンしてしまった。「あ~あ、俺も添い寝してくれる人がほしいなぁ~」「早く見つかるといいですね~」 ……って凛ちゃんのママはどこ行っちゃったんだろうってちょっと気にはなるけれど、個人情報を詮索するのは良くないものね、忘れよっと。「俺に奥さんがいないってどうしてわかった?」 そんなの知らないし、奥さんがいないなんてひと言も言ってないぃ。 なんなのよ、全く。 人が折角触れないでおいてあげようって話題を、自分から振ってくるなんて頭おかしいんじゃないの。 クールな見た目とのギャップに可笑しくなってくる。
107 相原さんのお宅は120戸ほどある8階建てのマンションだった。1階のオートロックのドアの前でインターホンを鳴らす。「こんにちは~、掛居です」インターホンを鳴らして声掛けをすると彼から『あぁ、鍵は開けてあるので部屋まで来たら勝手に入ってください』と言われる。 ********「こんにちは~、掛居ですお加減いかがでしょうか」私が挨拶をしながらドアを開けて家の中に入ると、私の訪問を待っていたかと思われる相原さんが奥の部屋から出て来た。「熱が出ちゃってね。 一人ならなんとかなるだろうけど、チビ助の面倒までとなるとちょっとキツくてね。 Help要請してしまったんだけどははっ、掛居さんが来るとは予想外だった。 なんかヘタレてるところ見られたくなかったなぁ~」『へーへー、そうですか。 私も来たくなかったけどもぉ~』と子供っぽく心の中で応戦。「芦田さんじゃなくてスミマセンね。 ま、私が来たからには小舟に乗ったつもりでいて下さいな」「プッ、大船じゃなくて小舟って言ってしまうところが掛居さんらしいよね」 何よぉー、知ったかぶりしちゃってからに。 私のこと知りもしないクセに……って、反撃は良くないわよね。 私の繰り出した寒《さ》っむ~いギャグに付き合ってくれただけなんだから。「ふふっ相原さん……ということで私、凛ちゃん見てるのでゆっくり横になります? それとも何か口に入れときます?」 今は積み木を舐めて『アウアウ』ご満悦な凛ちゃんを横目に彼に訊いてみた。「う~ん、じゃあ買ってきてもらったお粥だけ食べてから寝るわ」「林檎も剝きますね。林檎、嫌いじゃないですよね?」「好きだよン」 わざとなのか病気のせいなのか、鼻にかかったセクシーボイスで私をジトっと見つめ意味深な言い方をする相原さん。「ね、相原さん……」「ン?」「ほんとに熱あるんですかぁー? 仮病だったりしてー」「酷い言われようだなー、参った。 お粥と林檎食べたら大人しくするよ」「そうですね、病人は大人しくしてないとね。 さてと、準備しますね。少しお待ちくださぁ~い」
106 「そういうことなら相原さんはやっぱり掛居さんにお願いしたいわ。 実は……掛居さんだから話すけど、私はカッコイイ男性《ひと》は緊張しちゃって駄目なのよー。 おばさんが何言ってんだーって笑われそうだけど。 そんなだからこの年になっても未だ独身なんだけどね」「芦田さん、私は笑いません。 私も相手が素敵な男性《ひと》だと同じです。 緊張しますもん」 相手に合わせて? 調子のいいことを言いながら自分自身に問いかけてみる。 私は匠吾だけを見て生きてきたので素敵な男性なんて他の人に対して思ったことがないんだよね~。 多少いたのかもしれないけど、私にとっては普通の男性《ひと》としてしか接してないと思われ、素敵な男性だと緊張するという経験は……なかったわっ。 ただ相原さんの場合は特殊というか、かみ合わなくてあまり接触したくないのよね。 だけど芦田さんの乙女チックな気持ちもよく分かるのでしようがないなぁ~。「ありがと、掛居さん。 私がいい年をしてこんな恥ずかしいこと話したの初めて。 共感してもらえてうれしいっていうか……。 じゃあ、今回の相原さんのお宅訪問の詳細はメールで送らせてもらっていいかしら」「はい、大丈夫です」「メールで説明してある項目以外は本人の意向を聞いてもらってお手伝い進めてもらえばいいです」「はい、分かりました」 電話を切り、メールをチェック。 凛ちゃんのことが気に掛かり、私は大慌てで出掛ける準備をした。 訪問する前に頼まれているモノをどこかで買わなきゃ。 さて、Let’s go.
105「お待たせしました、掛居です」「休日でお休みのところ、ごめんなさいね」「いえ、大丈夫です。自宅訪問の件ですが行けます。 伺う時間とサポート内容、場所、それから滞在時間の目安など教えていただけますか」「有難いわ、助かります。 詳細は後からメールで送るわね。 掛居さんに担当してもらうのは相原さんなの。 場所は……」 私は『相原』という名前を聞いた途端、頭やら耳の機能が停止してしまったようで、芦田さんの話してる言葉が何も入ってこなかった。 いゃあ~、人を差別するというか、この場合自分の好き嫌いで選別してはいけないこととは分かっているものの、先月の彼とのエレベーターでの出来事を思えば、どんな顔をしてサポートに入れるというのだ。「もしもし?」「あの、芦田さん、できれば他の人と……つまり芦田さんが訪問する予定のお宅と替わっていただけないでしょうか」「……」「掛居さんは私が受け持つ人とは面識がないし、というのもあるし、ちょっと恥ずかしいんだけど言っちゃうわね。 私、独身でしょ、だから男性のお宅へ伺ってサポートっていうのは恥ずかしくて」 それを言うなら私も独身、しかも花も恥じらう? まだ20代ですってば。「あ、掛居さんも独身だけど相馬さんとも親しくしているって聞いてるし、男性に耐性あるんじゃないかと思って」 そんなこと誰に聞いたんですかぁ~、保育所勤務なのにぃ~、噂って怖いぃ~。「付き合ってるのよね?」「いえ、付き合ってません」 えっ、私ってばそんなことになってるの、知らなかったー。 相馬さんは知ってるのかしら。「でも親しくしてるのはほんとよね?」「個人的に親しくしてないつもりですが……。 そうですね、彼の仕事を手伝ってるので職場では親しくさせてもらってます」
104 夜間保育に係わるようになって3ヶ月目、秋も一段と深まり時に寒さが身に染みる季節になってきた。 あぁ、仕方がない、重い腰を上げる時がやってきたのだ。 本格的に冬物の衣類を収納ケースから取り出し、クローゼットに吊るさないとなぁ~などと花が休日の予定をぼぉ~っと考えながらまったりと寝起きのミルクティーで身体を暖めているところへ、芦田からの1通のメールが届く。 三居建設(株)の子育て支援はほんとに手厚い支援体制になっていて、子たちの親が病気になった時には保育士の手を必要としている場合、自宅訪問をしてサポートしてくれるのだとか。 芦田さんからの連絡はうちの会社ではそのような環境が整っていることの説明と今回正規雇用の保育士2人に対してHelp要請が3件入ってしまい、大変申し訳ないが可能な限り3人目のサポートに入ってほしいというものだった。 メールを読んだなら芦田さんまで電話してほしいと書かれてある。 サポート支援のことなんて今初めて聞いた。 おじいちゃんは知っているだろうか。 誰がこんなすごい制度を提案し作ったのだろう。 素晴らし過ぎるぅ~。 だけどしばし待たれよ。 私って元々保育所にいない人材でしょ。 今までは今回のようなシチュエーションはなく、無事上手く仕事が回っていたのかしら。 自分がサポーターとして社員のお宅へ出張って行けるのか行けないのか……迫られているというのにそんなふうな今まではどうしていたのだろう、なんてことばかり考えが過るのだった。 気が付くと15分ほど経過していた。 いけないっ……私は急いで芦田さんに電話を掛けた。
103 目の前の女は俺の問い掛けには答えず、涙をためた目を見開いて穴の開くほどじっと俺を見ている。 ここで俺は大人げないことをしている自分の所業に気が付き、恥ずかしくなった。 そうだ、なんでこんなに彼女のことを構うんだ。 相馬の彼女だというのに。 自分の愚行にどっと疲れを覚えた。 ボタンから俺の指が離れ扉が開いた途端、スルリと彼女は俺の前からすり抜けて行った。相原清史郎《あいはらせいしろう》は周りから見られているイメージとは180℃違っていてウブで自分に自信のない人間だった。 そんな彼は女性に対しては中身重視。 好きになった相手とは絶対遊びで付き合えない。 相原は当初、相馬付のサポーターとして担当に着任した若くてそこそこ可愛い女子社員を見るにつけ、ご多分に洩れず多少の羨ましさを感じていた。 しかし、来る派遣社員、派遣社員、二人共長続きせずあれよあれよという間に辞めてしまい、女子社員と一緒に仕事をするというのは予想以上に難しいものなのだという認識を強くした。 彼女たちが辞めていった理由として周囲から漏れ伝わってきたのはモテ男相馬に恋心を抱いて玉砕したから、というものだった。 それ故、おばさん《おじさん》気質で周囲と同じようについ3番目に着任した掛居花の言動、つまり様子をそれとなく気にするようになっていた。 そんなふうに野次馬根性で気にかけていた女性《ひと》が娘の保育所に現れたものだからつい、興味を覚えたのだ。全く繋がりのなかった立場から細い糸で彼女と繋がれたのだから多少気持ちが浮ついてもしようがないだろう。 これは日常会話くらい話せるようにならなくてはと声を掛けるも、滑ってばかりのようで掛居から余り良い反応を得られず、普通に話せる間柄になるのには万里の長城(北海道から沖縄まで日本列島をぐるりと囲む距離)ほどもの距離があるのを感じ、寂しく思った。 そしてスマートに成り切れない自分に対して臍《ほぞ》を嚙む思いだった。