LOGIN時は大正時代。とある日不思議な笛の音色に導かれた青年、宮森司は、満開の桜の下で天女のような絶世の美女に出逢う。どうやらその美女は桜の精霊らしくて……。 これは桜の精霊と優しい青年が送る、切なくて儚いラブストーリーである。散りゆく桜のような一瞬の恋物語を楽しんでいただけたら幸いである。 ※表紙イラストはイラストレーター「ヨリ」氏からご提供いただいた。ヨリ氏は保育士をしながら作品制作を行っている。 氏のInstagramアカウントは@ganga_ze
View Moreしとしとと、雨が降っていた。
そんな中、番傘を差して歩く青年がいた。
青年の名は宮森司。とあるお屋敷に下宿しているいわゆる書生である。
スタンドカラーの白い書生シャツの上から茶色の着物を身に着け、紺色の袴を着つけている。
足元は白い足袋に黒い鼻緒の塗りの下駄だった。
白い足袋をからかわれることもあったが、彼は白い足袋を使い続けた。
二枚の歯がカランコロンと小気味よい音を奏でる。
彼の髪は短い黒色をしていて、丸眼鏡をかけた姿はどこにでもいる書生だった。
しかしその瞳は黒曜石のように輝いており、彼の学問に邁進する心を表しているようだった。
ふと彼の耳に、美しい笛の音が聴こえてきた。
その音色はあまりにも美しく、そして儚げだった。
一瞬で虜になってしまった司は、キョロキョロと辺りを見回し、音色の出どころを探した。
すると山に続く石の階段を見つけ、その上から音色が聴こえていることに気付いた。
そして音色に導かれるように、彼は階段を一段飛ばしに上っていったのである。
◆◆◆
階段を駆け上ると、そこには大輪の花を咲かせる一本の桜の木があった。
その桜のあまりの美しさに、司は息を飲んだ。
その間も桜は雨に打たれ、ひらひらとその花びらを散らしていく。
司が再び息をできるようになるころ、桜の木の根元に一人の女性がいることに気が付いた。
まるで天女のような女性だった。
長くつややかな黒髪は腰まで伸び、その肌は透き通るように白い。
その白い肌に薄紅色の着物が映えていた。
そんな天女を、司はただ黙って見ていた。
見とれていた、といってもいい。
天女は司の視線に気づき、吹いていた笛から口を離した。そして彼を見つめる。
司と同じようで違う、吸い込まれるような黒い瞳が彼を捉えたのだ。
次いで天女はにこりと微笑んだ。その微笑みが司の金縛りを解いてくれた。
「う、美しい音色でした」
絞りだすように司が言った。
「ありがとう。あなたはこの笛の音色を聴くことができるのですね」
笛の音色くらい、誰でも聴けるだろう。司は頭に疑問符を浮かべた。
「……? それはもちろん。あまりに綺麗な音色でしたので、聴き入ってしまいました」
「この音色を美しく感じたのなら、きっとあなたの心は美しいのでしょうね」
「そ、そんなことは……」
天女との会話はどこか不自然な部分もあったが、司はそんなことも気にならないほど気分が高揚し、舞い上がっていた。
そんな彼に、天女は尋ねた。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「え? 司です。宮森司」
「司様……。よいお名前ですね」
「あの、あなたのお名前もお聞きしても?」
「そうですね……」
天女はゆったりとした動作で桜の木を見上げてから、再び司を見てにこりと微笑んだ。
「……〝桜〟とお呼びください」
「桜、さん。あなたにぴったりなお名前ですね」
「そうでしょうか?」
「ええ……。あなたは桜のように……」
〝美しい〟
思わずそう言いそうになり、咄嗟に司は自身の口を押えた。
そんな司に天女……桜は優し気に微笑み続けてくれた。
だから司は高鳴る胸を軽く押さえながら、また声が上ずらないようにしながら、尋ねた。
「あの、またここに来たらあなたに会えますか?」
「あなたがここに来られるなら、きっとまた会えるでしょう」
やはり桜の答えは変わっていた。
しかしこうして二人は出逢ったのだ。
それが楽しくも切ない、儚き日々の始まりだと気づかぬままに……。
桜の父が神官であることもあって、祝言の準備はすぐに始められた。儀式の日まで桜の実家、しかも桜の部屋に泊まることになったことは帝国男児たる司を緊張させたが、それ以上に気になったのは食事のことだった。桜と枕を共にしながら、司は聞いてみた。「なあ、この世界の食べ物を食べても大丈夫なのか?」「……? どうしてそんなことを聞くのですか?」「ヨモツヘグイというものがあるだろう? この世界の食べ物を口にしたら何かあるのかと思ってな」「ああ……」 桜はくすりと微笑む。妖艶というよりは童女のような純粋な笑みだった。「大丈夫です。同じ釜の飯を食った仲になるだけです」 それは家族として認められるということだろうか。 家族のいない司にはわからなかった。◆◆◆ そうこうしている間に祝言のときが来た。舞台は司がはじめてあやかしの国を訪れたときの神社だった。木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)を祀るその神社は、大日本帝国と同じく「浅間神社」と呼ばれているようだ。 白無垢に着替えた桜と用意してきていた黒紋付袴に白鼻緒の雪駄という礼装に着替えた司は、桜の親族や神官たちとともに浅間神社に向けてゆっくりと歩いた。 やがて神社のふもとまでたどり着くと、桜と司は着物の裾を踏まないよう慎重に階段を上っていく。 二人が本当の夫婦になるまで、あと少し。
あやかしの国の下町を桜と歩く司。街並みは長屋や賑やかな商店街が中心で、江戸時代にタイムスリップしたような感覚だ。あやかしたちの中には先ほどの狐とタヌキのような人間ばなれした獣人だけでなく、人間と変わらない見た目の住人もいた。だから桜と司も目立たずにいられた。 わけではなかった。司の着て来た背広はあやかしの国では珍しすぎたらしい。変わった着物だとじろじろ見られてしまった。人の視線がすきではない司には少々居心地の悪い時間が続いた。そんな司を、桜は気づかわしげに見る。「大丈夫ですか? 司様」「ああ……」「もうすぐ着きますからね」 神社から長屋と商店街を通り抜け、着いたのは司の家の三倍はあるお屋敷だった。屋敷の門の前でその武家屋敷のような建物を見上げていると、白銀の狐らしき獣人が声をかけてきた。「あらあら桜お嬢様。おかえりなさいませ。……おや、そちらの方は?」「梅さん、こちらは司様。わたくしの旦那様です」 黒いハットを脱ぎ、司が頭を下げる。「まあまあ、奥様! 奥様ー!」 梅がばたばたと屋敷に入ると、すぐに奥から落ち着いた薄紅色の着物を着た女性が出て来た。桜とは違い幼い感じのしない気品にあふれた立ち居振る舞いは、司に緊張感を与えた。「母様……」「……まさかあなたが人間を夫にするとは……嘆かわしい」 その言葉に司はむっとした。人間だからなんだというのだ。「人間など取るに足らない存在です。これから神になろうというあなたにはふさわしくありません」 司が何かを言うまえに桜は強い意志を感じさせる声でいった。「いいえ、人間は取るに足りない存在なんかではありません。儚い命だからこその輝きがあるんです」 桜と母親がにらみ合う。やがて苦笑した。「まったく、こんな頑固な女のどこがいいの? 人間さん?」「すべてです」 司ははっきり言い切った。それに機嫌を良くしたのか母親はカラカラと笑った。「お前さん、良い男だね」 司にはよくわからなかったが、どうやら桜の母親は彼を気に入ったようだ。司と桜は、屋敷の敷居をまたぐことを許された。◆◆◆ 居間に通された、司と桜の二人は並んで座り、その対面ににこにこしている桜の母親が座った。梅がお茶を用意すると、司は桜の母親に深々と頭を下げてからいった。「改めまして、宮森司と申します。遅くなってしまい申し訳ございません
桜も少し散り始めた頃。普段なら桜との別れを悲しむ時期だが、今回は違った。「あやかしの国」という未知の場所に行き、愛する人を産んでくれた人に挨拶するのだ。昨夜は緊張でよく眠れなかったが、桜は熱心にあやしてくれた。「では参りましょう」 桜柄の薄紅色の着物に少し化粧をした桜はいつもよりさらに美しかった。着なれない背広姿の司は隣にならんで違和感はないかと心配だった。そんな司の心配をよそに、桜は彼を庭に植樹された桜の木の方へといざなう。「目を閉じてください。ゆっくり呼吸をして。次に瞼を開いたときには、そこはあやかしの国です」 司は言われるがまま、目を閉じる。深呼吸をしながらゆっくりと瞼を開くと、そこは桜と出逢ったあの桜の木の下だった。いや、少し違う。広い空き地になっていた場所に、小さく古いが神社がの社殿があった。住民に愛されているのだろう。綺麗に掃除がされていて、子どもたちが遊んで……。「!?」 野良着で遊ぶ子どもたちは、狐やタヌキの顔をしていた。「妖怪……」。司はそう思った。「あー、おねえちゃんだー」 狐やタヌキの顔をした子どもたちが桜に気づいて寄ってくる。そして隣にいる背広姿の司にも視線を向ける。「この人だあれ?」狐の女の子(女児の着物を着ていたからおそらく)は桜に聞いた。桜は幸せそうに微笑む。「わたくしの……旦那様ですよ」「へえ……」 狐の女の子は興味津々といった様子だが、タヌキの男の子のほうはまだよくわからないようだ。「さて、ようこそ司様。あやかしの国へ。歓迎いたしますよ」 桜が手を握ってくる。これから本を読むのとは違った冒険が待ち構えていると思いながら、司も手を握り返した。
ある月の綺麗な夜。 司は月に照らされた桜の花を眺めながら、酒を飲んでいた。お酌をしてくれる美しい女性の名も「桜」、桜の咲いているときだけ姿を見せる司の妻だった。司はふと気になったことを聞いてみた。「なあ桜」「はい?」「桜が咲いていないとき、お前はどうしているんだ?」「そうですね……」 桜は少し考えたあと、いたずらっぽく笑った。「あやかしたちの住む世界に行っている、と言ったら信じてくださいますか?」 司は一口また酒を飲むと、月に目を移す。「月がきれいですね」という勇気はなかったので、別のことを言った。「あやかしの世界、行ってみたいものだ」 哲学が専門だが妖怪の話が司は好きだった。だからこの言葉は本当だ。桜は少し考えたあと、やはり微笑んだ。「では行ってみますか? 母に会ってほしいですし」 その言葉に司はびくりとする。彼女の母親に会う。それは結婚してしまってからの挨拶ということで順番がおかしい。何事も礼儀作法を守りたい司としては気になるところだった。しかしこのまま挨拶しないわけにもいかない。司は、桜のついでくれた酒を一気に飲み干すと、覚悟を決めた。「わかった。会わせてくれ。お前の母に」「はい」 桜はうれしそうに微笑んだ。二人だけの静かな宴は、司に緊張感を与えたまま続いた。