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デジタルカメラ

Author: 雫石しま
last update Last Updated: 2025-07-11 07:50:52

 田辺明穂は仙石家の双子の兄、吉高を《吉高さん》と丁寧に呼び、弟の大智を《大智》と呼び捨てにした。年齢を重ねるごとに、四角四面で過保護な吉高とはどこか距離感が生じ、会話もよそよそしくなった。一方、自由奔放ながらも温かく見守ってくれる大智とは心の距離が縮まり、気軽に冗談を交わす仲に。明穂は大智のざっくばらんな性格に安心感を抱きつつ、吉高の真面目さにも尊敬の念を持っていた。それでも、双子の異なる魅力に挟まれ、明穂は自分なりのバランスを探し続けていた。

「明穂ちゃん、何処でも勝手に行っちゃ駄目だよ」

「如何して駄目なの」

「何処に行っているのか心配だよ」

 明穂は息が詰まりそうだった。

「何処って、学校に行ったり公園に寄ったりするだけよ」

「公園に変な人がいたらどうするの」

 吉高は幼い頃から明穂の行動範囲を細かく把握しようとした。登下校のルート、友達との予定、帰宅時間まで、逐一確認するその態度は、明穂への深い愛情からくるものだと頭では理解できた。だが、吉高の過保護な視線は、まるで水中に沈められるような息苦しさをもたらした。明穂は自由を求める心と、吉高の真剣な心配を拒めない葛藤の間で揺れ動いた。一方、大智の気楽な笑顔が、明穂にほのかな解放感を与えていた。それでも、吉高の真摯な姿勢には、どこか心を動かされる温かさがあった。

(・・・・・・ふぅ)

「なに、なに溜め息ついてんだよ!」

「だって、吉高さん・・・お父さんみたいなんだもの」

 大智は日々繰り返す2人の遣り取りを見て呆れ失笑した。

「吉高は心配しすぎ、明穂も(放っておいて!)とか言えば良いのに」

「でもそんな事言えないし」

「明穂にそんな事言われたらあいつ立ち直れないだろうな」

「そうだよね」

 しかし、年頃を迎えた明穂の変化に、大智もまた心を寄せていた。自由奔放な彼だが、明穂の安全と笑顔を願う気持ちは強く、良い案を思いついた。お年玉と小遣いをコツコツ貯め、デジタルカメラを買い、明穂の手にそっと握らせた。

 

「これで、おまえのその日あったことを撮ってこいよ」

「・・・・なに?」

 

 と笑う大智。その気遣いは、吉高の過保護さとは違い、明穂に自由と信頼を与えた。

「なにこれ、四角くて小さい、それに冷たい」

「デジタルカメラ」

「これは明穂の目、その日何処に行ったか何を見たのか俺も知りたい」

「私の、目」

 カメラを手に、明穂は自分の世界を記録する喜びを知り、大智のさりげない優しさに心が温まった。夕暮れ時、大智はデジタルカメラの使い方を丁寧に教えた。電源ボタンを押す際、大智の熱く火照った指先が明穂の手をそっと握り、互いの息遣いが静かに響き合った。その瞬間、明穂は大智の信頼と自由な心に深い安堵を覚えた。シャッターを切るたび、日常の小さな美しさが色鮮やかに映し出され、明穂の心は軽やかに躍った。

「これを押して」

「赤いボタン」

 ボタンを押すと反応があり微かな起動音がした。

「これで毎日同じ男が写っていたら俺が警察に突き出してやる」

「突き出すなんて」

「明穂を狙った変質者かもしれないだろ」

「・・・あ、それは困る」

 大智は明穂を背中から抱き締め呟いた。

「明穂がなにを見ているのか俺も知りたい」

「じゃあ記念すべき1枚目」

パシャ

「な、なんだよ!」

「大智が一番よ、凄く恥ずかしそうな顔、顔も真っ赤」

「やめろよ」

 明穂の母親が麦茶の入ったグラスを持って部屋に顔を出した。傾く夕日のオレンジ色の光が窓から差し込み、顔を赤らめる明穂と大智を柔らかく照らした。

 

 

 母親は二人の初々しい様子に目を細め、思わず温かい笑みが溢れた。

 

「あら、デジカメ、大智くんの?」

「ううん、貰ったの」

「貰った!ええ!?大智くんお金大丈夫なの!」

「中古だから大丈夫」

 

 けれど開封した箱には折れや擦れもなくデジタルカメラには傷一つ無かった。

 

「はい、喉乾いたでしょ?」

 

 母親はグラスを置きながら、そっと部屋を後にした。明穂は麦茶の冷たさに安堵しつつ、大智との親密な瞬間の余韻に浸った。カメラのシャッター音が響く中、日常のささやかな幸せが心に刻まれた。だが、吉高の真剣な眼差しが、ふと明穂の胸に影を落とした。

「大智ありがとう、このデジタルカメラきっと高いのね」

「止めてくれよ恥ずかしいから」

「毎日、《見た景色》を写真に撮るね」

「楽しみにしてるよ」

 それから明穂の学生服のブレザーのポケットには、デジタルカメラによる心地良い膨らみができた。その重みが、明穂に小さな笑顔をもたらした。教室の喧騒、級友の明るい声、色とりどりの毎日の弁当、登下校時に目にする朝露に濡れた草花や夕焼けの《見た風景》を、明穂は夢中でシャッターに収めた。散歩中の小型犬の愛らしい鳴き声に、「写真、撮っても良いですか?」と尋ねると、「どうぞ」と笑顔で返される。その道すがら、知らない人とのささやかな会話が増え、明穂の心は軽やかに広がった。カメラは新しい世界を開き、大智の優しさを思い起こさせた。

「今日はなにを見たの」

「可愛い犬が居てね」

「可愛い?顔が垂れてるじゃん」

「フレンチブルドッグなの?」

「そうそう、それそれ」

「だからツルツルした身体だったのね」

 明穂は大智の肩にもたれ、デジタルカメラに収められたその日の写真を振り返った。教室の笑顔、弁当の彩り、登下校の風景、散歩中の犬との出会い。

 一枚一枚が生き生きと輝き、毎日が楽しくてたまらなかった。大智の穏やかな笑顔と温かな気配が、明穂の心を軽やかに満たした。夕暮れの柔らかな光の中、カメラの小さな画面を見つめながら、明穂はささやかな幸せを噛みしめた。「いい写真だね」と大智が囁き、二人の距離はさらに近づいた。だが、吉高の真剣な眼差しが、ふと明穂の胸に小さな波紋を広げ、複雑な思いが静かに揺れた。

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  • あなたが囁く不倫には、私は慟哭で復讐を   どうしてこんなことに

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