Share

千石兄弟

Auteur: 雫石しま
last update Dernière mise à jour: 2025-07-10 11:20:02

 明穂は生まれつき弱視で、視界は常に曖昧だった。手に取った林檎の赤や輪郭はぼんやりと「見える」が、テーブルの向かいで話す人の顔は、まるですりガラス越しのように曖昧で、面差しを「感じる」程度にしか捉えられない。それでも、彼女は相手の微妙な表情の変化や感情の揺れに驚くほど敏感だった。声の僅かな震え、息遣いの変化、漂う香水のほのかな違い、嗅覚や聴覚も鋭く、目に見えない心の動きを捉えた。

 

 たとえば、吉高が疲れて帰宅した夜、彼の声のトーンや椅子の軋む音から、言葉にしない悩みを察した。あるいは、大智がそばにいた頃、彼の笑い声に隠れた緊張を聞き分け、胸にそっと寄り添った。明穂のこの鋭さは、弱視ゆえに磨かれた感覚であり、彼女の世界を豊かにする一方で、時に見えない真実に心をざわつかせた。彼女はそんな自分を抱きしめ、静かに日々を紡いでいった。

 

「吉高くん、学校で何かあったの?」

 

 明穂の声は柔らかく、しかし心配そうに響いた。彼女の弱視の目では、吉高の顔はぼやけていたが、声の僅かな震えと沈黙から、彼の戸惑いと落胆が鮮やかに伝わってきた。

 

「・・・・・・」

「また教科書が無いの?」

「無かった」

 

 吉高は小さく答えた。明穂は彼の肩がわずかに落ちる気配を感じ、心が締め付けられた。

 

「ごめんね、一緒に探してあげられなくて」と彼女は囁くように言った。吉高は少し間を置き、「もう一度探してくるよ」と答えたが、その声には力がない。明穂は微笑み、「気を付けてね」と優しく送り出した。「うん」と短く返す吉高の足音が遠ざかる中、明穂は彼の背中に宿る不安を確かに感じていた。彼女の鋭い感覚は、吉高が口にしない悩みを捉え、心の奥でそっと寄り添った。吉高の屈んだ背中が、夕暮れの教室に消えていくのを、彼女は静かに見守った。

 明穂の隣家には、3歳年上の幼馴染、仙石吉高が住んでいた。彼は生真面目で融通が利かない性格で、どこか孤独を好む少年だった。学校では、同級生の男子たちが下世話な話で盛り上がる中、吉高は教室の窓辺で静かに小説に没頭していた。古びた文庫本のページをめくる音だけが、彼の周りに穏やかな空気を作り出した。しかし、その孤高な態度は同級生の目に異質に映り、自然といじめの標的となった。たびたび彼の教科書が隠されたり、嘲笑が教室に響いたりした。

 

「また御本を読んでいらっしゃるんですかぁ?」同級生の嘲るような声が教室に響いた。「なになに、かぎりなく透明なブルーって水だろ、水!」と笑いながら、吉高の手から小説本をひったくった。

 

 次の瞬間、彼は容赦なくその本を教室の窓から投げ捨てた。ページが風にめくられ、地面に落ちる音がかすかに響く。「あっ!」吉高の小さな叫び声が漏れたが、すぐに押し殺された。「ごめんごめん、手ぇ滑ったわ」と同級生はわざとらしく笑った。小遣いを貯めて手にした本は、アメリカカエデの小枝を揺らし、校庭の茂みに音を立てて落ちた。その時、聞き慣れた声が叫んだ。

 

「痛っ!」

 

 教室の下の植え込みには、電子タバコをくゆらすもう一人の仙石吉高がいた。顔は瓜二つだが、その雰囲気は粗野で横暴、吉高の静かな佇まいとは対照的だった。

 

 彼の名は仙石大智、吉高の双子の弟だった。長く伸ばした前髪を乱暴に掻き上げ、大智は3階の窓から身を乗り出す兄を見上げ、鋭い目で悪態をついた。

 

「おい、吉高!またヘラヘラ本読んでんのかよ!」

 

 その声は刺すように響き、教室の空気を一瞬で凍らせた。吉高は窓辺で微動だにせず、ただ静かに弟を見つめた。

 

 吉高の無言に苛立った大智は、植え込みから勢いよく立ち上がり、拾った本を握り潰すように持った。

 

「おい、吉高!ふざけんなよ!」と叫ぶが、「ちょ、馬鹿!」と素行の悪い友人たちが慌てて止めに入る間もなく、その姿は校庭を巡回していた体育教師の目に留まった。

 

 教師の鋭い視線に捕まり、大智は抵抗も虚しく職員室へ引きずられた。そこでは正座を強制され、机に山積みの課題プリントと1週間の謹慎処分が言い渡された。教師の叱責が響く中、大智は唇を噛み、悔しさを押し殺した。一方、吉高は教室の窓辺で静かに本を手に取り直し、まるで何事もなかったかのようにページをめくった。

 

 仙石兄弟は何もかも正反対だったが、ただ一つ、共通するものがあった。それは隣家に住む幼馴染、田辺明穂の存在だった。幼い頃、吉高と大智は明穂と庭で遊び、夏の夕暮れに花火をしたり、冬の朝に雪だるまを作ったりした。共に過ごす時間の中で、明穂はただの幼馴染から、二人にとって特別な一人の女の子へと変わっていった。

 

 吉高は彼女の優しい声に心を寄せ、大智は彼女の笑顔に自由を見出した。明穂の弱視ゆえの鋭い感覚は、兄弟の心の動きを敏感に捉え、彼女自身もまた二人への複雑な想いを抱えていた。吉高の静かな優しさと大智の荒々しい情熱、どちらも彼女の心に深く刻まれた。だが、この共通の想いが、兄弟の間に新たな火種を生んだ。明穂の存在は、彼らの対立をさらに複雑にし、運命の糸を絡ませていくのだった。

 

 明穂が中学3年生の夏のことだった。

 

 謹慎処分を受けた大智は、山積みになった課題プリントに埋もれていた。シャープペンシルで頭をかくが、答えなど一つも浮かばない。そんな時、明穂が部屋に顔を出した。

 

「大智、すごい・・・これ、課題のプリント?」

 

 明穂が床に散らばったプリントをかき集めた。その姿を、大智は熱い目で見た。

 

「なんだよ、勝手に入ってくんなよ」

「おばさんが、お素麺が茹で上がったから呼んできてって」

「お袋も適当だな」

「なにが?」

 

 白紙の答案用紙が教室の床に彼方此方に散らばり、その中心で明穂が押し倒されていた。彼女を見下ろす大智の瞳は、激情と迷いで揺れていた。明穂の絹糸のような薄茶の髪が、冷たいフローリングの上で波打つように広がった。細い手首を掴む大智の手のひらには汗が滲み、緊張と熱が伝わった。明穂の弱視の目は大智の顔をはっきり捉えられなかったが、彼の荒々しい息遣いと震える指先から、抑えきれない感情を感じ取った。ゆっくりと、彼女の長いまつげが閉じ、まるで全てを諦めるように、あるいは受け入れるように。静寂の中、散らばった答案用紙が風に揺れ、二人の間に流れる重い空気を際立たせた。明穂は大智を受け入れた。

 

 大智はゆっくりと屈み、まるで壊れ物を扱うように明穂に口付けた。彼女の弱視の目は彼の顔を捉えられなかったが、息遣いの温もりと震えから感情を読み取った。「大智、なんだか悲しそうな顔」と囁くと、彼は苦笑し、「見えんのか」と呟いた。「分かる」と明穂は静かに答えた。

 

「吉高さんと違って俺は出来損ないだからな」

 

 自嘲する大智に、彼女は「そんな事ないわ」と優しく否定した。二人は互いを強く抱きしめ、散らばった答案用紙の上で時を忘れた。すると、階下から大智の母親の声が響いた。

 

「あんたたちーーー!なんかしてるんじゃないでしょうね!」大智は顔を赤らめ、「ざっ、ざけんなよババァ!」と叫び返す。母親は笑いながら、「明穂ちゃーーん!夕ご飯食べて行きなさい!」と続けた。「は、はーーーい!」と明穂は慌てて答え、心臓がドキドキと鳴った。温かな日常と複雑な想いが交錯する中、二人の距離は一瞬、近づいた。明穂は胸元のボタンをふたつ留めると「それじゃ、反省文頑張ってね」と階段を降りて行った。

 

 玄関の引き戸がガラリと開く音が響いた。

 

「あ、吉高さん、おかえりなさい」と明穂が柔らかい声で迎えた。「明穂ちゃん、来てたの」と吉高の落ち着いた声が返る。「うん、畑のトマトをお裾分けに持ってきたの」と彼女は微笑んだ。

 

 トマトのほのかな香りが漂う中、吉高は少し焦ったように言った。「危ないよ! LINEくれれば僕が取りに行ったのに!」その言葉に、明穂は小さく笑った。「大袈裟だよ」と軽く返すが、心のどこかで微妙な違和感を覚えた。

 

 吉高の気遣いは温かかったが、過保護とも取れるその態度は、明穂の自立心に小さな影を落とした。彼女の弱視ゆえの鋭い感覚は、吉高の声に滲む心配と、どこか抑えた感情を捉えていた。大智の荒々しい情熱とは異なる、吉高の静かな愛情。それが彼女を包む一方で、息苦しさも感じさせた。夕暮れの玄関先で、三人の関係が再び絡み合い始めた。

 

Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application

Latest chapter

  • あなたが囁く不倫には、私は慟哭で復讐を   ひかりの中

    吉高と恵子の出会いは、白峰村の小さな診療所だった。山々に囲まれた静かな村に、ひっそりと佇むその場所は、まるで時間がゆっくり流れるような穏やかさを持っていた。恵子はデイケアセンターの看護師として、患者一人ひとりに丁寧に接する姿で知られていた。彼女の笑顔は、まるで夏の陽光のように温かく、吉高の心にそっと差し込んだ。吉高は、かつて学会でのスキャンダルと離婚によって失った名誉を、この村での静かな生活で少しずつ取り戻しつつあった。都会の喧騒から遠く離れ、診療所の窓から見える緑の山々と、村人たちの素朴な笑顔が、彼の傷ついた心を癒していた。恵子の明るさは、吉高にとって新たな光だった。彼女は、忙しい診療所の合間に、患者の話をじっくり聞き、冗談を交えて笑わせる。吉高は、彼女のそんな姿に惹かれた。ある日、診療所の休憩室で、恵子が淹れたハーブティーを手に、「吉高さん、固豆腐って知ってる?」と無邪気に尋ねた。その素朴な質問が、なぜか吉高の心を軽くした。彼は、かつて学会で交わした堅苦しい会話や、冷たい視線を思い出しながら、こんな何気ない瞬間がどれほど貴重かを噛みしめた。仙石家の母親は、恵子を一目見て気に入った。「恵子さん?あのお嬢さん、吉高をしっかり支えてくれるわ」台所で野菜を切りながら笑う。田辺家の父親も、畑の草むしりを終えて縁側で一服しながら、「吉高くん、ようやく落ち着いたな」と満足げに頷く。村の人々は、吉高の過去を知りながらも、彼を受け入れ、新たな家族として温かく迎え入れた。過去の過ちや学会での屈辱、明穂との離婚の痛みは、吉高の心に深く刻まれていたが、今、彼は恵子や村の人々との繋がりの中で、未来を見据える力を取り戻していた。仙石家の2世帯住宅は、いつも賑やかだった。夏の午後、縁側では大智が双子の孫を膝に乗せ、明穂の手を握る。「なあ、明穂」 「うん?」 「この家、賑やかすぎるな」大智の声には、愛情と少しの照れが混じる。「ふふ、そうね。でも、幸せ」明穂は、子供たちの笑い声を聞きながら、左手の向日葵の指輪をそっと撫でた。指輪は、かつて大智が夏の終わりのカフェで贈ったものだ。あの日の誓いは、今も家族の絆として息づいていた。夏の陽光が窓辺に差し込み、縁側の木目を温かく照らす。部屋の中では、子供たちが折り紙を広げ、楽しげに騒いでいた。夕暮れ時、仙石家の庭では、子供たちが

  • あなたが囁く不倫には、私は慟哭で復讐を   二年後の夏

    2年後、夏の午後。仙石家の2世帯住宅は、賑やかな笑い声で満ちていた。建て替えられた家は、バリアフリー設計で、明穂の視覚障害を考慮した点字ブロックや手すりが備わる。向日葵が咲く縁側では、明穂の母親が「だいなちゃーん、ばぁばの所においで!」と双子の大奈を呼び、柔らかな声が響く。1歳半の大奈が、よちよちと歩き、母親の膝に飛び込む。「大奈、女の子みたいな名前だなぁ」そう言って明穂の父が笑う。「そうよねぇ」と大智の母親が相槌を打つ中、大智は枝豆を頬張り、テーブルに肘をついてニヤリと笑った。「ウルトラマンにダイナっているんだよ!俺のヒーローなんだよ!」汗をかいたビールジョッキを手に得意げに言う。「大智は、昔から怪獣好きだったもんね」眩しい光に目を細め、明穂が笑う。彼女の声は、子供の笑い声に混じり、穏やかに響く。双子の明奈が「きゃっきゃっ」と笑い、仙石の父親が「あきなちゃーん、明菜ちゃんはじぃじが好きだよなぁ!」と抱き上げる。「仙石さん、なに言うとるんじゃ!明奈はわしのことが一番好きなんじゃ!」と田辺の父親が対抗する。「ほれ、わしが抱っこすると笑うとる!」と田辺の父親が得意げに言うと、「私でも笑います!」と仙石の父親が負けじと応じる。子供たちの無邪気な笑顔が、夏の陽光に照らされた部屋を温かく彩った。窓辺には、朝顔の鉢植えが並び、明穂の子供時代を思い起こさせる。心配だった双子の弱視も、乳児検診で異常なしと分かり、家族は安堵に包まれた。新しい家は、子供たちの笑い声と両親の温かな会話で満ち、希望に輝いていた。 その時、玄関の扉が明るい音を立てて開いた。「こんにちはー!お義父さん、お義母さん、白峰名産の固豆腐買って来ましたー!」と快活な声。吉高と再婚した恵子が元気に登場し、隣で吉高が「た・・・・ただいま」と照れくさそうに呟く。仙石家に新たな家族が加わった。吉高は白峰診療所のデイケアセンターで知り合った恵子と再婚。物静かな吉高に対し、恵子はかかあ天下の明るさで家を盛り上げる。「不倫の心配はなさそうね」と明穂は心の中で微笑んだ。恵子は、村の名産品を手に、キッチンに立つ。恵子は持ち前のポジティブさで、「出会った順番が違っただけなのよ!ね!」と、吉高の前妻が明穂であることを素直に受け入れた。「これ、固豆腐の煮物にしたら美味しいのよ!明穂ちゃん、好きよね?」 「

  • あなたが囁く不倫には、私は慟哭で復讐を   初めての夜

    クリスマスの夜、街は静かな魔法に包まれていた。遠くで讃美歌が響き、教会の鐘が澄んだ音色を夜空に放つ。金沢市のホテルの最上階の部屋からは、街路樹のイルミネーションがキラキラと輝き、まるで星屑が地上に降り注いだようだった。雪が舞う街並みは、まるで絵画のように幻想的で、時折聞こえる馬車の蹄の音が、夜の静寂に優しいリズムを刻む。すりガラスの窓越しに映る光は、柔らかく揺れ、部屋を温かな雰囲気で満たす。明穂と大智は、10年越しの思いをようやく実らせ、互いの腕の中で優しく抱きしめ合った。長い年月を経てたどり着いたこの瞬間は、まるで時間が彼らのためにだけ止まったかのようだった。大智の瞳は、深い愛情で明穂を見つめ、ステンドグラスのような柔らかな光を湛えていた。その眼差しに、明穂の心は温かく震えた。彼女の視界はぼんやりだが、大智の声と温もりが、すべてを鮮やかにする。部屋の中では、暖炉の炎が小さく揺れ、パチパチと薪の弾ける音が静寂に溶け込む。シャンパングラスがテーブルに並び、グラスに映る光がまるで小さな星のように瞬く。「明穂、愛してる」大智が囁く。声は低く、まるでこの瞬間を永遠に閉じ込めたいかのようだった。明穂は頬を染め、照れ笑いを浮かべた。彼女の長い髪が、白いドレッシングガウンに流れ、窓から差し込む雪の光に映える。「恥ずかしい、そんなこと言わないで」 「アメリカじゃこれが普通だよ」 「ここはアメリカじゃないわ」ふたりの間に温かな空気が流れた。微笑み合い、そっと唇を重ねる。キスはまるで時間が止まったかのように優しく、深い。二人はベッドに腰を下ろし、白いシーツの上で明穂の髪が波のように広がった。大智はその髪にそっと顔を埋め、懐かしいシャンプーの香りに心を委ねる。絡め合った指先からは互いの温もりが伝わり、熱い吐息が二人を優しく包み込んだ。窓の外では、牡丹雪がちらつき、イルミネーションの光と溶け合う。明穂は大智の重みに身を委ね、幸福感に満たされた。この瞬間、10年の時を超えた二人の愛は、クリスマスの夜に永遠の輝きを放っていた。ホテルの部屋は、静かで豪華だった。暖炉の炎が部屋を温め、シャンパンの泡が静かに弾ける音が、二人だけの世界を彩る。「大智、この部屋、素敵ね」と明穂が呟いた。ガラスの冷たさを指で感じながら、彼女は窓の外の雪を見つめる。「音が静かで、暖炉の匂いがする」

  • あなたが囁く不倫には、私は慟哭で復讐を   結婚式②

    教会の準備は、数か月前から始まっていた。大智と明穂は、夏のカフェでのプロポーズ後、仙石家と田辺家を巻き込んで結婚式を計画した。明穂の視覚障害を考慮し、教会はバリアフリーが整った金沢の古い聖堂を選んだ。点字のプログラム、音声ガイド、手すりの設置。すべてが、明穂が安心して歩けるように整えられた。仙石家の母親は、明穂のウェディングドレス選びに付き添い、田辺家の父親は、大智に「明穂を頼むぞ」と握手を求めた。家族の絆は、吉高の過ちで傷ついたが、2人の愛がそれを修復しつつあった。吉高の参加は、母親の強い希望だった。「あの子も、明穂ちゃんの幸せを見届けるべきよ」 母親は、吉高のやつれた姿に胸を痛めながら、白峰村に手紙を送った。「母さん・・・・」吉高は迷った。明穂と大智の前に立つ資格はない、と思った。だが、母親の言葉と、仙石家の食卓での素麺の記憶が、吉高を動かした。あの夏、大智が明穂とのプロポーズを語り、吉高に「ちゃんとやり直せよ」と言った。あの言葉が、吉高の心に残っていた。白峰村での生活は、厳しくも静かだった。診療所は、村の小さな集落にあり、患者は高齢者が多い。風邪や関節痛、時折の怪我。大学病院の乳腺外科医としての華やかさはなく、ただ、目の前の患者と向き合う日々だ。同僚の冷たい視線も、看護師の囁きもない。だが、夜の山の静けさは、吉高に過去を思い出させた。明穂の笑顔、朝顔の鉢植え、子供の頃の3人の夏。白峰村で、吉高は自分と向き合い始めた。過ちを繰り返さない、と心に誓った。教会のゲスト席では、田辺家の親戚が涙を拭う。子供たちが、花びらを手に、明穂のドレスを眺める。「お姫様みたい!」「大智さん、カッコいい!」 無邪気な声が、教会に響く。仙石家の父親は、静かに微笑み、母親はハンカチを握りしめる。「大智、明穂ちゃんを幸せにしなさいよ」 母親の声は、優しく、だが強い。大智は祭壇で、明穂の手を握り、頷いた。「当たり前だろ」 明穂は、白杖を手に、大智の腕に寄り添う。彼女の視界はぼんやりだが、大智の声と手の温もりが、すべてを補う。吉高は花束を抱きしめ、ステンドグラスの光を見つめた。百合の香りは、明穂の笑顔を思い出させる。あの夏、彼女の朝顔の鉢植えを手に、3人で歩いた道。吉高は、明穂を愛していた。だが、嫉妬と傲慢が、その愛を壊した。大智への劣等感、紗央里との逃避、学会での屈辱

  • あなたが囁く不倫には、私は慟哭で復讐を   結婚式

    荘厳なパイプオルガンの音色が教会に響き、仙石家と田辺家のゲストを温かく包み込んだ。金沢の古い教会は、12月24日の牡丹雪に静かに覆われている。マリアと百合の花が飾るステンドグラスから、赤や青の色とりどりの光が差し込み、祭壇を神聖な輝きで照らす。大智と明穂は愛を誓う。互いの瞳には10年の思いが宿り、柔らかな光の中で向き合う二人の姿は、まるで永遠を約束する絵画のようだった。ゲストの祝福の拍手と、子供たちの無邪気な囁きが、教会の高い天井に響き合う。「汝、仙石大智は、この女、田辺明穂を妻とし、良き時も悪き時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分つまで、愛を誓い、妻を思い、妻のみに添うことを、神聖なる婚姻の契約のもとに、誓いますか?」 神父の声が、厳粛に響く。「誓います」 大智の声は、力強く、明穂の手を握る手に熱がこもる。「汝、田辺明穂は、この男、仙石大智を夫とし、良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分つまで、愛を誓い、夫を思い、夫のみに添うことを、神聖なる婚姻のもとに、誓いますか?」 「誓います」 明穂の声は、柔らかだが確かだ。白杖を脇に置き、大智の手に導かれ、彼女の微笑みがステンドグラスの光に映える。祭壇で、大智と明穂は熱い口付けを交わした。牡丹雪を溶かすような長いキスは、10年の試練を乗り越えた愛の深さを物語る。明穂のウェディングドレスのレースが、光に揺れ、大智のタキシードの黒が、彼女の白を引き立てる。ゲスト席から、温かな拍手が沸き起こる。仙石家の母親は、顔を赤らめながらタキシードの裾を引っ張り、「良い加減にしなさい!大智!」と笑顔で叫んだ。田辺家の父親は、ハンカチで目を拭い、母親は明穂の幸せに涙を流す。ゲストの笑い声と祝福が、教会を温かく満たした。教会の鐘が荘厳に鳴り響く片隅で、髪を短く刈り上げた吉高が静かに佇む。その隣は空虚で、誰もいない。白峰村の診療所で過ごした1年半は、吉高の顔をやつれさせたが、目はどこか落ち着きを取り戻していた。灰色のスーツは、かつての乳腺外科医の華やかさを失い、質素なものだ。百合の花束を手に持つゲストの中で、吉高だけが、何も持たず、ただ祭壇を見つめる。大智は祭壇で、明穂の手から百合の花束を奪い取り、柔らかな花の香りを纏わせ

  • あなたが囁く不倫には、私は慟哭で復讐を   悔いる日々②

    「早く座りなさい」食卓では、仙石家の母親が忙しく動き回っていた。素麺を湯切りし、氷水に浸した鉢をテーブルに置く。父親は新聞を広げ、時折、ため息をつく。吉高のスキャンダルは、仙石家と田辺家の絆に深い傷を残した。明穂の両親は、離婚届の代筆と委任状に印を捺す際、涙を流したという。母親は、吉高を叱りながらも、息子のやつれた姿に胸を痛めていた。「吉高、ちゃんと食べなさい。やせ細っちゃって」 声は厳しいが、愛情が滲む。吉高は黙って頷き、素麺を箸で掬った。大智は、黙々と食べながら、窓の外を見た。ガラスの風鈴の舌がくるくると回っている。「なにボーっとしてんだよ、素麺、延びるぞ」 「あ・・・・・うん」吉高と明穂の結婚は、仙石家と田辺家の長年の絆の象徴だった。バリアフリーの新居は、両家が建築費を折半して建てた。明穂の視覚障害を考慮し、点字ブロックや手すりが完備された家だった。子供の頃、吉高と大智は、明穂を囲んで笑い合った。夏休みには、朝顔の鉢植えを手に、3人で近所の公園を歩いた。あの頃の明穂の笑顔は、吉高の心を温めた。だが、大智の存在が、いつも吉高を追い詰めた。大智は行動的で、明穂をリードする姿が自然だった。吉高は、静かな優しさで明穂を守ろうとしたが、どこかで劣等感を抱いていた。その劣等感が、紗央里との不倫に繋がった。紗央里は、大学病院の看護師だった。彼女の明るさは、吉高の心に新たな光をもたらした。だが、それは一時的な逃避だった。学会での暴露は、大智と瀬尾の計画だった。吉高の研究データを借り、壇上でスキャンダルを公開。大智が演じた「仙石吉高」は、完璧な偽物だった。映像が流れた瞬間、吉高のキャリアは崩壊した。同僚の冷たい視線、看護師たちの囁き、医局長の怒号。吉高は、耐えられなかった。食卓で、母親が大智に尋ねた。「大智、明穂ちゃんとはどうなの?」 「順調だよ。昨日、ケーキ屋でプロポーズした」 「ケーキ屋?なにそれ、雰囲気ないわね」父親が新聞から目を上げて眼鏡を外した。「明穂ちゃん、喜んでたか?」 「ああ、向日葵の指輪、喜んでた」 「良かったじゃない、明穂ちゃん、幸せにしてあげなさいよ?」 母親の声が弾む。吉高は、箸を止めて大智を見た。「大智、明穂ちゃんと・・・・」 「ああ、ちゃんと守るよ。お前と違ってな」 大智の言葉は、鋭く突き刺さる。吉高は目を伏せ

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status