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千石兄弟

Author: 雫石しま
last update Last Updated: 2025-07-10 11:20:02

 明穂は生まれつき弱視で、視界は常に曖昧だった。手に取った林檎の赤や輪郭はぼんやりと「見える」が、テーブルの向かいで話す人の顔は、まるですりガラス越しのように曖昧で、面差しを「感じる」程度にしか捉えられない。それでも、彼女は相手の微妙な表情の変化や感情の揺れに驚くほど敏感だった。声の僅かな震え、息遣いの変化、漂う香水のほのかな違い、嗅覚や聴覚も鋭く、目に見えない心の動きを捉えた。

 

 たとえば、吉高が疲れて帰宅した夜、彼の声のトーンや椅子の軋む音から、言葉にしない悩みを察した。あるいは、大智がそばにいた頃、彼の笑い声に隠れた緊張を聞き分け、胸にそっと寄り添った。明穂のこの鋭さは、弱視ゆえに磨かれた感覚であり、彼女の世界を豊かにする一方で、時に見えない真実に心をざわつかせた。彼女はそんな自分を抱きしめ、静かに日々を紡いでいった。

 

「吉高くん、学校で何かあったの?」

 

 明穂の声は柔らかく、しかし心配そうに響いた。彼女の弱視の目では、吉高の顔はぼやけていたが、声の僅かな震えと沈黙から、彼の戸惑いと落胆が鮮やかに伝わってきた。

 

「・・・・・・」

「また教科書が無いの?」

「無かった」

 

 吉高は小さく答えた。明穂は彼の肩がわずかに落ちる気配を感じ、心が締め付けられた。

 

「ごめんね、一緒に探してあげられなくて」と彼女は囁くように言った。吉高は少し間を置き、「もう一度探してくるよ」と答えたが、その声には力がない。明穂は微笑み、「気を付けてね」と優しく送り出した。「うん」と短く返す吉高の足音が遠ざかる中、明穂は彼の背中に宿る不安を確かに感じていた。彼女の鋭い感覚は、吉高が口にしない悩みを捉え、心の奥でそっと寄り添った。吉高の屈んだ背中が、夕暮れの教室に消えていくのを、彼女は静かに見守った。

 明穂の隣家には、3歳年上の幼馴染、仙石吉高が住んでいた。彼は生真面目で融通が利かない性格で、どこか孤独を好む少年だった。学校では、同級生の男子たちが下世話な話で盛り上がる中、吉高は教室の窓辺で静かに小説に没頭していた。古びた文庫本のページをめくる音だけが、彼の周りに穏やかな空気を作り出した。しかし、その孤高な態度は同級生の目に異質に映り、自然といじめの標的となった。たびたび彼の教科書が隠されたり、嘲笑が教室に響いたりした。

 

「また御本を読んでいらっしゃるんですかぁ?」同級生の嘲るような声が教室に響いた。「なになに、かぎりなく透明なブルーって水だろ、水!」と笑いながら、吉高の手から小説本をひったくった。

 

 次の瞬間、彼は容赦なくその本を教室の窓から投げ捨てた。ページが風にめくられ、地面に落ちる音がかすかに響く。「あっ!」吉高の小さな叫び声が漏れたが、すぐに押し殺された。「ごめんごめん、手ぇ滑ったわ」と同級生はわざとらしく笑った。小遣いを貯めて手にした本は、アメリカカエデの小枝を揺らし、校庭の茂みに音を立てて落ちた。その時、聞き慣れた声が叫んだ。

 

「痛っ!」

 

 教室の下の植え込みには、電子タバコをくゆらすもう一人の仙石吉高がいた。顔は瓜二つだが、その雰囲気は粗野で横暴、吉高の静かな佇まいとは対照的だった。

 

 彼の名は仙石大智、吉高の双子の弟だった。長く伸ばした前髪を乱暴に掻き上げ、大智は3階の窓から身を乗り出す兄を見上げ、鋭い目で悪態をついた。

 

「おい、吉高!またヘラヘラ本読んでんのかよ!」

 

 その声は刺すように響き、教室の空気を一瞬で凍らせた。吉高は窓辺で微動だにせず、ただ静かに弟を見つめた。

 

 吉高の無言に苛立った大智は、植え込みから勢いよく立ち上がり、拾った本を握り潰すように持った。

 

「おい、吉高!ふざけんなよ!」と叫ぶが、「ちょ、馬鹿!」と素行の悪い友人たちが慌てて止めに入る間もなく、その姿は校庭を巡回していた体育教師の目に留まった。

 

 教師の鋭い視線に捕まり、大智は抵抗も虚しく職員室へ引きずられた。そこでは正座を強制され、机に山積みの課題プリントと1週間の謹慎処分が言い渡された。教師の叱責が響く中、大智は唇を噛み、悔しさを押し殺した。一方、吉高は教室の窓辺で静かに本を手に取り直し、まるで何事もなかったかのようにページをめくった。

 

 仙石兄弟は何もかも正反対だったが、ただ一つ、共通するものがあった。それは隣家に住む幼馴染、田辺明穂の存在だった。幼い頃、吉高と大智は明穂と庭で遊び、夏の夕暮れに花火をしたり、冬の朝に雪だるまを作ったりした。共に過ごす時間の中で、明穂はただの幼馴染から、二人にとって特別な一人の女の子へと変わっていった。

 

 吉高は彼女の優しい声に心を寄せ、大智は彼女の笑顔に自由を見出した。明穂の弱視ゆえの鋭い感覚は、兄弟の心の動きを敏感に捉え、彼女自身もまた二人への複雑な想いを抱えていた。吉高の静かな優しさと大智の荒々しい情熱、どちらも彼女の心に深く刻まれた。だが、この共通の想いが、兄弟の間に新たな火種を生んだ。明穂の存在は、彼らの対立をさらに複雑にし、運命の糸を絡ませていくのだった。

 

 明穂が中学3年生の夏のことだった。

 

 謹慎処分を受けた大智は、山積みになった課題プリントに埋もれていた。シャープペンシルで頭をかくが、答えなど一つも浮かばない。そんな時、明穂が部屋に顔を出した。

 

「大智、すごい・・・これ、課題のプリント?」

 

 明穂が床に散らばったプリントをかき集めた。その姿を、大智は熱い目で見た。

 

「なんだよ、勝手に入ってくんなよ」

「おばさんが、お素麺が茹で上がったから呼んできてって」

「お袋も適当だな」

「なにが?」

 

 白紙の答案用紙が教室の床に彼方此方に散らばり、その中心で明穂が押し倒されていた。彼女を見下ろす大智の瞳は、激情と迷いで揺れていた。明穂の絹糸のような薄茶の髪が、冷たいフローリングの上で波打つように広がった。細い手首を掴む大智の手のひらには汗が滲み、緊張と熱が伝わった。明穂の弱視の目は大智の顔をはっきり捉えられなかったが、彼の荒々しい息遣いと震える指先から、抑えきれない感情を感じ取った。ゆっくりと、彼女の長いまつげが閉じ、まるで全てを諦めるように、あるいは受け入れるように。静寂の中、散らばった答案用紙が風に揺れ、二人の間に流れる重い空気を際立たせた。明穂は大智を受け入れた。

 

 大智はゆっくりと屈み、まるで壊れ物を扱うように明穂に口付けた。彼女の弱視の目は彼の顔を捉えられなかったが、息遣いの温もりと震えから感情を読み取った。「大智、なんだか悲しそうな顔」と囁くと、彼は苦笑し、「見えんのか」と呟いた。「分かる」と明穂は静かに答えた。

 

「吉高さんと違って俺は出来損ないだからな」

 

 自嘲する大智に、彼女は「そんな事ないわ」と優しく否定した。二人は互いを強く抱きしめ、散らばった答案用紙の上で時を忘れた。すると、階下から大智の母親の声が響いた。

 

「あんたたちーーー!なんかしてるんじゃないでしょうね!」大智は顔を赤らめ、「ざっ、ざけんなよババァ!」と叫び返す。母親は笑いながら、「明穂ちゃーーん!夕ご飯食べて行きなさい!」と続けた。「は、はーーーい!」と明穂は慌てて答え、心臓がドキドキと鳴った。温かな日常と複雑な想いが交錯する中、二人の距離は一瞬、近づいた。明穂は胸元のボタンをふたつ留めると「それじゃ、反省文頑張ってね」と階段を降りて行った。

 

 玄関の引き戸がガラリと開く音が響いた。

 

「あ、吉高さん、おかえりなさい」と明穂が柔らかい声で迎えた。「明穂ちゃん、来てたの」と吉高の落ち着いた声が返る。「うん、畑のトマトをお裾分けに持ってきたの」と彼女は微笑んだ。

 

 トマトのほのかな香りが漂う中、吉高は少し焦ったように言った。「危ないよ! LINEくれれば僕が取りに行ったのに!」その言葉に、明穂は小さく笑った。「大袈裟だよ」と軽く返すが、心のどこかで微妙な違和感を覚えた。

 

 吉高の気遣いは温かかったが、過保護とも取れるその態度は、明穂の自立心に小さな影を落とした。彼女の弱視ゆえの鋭い感覚は、吉高の声に滲む心配と、どこか抑えた感情を捉えていた。大智の荒々しい情熱とは異なる、吉高の静かな愛情。それが彼女を包む一方で、息苦しさも感じさせた。夕暮れの玄関先で、三人の関係が再び絡み合い始めた。

 

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  • あなたが囁く不倫には、私は慟哭で復讐を   どうしてこんなことに

    「ただいま帰りました」 吉高は震える声で言ったが、言葉は空虚に響いた。家の中には人の息遣いが感じられるのに、誰も迎えに出る気配はない。玄関の三和土で革靴を脱ぐと、足裏に冷たい汗が滲む。奥の座敷から、父親の厳しい声が鋭く響いた。「吉高、おかえり」 「あ、ただいま・・・・・」 吉高の声はかすれ、動悸が止まらない。口はカラカラに乾き、脇の下と足裏の汗が不快にまとわりつく。「ちょっとこっちに来なさい」 父親の声に逆らうことなどできず、「はい」と小さく答えた。座敷の襖を開けると、エアコンの冷たい風が首筋を撫で、背筋に寒気が走った。足元には、まるで百人一首のように写真が整然と並べられている。その一枚一枚が、吉高の罪を突きつける刃のようだった。動悸がさらに激しくなり、膝が震えた。「おはようございます」 吉高は力なく挨拶したが、声は弱々しく響いた。「おはよう」 父親の声が低く返ってくる。上座には着物を着た父親が正座で構え、威厳を漂わせていた。左側には母親と弁護士の辰巳が並び、母親は目を伏せ、辰巳は無表情で吉高を見据える。右側には義父、義母、そして明穂が暗い表情で畳に視線を落としていた。明穂の弱視の目が、いつもより一層深い悲しみを湛えているように見えた。座敷の空気が凍りつき、外の蝉の声だけが静寂を切り裂くように響いた。「・・・・・・あ、あの。」 吉高は言葉を探したが、声は震えるばかりだ。「座りなさい」 父親の声に有無を言わさぬ重みがあり、吉高は力なく下座に腰を下ろした。血の気が引く感覚が全身を包み、まるで身体が自分のものではないようだった。「吉高、お前がなぜここに呼ばれたのか分かるな?」 父親の声は低く、怒りを抑えているようだった。「は、はい・・・・・・」 吉高はかろうじて答えたが、喉が締め付けられるようで言葉が続かない。父親は一枚の写真を母親に渡した。母親はそれを凝視し、唇を噛み締める。彼女の手が震え、写真を辰巳に手渡した。辰巳は無言で、まるで儀式のように写真を吉高の前に置いた。それはカルテ保管庫での紗央里との情事の瞬間だった。薄暗い部屋、絡み合う二人の姿。吉高の顔が一瞬で青ざめ、胃が締め付けられた。座敷の空気がさらに重くなり、蝉の声が遠くに感じられた。「その女は誰だ」 父親の声が鋭く響く。「あの・・・・・・」 吉高は言葉に詰まり、

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