Masuk私は、入ってきた苓さんを直視しないようそっと視線を外しながら、泡立てたボディーソープをボディタオルにつける。 そして、苓さんにバスチェアに座るように促した。 「苓さん、そこに座ってください。体を洗います」 「わ、分かりました……」 苓さんはぎこちなく歩いてくると、大人しく椅子に座ってくれる。 背中を私に向けて座った。 病院で手当を受けた、防水仕様の傷口を覆うシート。 その部分に触れてしまわないよう、そっと優しく苓さんの背中にボディタオルを当てた。 「力加減大丈夫ですか?」 「ん……大丈夫です」 「傷がある付近は洗わないでおきますね、刺激しちゃうと痛いと思いますから」 「ありがとうございます、茉莉花」 ごしごし、と苓さんの背中を洗う事に集中する。 苓さんの背中は広くて、逞しい。 しなやかな筋肉が隆起していて、私はいつもこの体に抱かれているのか──。 そう、場違いにもそんな事を思い出してしまって。 駄目だ、こんな事を考えていたら。 今は苓さんのお手伝いをしているんだから……! 背中を洗い終え、傷口に水が掛かってしまわないように気をつけながらシャワーで流す。 ボディーソープをタオルに足して、次は前を洗おうと、私は苓さんの前に回り込んだ。 「次は全面です、洗いますね」 「──えっ!?ちょ、ちょっと待ってください茉莉花……!前は自分で洗います……っ!」 苓さんが慌てたように声を上げ、私の手首を掴む。 だけど、私の手首は今しがた泡立てたボディーソープがついていて、苓さんが手首を掴んだ瞬間、ぬるりと滑った。 「──えっ、あっ、きゃあっ!」 「えっ、うわっ!」 苓さんに手首を掴まれたと同時に、引っ張られてしまった私は、足元のボディーソープに足を取られ、滑ってしまった。 私がバランスを崩した事に気が付いたのだろう。 苓さんが腕を広げ、私を抱き留めてくれた。 その瞬間、苓さんの素肌と、私の体が密着してしまう。 私の体には、タオルを巻いていたけれど、それも今の衝撃で外れてしまって──。 「──っ」 水分を吸ったタオルが、べちゃりと音を立てて床に落ちてしまった。 私の体が顕になり、それを至近距離で見てしまった苓さんの体がぎちり、と固まった。 「ごっ、ごめんなさ……っ、すぐに拾いますっ」 私はわたわたと床に落ちたタオル
私が苓さんの着ているワイシャツのボタンを外していると、そこでようやく苓さんが硬直から解けた。 はっとすると、真っ赤な顔のまま私の両手をがしっと掴んで静止してきた。 「──まっ、待ってください茉莉花……!」 「えっ」 「なっ、何を……っ、こんな……っ」 真っ赤になった苓さんに、私は何故そんなに拒むんだろうか、と首を傾げる。 「だって、お風呂に入るなら服を脱がなきゃいけませんし……傷が痛いですよね?脱ぐのも大変じゃないですか?」 「た、多少痛みはするけど……、そんな……自分で出来ますから……」 だから、茉莉花は部屋でゆっくりしてて。 ぎこちなく笑みを浮かべた苓さん。 私はそんな苓さんに首を横に振った。 「嫌です。苓さんが我慢してしまう人だって……、無理をしてしまう人だって分かっているからこそ、私に出来る事は何だってしたいんです!だから、お風呂だってお手伝いをします!」 「ま、茉莉花──……っ」 「だから、一緒に入ります!」 私は、もう1度苓さんのワイシャツのボタンに手をかけ、外して行く。 次第に顕になって行く苓さんの体に、私は一瞬だけ手が止まってしまった。 「──〜っ」 今更だけど、凄い事をしているのだ、と羞恥がじわじわと込み上げてくる。 苓さんに無理をして欲しくないのは本当。 苓さんが我慢強い人だから、頼って欲しいのも本当。 だけど、一緒にお風呂に入るって事は。 その先を考えて、私は恥ずかしさに顔を赤くしてしまいそうだったけど、恥ずかしいと思っているのが顔に出ないように必死に隠す。 私が恥ずかしがっている、と苓さんが気付けば、1人で入ると言われてしまうから。 「し、下も……脱がします、ね……」 「──ちょっ」 私が苓さんのベルトに手をかけた時。 苓さんが先程の非ではないくらい顔を真っ赤にして私の手を掴んだ。 「わ、分かりました……!茉莉花と一緒に入る、入ります、から……!下は自分で脱ぎます……!」 「えっ、でも……」 「それくらいは自分で出来ますから……!その、先に入っていてください。……逃げたり、しませんから」 苓さんが私から視線を逸らし、そう言う。 ここまで来て、苓さんは逃げないだろう。 私はこくり、と頷くと苓さんに背中を向けて自分の服を脱ぎ始める。 ここで恥ずかしがっちゃ駄目。 普通に、普通
「怪我をしているのに、苓さんにやらせてしまってごめんなさい」 「気にしないでください。それに、怪我だってそこまで酷くはないですから。背中さえ気を付けていれば大丈夫です」 苓さんが優しく微笑み、そう言ってくれる。 きっと私がさっきの話で落ち込んでいるのは苓さんにお見通しなのだろう。 苓さんから気遣うような感情が感じられる。 怪我をして、大変な目に遭ったのは苓さんなのに、苓さんに気遣わしてしまったら駄目だ。 週明け、誰が情報を流しているのか。 本当にそんな人はいるのか。 それを私がしっかりと調べないと。 私は、そう心に決めた。 夜。 食事も終わり、後はお風呂に入って眠るだけ。 今は苓さんとソファに並んでテレビを見ていたけど、そろそろお風呂に入った方がいいだろう。 私はちらり、と時計を見た後、苓さんに顔を向けた。 「苓さん、お風呂に入っちゃいましょう」 「──そうですね、もうこんな時間か」 分かりました、とソファから立ち上がる苓さんに続いて、私も立ち上がる。 すると、苓さんが私が立ち上がった事に不思議そうな顔をした。 「どうしたんですか、茉莉花?」 「苓さん、怪我をしているからお風呂入るのが大変ですよね?私も一緒に入ります」 「──え?」 まさか私がそんな事を言うとは思わなかったのだろう。 苓さんは呆気に取られたようにぽかん、と口を開けたまま固まってしまっている。 私は気にせず、お風呂道具を用意し始めた。 「ま、待って、待ってください茉莉花……!」 「──え?」 私がテキパキと準備をしていると、それまで固まっていた苓さんが、慌てて私を引き止める。 びっくりして振り向くと、苓さんの顔は真っ赤に染まっていた。 「じ、自分1人で大丈夫です……!1人で洗えますから、茉莉花は気にしないでください……!」 「そんな事出来ません……!背中を切っているんですよ?1人で入ったら、どこが傷口か分からないし、濡れちゃうかもしれないじゃないですか。私も一緒に入って、手伝います!」 「だ、だけど……っ」 「ほら、行きましょう苓さん……!」 私は戸惑う苓さんの手を掴み、部屋にあるお風呂へ向かった。 普段は、部屋にあるお風呂じゃなくて、家の中にあるお風呂を使う。 そっちの方が広々としていて、のびのびとお風呂に入れるから。 だけど
「ただいま戻りました……」 「お邪魔します」 私と苓さんが帰宅すると、お母様がパタパタと足音を立てて出迎えてくれた。 「お帰りなさい、2人とも。馨熾さんは今日明日と出張だから帰らないわ。今日は大変だったわね、2人とも。ご飯は食べた?」 「いえ、まだです……。だけどごめんなさいお母様、食欲が無くて……今日は早めに休みますね」 「──あっ、茉莉花」 私はお母様に軽く頭を下げると、そのまま廊下を進み自分の部屋に向かった。 お母様と苓さんがまだ少し話しているのが後ろから聞こえた。 だけど、私はもしかしたら自分の会社に情報を流している人がいるかもしれない、と言う事を考えていたせいで後ろの2人を気遣う事が出来ず、そのまま部屋に戻った。 自分の部屋に入り、力なくソファに座る。 着替えもしてしまいたかったけど、その気力がなくって。 もし、本当に会社の人が涼子に情報を流していたら。 私が気付けず、呑気に過ごしていたせいで苓さんが2回も危険な目に遭ったのだとしたら。 「私は、自分自身が許せないわ……っ!」 私がのほほんとしていたせいで。 しなくていい怪我をしたかもしれないのだ。 「私のせいで……っ」 ぐっ、と背を丸め自分の顔を両手で覆う。 情けなくてしょうがない。 そうしていると、私の部屋の扉がコンコン、とノックされた。 「──茉莉花、入りますよ?」 「苓さん……?」 部屋にやって来たのは苓さんで。 私はソファから立ち上がり、扉を開けに行く。 すると、苓さんは食事が乗ったトレーを持って立っていて。 食事から温かな湯気が立ち上っている。 きっと、お母様が私と苓さんがいつ帰ってきてもいいように準備してくれていたのだろう。 「茉莉花のお母さんが用意してくれていました。今日はずっと俺についていてくれて、お腹が減ったでしょう?お母さんのご飯を食べましょう」 「苓さん……。ありがとうございます、食べます」 私が食べる、と返事をすると苓さんはほっとしたように微笑んだ。 苓さんからトレーを受け取り、一緒に部屋に入る。 「茉莉花、冷蔵庫を開けても?」 「ええ、大丈夫です。ありがとうございます」 私の部屋には小型冷蔵庫がある。 苓さんは私の部屋で過ごす事が多くなったから、冷蔵庫には私が好きな飲み物と、苓さんが好きな飲み物が常に常備され
苓さんの言う通り、谷島さんからのメールには涼子が女性スタッフに接触していた事。 そして、女性スタッフを唆し、苓さんを狙う事を指示されたと書かれていた。 「……プレオープン前のあのお店の情報を、涼子が知っている……?」 「ええ、そうなんです。……以前茉莉花から聞いた時も、違和感を覚えていて。……俺が以前、怪我をして搬送された時。その時も、茉莉花に速水 涼子から連絡が入ったんですよね?」 「そ、そうです……!それも、苓さんが搬送されてまだそんなに時間が経っていないのに……」 あの時の事はしっかりと覚えている。 苓さんの頭から、血が流れる光景。 私を庇ったせいで、苓さんが大怪我を負った、と自分自身を責めたから。 そして、そんな私に追い打ちをかけるように涼子からメッセージが届いたのだ。 あの時、きっと涼子は私の近くに居た。 私が絶望に打ちひしがれているのを見て、とどめを刺すようにメッセージを送ったのだろう。 それは、容易に想像が出来た。 「……俺や、茉莉花──いや、茉莉花の行動が筒抜けになり過ぎていませんか……?」 苓さんの言葉に、私ははっとする。 確かに、言われてみればそうだ。 どうして涼子は私の行動を把握しているの? 今回の、和風庭園カフェのプレオープンだって、どうしてその日付まで知っているの……? 「和風庭園カフェの事は……記念パーティーが開催されているし、ネットニュースにもなっているから、知っていてもおかしくは無い。……だけど、どうして茉莉花と俺が視察する日を知っているのか……そこがおかしいんです」 苓さんの言葉に、私も頷く。 「苓さんの言う通りです」 考えたくないけど──。 もしかしたら──。 私が考えていた事を、苓さんがはっきりと言葉にした。 「小鳥遊建設か、藤堂グループか……。どちらかに内通者──情報を、速水 涼子に流している人間がいる。俺は、そう思います」 「──っ」 疑いたくなかった。 だけど、私のスケジュールを把握していると言う事は。 そう言う事、だ。 私はぎゅっと目を閉じ、悔しさに唇を噛み締めた。 「……来週、出社したら……社内を1度確認、します……」 「ええ、そうしてください。俺も、小鳥遊建設で1度社内システムを確認します」 まさか、社内に内通者がいるなんて。 そうじゃないと願いたい
「苓さん、お待たせしました。家に帰りましょう」 「──え?」 私が戻るなり伝えた言葉に、苓さんはきょとんと目を丸くした。 苓さんもこの後、警察署に行くものとばかり思っていたのだろう。 だから私は今さっき電話で話した事を苓さんに説明する事にした。 「何だか、今日は来なくても大丈夫ですって。詳しい事は後日聞きますって言ってました。苓さんは藤堂で寝泊まりしますって伝えたら、警察の方が後日家に来るそうです」 「──茉莉花の家で過ごしていいんですか?本当に?」 私の言葉に、苓さんの表情がぱっと明るく変わる。 「ええ、もちろん。……もし苓さんが良ければ、これからもずっと暮らしませんか?」 苓さんから聞いた、小鳥遊のご両親の話──。 きっと、幼少期からずっと辛い思いをしていたのだろう。 長男も、次男も成功して──スペア扱いだった苓さんへ、苓さんの両親は愛情をたっぷり注いでくれたのだろうか。 いえ、きっとそれは無い。 苓さんの話や、態度から両親に愛されていたような雰囲気は感じなかった。 むしろ、その逆で。 ずっと寂しい思いをしていたのかもしれない。 それなら──。 藤堂の家は。 私のお父様やお母様は、少し過干渉だとは思うけど。 両親は娘の私の欲目を抜かしても、しっかり個人を見てくれる人だし、愛情深い人達だと思う。 それに、苓さんの事が大好きな私もいるから。 苓さんとは、何れ近い内に一緒になるのだ。 それなら、少し同居が早くなってもいいんじゃないだろうか。 一緒にいれば、怪我をした苓さんの生活のお手伝いだって出来る。 私の考えを苓さんに伝えると、苓さんは嬉しそうに頷いてくれた。 「ありがとうございます。藤堂の家に、お世話になります」 「分かりました。では、お父様に伝えておきますね」 私はお父様に一報を入れ、苓さんと一緒に病院を後にした。 車に乗り込み、走り出してから少し。 スマホを確認していた苓さんが私に声をかけてくれた。 「──茉莉花、谷島から連絡が……!」 「えっ、谷島さんから?……捜査に進展があったんですか?」 私の言葉に、苓さんは持っていたスマホを私に見えるように見せてくれた。 「今回の事件、どうやら速水 涼子が関わっていたみたいです」 「──えっ!?」 「あの女性スタッフ、速水 涼子からの依頼を受けて
苓さんとキスを交わしながら、私はここ最近感じていた違和感を確かめるように、自然な流れで薄っすらと唇を開いた。 だけど、苓さんはそれに気付いているはずなのに、唇を重ね合わせるだけの可愛らしいキスばかりを私に贈ってくれる。 以前、一夜を共にしてしまった時の、情熱的な、まるで食べられてしまうんじゃないかと言うくらいのキスは、お付き合いを始めてから1度もされた事が無い。 苓さんがしてくれないなら、と私からしてみようとしたその時──。 「──っ、茉莉花さん……っ」 「んっ、苓さん……?」 私が何をしようとしているのかを察したのだろう。 苓さんはがばり、と私から体を起こして離れてしまった
スマホの向こうから、苓さんの低くて艶のある声が耳に届いた。 「こんばんは、苓さん」 軽くカーディガンを羽織り、窓際まで歩いて行く。 窓からは雲がかかり、朧月が幻想的で、ついつい私は窓に手を添えた。 もしかしたら、苓さんも今空を見ているかもしれない──。 同じように、こんな風景を見ていたら、と考える。 私がそんな事を考えていると、苓さんがふと言葉を発した。
ミーティングに参加してくれていたチームの皆が資料を食い入るように見てくれていたけど、その中でも志木チーム長と、矢田主任は熟読しているようで、私の説明が終わった後も、書類にじっと視線を落としていた。 「矢田主任に、代替案のメリット、デメリットの取りまとめをお願いしてもいい?皆の意見を纏めて欲しいの。市場調査データの修正と、施策の強化については、また皆で意見を出し合い、纏めましょう?」 私がそう言葉に出すと、資料に落としていた視線を上げた矢田主任とぱちり、と目が合う。 何だか、矢田主任の目がとても輝いているように見えた。 「かしこまりました、本部長!今日中に纏め、明日には提出い
御影ホールディングス。 以前、兄の会社に協力依頼があった。 俺の兄──一番上の、長男が代表取締役の小鳥遊建設で、部長として働いている俺は、以前も御影ホールディングスに見積もりのために訪れていた。 御影ホールディングスの求める額ではうちの小鳥遊建設は、到底仕事を請け負う事が出来ない。 だから仕事を断ったのだが、再度見積もり提出を頼まれ、見積もりを修正して再び来社した。 御影ホールディングスは、大きな企業で、御影家は昔から続く古い家