ログイン四十四歳のシングルマザー・白石美奈子。恋も、自分が女性であることも、ずっと心の奥へしまい込んできた。そんな彼女が、行きつけのBARで偶然出会ったのは、憧れ続けてきた国民的人気ダンスユニット「Sky beat」のメンバー・碧だった。一夜の出会いが、止まっていた美奈子の時間を静かに動かし始める。しかし、芸能人と一般人、十五歳の年齢差、娘の存在、そして世間の視線が二人の前に立ちはだかる。それでも、もう一度だけ恋を信じたい――。これは、大人になってから始まる、切なくも温かな再生のラブストーリー。
もっと見る金曜日の夜、白石美奈子は仕事を終えると、
いつものように駅前の小さなBAR「Lumière」の扉を押した。 「マスター、お疲れさま」 カウンターの奥で glass を磨いていたマスターが、顔を上げて微笑む。 「美奈子さん、いらっしゃい。 今日も一杯目はモスコミュールで?」 「うん、お願い」 美奈子は四十四歳。 娘はもう高校二年生で、最近は「お母さん、今日は友達の家に泊まる」と言っては、美奈子の帰りを気にしなくなった。 シングルマザーとして十五年、がむしゃらに働いてきた。 営業事務の仕事は決して華やかではないけれど、コツコツと積み重ねてきた日々には確かな誇りがあった。 けれど、疲れは溜まる。 特に月末の今日は、上司の理不尽な小言に耐え、部下のミスをフォローし、家に帰れば娘の反抗期にも付き合う。 そんな一日の締めくくりに、美奈子にはこのBARでの一杯と、あるお楽しみが欠かせなかった。 「マスター、今日もあれ、流してもらえる?」 「もちろん。美奈子さんのリクエストは絶対だからね」 マスターは笑いながら、カウンターの端に置かれた小さなモニターを操作した。 画面に映し出されたのは、美奈子が十年来ファンを続けている国民的ダンスユニット「Sky beat」のミュージックビデオだった。 七人のメンバーが息の合ったダンスを繰り広げる中、美奈子の視線は自然と一人のメンバーに吸い寄せられる。 碧(あお)。 甘さと切なさが同居する歌声、そしてキレのあるダンス。 テレビで見るときは涼しい表情なのに、ライブ映像ではふとした瞬間に見せる少年のような笑顔。美奈子は彼のそんなギャップに、いつからか心を掴まれていた。 「美奈子さん、今日も熱心に見てるねぇ」 隣の常連客がからかうように言う。 「うるさいわね、乙女心をバカにしないでよ」 美奈子は笑いながらグラスを傾けた。 娘の前では見せない、少女のような表情。 ここでは誰に気兼ねすることもなく、好きなものを好きだと言える。 それがどれだけ救いになっていたか、美奈子自身もよくわかっていた。 ミュージックビデオが二周目に入った頃、美奈子はふと、背後に人の気配を感じた。 入り口の扉のベルが鳴る。 「いらっしゃいませ」 「ひとりだけど大丈夫ですか?」 マスターのいつものやり取りが聞こえる。 「マスター!僕らの曲、流してくれてるんですね!応援ありがとうございます」 聞き覚えのある声だった。でも、まさか。 美奈子がゆっくりと振り返ると―― そこには、画面の中にいるはずの碧が、まるで当たり前のように美奈子のすぐ隣の席に 腰を下ろしていた。 一瞬、時が止まったような感覚があった。 「え……」 声にならない声が漏れる。近くで見る碧は、 画面越しに見るよりもずっと生々しく、けれど確かに同じ人だった。 柔らかそうな髪、意外と高い鼻筋、そして何よりもテレビでは伝わらない、独特の甘い香り。 「あ、すみません、驚かせちゃいましたか?」 碧はいたずらっぽく笑って、美奈子の反応を楽しむように首を傾げた。 「え、あ、あの、本物……ですよね?」 「はい、本物です(笑)。今日、近くでライブのリハがあって。終わってからスタッフに『あの店のマスター、僕らのこと流してくれてるらしいですよ』って聞いて、寄らせてもらったんです」 美奈子は頭が真っ白になった。 十年間、画面越しに見つめ続けてきた人が、今、目の前にいる。 しかも自分はまさに、その本人が映るミュージックビデオを熱心に見つめていたところだったのだ。 「や、やだ、恥ずかしい……」 顔が一気に熱くなる。 碧はそんな美奈子の様子を見て、 くすっと笑った。 「いや、めちゃくちゃ嬉しいですよ。こんな風に、僕らの曲を楽しそうに見てくれてる人がいるって」 その笑顔は、テレビで見るどんな笑顔よりも眩しく、美奈子の心臓は落ち着かない音を立て始めていた。 慌てて席を立とうとした、その瞬間―― 「わっ、ごめんなさい!」 美奈子の肘が触れて、手元にあったカクテルグラスが傾き、その中身が碧のシャツにかかってしまった。 「あ……」 一気に血の気が引く。 よりによって、こんな大失態を。 「ご、ごめんなさい、本当にごめんなさい!すぐ拭くもの……」 テンパる美奈子に対して、碧はまったく動じることなく、むしろ愉快そうに笑った。 「大丈夫、大丈夫です。全然気にしないでください」 「でも、シャツが……」 「いいですよ。その代わり――」 碧は少し悪戯っぽい目で美奈子を見つめた。 「よかったら、僕が奢るんで、一緒に飲みませんか?」背の高い、優しそうな雰囲気の男性だった。 結愛が警戒した表情を見せると、男性は慌てたように封筒を差し出す。 「怪しいものじゃないよ。これ、お母さんに渡してほしくて」 白い封筒。表には丁寧な文字で「美奈子様」とだけ書かれている。 「……お母さんの、知り合い?」 「うん。仕事の関係でね。ちゃんと本人から渡してって頼まれたものだから、安心して」 男性はそれだけ言うと、軽く会釈をして去っていった。 結愛はしばらくその後ろ姿を見送りながら、封筒を制服のポケットにしまった。 (誰だろう。お母さん、こんな綺麗な字を書く知り合いいたっけ) なんとなく胸がざわついたけれど、結愛はそれ以上深く考えないことにした。 夕方、仕事から帰ってきた美奈子を、結愛が玄関で待ち構えていた。 「お母さん、おかえり。今日ね、学校に向かうところで男の人に呼び止められて」 「男の人?」 美奈子の表情が一瞬、強張る。 「お母さんの知り合いだって。これ、渡してって」 差し出されたのは、白い封筒だった。 見覚えのない筆跡。 けれど、なぜか胸の奥がざわりと音を立てる。 「ありがとう、結愛。手、洗ってきなさい」 「はーい!わかった」 結愛が洗面所に向かうのを見送ってから、美奈子はリビングのソファに腰を下ろした。 封筒を裏返す。差出人の名前はない。 ただ、封を切った瞬間、ふわりと香った紙の匂いに、なぜか覚えがあるような気がした。 中から出てきたのは、便箋と――小さな箱。 便箋を開くと、少し丸みを帯びた、けれど几帳面な文字が並んでいた。 『急なお手紙すいません。 美奈子さんにもう会えないとメッセージをいただいてから、美奈子さんに僕の覚悟を知ってほしくていろいろと準備をしました。 今度、僕らのアルバムリリースを記念したパーティーをする予定で…… 是非、娘さんと二人で参加して欲しいです。 僕の特別なお客様だから、とスタッフには説明しているので、一緒に入れたネックレスを受付に見せてください』 美奈子の手が、止まった。 (碧……) 心臓が、大きく跳ねる。 震える指で、小さな箱を開ける。 中には、トップにアクアマリンをあしらった、上品で可愛らしいネックレスが収まっていた。 碧の瞳の色を思わせる、澄んだ水色。 「碧ったら、そんな無茶な……」 呟いた声は、思っ
「聴いてください... On My Way to Cinderella」ーーー♪♪♪On My Way to Cinderella雨上がり 君を見つけた夜少し寂しそうに笑ってたね誰かのために生きてきた時間を隠すようにグラスを揺らしてた「もう恋なんてしないから...」その言葉の奥にある涙を僕だけは見逃せなかったーーー♪♪♪(優しく指を弾くギターの弦から流れる音色に碧の優しさが、心に響く...)時計の針は戻せなくても未来なら変えられるから君が閉じたその心のドアを焦らず 何度でも叩くよ(ステージ上がライトアップされて、翠はこちらをみているように画面を見つめている)ーーー♪♪♪On My Way to Cinderella今日、僕は君を迎えに行くガラスの靴なんていらない君のその笑顔だけあればいい幸せになる順番なんて誰にも決められないから遅すぎる恋なんてない君は今でも僕だけのシンデレラーーー♪♪♪(「俺、一夜限りのつもりで、昨日美奈子さんを誘ったわけじゃないんです」あの時、碧が話していた決意が目の前にいや、世界中に流れている...私なんかのために...今は、勘違いでも良い。そう感じていた。)「一夜限りの綺麗な思い出...」震える声でそう言ったねその優しさも その強さも全部抱きしめたいと思った君が誰かを守るように今度は僕が君を守りたいーーー♪♪♪時が君を連れて行って忘れることなんて出来やしない会えない時間だけが君への決意を僕にくれた。もしこの歌が届くならもう一度だけ君に笑ってほしいーーー♪♪♪On My Way to Cinderella今日も僕は君を迎えに行く魔法なんてなくてもいい君と歩く明日があれば時計が零時を告げたってこの恋は終わらせない“もう幸せになっていい”そう伝えるために今日、僕は君を迎えに行くOn My Way to Cinderellaーーー♪♪♪曲が終わり、碧が照れながら笑顔で言う。「聴いてくれてありがとうございます」美奈子の頬には、静かに涙が伝っていた。それを見てびっくりしている結愛。「お母さん!どうしたの!そんなに感動した!?」「いや...違うの...ごめんね。」無理に笑おうとするけど、涙が止まらない。その涙は、碧を信じ
結愛を抱きしめながら、美奈子は自分の心の中に、静かに芽生え始めていた感情の存在に、改めて気づかされていた。昨夜、あのBARのカウンターで、隣に座った碧が屈託なく話しかけてきた瞬間から、何かが変わり始めていた。あの出会いは、あの”約束”を揺るがすものになりつつある。それが、幸せなことなのか。それとも、また同じ過ちを繰り返すことになるのか。美奈子には、まだ分からなかった。「……ちゃんと、朝ごはん作るね」しばらくして、美奈子はそう言って立ち上がった。これ以上、この話を続ける気力が、今はなかった。「学校行く準備、していいよ」「……うん」結愛は小さく頷いて、自分の部屋へと戻っていった。一人になったリビングで、美奈子はキッチンに向かいながら、スマートフォンをちらりと見た。碧からのメッセージが、一件届いていた。『美奈子さん、早速メッセージ送ってみました。昨日はありがとう。また会えますか』その短い文面を見つめながら、美奈子は深いため息をついた。ーーーどうすればいいんだろう。答えの出ない問いを胸に抱えたまま、美奈子は包丁を手に取った。娘のために、いつも通りの朝食を作るために。朝食を終え、結愛を学校へ送り出した後。一人になったリビングで、美奈子はスマートフォンを手に取った。画面には、まだ既読のついていない碧からのメッセージが表示されたままだった。『美奈子さん、早速メッセージ送ってみました。昨日はありがとう。また会えますか』何度も読み返した文面。昨夜は、この言葉に胸を弾ませていたはずなのに。今はただ、重たい石を飲み込んだような気分だった。結愛の顔が、脳裏に浮かんでは消える。 ーーまた、あんな思いするのは、絶対に嫌だから!美奈子は深く息を吸い、ゆっくりと文字を打ち始めた。『昨日はありがとう。楽しかった、本当に。でも、今朝帰ってから、娘にすごく怒られちゃって』打っては消し、打っては消しを繰り返す。素直に書こうと決めたはずなのに、指先がなかなか進まなかった。『高校生の娘がいるのに、朝帰りなんて、って。当然だよね。ちゃんと考えなきゃいけないことを、私、忘れてた』一度、深呼吸をする。ここから先が、一番言いたくなかった言葉だった。『碧くんのことは嬉しかった。本当に。でも、私にはもう、娘との約束があるの。誰かとまた一緒にいるってこと、簡単に
タクシーを降りたのは、朝の六時を少し過ぎた頃だった。初夏の空はもう白み始めていて、美奈子は昨夜のドレスの上にトレンチコートを羽織っただけの格好で、マンションのエントランスに向かって歩いていた。足取りは軽いのに、どこか後ろめたい。まるで高校生が門限を破って帰ってきたような、そんな感覚が胸の奥にあった。 ――昨夜、あのBARで初めて会った時の碧の笑顔が、まだ瞼の裏に焼き付いている。二十歳も年下の青年に、こんな気持ちにさせられるなんて。四十四にもなって、まるで恋を知ったばかりの少女みたいだ。エレベーターを降り、玄関の鍵を開ける手が、少しだけ震えた。物音を立てないよう、そっとドアを開く。リビングの明かりが、ついていた。「……ただいま」小さな声で言いながら靴を脱いでいると、ソファの方から声が飛んできた。「おかえりって言えると思う?」結愛だった。制服のまま、ソファに膝を抱えて座っている。目の下にはうっすらとクマができていて、スマホの画面には見覚えのあるSNSのタイムラインが表示されたままだった。「結愛……お泊まり会は?もう学校あるでしょ、早く寝な――」「寝れるわけないじゃん...連絡もつかないし!何からあったのかと思って抜けてきた!」結愛の声は、刃物のように鋭かった。「お母さん、朝帰りだよ? 分かってる? 高校生の娘がいる家の母親が、朝の六時に帰ってくるって、どういうことか分かってんの?」「それは……」「年甲斐もなく、朝帰りとかやめてよね!!」その一言が、美奈子の胸に深く刺さった。反論できない。事実、その通りだから。美奈子は玄関先に立ち尽くしたまま、コートの袖をぎゅっと握った。昨夜の高揚感が、急速に冷めていくのが分かる。「ごめんなさい......心配かけたね」「心配とかそういう次元の話じゃなくてさ」結愛は立ち上がり、キッチンの方へ向かいながら、背中越しに言った。「誰と一緒だったの」問いというより、確認だった。まるで、答えをすでに知っているような口ぶりで。美奈子は言葉に詰まった。碧のことを、どう説明すればいいのか。二十歳年下のアイドルと、BARで出会ったその日のうちに一晩過ごしたなんて、口が裂けても言えない。少なくとも、今は。「……友達と、飲みすぎちゃって。そのまま友達の家に泊まったの」我ながら、下手な嘘だと思っ