LOGIN私、水橋愛梨(みずはし あいり)と藤原陸仁(ふじわら りくと)が付き合って7年になるが、彼は私が魚介類アレルギーであることすら覚えていない。 それなのに、車に吊るされた色褪せた黄色いお守りだけは宝物のように扱っている。 お守りの中には紙切れが入っていて、そこには【神様、あの人が試験に必ず合格しますように。ご利益があったら3ヶ月間肉を絶ちます】と書かれていた。 陸仁は、それは高校時代のダチの悪ふざけだと言い、もうすぐ入籍するんだから、嫉妬はするなと私を宥めた。 私はその言葉を信じ、胸を躍らせながら結婚式の準備を進めていた。 ところが今日、彼の地元の親族の集まりに同行した時のことだ。小花柄のワンピースを着た女の子が、目を赤くして部屋に入ってきた。 親戚の大人たちは可哀想に思いながら彼女の手を引き、「帆夏さん、遠くの神社までお参りに行ってくれてご苦労だったね。さあ、早く陸仁の隣に座りなさい」と声をかけた。 宴会が進むと、誰かが酔った勢いで感慨深げに口にした。 「あの時、帆夏さんが何気なく願掛けしただけで、陸仁のやつ、毎日付き合って肉を絶ってさ。挙句の果てに胃を壊すまでしたんだよな」 私はフルーツジュースを一口すすり、静かにその話に耳を傾けた。 車に7年間吊るされていたあのお守りは、ダチとの悪ふざけなどではなく、彼の初恋にまつわる大切な品だったのだ。
View More遠くから、救急車のサイレンが近づいてくる。私はスーツケースを引き、背を向けて雨の中へと歩き出した。背後で、紐の切れたあのお守りが、力の抜けた彼の指の隙間から再び泥水の中へとこぼれ落ちる。私は、一度も振り返らなかった。……病室は静まり返っていた。陸仁はベッドに仰向けになり、点滴を受けている。看護師の話では、連日の高熱にあの雨が重なって肺炎を引き起こし、3日3晩点滴を打ち続けてようやく熱が引いたらしい。私がここへ来たのは、見舞いのためではない。最後に残った貸し借りを完全に清算するためだ。足音に気づくと、彼は重いまぶたを必死に押し上げた。濁っていたその瞳に、一瞬だけすがるような光が灯る。「愛梨……来てくれたんだね」私は無言のまま、ベッドサイドのキャビネットの前に立った。彼はマットレスに手をついて体を起こし、コップに手を伸ばそうとした。だがストローは斜めに傾き、激しく震える手ではどうしても口元に合わせることができない。私は、ほとんど無意識のうちに身を乗り出していた。7年間。朝差し出す一杯の白湯、寝る前のひと粒の薬、接待から帰った夜のお茶漬け――こうした世話の動作は、とうの昔に私の骨の髄まで染み込んでしまっていた。私は手を伸ばしてストローの向きを直し、コップの縁に指先を添えて、習慣のまま水温を確かめた。熱すぎない。ちょうどいい温度。陸仁の瞳が、驚くほどの生気を帯びて輝いた。まるで溺れかけた人間が、一本の流木にしがみつくかのように。彼は震える手を持ち上げ、ひどくゆっくりと、私の手の甲に触れた。彼の指先は、ひどく熱を持っていた。その熱さが、私を冷ややかな現実へと引き戻した。私は彼の手を振り払うこともしなかった。ただ静かに上体を起こし、コートのポケットから一枚のウェットティッシュを引き抜く。病院で配られる、鼻をつくような強い消毒液の匂いがするものだ。私は彼の目の前で、彼に触れられた指を、一本、また一本と、念入りに拭き清めていった。そして、拭き終えたティッシュをベッド脇のゴミ箱へと捨てる。彼の瞳に残っていた光は、ティッシュがゴミ箱へ落ちていくのと重なるように、少しずつ消え失せた。キャビネットの上には、透明な薬の箱が置かれていた。プラスチックのケース越しに見えるのは、あの
「このブースの写真ですが」私はその壁を指差し、穏やかな声で言った。「本人の同意を得ていない写真が展示されています。撤去をお願いします」会場のスタッフは一瞬、あっけにとられた。陸仁の顔に僅かに浮かんでいた希望の光が、少しずつ、確実に消え失せていった。「愛梨、俺……」「あなたとは何の関係もない人間の写真を、勝手に壁に掛けないで」私はそう言い放った。彼の名前は呼ばなかった。この7年間、「陸仁」と呼んだこともあれば、フルネームで呼んだこともあった。口論の末に叩きつけた「出ていって」という罵声にさえ、彼の名前に向けた熱が宿っていた。だが今、私の口から出た彼は、ただの「このブース」でしかない。彼はわずかに口を開いたが、その喉からは何の音も紡ぎ出されなかった。その手は無意識に、自身の胸ポケットを押さえていた。私は、後ろ姿ばかりが飾られたその壁の前を通り過ぎ、出口へと向かった。背後からは、写真が一枚また一枚と剥がされ、アルミフレームが床にぶつかる硬い音がカチャカチャと響いていた。私は振り返らなかった。彼はようやく、私の顔を見ようと思い立った。だが彼が壁一面に掻き集めたのは、私の後ろ姿や横顔ばかりだった。……展示会が終わり、会場で撤収作業が進む中のことだった。空からはまた雨が降り出していた。スーツケースを引きながら外へ歩いていくと、遠くの搬入トラックの脇に、見覚えのある人影が見えた。陸仁が、あの壁の写真を片付けていた。一枚ずつアルミフレームから抜き出し、ダンボール箱へと重ね入れている。搬入エリアには雨が吹き込んでいた。彼の顔は異様に紅潮し、動作はおぼつかず、一枚しまうたびにトラックの荷台に手をついて荒い息を吐いている。私は歩みを止めなかった。正面ゲートに差し掛かろうとしたとき、背後でドサリと鈍い音がした。振り返ると、陸仁が荷台にすがりつくようにしてゆっくりと滑り落ち、搬入エリアの水たまりへそのまま倒れ込んでいた。抱えていた写真の束が散らばり、雨に打たれる。モノクロの後ろ姿が、一枚また一枚と水に浸かって無惨にふやけていった。通りがかった人が慌てて駆け寄る。だが彼は何も感じていないかのように、片腕で体を支えながら、もう片方の手でしきりに胸ポケットを探っていた。胸ポケットにあったあの
「この手帳に書かれたことは、何一つ実現しなかった。この薬も、私には必要ない。それを飲むべきだったのは、最初からあなたの方よ」彼は微かに口を開きかけた。私は告げた。「期限の切れたものは今さら返されても、期限切れのままよ」彼はうつむき、自らゴミ捨て場から拾い集め、三日かけて乾かしたその手帳を見つめた。そして、胃痛など起こしたこともない人間のために、わざわざ買ってきた新品の胃薬へと視線を移した。彼はそこでようやく、何かを悟ったようだった。金の問題ではないのだ。いっそ数千万円の現金を積まれたなら、鼻で笑ってやるくらいはできたかもしれない。なのに彼は、あろうことかこんなものを持ち込んできた。私が一文字ずつ想いを込め、そして彼が無造作に蔑ろにしてきたものを。今になって、彼はそれを拾い集め、陰干しし、記憶に刻み込もうとしているが、あまりにも遅すぎた。私はきびすを返し、二階へと歩き出した。階段の上から、宿泊客の女性画家が顔をのぞかせた。「オーナーさん、下の人……」「ただ、古いものを返しに来ただけの人です」私は部屋のカーテンを引き、古びた手帳にしがみつく階下の男を、こちらの世界から切り離した。背後から、怒鳴り声が聞こえることもなかった。ただ風が手帳のページをめくる音だけが、誰かの止めどないため息のように、か細く響いていた。……写真展は、市中心部のコンベンションセンターで開催されていた。私は特別ゲストのパスを首から下げ、展示ホールの通路をゆっくりと歩いていた。一番奥にある、ひときわ目立たないブースの前で、私は立ち止まった。電飾看板も、スポンサーの銘板もない。ただ真っ白なパネル壁に、十数枚のモノクロ写真が飾られているだけだった。写真に写っているのは、すべて同じ一人の女だった。エプロン姿でカメラに背を向け、コンロの前でスープのあくをすくっている姿。玄関のドア枠に手を添え、帰らぬ誰かを待つように佇む姿……しばらくそれらを見つめ続け、やがて、ようやく気付いた。写真の中の女は、私だったのだ。十数枚ある中で、正面から顔を捉えたものは一枚もない。すべてが後ろ姿や、横顔ばかりだった。7年間。彼はカメラを構え、クライアントを撮り、宣材写真を撮り、そして帆夏が誕生日のロウソクを吹き消す笑顔を
震える手で打ったのか、届いたメッセージには誤字が混じっていた。私はその一文をじっと見つめ、一言だけ返信を打った。【この街の雨なんて、どうってことない。あの台風の夜の雨こそが、本当に冷たかった】送信ボタンを押す。目下の人影が凍りついた。激しい雨音と曇ったガラス越しでも、彼がうつむいてスマホを見る姿が見えた。肩が一度、そしてもう一度、激しく震える。その言葉の裏にある、私が雨の中で立ち尽くしたあの3時間の重みを、彼はようやく理解したようだった。体の力を失い、彼は泥水の中に直々に膝をついた。容赦なく背中に叩きつける雨から逃げようともせず、二通目のメッセージが送られてくることもなかった。手にしたコーヒーから立ち上る熱気が目に染みて、少しだけ目頭が熱くなった。それでも、私は扉を開けなかった。ただ静かに手を伸ばし、分厚い遮光カーテンをゆっくりと閉ざしていく。窓の外の雨も、窓の外の人間も、すべてを完全に遮断した。カーテンが閉じた瞬間、部屋の中は暗く沈んだ。コーヒーはすっかり冷え切っている。カップを窓台に置くと、底に丸い水滴の輪が残った。それはまるで、拭い損ねた誰かの涙のように見えた。その雨は、すっかり日が暮れるまで降り続いた。……数日後、泥だらけの黒いSUVが、民宿の鉄門の前で甲高いブレーキ音を立てて止まった。勢いよく開いたドアから、陸仁が転がり落ちてくる。顎には無精髭が伸び放題になり、眼窩は落ち窪んでいる。かつては襟元に一つシワがあるだけで即座に着替えていた男が、今は酸いすえたような匂いを漂わせていた。その腕の中には、何かを大事そうに抱きかかえている。冷えないようにと庇うかのように、古い上着でぐるぐると包まれていた。石のテーブルの前に来ると、彼はその上着を剥がしていく。中から出てきたのは、ベージュ色の表紙の手帳だった。角は擦り切れ、表紙には決して消えない水染みが無惨に広がっている。見覚えがあった。私が自分で買ったものだ。見返しにはウェディングドレスを試着した日のレシートが貼られ、中には式場や進行表、誰を招待するかといった段取りがびっしりと書き込まれている。最後のページの「アレルギー・NG食材」という項目の下には、私自身の筆跡が残っている。【新婦は魚介類アレルギー。テーブルに魚介