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断たれた紐と私の7年

断たれた紐と私の7年

Par:  果てぬ願Complété
Langue: Japanese
goodnovel4goodnovel
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私、水橋愛梨(みずはし あいり)と藤原陸仁(ふじわら りくと)が付き合って7年になるが、彼は私が魚介類アレルギーであることすら覚えていない。 それなのに、車に吊るされた色褪せた黄色いお守りだけは宝物のように扱っている。 お守りの中には紙切れが入っていて、そこには【神様、あの人が試験に必ず合格しますように。ご利益があったら3ヶ月間肉を絶ちます】と書かれていた。 陸仁は、それは高校時代のダチの悪ふざけだと言い、もうすぐ入籍するんだから、嫉妬はするなと私を宥めた。 私はその言葉を信じ、胸を躍らせながら結婚式の準備を進めていた。 ところが今日、彼の地元の親族の集まりに同行した時のことだ。小花柄のワンピースを着た女の子が、目を赤くして部屋に入ってきた。 親戚の大人たちは可哀想に思いながら彼女の手を引き、「帆夏さん、遠くの神社までお参りに行ってくれてご苦労だったね。さあ、早く陸仁の隣に座りなさい」と声をかけた。 宴会が進むと、誰かが酔った勢いで感慨深げに口にした。 「あの時、帆夏さんが何気なく願掛けしただけで、陸仁のやつ、毎日付き合って肉を絶ってさ。挙句の果てに胃を壊すまでしたんだよな」 私はフルーツジュースを一口すすり、静かにその話に耳を傾けた。 車に7年間吊るされていたあのお守りは、ダチとの悪ふざけなどではなく、彼の初恋にまつわる大切な品だったのだ。

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Chapitre 1

第1話

「ただのお守りじゃないか。そこまで怒る必要があるのか?」

陸仁は声を潜め、苛立ったように指先でハンドルを叩いた。

「親戚が適当に言ったことを、いちいち真に受けるなよ。来月には入籍するんだ、これ以上事を荒立てないでくれ」

私は何も言わず、ルームミラーに吊るされた色褪せたお守りを見つめていた。それは車の揺れに合わせて、ゆらゆらと揺れている。

車内は冷房が強く効いていた。

初夏だというのに首筋から背中にかけてゾクゾクと冷気が走り、誰かに氷を背中に押し当てられているような気がした。

1時間前の宴会での光景が、まだ目の前に浮かんでいる――

陸仁はエビを私の取り皿に置いた。

「私、魚介類アレルギーなんだけど」

彼は一瞬だけ呆然とし、すぐさまそのエビを白石帆夏(しらいし ほのか)の器へと移した。

そして、山芋の短冊が入った小鉢を彼女の目の前へそっと差し出した。

「胃が弱いんだから、消化にいいものを食べなよ」

7年。

陸仁は、帆夏の胃が弱いことも、山芋が好きなことも、彼女が何気なく口にした誓いもすべて覚えている。

なのに、私が魚介類を一口でも食べれば発疹が出て、アナフィラキシーショックを起こすことすら覚えていない。

私は指先を冷たい窓ガラスに押し当てた。その冷たさが指を伝って這い上がってくる。

掠れた声で、私はポツリと呟いた。

「ねえ、陸仁。嘘をつく時、あのお守りをまっすぐ見上げることができる?」

キーッという甲高い摩擦音が響き渡った。

陸仁は急ブレーキを踏んで車を路肩に停めると、振り返り、眉間を深く寄せた。

「愛梨、いい加減にしろよ!」

私は彼を見ず、揺れるお守りをただ見つめていた。

陸仁はその静かな私の態度に逆上して顔を青ざめさせ、手を伸ばしてルームミラーからお守りをむしり取った。

紐がちぎれる鋭い音が、車内にやけに響いた。

「こんなボロいお守り、捨てれば文句ないんだろ!」

彼はそのお守りをセンターコンソールボックスに強く叩きつけ、アクセルを踏み込んだ。

帰り道、車内にはエアコンの風の音だけが響いていた。

窓ガラスは私の体温で温かくなり、手のひらには汗が滲み始めていた。

……

夜中、私は喉の渇きで目を覚まし、水を取りに行く途中、バルコニーのガラス戸の前で足を止めた。

陸仁は手すりに寄りかかり、指先には短くなったタバコを挟んでいた。赤い火種が暗闇の中で点滅している。

階下の街灯の光に照らされて、はっきりと見えてしまった。

昼間、彼がコンソールボックスに叩きつけたあのお守りを、今は両手で大切そうに包み込んでいるのを。

陸仁の親指は、お守りを何度も何度も撫でていた。その動作は、まるで子どもを寝かしつけるように優しかった。

私は彼に気づかれないよう、寝室へと引き返した――結局、その水を汲みに行くことはなかった。

翌朝、家の中は空っぽだった。

ダイニングテーブルには土鍋が置かれ、その下にメモが敷かれていた。

【昨晩は頭に血が上って悪かった。謝るよ。お粥を作ったから、温かいうちに食べてくれ】

土鍋の蓋を開けると、ツンと鼻を突く薬草の強い匂いが漂ってきた。

匙でかき混ぜると、茯苓や党参、それに得体の知れない薬草の根がいくつか鍋の底で転がっていた。

7年間、私の胃は一度も悪くなったことなどない。

胃痛持ちで、こんな胃に優しい薬膳粥を必要としているのは、陸仁自身なのだ。

昔、帆夏が何気なく言った肉断ちの約束に付き合ったせいで、彼が自ら作り出した胃の病だった。

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commentaires

ノンスケ
ノンスケ
忘れられない女がいる男は本当に厄介だ。特に男は上書きしないからね。女は上書きしていくけど、男は並べて思い出しては感情に浸るんだろうな。まあ、そんな男は綺麗に離れてよかったよ。
2026-08-13 21:41:02
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松坂 美枝
松坂 美枝
モラ男からの脱出 あそこまで大事にされずにいたんだから別れるよね で、よくわからんモラ男の悔恨からの、自分のことは自分でするねバイバイメール ため息
2026-08-13 11:13:54
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加世子
加世子
なんかモヤモヤする。 初恋の女は匂わせしたあと出てこないし。 この彼氏は、いつ彼女を愛してるって気がついたのかな? その辺の描写が無くて、急に現れたり。 あと、会社も潰れたとかも唐突で、どんな噂が流れたのかもわからないし。 いろいろと中途半端だったかな。
2026-08-16 00:40:31
1
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第1話
「ただのお守りじゃないか。そこまで怒る必要があるのか?」陸仁は声を潜め、苛立ったように指先でハンドルを叩いた。「親戚が適当に言ったことを、いちいち真に受けるなよ。来月には入籍するんだ、これ以上事を荒立てないでくれ」私は何も言わず、ルームミラーに吊るされた色褪せたお守りを見つめていた。それは車の揺れに合わせて、ゆらゆらと揺れている。車内は冷房が強く効いていた。初夏だというのに首筋から背中にかけてゾクゾクと冷気が走り、誰かに氷を背中に押し当てられているような気がした。1時間前の宴会での光景が、まだ目の前に浮かんでいる――陸仁はエビを私の取り皿に置いた。「私、魚介類アレルギーなんだけど」彼は一瞬だけ呆然とし、すぐさまそのエビを白石帆夏(しらいし ほのか)の器へと移した。そして、山芋の短冊が入った小鉢を彼女の目の前へそっと差し出した。「胃が弱いんだから、消化にいいものを食べなよ」7年。陸仁は、帆夏の胃が弱いことも、山芋が好きなことも、彼女が何気なく口にした誓いもすべて覚えている。なのに、私が魚介類を一口でも食べれば発疹が出て、アナフィラキシーショックを起こすことすら覚えていない。私は指先を冷たい窓ガラスに押し当てた。その冷たさが指を伝って這い上がってくる。掠れた声で、私はポツリと呟いた。「ねえ、陸仁。嘘をつく時、あのお守りをまっすぐ見上げることができる?」キーッという甲高い摩擦音が響き渡った。陸仁は急ブレーキを踏んで車を路肩に停めると、振り返り、眉間を深く寄せた。「愛梨、いい加減にしろよ!」私は彼を見ず、揺れるお守りをただ見つめていた。陸仁はその静かな私の態度に逆上して顔を青ざめさせ、手を伸ばしてルームミラーからお守りをむしり取った。紐がちぎれる鋭い音が、車内にやけに響いた。「こんなボロいお守り、捨てれば文句ないんだろ!」彼はそのお守りをセンターコンソールボックスに強く叩きつけ、アクセルを踏み込んだ。帰り道、車内にはエアコンの風の音だけが響いていた。窓ガラスは私の体温で温かくなり、手のひらには汗が滲み始めていた。……夜中、私は喉の渇きで目を覚まし、水を取りに行く途中、バルコニーのガラス戸の前で足を止めた。陸仁は手すりに寄りかかり、指先には短くなったタバコを
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第2話
ぐつぐつと煮えたぎるこの薬膳粥は、私が陸仁のために千回以上も煎じてきたものだ。それを今、彼はそっくりそのまま煎じて、私への謝罪として差し出してきた。まるで別の誰かを世話する習慣を、そのまま私に適当に当てはめたかのようだ。この家で一体誰の胃を労わる必要があるのか、彼はそれすら分かっていない。土鍋を手に取ったものの、私の手はゴミ箱の上でピタリと止まった。身体に染みついた習性が、無意識にスプーンを取り、表面に浮いた薬かすをすくい取ろうとさせた。7年もの間、彼のために何千杯もこのお粥をよそってきた。その動作はとうの昔に骨の髄まで刻み込まれている。私はふと動きを止め、宙に浮いた自分の手を見て、ひどく滑稽に感じた。そして、お粥をゴミ箱へとぶちまけた。身支度を整えた後、私はタクシーを拾い、彼の写真スタジオへ向かった。休憩室のドアを開けると、陸仁がソファに寝そべるようにして胃を押さえていた。帆夏が彼のそばに座り、湯気を立てる熱いおしぼりを丁寧に彼のシャツの上から当てていた。「陸仁さん、熱くない?」「ちょうどいいよ」帆夏は顔を向けて私に気づくと、ビクッと手首を震わせ、熱いおしぼりを陸仁の脚に落としてしまった。彼は勢いよく頭を上げた。私を見た瞬間、彼の瞳の奥に微かな動揺が走ったが、それはすぐに期待へと変わった。なぜなら彼は、私のバッグのサイドポケットから覗く、特効薬の胃薬の箱を目ざとく見つけたからだ。7年。その薬の箱を、私は彼のために7年間ずっと持ち歩いていた。彼が胃痛を起こせば、私がどんなに怒っていても、どんなに激しく口論していても、最終的には私が折れて、薬を取り出して彼の口元に運ぶのだ。今回も例外ではないと、彼は確信していた。私はソファの前まで歩み寄った。陸仁は無意識に背筋を伸ばし、わずかに口を開けた。過去7年間のあらゆる時と同じように、私が薬を取り出し、彼の唇に運んでくれるのを待っていた。私の手はバッグの中へ伸び、その薬の箱を握った。指先は、過去の数え切れないほどの深夜に、アルミシートから薬を押し出したあの感触すらありありと思い出せた。しかし私の視線は、彼のそばにある、帆夏の口紅がついたぬるま湯のグラスに落ちた。私は薬の箱を取り出した。陸仁の目がパッと輝いた。次
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第3話
その後、確かに彼は私を迎えに来た。しかし高級デパートに着くや否や、一本の電話で呼び出されてしまった。すぐ戻るから先にお店を見て回っていてくれとだけ言い残した。私はデパートの二階にある、ジュエリーショップのVIPルームに座っていた。目の前のベルベットのトレイには、眩い光を放つダイヤモンドのペアリングが三組、綺麗に並べられている。ショップの店員がスパークリングウォーターの入ったグラスを運び、私の手元にそっと置いた。「水橋さん、藤原さんは渋滞に巻き込まれていらっしゃるのでしょうか?」「そうかもしれませんね」私はグラスを手に取り、一口だけ口をつけた。壁掛け時計の針は、すでに夜の8時半を指している。陸仁のスマホに電話をかけても、受話器からは無機質な電子音が響くばかりだった。「おかけになった電話は、現在電話に出ることができません」五回目の発信を終えたところで、私はスマホをテーブルに伏せて置いた。グラスの中の炭酸はとっくに抜け落ち、水はえぐみのある苦い味に変わっていた。スマホを手に取り、SNSのタイムラインを開く。一番上に表示されていたのは、帆夏が10分前にアップしたばかりの投稿だった。【7年経っても、私の胃痛が再発すると、あなたは仕事をすべて放り出して救急外来まで駆けつけてくれるのね】添えられた写真は、背後からこっそり撮られた男の後ろ姿だった。ごった返す救急外来の廊下で、ダークグレーのシャツを着た男の広い肩幅。そのシャツはつい昨日、私がクリーニング店から引き取り、シワ一つなく綺麗にプレスされたばかりのものだった。私はタイムラインを閉じ、写真フォルダを開いた。画面には、ペアリングのデザイン画が表示されている。私が1ヶ月の時間をかけて自ら描き上げたラフ画で、今日専属のデザイナーに渡して型紙を起こしてもらうはずだった。だが昨日、私はスタジオで見てしまったのだ。この原画が、帆夏が飲んでいたテイクアウトのコーヒーカップの下敷きにされているのを。紙の表面には、決して消えることのない丸いコーヒーの染みがくっきりと残されていた。店員が近づいてきて、どこか同情めいた声色で尋ねた。「水橋さん、お水のお代わりはお持ちしましょうか?」「いいえ、結構です」私は背筋を伸ばして立ち上がり、手元に置いて
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第4話
「行こう、区役所へ」ほんの試しのつもりだった。まさか彼が断りもせず、本当に私について役所までやってくるとは思わなかった。待合ロビーは人でごった返している。椅子に腰を下ろす。私たちの前には、まだ二組の順番待ちがあった。陸仁は私の隣で背筋をピンと伸ばして座り、まるで何らかの判決を待っているかのようだった。5分の間に、彼は17回もスマホを見た。画面は真っ暗なままなのに、彼の親指は無意識のうちに何度も端末の縁をなぞっている。私はそれを静かに数えていた。18回目。画面が明るくなった。ロック画面にポップアップした一行のメッセージ。【また電気が点かなくなったの。部屋が真っ暗で、一人じゃ怖いよ】添えられた写真は漆黒で何も見えず、カーテン越しに微かな光が漏れているだけだった。彼は火傷でもしたかのように、慌ててスマホを太ももの上に伏せた。そして、それを誤魔化すように、私の手を握りしめてきた。彼の手は、冷や汗でびっしょりと濡れていた。「愛梨」異常なほど優しい声だった。「手続きが終わったら、どこのレストランに行きたい?お前の好きなところでいいよ」彼は私にそう尋ねた。なのに、彼の視線はどうしても抑えきれないかのように、太ももに伏せられたスマホを何度も、何度もチラ見している。あの真っ黒な写真が、ロビーのあらゆる喧騒を完全に掻き消していた。アナウンスが鳴った。「藤原陸仁さん、水橋愛梨さん。三番窓口までお越しください」陸仁が勢いよく立ち上がり、椅子の脚が床に擦れて甲高い音を立てた。待ちきれないといった様子で、まるで自分を証明する試験にでも向かうかのようだ。余程焦っていたのか、振り返って私の手を引くことすら忘れている。私はその場に座ったまま、ピクリとも動かなかった。本当に理解できなかった。心の中にずっと別の女がいるくせに、どうして私と一緒に区役所へ来たのだろう。それとも彼にとっては、たった一枚の紙切れで夫婦になったところで、心の中の愛する人を消し去ることはできないと分かっているからだろうか。窓口の手前まで行って、ようやく後ろに誰もいないことに気づいたのか、彼が振り返った。「愛梨?何してるんだ?」彼の顔には、茫然とした表情が張り付いていた。「急に、結婚したくなくなった」私はバッグからティ
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第5話
飛行機が海辺の町に着陸したときには、すっかり日が落ちていた。夜風が機内の熱気を払い、あの街で7年間も身に染みついていた澱みまでも吹き飛ばしてくれたような気がした。私は古いSIMカードを抜き取り、真っ二つに折ってゴミ箱へ捨てると、新しく買ったSIMカードに差し替えた。この町での日々は、飛ぶように過ぎていった。私は居抜きで売りに出されていた二階建ての古い民宿を買い取った。前のオーナーが残していったのはガラクタの山だった。私はペンキを買ってきて自分で壁を塗り、市場でリネン類をまとめ買いした。マットレスを運び、シーツを洗う毎日の重労働が、私の時間を隙間なく埋めてくれた。半ヶ月が過ぎたある日の深夜。私のスマホに、一件の新しい音声メッセージが残されていた。私が着信拒否にしたせいで、彼がまた別の新しい番号から送ってきたものだった。再生ボタンをタップする。まず飛び込んできたのは背景音だった――耳をつんざくような雷鳴と、聞き慣れた軽快な入店チャイム。私たちが一緒に住んでいたマンションの下にある、あのコンビニのチャイムだ。陸仁の声は、ひどく掠れていた。ろれつが回っておらず、ひどく酔っ払っているのがわかる。「愛梨……家のパスワード、なんで開かないんだよ?お前、勝手に変えたのか……?お前が一番好きなあの店の五目炒飯、買ってきたんだ。店員に何度も言ったんだぞ、魚介類アレルギーだからエビは一匹も入れるなって……俺、ちゃんと覚えてたんだ。ほら、今回は本当に覚えてただろ……?ドアを開けてくれないか?お願い……」続いて、彼が狂ったようにドアを叩きつける重い音と、隣の住人がドアを開け、「うるさいぞ、頭おかしいんじゃないのか!」と怒鳴り散らす声が響いていた。それきり、雷鳴と雨音だけを残して、長い長い沈黙が落ちた。彼は忘れているのだ。ドアの錠も、パスワードも何も変えていない。単に、彼自身が泥酔してパスワードを度忘れしただけだ。この7年間、毎晩リビングに明かりを残し、エレベーターの音が聞こえるたびに玄関へ走ってドアを開けていた人間は、もうそのドアの向こうにはいない。彼が必死に叩いていたのは、ただの空き部屋のドアだった。音声メッセージを最後まで聞き終えても、私は折り返さなかった。そして、その番号も着信拒否にした。……翌
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第6話
震える手で打ったのか、届いたメッセージには誤字が混じっていた。私はその一文をじっと見つめ、一言だけ返信を打った。【この街の雨なんて、どうってことない。あの台風の夜の雨こそが、本当に冷たかった】送信ボタンを押す。目下の人影が凍りついた。激しい雨音と曇ったガラス越しでも、彼がうつむいてスマホを見る姿が見えた。肩が一度、そしてもう一度、激しく震える。その言葉の裏にある、私が雨の中で立ち尽くしたあの3時間の重みを、彼はようやく理解したようだった。体の力を失い、彼は泥水の中に直々に膝をついた。容赦なく背中に叩きつける雨から逃げようともせず、二通目のメッセージが送られてくることもなかった。手にしたコーヒーから立ち上る熱気が目に染みて、少しだけ目頭が熱くなった。それでも、私は扉を開けなかった。ただ静かに手を伸ばし、分厚い遮光カーテンをゆっくりと閉ざしていく。窓の外の雨も、窓の外の人間も、すべてを完全に遮断した。カーテンが閉じた瞬間、部屋の中は暗く沈んだ。コーヒーはすっかり冷え切っている。カップを窓台に置くと、底に丸い水滴の輪が残った。それはまるで、拭い損ねた誰かの涙のように見えた。その雨は、すっかり日が暮れるまで降り続いた。……数日後、泥だらけの黒いSUVが、民宿の鉄門の前で甲高いブレーキ音を立てて止まった。勢いよく開いたドアから、陸仁が転がり落ちてくる。顎には無精髭が伸び放題になり、眼窩は落ち窪んでいる。かつては襟元に一つシワがあるだけで即座に着替えていた男が、今は酸いすえたような匂いを漂わせていた。その腕の中には、何かを大事そうに抱きかかえている。冷えないようにと庇うかのように、古い上着でぐるぐると包まれていた。石のテーブルの前に来ると、彼はその上着を剥がしていく。中から出てきたのは、ベージュ色の表紙の手帳だった。角は擦り切れ、表紙には決して消えない水染みが無惨に広がっている。見覚えがあった。私が自分で買ったものだ。見返しにはウェディングドレスを試着した日のレシートが貼られ、中には式場や進行表、誰を招待するかといった段取りがびっしりと書き込まれている。最後のページの「アレルギー・NG食材」という項目の下には、私自身の筆跡が残っている。【新婦は魚介類アレルギー。テーブルに魚介
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第7話
「この手帳に書かれたことは、何一つ実現しなかった。この薬も、私には必要ない。それを飲むべきだったのは、最初からあなたの方よ」彼は微かに口を開きかけた。私は告げた。「期限の切れたものは今さら返されても、期限切れのままよ」彼はうつむき、自らゴミ捨て場から拾い集め、三日かけて乾かしたその手帳を見つめた。そして、胃痛など起こしたこともない人間のために、わざわざ買ってきた新品の胃薬へと視線を移した。彼はそこでようやく、何かを悟ったようだった。金の問題ではないのだ。いっそ数千万円の現金を積まれたなら、鼻で笑ってやるくらいはできたかもしれない。なのに彼は、あろうことかこんなものを持ち込んできた。私が一文字ずつ想いを込め、そして彼が無造作に蔑ろにしてきたものを。今になって、彼はそれを拾い集め、陰干しし、記憶に刻み込もうとしているが、あまりにも遅すぎた。私はきびすを返し、二階へと歩き出した。階段の上から、宿泊客の女性画家が顔をのぞかせた。「オーナーさん、下の人……」「ただ、古いものを返しに来ただけの人です」私は部屋のカーテンを引き、古びた手帳にしがみつく階下の男を、こちらの世界から切り離した。背後から、怒鳴り声が聞こえることもなかった。ただ風が手帳のページをめくる音だけが、誰かの止めどないため息のように、か細く響いていた。……写真展は、市中心部のコンベンションセンターで開催されていた。私は特別ゲストのパスを首から下げ、展示ホールの通路をゆっくりと歩いていた。一番奥にある、ひときわ目立たないブースの前で、私は立ち止まった。電飾看板も、スポンサーの銘板もない。ただ真っ白なパネル壁に、十数枚のモノクロ写真が飾られているだけだった。写真に写っているのは、すべて同じ一人の女だった。エプロン姿でカメラに背を向け、コンロの前でスープのあくをすくっている姿。玄関のドア枠に手を添え、帰らぬ誰かを待つように佇む姿……しばらくそれらを見つめ続け、やがて、ようやく気付いた。写真の中の女は、私だったのだ。十数枚ある中で、正面から顔を捉えたものは一枚もない。すべてが後ろ姿や、横顔ばかりだった。7年間。彼はカメラを構え、クライアントを撮り、宣材写真を撮り、そして帆夏が誕生日のロウソクを吹き消す笑顔を
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第8話
「このブースの写真ですが」私はその壁を指差し、穏やかな声で言った。「本人の同意を得ていない写真が展示されています。撤去をお願いします」会場のスタッフは一瞬、あっけにとられた。陸仁の顔に僅かに浮かんでいた希望の光が、少しずつ、確実に消え失せていった。「愛梨、俺……」「あなたとは何の関係もない人間の写真を、勝手に壁に掛けないで」私はそう言い放った。彼の名前は呼ばなかった。この7年間、「陸仁」と呼んだこともあれば、フルネームで呼んだこともあった。口論の末に叩きつけた「出ていって」という罵声にさえ、彼の名前に向けた熱が宿っていた。だが今、私の口から出た彼は、ただの「このブース」でしかない。彼はわずかに口を開いたが、その喉からは何の音も紡ぎ出されなかった。その手は無意識に、自身の胸ポケットを押さえていた。私は、後ろ姿ばかりが飾られたその壁の前を通り過ぎ、出口へと向かった。背後からは、写真が一枚また一枚と剥がされ、アルミフレームが床にぶつかる硬い音がカチャカチャと響いていた。私は振り返らなかった。彼はようやく、私の顔を見ようと思い立った。だが彼が壁一面に掻き集めたのは、私の後ろ姿や横顔ばかりだった。……展示会が終わり、会場で撤収作業が進む中のことだった。空からはまた雨が降り出していた。スーツケースを引きながら外へ歩いていくと、遠くの搬入トラックの脇に、見覚えのある人影が見えた。陸仁が、あの壁の写真を片付けていた。一枚ずつアルミフレームから抜き出し、ダンボール箱へと重ね入れている。搬入エリアには雨が吹き込んでいた。彼の顔は異様に紅潮し、動作はおぼつかず、一枚しまうたびにトラックの荷台に手をついて荒い息を吐いている。私は歩みを止めなかった。正面ゲートに差し掛かろうとしたとき、背後でドサリと鈍い音がした。振り返ると、陸仁が荷台にすがりつくようにしてゆっくりと滑り落ち、搬入エリアの水たまりへそのまま倒れ込んでいた。抱えていた写真の束が散らばり、雨に打たれる。モノクロの後ろ姿が、一枚また一枚と水に浸かって無惨にふやけていった。通りがかった人が慌てて駆け寄る。だが彼は何も感じていないかのように、片腕で体を支えながら、もう片方の手でしきりに胸ポケットを探っていた。胸ポケットにあったあの
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第9話
遠くから、救急車のサイレンが近づいてくる。私はスーツケースを引き、背を向けて雨の中へと歩き出した。背後で、紐の切れたあのお守りが、力の抜けた彼の指の隙間から再び泥水の中へとこぼれ落ちる。私は、一度も振り返らなかった。……病室は静まり返っていた。陸仁はベッドに仰向けになり、点滴を受けている。看護師の話では、連日の高熱にあの雨が重なって肺炎を引き起こし、3日3晩点滴を打ち続けてようやく熱が引いたらしい。私がここへ来たのは、見舞いのためではない。最後に残った貸し借りを完全に清算するためだ。足音に気づくと、彼は重いまぶたを必死に押し上げた。濁っていたその瞳に、一瞬だけすがるような光が灯る。「愛梨……来てくれたんだね」私は無言のまま、ベッドサイドのキャビネットの前に立った。彼はマットレスに手をついて体を起こし、コップに手を伸ばそうとした。だがストローは斜めに傾き、激しく震える手ではどうしても口元に合わせることができない。私は、ほとんど無意識のうちに身を乗り出していた。7年間。朝差し出す一杯の白湯、寝る前のひと粒の薬、接待から帰った夜のお茶漬け――こうした世話の動作は、とうの昔に私の骨の髄まで染み込んでしまっていた。私は手を伸ばしてストローの向きを直し、コップの縁に指先を添えて、習慣のまま水温を確かめた。熱すぎない。ちょうどいい温度。陸仁の瞳が、驚くほどの生気を帯びて輝いた。まるで溺れかけた人間が、一本の流木にしがみつくかのように。彼は震える手を持ち上げ、ひどくゆっくりと、私の手の甲に触れた。彼の指先は、ひどく熱を持っていた。その熱さが、私を冷ややかな現実へと引き戻した。私は彼の手を振り払うこともしなかった。ただ静かに上体を起こし、コートのポケットから一枚のウェットティッシュを引き抜く。病院で配られる、鼻をつくような強い消毒液の匂いがするものだ。私は彼の目の前で、彼に触れられた指を、一本、また一本と、念入りに拭き清めていった。そして、拭き終えたティッシュをベッド脇のゴミ箱へと捨てる。彼の瞳に残っていた光は、ティッシュがゴミ箱へ落ちていくのと重なるように、少しずつ消え失せた。キャビネットの上には、透明な薬の箱が置かれていた。プラスチックのケース越しに見えるのは、あの
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