Se connecter夕方から降り始めた雨。 男は、自宅の中から聞こえる“何かを引きずる音”に足を止めた。 半年前、この家には一人の女がいた。 行き場をなくしたその女を住まわせた男だったが、裏切りの果てに女は死に、男は庭の穴へ埋めた――はずだった。 ズリ……。 カリ……。 家の中を歩くモノ。 庭の穴の中から響く爪音。 そして、雨上がりの朝に残された一枚のメモ。 ――おかえり。 忘れた罪は、土の下で眠らない。 静かな雨の夜に始まる、因果応報の和製ホラー。
Voir plus小さな雨音を、人はシトシトと表す。
夕方から降り始めた今夜の雨は、まさにその言葉どおりだった。静かで、執拗で、忘れたはずの記憶の表面をゆっくり濡らしていく。 こんな雨の夜は、忘れたいことほど蘇る。 あの、雨の降り始めた夜——。 「おい、居るのか」 男の声は、暗い廊下に吸い込まれて消えた。 返事はない。 ズリ……。 ズリ……。 居間の奥から、何か重いものを引きずる音だけが近づいてくる。 男は玄関脇の傘立てからビニール傘を掴んだ。情けない得物だと思ったが、素手でいるよりはましだった。 半年前、この家には女がいた。 飲み屋で働いていた女だった。歳は三十手前、派手な化粧の割に目だけが妙に子どもじみていた。店に住み込みで寝泊まりしていたが、薬に手を出していると分かった途端、店から放り出された。 雨の夜だった。 コンビニの軒先で膝を抱えていた女に、男は声をかけた。 「行くとこないのか」 女は笑って、ない、と答えた。 そのときの男には、ただの気まぐれがあった。 一軒家に一人で住む退屈。人恋しさ。あるいは、誰かを救える人間でいたいという見栄。 「身の回りのことしてくれるなら、住んでもいい」 それが条件だった。 女は何度も頭を下げ、翌日には台所を磨き、洗濯をし、妙に甘い香水の匂いを家中に残した。 最初の一週間は、うまくいっていた。 二週間目には、財布の中身が減り始めた。 三週間目には、財布が消えた。 一ヶ月目には、男はようやく現実を知った。 薬物依存者と、同じ屋根の下で暮らすべきではない。 問い詰めた夜、女は泣きながら否定し、次の瞬間には玄関へ走った。 「待て!」 男が腕を掴み損ね、女はたたきで足を滑らせた。 身体が横に崩れ、頭が下駄箱の角へぶつかる鈍い音がした。 女はそのまま動かなくなった。 男はしばらく立ち尽くしていた。 救急車を呼べばいい。それくらい分かっていた。 だが、頭の中には別の計算ばかりが巡っていた。 薬物。警察。事情聴取。近所の目。面倒。 自分まで巻き込まれるのは御免だった。 女を部屋へ運び、布団へ寝かせ、水だけ枕元に置いた。 朝になれば目を覚ますかもしれない。そう思うことにした。 だが翌朝、女の身体は冷たかった。 男は何も感じなかった。 感じないようにしていた。 庭の片隅に穴を掘った。 雨上がりの土は柔らかく、妙に掘りやすかったのを覚えている。 誰にも知られず、何事もなかったように、土を戻した。 それから半年。 ズリ……。 ズリ……。 あのとき埋めた場所は、今も庭の隅にある。 男の額から汗が落ちた。 雨の冷たさとは違う汗だった。 暗い廊下の先で、ライターの火が小さく灯る。 その橙色の向こうに、濡れた髪の女の輪郭が、ゆっくりと浮かび上がった。 「……生きていたのか……」 喉の奥から、擦れた声が漏れた。 廊下の先に立つそれは、泥にまみれていた。 髪は土と雨で束になり、肩口から垂れた服は黒く濡れ、ところどころ裂けている。肌だったものは灰色にくすみ、乾いた土がひび割れたように貼りついていた。 もはや女と呼ぶには違った。 いや、人と呼ぶことさえ躊躇われる。 そこにあるのは、生き物ではなく—— モノ。 その言葉が、男の頭にもっともしっくりきた。 モノは男の呼びかけにも反応しない。 顔らしきものをこちらへ向けることもなく、ただ俯いたまま家の中を歩いている。 ズリ……。 ズリ……。 片足を引きずるたび、床に泥の筋が伸びた。 爪先が木目に引っかかり、濡れた土の塊がぽとり、ぽとりと落ちる。 男は玄関先から一歩も動けなかった。 目の前の現実を理解しようとするたび、脳が拒んだ。 埋めたはずだった。 土をかけた。踏み固めた。翌朝には何事もない庭に戻っていた。 それなのに、なぜ今ここを歩いている。 ズリ……。 ズリ……。 モノは廊下を抜け、居間へ入った。 まるでこの家の間取りを覚えているような足取りだった。 男の鼻先に、湿った土と腐った花のような臭いが届く。 「待て……おい……」 声をかけても止まらない。 モノは居間の中央で立ち止まり、ゆっくりと首を巡らせた。 古びた食卓。壁際のテレビ。積み上げた雑誌。男の脱ぎ散らかした上着。 そのひとつひとつを確かめるように見回している。 やがて、ぎこちない動きで台所の方へ向かった。 ズリ……。 ズリ……。 引き出しが開く音。 食器が触れ合う音。 冷蔵庫の扉が軋む音。 男の背中を冷たい汗が伝う。 生き返った者が、最初にすることではない。 それはまるで—— ここで暮らしていた者が、いつもの夜を始めているようだった。 男は、忘れたはずの感触を思い出していた。 冷たくなった女の身体。 肩を抱えて持ち上げたときの、力の抜けた重さ。 生きている人間にあるはずの抵抗も熱もなく、ただ形だけを残した肉の塊だったこと。 名前も、年齢も、そのときにはもう意味を失っていた。 そこにあったのは、人ではなく処理すべき物だった。 小雨の降りしきる夜だった。 今夜とよく似た、静かに濡れる雨だった。 男は庭の片隅に穴を掘った。 スコップが土へ入るたび、湿った土の匂いが立ちのぼった。 何度も息を切らし、泥だらけになりながら、ようやく人ひとり分の深さを作った。 そこへ女を落としたときの鈍い音。 土をかけたとき、髪の先だけがしばらく見えていたこと。 最後にそれすら見えなくなったとき、胸の奥が妙に静かになったこと。 全部、思い出していた。 では…… 今、家の中を歩いているあれは、一体なんなのだ。 ズリ……。 ズリ……。 居間の奥から、なおも音が響く。 引き出しを開け、食器を探り、まるでそこで暮らしていた者のように家を歩き回る音。 男の喉から、ひゅう、と情けない息が漏れた。 「違う……違う……」 何が違うのか、自分でも分からない。 ただ、この家の中にいてはいけないと本能だけが叫んでいた。 男は玄関扉を乱暴に開け、雨の中へ飛び出した。 冷たい雨粒が顔を叩く。 靴も履かぬまま、泥を跳ね上げて庭へ回る。 あの穴。 半年前、誰にも知られず埋めた場所。 雑草の伸びた庭の隅へ、男は転ぶように駆けた。 息を切らし、肩で雨を受けながら、街灯の薄明かりの中でその場所を見つける。 そこだけ土が盛り上がっている。 いや、違う。 内側から、押し上げられたように。 男は庭の盛り上がった土の前で息を切らしていた。 穴は、たしかに内側から押し上げられたように裂けている。 覗き込んでも、底は見えない。 雨と夜が深さを隠していた。 男は震える指でライターを取り出した。 カチャ。 カチャ。 シュボっ。 三度目で火がついた。 掌で雨を避けながら、穴へ差し入れる。 腐った水のような臭いが、熱で浮かび上がった。 底に何かある。 茶色く濡れた財布だった。 見覚えのある、擦り切れた革。 自分の財布だった。 「……盗んでやがったのか」 手を伸ばした瞬間、泥が崩れた。 身体が横滑りし、そのまま穴へ落ちる。 背中を強く打ち、足首に鈍い痛みが走った。 「くっ……!」 叫んでも、雨音が飲み込む。 近所の灯りも遠い。 朝までここにいるしかない。 そう思ったときだった。 カリ……。 すぐ耳元で音がした。 カリ……。カリ…。 穴の壁。 男の肩のすぐ横の土の中から、何かが爪で掻いていた。 聞き間違いではない。 穴の壁から、音がする。 カリ……。 カリ……。 カリ…カリ…。 男は濡れた土壁に耳を押し当てた。 一定の間隔。 まるで、誰かが中から爪で掻いているような音だった。 この穴には、まだ何かいる。 足首の痛みが脈打つ。 冷たい雨が肩を打ち、服の奥まで染み込んでいた。 「寒い……」 吐く息が白い。 体温が奪われていくのが分かった。 あの家のモノは何か? この穴から出るにはどうすれば良いのか? 「どうして、こうなった……」 その瞬間だった。 カリカリカリカリカリ……! カリカリカリカリカリカリ……! カリカリカリカリカリカリカリカリ…! 男は跳ねるように壁から離れた。 音は止まらない。 土の内側を、何かが凄まじい速さで掘り進んでくる。 しかも—— すぐそこまで、近づいていた。 カリカリカリカリカリ……! カリカリカリカリカリカリ……! 男は悲鳴にならない声を上げ、穴の反対側へ身を寄せた。 土壁が細かく震えている。雨粒が縁から落ち、顔に泥水が跳ねた。 「やめろ……来るな……!」 叫んでも音は止まらない。 むしろ興奮したように速くなる。 カリカリカリカリカリカリカリ……! 壁の一部が、ぼこり、と膨らんだ。 男は息を呑んだ。 次の瞬間、土の中から何か白いものが突き出た。 指だった。 泥にまみれ、爪の剥がれた細い女の指。 一本。 それが空気を探るように震えている。 「ひっ……!」 男は這うように穴の縁へ向かった。 痛めた足首に力を込めるたび、骨の奥で熱い痛みが走る。 背後で、ずるり、と湿った音がした。 振り返る。 土壁から、指が二本。三本。四本。 やがて手の甲が現れ、手首が現れ、土を掻き分けながら腕が伸びてくる。 それは、半年前に埋めた女の腕だった。 「やめろォ!」 男は叫び、穴の縁に爪を立てた。 雨でぬかるんだ土が崩れる。何度も滑る。 下から、冷たいものが足首を掴んだ。 それは剥げかけた真っ赤なマニュキュアのついた爪。あの女の手だった。 泥と腐臭に濡れた指が、痛めた足首へ食い込む。 「離せ! 離せぇッ!」 男は無我夢中で蹴った。 ぐしゃ、と柔らかい感触が返る。 その拍子に手が外れた。 男は全身で穴の外へ這い上がる。 肘で泥を掻き、腹を擦り、ようやく地面へ転がり出た。 雨空が見えた。 助かった。 そう思った瞬間だった。 家の玄関が、ぎい、と開いた。 明かりのない廊下の奥から、あのモノが立っている。 ズリ……。 ズリ……。 そして、今しがた這い出た穴の中からも、 ズリ……。 と、何かが土を押し分ける音がした。 男は悟った。 家の中にいたものと、穴の中にいたものは…。 やがて、男は穴から這い出ることには成功した。 だが、それだけだった。 冷たい雨に打たれ続けた身体は震えも止まり、足首の痛みさえ遠のいている。 痛みが消えたのではない。 感覚そのものが、失われ始めていた。 立ち上がろうとしても腕に力が入らない。 声を出そうとしても、喉がひゅうと鳴るだけだった。 穴の縁から、泥にまみれた手が現れる。 カリ……。 カリ……。 指先が土を掴み、ゆっくりと這い上がってくる。 あの夜、埋めた女のものにしか見えなかった。 一方、玄関先では、家の中にいたモノが男へ向かって近づいてくる。 ズリ……。 ズリ……。 片足を引きずるような音。 濡れた衣服が擦れる音。 二つのモノが、雨の庭で男を挟むように迫っていた。 逃げなければならない。 そう分かっているのに、身体はもう土の上に沈んだままだった。 視界の端が暗くなる。 雨音が遠のいていく。 ズリ……。 カリ……。 ズリ……。 カリ……。 二つの音が、やがてひとつに混ざる。 男の耳元に、湿った息が落ちた。 女の香水に似た、甘く腐った匂いだった。 そして、声がした。 それまでモノだと思っていたものは、最初から声を持っていたのだ。 「ワタシノ……」 掠れた、喉の潰れたような声。 「アナ……」 男の瞳が、かすかに見開かれる。 それが“穴”なのか。 それとも“あなた”なのか。 確かめる前に、意識は闇へ沈んだ。 翌朝、鳥の声で、男は目を覚ました。 まぶたの裏に朝の光が滲んでいる。 冷たいはずの身体は、妙に温かかった。 雨はやんでいた。 庭の土は濡れて黒く沈み、昨夜の嵐が嘘のように静かだった。 遠くで車の走る音。近所の犬の鳴き声。どこにでもある朝だった。 男はゆっくりと身を起こした。 痛みはなかった。 足首も、肩も、冷え切っていたはずの指先も、何事もなかったように動く。 「……夢か」 そう呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。 庭の隅を見る。 あの穴は、きれいに塞がっていた。 盛り上がった土もない。掘り返した跡もない。 ただ雑草が濡れて揺れているだけだった。 玄関は半開きのまま。 男はふらつく足で家の中へ戻った。 廊下には泥の跡が残っていた。 ズリ……と何かを引きずったような、長い筋。 居間へ続き、台所へ続き、そして男の寝室の前で途切れていた。 男の喉が鳴る。 寝室の襖は閉まっている。 昨夜、自分は庭で倒れたはずだ。 なら、誰がこの部屋へ入ったのか。 震える手で襖に触れる。 ゆっくり開ける。 部屋の中央に、布団が敷かれていた。 見覚えのない、丁寧な敷き方だった。 枕元にはコップ一杯の水。 そして、その横に小さなメモが置かれている。 濡れて滲んだ文字で、たった一言。 ——おかえり。 男は後ずさった。 その拍子に、背中が何かへ触れる。 振り向く。 そこには誰もいない。 だが耳元で、濡れた声が笑った。 「ツギハ、アナたが入る番…。」