あの雨の降り始めた夜

あの雨の降り始めた夜

last updateDernière mise à jour : 2026-07-24
Par:  森村征爾En cours
Langue: Japanese
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夕方から降り始めた雨。 男は、自宅の中から聞こえる“何かを引きずる音”に足を止めた。 半年前、この家には一人の女がいた。 行き場をなくしたその女を住まわせた男だったが、裏切りの果てに女は死に、男は庭の穴へ埋めた――はずだった。 ズリ……。 カリ……。 家の中を歩くモノ。 庭の穴の中から響く爪音。 そして、雨上がりの朝に残された一枚のメモ。 ――おかえり。 忘れた罪は、土の下で眠らない。 静かな雨の夜に始まる、因果応報の和製ホラー。

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Chapitre 1

あの雨の降り始めた夜

小さな雨音を、人はシトシトと表す。

夕方から降り始めた今夜の雨は、まさにその言葉どおりだった。静かで、執拗で、忘れたはずの記憶の表面をゆっくり濡らしていく。

こんな雨の夜は、忘れたいことほど蘇る。

あの、雨の降り始めた夜——。

「おい、居るのか」

男の声は、暗い廊下に吸い込まれて消えた。

返事はない。

ズリ……。

ズリ……。

居間の奥から、何か重いものを引きずる音だけが近づいてくる。

男は玄関脇の傘立てからビニール傘を掴んだ。情けない得物だと思ったが、素手でいるよりはましだった。

半年前、この家には女がいた。

飲み屋で働いていた女だった。歳は三十手前、派手な化粧の割に目だけが妙に子どもじみていた。店に住み込みで寝泊まりしていたが、薬に手を出していると分かった途端、店から放り出された。

雨の夜だった。

コンビニの軒先で膝を抱えていた女に、男は声をかけた。

「行くとこないのか」

女は笑って、ない、と答えた。

そのときの男には、ただの気まぐれがあった。

一軒家に一人で住む退屈。人恋しさ。あるいは、誰かを救える人間でいたいという見栄。

「身の回りのことしてくれるなら、住んでもいい」

それが条件だった。

女は何度も頭を下げ、翌日には台所を磨き、洗濯をし、妙に甘い香水の匂いを家中に残した。

最初の一週間は、うまくいっていた。

二週間目には、財布の中身が減り始めた。

三週間目には、財布が消えた。

一ヶ月目には、男はようやく現実を知った。

薬物依存者と、同じ屋根の下で暮らすべきではない。

問い詰めた夜、女は泣きながら否定し、次の瞬間には玄関へ走った。

「待て!」

男が腕を掴み損ね、女はたたきで足を滑らせた。

身体が横に崩れ、頭が下駄箱の角へぶつかる鈍い音がした。

女はそのまま動かなくなった。

男はしばらく立ち尽くしていた。

救急車を呼べばいい。それくらい分かっていた。

だが、頭の中には別の計算ばかりが巡っていた。

薬物。警察。事情聴取。近所の目。面倒。

自分まで巻き込まれるのは御免だった。

女を部屋へ運び、布団へ寝かせ、水だけ枕元に置いた。

朝になれば目を覚ますかもしれない。そう思うことにした。

だが翌朝、女の身体は冷たかった。

男は何も感じなかった。

感じないようにしていた。

庭の片隅に穴を掘った。

雨上がりの土は柔らかく、妙に掘りやすかったのを覚えている。

誰にも知られず、何事もなかったように、土を戻した。

それから半年。

ズリ……。

ズリ……。

あのとき埋めた場所は、今も庭の隅にある。

男の額から汗が落ちた。

雨の冷たさとは違う汗だった。

暗い廊下の先で、ライターの火が小さく灯る。

その橙色の向こうに、濡れた髪の女の輪郭が、ゆっくりと浮かび上がった。

「……生きていたのか……」

喉の奥から、擦れた声が漏れた。

廊下の先に立つそれは、泥にまみれていた。

髪は土と雨で束になり、肩口から垂れた服は黒く濡れ、ところどころ裂けている。肌だったものは灰色にくすみ、乾いた土がひび割れたように貼りついていた。

もはや女と呼ぶには違った。

いや、人と呼ぶことさえ躊躇われる。

そこにあるのは、生き物ではなく——

モノ。

その言葉が、男の頭にもっともしっくりきた。

モノは男の呼びかけにも反応しない。

顔らしきものをこちらへ向けることもなく、ただ俯いたまま家の中を歩いている。

ズリ……。

ズリ……。

片足を引きずるたび、床に泥の筋が伸びた。

爪先が木目に引っかかり、濡れた土の塊がぽとり、ぽとりと落ちる。

男は玄関先から一歩も動けなかった。

目の前の現実を理解しようとするたび、脳が拒んだ。

埋めたはずだった。

土をかけた。踏み固めた。翌朝には何事もない庭に戻っていた。

それなのに、なぜ今ここを歩いている。

ズリ……。

ズリ……。

モノは廊下を抜け、居間へ入った。

まるでこの家の間取りを覚えているような足取りだった。

男の鼻先に、湿った土と腐った花のような臭いが届く。

「待て……おい……」

声をかけても止まらない。

モノは居間の中央で立ち止まり、ゆっくりと首を巡らせた。

古びた食卓。壁際のテレビ。積み上げた雑誌。男の脱ぎ散らかした上着。

そのひとつひとつを確かめるように見回している。

やがて、ぎこちない動きで台所の方へ向かった。

ズリ……。

ズリ……。

引き出しが開く音。

食器が触れ合う音。

冷蔵庫の扉が軋む音。

男の背中を冷たい汗が伝う。

生き返った者が、最初にすることではない。

それはまるで——

ここで暮らしていた者が、いつもの夜を始めているようだった。

男は、忘れたはずの感触を思い出していた。

冷たくなった女の身体。

肩を抱えて持ち上げたときの、力の抜けた重さ。

生きている人間にあるはずの抵抗も熱もなく、ただ形だけを残した肉の塊だったこと。

名前も、年齢も、そのときにはもう意味を失っていた。

そこにあったのは、人ではなく処理すべき物だった。

小雨の降りしきる夜だった。

今夜とよく似た、静かに濡れる雨だった。

男は庭の片隅に穴を掘った。

スコップが土へ入るたび、湿った土の匂いが立ちのぼった。

何度も息を切らし、泥だらけになりながら、ようやく人ひとり分の深さを作った。

そこへ女を落としたときの鈍い音。

土をかけたとき、髪の先だけがしばらく見えていたこと。

最後にそれすら見えなくなったとき、胸の奥が妙に静かになったこと。

全部、思い出していた。

では……

今、家の中を歩いているあれは、一体なんなのだ。

ズリ……。

ズリ……。

居間の奥から、なおも音が響く。

引き出しを開け、食器を探り、まるでそこで暮らしていた者のように家を歩き回る音。

男の喉から、ひゅう、と情けない息が漏れた。

「違う……違う……」

何が違うのか、自分でも分からない。

ただ、この家の中にいてはいけないと本能だけが叫んでいた。

男は玄関扉を乱暴に開け、雨の中へ飛び出した。

冷たい雨粒が顔を叩く。

靴も履かぬまま、泥を跳ね上げて庭へ回る。

あの穴。

半年前、誰にも知られず埋めた場所。

雑草の伸びた庭の隅へ、男は転ぶように駆けた。

息を切らし、肩で雨を受けながら、街灯の薄明かりの中でその場所を見つける。

そこだけ土が盛り上がっている。

いや、違う。

内側から、押し上げられたように。

男は庭の盛り上がった土の前で息を切らしていた。

穴は、たしかに内側から押し上げられたように裂けている。

覗き込んでも、底は見えない。

雨と夜が深さを隠していた。

男は震える指でライターを取り出した。

カチャ。

カチャ。

シュボっ。

三度目で火がついた。

掌で雨を避けながら、穴へ差し入れる。

腐った水のような臭いが、熱で浮かび上がった。

底に何かある。

茶色く濡れた財布だった。

見覚えのある、擦り切れた革。

自分の財布だった。

「……盗んでやがったのか」

手を伸ばした瞬間、泥が崩れた。

身体が横滑りし、そのまま穴へ落ちる。

背中を強く打ち、足首に鈍い痛みが走った。

「くっ……!」

叫んでも、雨音が飲み込む。

近所の灯りも遠い。

朝までここにいるしかない。

そう思ったときだった。

カリ……。

すぐ耳元で音がした。

カリ……。カリ…。

穴の壁。

男の肩のすぐ横の土の中から、何かが爪で掻いていた。

聞き間違いではない。

穴の壁から、音がする。

カリ……。

カリ……。

カリ…カリ…。

男は濡れた土壁に耳を押し当てた。

一定の間隔。

まるで、誰かが中から爪で掻いているような音だった。

この穴には、まだ何かいる。

足首の痛みが脈打つ。

冷たい雨が肩を打ち、服の奥まで染み込んでいた。

「寒い……」

吐く息が白い。

体温が奪われていくのが分かった。

あの家のモノは何か?

この穴から出るにはどうすれば良いのか?

「どうして、こうなった……」

その瞬間だった。

カリカリカリカリカリ……!

カリカリカリカリカリカリ……!

カリカリカリカリカリカリカリカリ…!

男は跳ねるように壁から離れた。

音は止まらない。

土の内側を、何かが凄まじい速さで掘り進んでくる。

しかも——

すぐそこまで、近づいていた。

カリカリカリカリカリ……!

カリカリカリカリカリカリ……!

男は悲鳴にならない声を上げ、穴の反対側へ身を寄せた。

土壁が細かく震えている。雨粒が縁から落ち、顔に泥水が跳ねた。

「やめろ……来るな……!」

叫んでも音は止まらない。

むしろ興奮したように速くなる。

カリカリカリカリカリカリカリ……!

壁の一部が、ぼこり、と膨らんだ。

男は息を呑んだ。

次の瞬間、土の中から何か白いものが突き出た。

指だった。

泥にまみれ、爪の剥がれた細い女の指。

一本。

それが空気を探るように震えている。

「ひっ……!」

男は這うように穴の縁へ向かった。

痛めた足首に力を込めるたび、骨の奥で熱い痛みが走る。

背後で、ずるり、と湿った音がした。

振り返る。

土壁から、指が二本。三本。四本。

やがて手の甲が現れ、手首が現れ、土を掻き分けながら腕が伸びてくる。

それは、半年前に埋めた女の腕だった。

「やめろォ!」

男は叫び、穴の縁に爪を立てた。

雨でぬかるんだ土が崩れる。何度も滑る。

下から、冷たいものが足首を掴んだ。

それは剥げかけた真っ赤なマニュキュアのついた爪。あの女の手だった。

泥と腐臭に濡れた指が、痛めた足首へ食い込む。

「離せ! 離せぇッ!」

男は無我夢中で蹴った。

ぐしゃ、と柔らかい感触が返る。

その拍子に手が外れた。

男は全身で穴の外へ這い上がる。

肘で泥を掻き、腹を擦り、ようやく地面へ転がり出た。

雨空が見えた。

助かった。

そう思った瞬間だった。

家の玄関が、ぎい、と開いた。

明かりのない廊下の奥から、あのモノが立っている。

ズリ……。

ズリ……。

そして、今しがた這い出た穴の中からも、

ズリ……。

と、何かが土を押し分ける音がした。

男は悟った。

家の中にいたものと、穴の中にいたものは…。

やがて、男は穴から這い出ることには成功した。

だが、それだけだった。

冷たい雨に打たれ続けた身体は震えも止まり、足首の痛みさえ遠のいている。

痛みが消えたのではない。

感覚そのものが、失われ始めていた。

立ち上がろうとしても腕に力が入らない。

声を出そうとしても、喉がひゅうと鳴るだけだった。

穴の縁から、泥にまみれた手が現れる。

カリ……。

カリ……。

指先が土を掴み、ゆっくりと這い上がってくる。

あの夜、埋めた女のものにしか見えなかった。

一方、玄関先では、家の中にいたモノが男へ向かって近づいてくる。

ズリ……。

ズリ……。

片足を引きずるような音。

濡れた衣服が擦れる音。

二つのモノが、雨の庭で男を挟むように迫っていた。

逃げなければならない。

そう分かっているのに、身体はもう土の上に沈んだままだった。

視界の端が暗くなる。

雨音が遠のいていく。

ズリ……。

カリ……。

ズリ……。

カリ……。

二つの音が、やがてひとつに混ざる。

男の耳元に、湿った息が落ちた。

女の香水に似た、甘く腐った匂いだった。

そして、声がした。

それまでモノだと思っていたものは、最初から声を持っていたのだ。

「ワタシノ……」

掠れた、喉の潰れたような声。

「アナ……」

男の瞳が、かすかに見開かれる。

それが“穴”なのか。

それとも“あなた”なのか。

確かめる前に、意識は闇へ沈んだ。

翌朝、鳥の声で、男は目を覚ました。

まぶたの裏に朝の光が滲んでいる。

冷たいはずの身体は、妙に温かかった。

雨はやんでいた。

庭の土は濡れて黒く沈み、昨夜の嵐が嘘のように静かだった。

遠くで車の走る音。近所の犬の鳴き声。どこにでもある朝だった。

男はゆっくりと身を起こした。

痛みはなかった。

足首も、肩も、冷え切っていたはずの指先も、何事もなかったように動く。

「……夢か」

そう呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。

庭の隅を見る。

あの穴は、きれいに塞がっていた。

盛り上がった土もない。掘り返した跡もない。

ただ雑草が濡れて揺れているだけだった。

玄関は半開きのまま。

男はふらつく足で家の中へ戻った。

廊下には泥の跡が残っていた。

ズリ……と何かを引きずったような、長い筋。

居間へ続き、台所へ続き、そして男の寝室の前で途切れていた。

男の喉が鳴る。

寝室の襖は閉まっている。

昨夜、自分は庭で倒れたはずだ。

なら、誰がこの部屋へ入ったのか。

震える手で襖に触れる。

ゆっくり開ける。

部屋の中央に、布団が敷かれていた。

見覚えのない、丁寧な敷き方だった。

枕元にはコップ一杯の水。

そして、その横に小さなメモが置かれている。

濡れて滲んだ文字で、たった一言。

——おかえり。

男は後ずさった。

その拍子に、背中が何かへ触れる。

振り向く。

そこには誰もいない。

だが耳元で、濡れた声が笑った。

「ツギハ、アナたが入る番…。」

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