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森村征爾
森村征爾
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Novel-novel oleh 森村征爾

素直になるまでは、まだ

素直になるまでは、まだ

五十二歳の課長・柳川と、五十歳の事務員・細木。 職場で毎日顔を合わせながら、互いに嫌われていると思い込んでいた。 だが本当は——。 塩入りコーヒー、すれ違う好意、遅すぎる告白。 不器用な大人たちの、少し笑えてあたたかい恋愛物語。
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Chapter: 最終話 素直になるまでは、まだ
柳川圭介が退院して一か月。会社の計らいで、しばらくは遅めの出社と業務軽減が認められていた。朝、総務課の扉を開けると、すでに細木貴子は来ていた。観葉植物に水をやり終え、自席で書類を整えている。顔も上げずに言った。「遅刻ですね、柳川課長」「……優遇措置です」「言い訳は結構です。今日の書類に目を通して、十四時の会議には参加してください」もはや秘書である。だが、入院中、自分の母と交代で病院へ通ってくれていた相手に、柳川は何ひとつ言い返せなかった。事故から三週間近く意識がなかったせいか、退院後もしばらく頭には薄い靄がかかったような感覚が残っている。仕事も以前のようにはいかず、同期や細木に助けられてばかりだった。それでも、細木貴子への気持ちだけは、驚くほどはっきりしていた。今日こそ。今日こそ食事に誘い、あの返事を聞かせてもらわねばならない。病室で意識が戻る直前、誰かの声がずっと聞こえていた。内容は思い出せない。だが、あれが細木の声だったことだけはわかる。そして目を開けた時、細木は泣いていた。あんな顔は、二度とさせてはいけない。柳川が密かに決意を固めていると、机の上に紙コップが置かれた。「どうぞ」細木が淹れたコーヒーだった。柳川は一口飲み、首をかしげた。「……塩が入っていません」細木は書類をめくりながら言った。「何か忘れているのは、お互い様です」「……え?」「待っていますから」柳川は数秒固まり、それから慌てて立ち上がった。「ほ、細木さん。今夜、お時間ありますか。食事に行って、返事を聞かせていただけませんか」細木はようやく顔を上げた。少しだけ笑っていた。「そうですね。だいぶ待たされましたから、食事はもう結構です」「……え?」柳川は青ざめた。細木は続けた。「でも、毎日一緒にコーヒーなら飲みます」柳川は瞬きをした。「……それは、どういう意味でしょうか」「そのままの意味です」細木は立ち上がり、空になった紙コップを回収した。そして背を向けたまま、小さく言った。「私たち素直になるまでは、まだ。」柳川はしばらく立ち尽くし、やがてゆっくり笑った。明日の朝からはコーヒーが一人分ではなくなる。ずっと…。
Terakhir Diperbarui: 2026-07-22
Chapter: 最終話 それって…
柳川圭介は、バスの中で一人、頭を抱えていた。「……どうしてこうなった」小さく呟く。昨日のことを思い出す。石手寺。約束は果たせた。そこまでは、よかった。問題は――「……号泣だ……」深く息を吐く。あんなに泣いたのは、いつぶりだろう。しかも、人前で。それもよりによって……。細木貴子の前で。手を握られたまま、泣き続けていた。思い出すだけで、顔が上げられない。「はぁ……」ため息が漏れる。そのとき、社員たちがバスに乗り込んできた。「おはようございます」「昨日飲みすぎました……」「課長、どちらに?」返す余裕はない。視線を窓に逃がす。そこへ…「おはようございます」いつもより、少しだけ明るい声。細木だった。隣の席に、迷いなく座る。席は、いくらでも空いているのに。柳川は固まる。バスが動き出す。「さっき売店で買ってきたんですけど」細木が差し出したのは、小袋。「ごぼうチップです。食べます?」「……あとで」力のない返事。「そうですか」気にした様子もなく、細木は窓の外を見る。「あ、松山城ですよ」指をさす。「……知ってます」「住んでましたから」自分で言っておいて、また沈む。この温度差は何だ。横を見ることができない。細木は、そんな柳川を気にする様子もなく続ける。「また来たいですね」ふとこぼれた言葉。柳川は窓を見たまま、「……はい」とだけ返す。沈黙。耐えきれず、口を開く。「次は……他の場所も案内します」「任せてください」言った瞬間、視線が合う。逸らす。遅かった。細木が、くすっと笑う。「是非、お願いします」やわらかい声だった。やがてバスは空港に着く。降りたところで、細木のスマホが鳴った。「はい……ええ、大丈夫です」「夕方に迎えに行きますので」「母を、よろしくお願いします」通話を終える。日常に戻る音がした。柳川が言う。「……また、日常ですね」「そうですね」短いやり取り。柳川は、何気なく言った。「僕も、いずれ介護が必要になったら」「細木さんにお願いしようかな」言ってから、気づく。遅い。細木の動きが止まる。「……え」空気が、変わった。頭の中で、自分の言葉を反芻する。……やらかした。完全に、それだ。柳川は黙る。視線を逸らす。何も言えない。細木は、少しだけ俯いたあと、小さく笑った。「いいですよ」間を置いて、「柳川課長のケアは、私がします」顔は上げない。だが、
Terakhir Diperbarui: 2026-07-21
Chapter: 第八話 貴子の決意
柳川の言葉が、途切れる。それ以上は、何も出てこなかった。沈黙が落ちる。細木は、しばらく顔を上げなかった。堀の水面を見たまま、何かを整理するように息を整える。やがて、細木が小さく口を開いた。「……ずるいですね」責める響きはない。反応しない柳川。ただ、下を向いたまま動かない。「そんな話をされたら」少しだけ、言葉を探す。「もう嫌いになれないじゃないですか」柳川の肩が、わずかに揺れる。細木は続ける。「優しさって、押しつけられると苦しい」ゆっくり、なぞるように言う。「……分かる気がします」一度、言葉を切ったが、「でも」その一言に、少しだけ力が入る。「それで全部、間違いになるとは思いません」柳川の指が、わずかに動く。「少なくとも私は」視線を上げる。「その優しさに、救われました」静かだった。飾りのない声だった。「必要なときに、必要なことを言ってくれたのは」「柳川さんです」細木は今まで二人の時間を思い出している。「必要なら駆けつける」「手を握ろうといつもグーパー、私を気遣ってくれてた。」「あの手紙は優しさが滲み出てました」「私は柳川さんの優しさの代償で大好きになりました」細木は、少しだけ息を吐く。「……だから」言葉を選ぶ。迷いながら、それでも選ぶ。「怖いなら、そのままでいいです」柳川の呼吸が、わずかに乱れる。「繰り返すかもしれないなら」「そのとき、私が言います」強くはない。でも、はっきりと。「ちゃんと、言います」沈黙。逃げない言葉だった。柳川は、顔を上げない。ただ…ぽたり、と音がした。膝の上に、雫が落ちる。一つ、また一つ。柳川は積を切った様に涙が溢れだす。止めようとしても、止まらない。細木は、ゆっくりと距離を詰め、そっと、柳川の手に触れた。固く握りしめられていた指を、少しずつほどく。柳川の抵抗はなかった。そのまま、包む様に。「……大丈夫です」小さく言う。誰に聞かせるでもなく。柳川は、声を出さなかった。ただ、肩だけが震えている。押し殺した呼吸が、わずかに漏れる。細木は何も言わない。手を離さない。それだけで、十分だと思った。道後の夜が、静かに二人を包んでいた。
Terakhir Diperbarui: 2026-07-21
Chapter: 第七話 優しさの代償
柳川は、細木の肩からゆっくりと手を離した。 「……少し、歩きましょうか」 返事を待たずに手を取る。 道後公園まで、ほとんど会話はなかった。 堀の水面が、夜の光を揺らしている。 ベンチに並んで座るが、少しだけ距離がある。 しばらく、沈黙のまま座っている二人。 やがて柳川が口を開いた。 「……結婚していたことがあります」 細木は顔を上げない。 細木はただ、小さくうなずく。 「一年も、続きませんでした」 短い言葉。 それ以上は続かない。 「大学の頃からの付き合いで」 「気が合って……そのまま」 言葉は淡々としている。 「家のことは、分けていました」 一度、間が空く。 「……でも」 視線が、堀の水面に落ちる。 「気づいたら、ほとんど自分でやっていました」 小さく息を吐く。 「喜ぶかと思って……」 少しだけ間。 「それで、うまくいくと思っていました」 細木は何も言わない。 「……違いましたが」 その一言だけ、わずかに重い。 沈黙。 遠くの笑い声が、逆に静けさを強くする。 柳川は続ける。 「子どもの頃、両親が離婚して」 唐突だった。 「しばらく、松山に預けられていました」 視線は上がらない。 「先程の石手寺の祖母宅です」 細木の肩が、ほんの少しだけ動く。 「祖母と伯母が面倒見てくれてました」 「……優しい人たちで」 言葉が、ゆっくりになる。 「帰る場所があるって、こういうことかと思っていました」 少しだけ間が空く。 「だから」 言いかけて、止まる。 その続きを飲み込む。 代わりに、別の言葉を選ぶ。 「ある日、言われました」 声は、静かだった。 「優しさって、押しつけられると苦しいの」 夜に、その言葉だけが残る。 細木の指先が、わずかに動く。 「……意味が、分かりませんでした」 柳川は続ける。 「今も、完全には分かっていないと思います」 正直な声だった。 「ただ」 少しだけ息を吸う。 「また繰り返すのかと怖くて…。」 初めて、細木の方を見る。 すぐに視線を逸らす。 「……怖いんです」 小さい。 「また、気づかないうちに」 「相手を、苦しめてしまうんじゃないかと」 それ以上は言わない。 静寂が落ちる。 柳川は、下を向いたまま。 顔は見えない。
Terakhir Diperbarui: 2026-07-21
Chapter: 第六話 道後の夜
夕食を終えたあと、道後温泉に入った。 湯上がりのまま、浴衣で外へ出る。 商店街はまだ明るく、人も多い。 今回の参加者は十五名ほど。 顔なじみばかりで、気を遣うこともない。 賑やかな時間のはずだった。 細木は、うまく笑えなかった。 さっきのことが、頭から離れない。 聞くべきではなかった。 待てばよかった。 自分から話してくれるまで。 たった一言が、重く残っている。 夕食の味も、覚えていない。 一人で歩く。 下駄の音が、やけに響く。 行き先も決めずに進んで、気づけば時計台の前にいた。 「細木さん」 名前を呼ばれて、振り返る。 柳川が立っていた。 浴衣姿で、少しだけ息が上がっている。 「皆さんは、飲みに行かれました」 歩いてくる。 下駄の音が近づく。 「僕は飲めませんので……細木さんを探していました」 その言葉で、胸の奥が揺れる。 言わなければ。 謝らなければ。 あの質問のこと。 でも、言葉が出てこない。 口を開いてまた閉じた。 何も言えない。 涙が落ちた。 自分でも驚くくらい、あっさりと。 止まらない。 どうして泣いているのか、自分でもよく分からない。 ただ、止まらない。 柳川は、何も言わなかった。 一歩だけ近づく。 少しだけためらってから、 細木を抱き寄せた。 強くもなく、弱くもない。 ただ、離さないだけの力で。 人通りはある。 視線もある。 それでも柳川は離さなかった。 細木も、何も言えないまま。 そのまま、しばらく動けなかった。
Terakhir Diperbarui: 2026-07-21
Chapter: 第五話 柳川の過去
柳川の話は、どれも子どもじみていて、面白かった。店の前に置かれた古いベンチに並んで座る。「伯母が飼っていたトミーって犬がいまして」懐かしそうに笑う。「裏山に散歩に連れて行ったとき、リードが外れてしまって」「もう見つからないと思って、必死に探したんです」汗だくになって、山の中を走り回ったらしい。「どう言い訳しようか考えながら帰ったら……」「店で、普通に留守番してました」細木は思わず笑う。くだらない話のはずなのに、ちゃんと情景が浮かぶ。「伯母は、本当に優しい人で」ふと、口調が変わる。さっきまでの軽さが消える。「昔、ニュースで……」少しだけ言葉を選ぶ。「飛行機の事故があったとき」細木はうなずく。「カタカナの名前がずっと流れてて、それが怖くて」「震えていたら、後ろから抱きしめてくれて」視線が、遠くに向く。細木は黙って聞いていた。この人の“優しさの形”が、少しだけ分かる気がした。誰かにしてもらったことを、そのまま返す人だ。「細木さんは」柳川がふと、こちらを見る。「旅行の間、お母様は大丈夫ですか」視線がまっすぐで、少しだけ強い。「こういうときは、施設にお願いしてます」細木は答える。「母も、その方が楽しそうで」柳川は小さくうなずく。何も言わない。ただ、聞いている。その静けさが、少しだけ心地いい。目が合う。すぐに逸らす。.....今なら。細木は、そう思った。聞いてもいい気がした。踏み込める気がした。「柳川さんは」声に出してから、少しだけためらう。「以前、ご結婚は……」一瞬、空気が止まる。柳川の視線が揺れる。ほんのわずかに。「……はい」短い返事。「していました」それ以上は続かない。沈黙が落ちる。柳川は少しだけ視線を外し、何かを言いかけて、やめる。代わりに、立ち上がった。「そろそろ、戻りましょうか」いつもの口調に戻っている。細木も立ち上がる。何も聞かなかったことにするように。何も言わない。並んで歩く。さっきまでと同じ距離。同じはずなのに、少しだけ違う。
Terakhir Diperbarui: 2026-07-21
残想

残想

八十年越しの想いは、まだ終わっていなかった。 高校二年生の向日葵(ひまり)は、曾祖父・玄太郎の七十七回忌の最中、お線香の匂いで意識を失う。 目を覚ますと、頭の中には見知らぬ青年の声が響いていた。 「私は玄太郎だ。毬の夫だ」 戦争で帰らぬ人となった曾祖父・玄太郎。 なぜか若い頃の姿のまま向日葵の中で目覚めた彼は、八十年近く想い続けてきた妻・毬(まり)のことだけを覚えていた。 奇妙な共同生活の中で、向日葵は曾祖母・毬から二人の出会いと別れ、そして長い年月をかけても消えることのなかった想いを知っていく。 これは、戦争によって離れ離れになった夫婦の想いと、恋を知らない少女が誰かを想う気持ちを少しずつ知っていく物語。
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Chapter: 第十五話(最終話) 贈り物
「お線香あげてきなさい」母に言われ向日葵は静かに頷いた。毬が亡くなって一年。今日は本家で一周忌が行われていた。親戚たちの話し声が居間から聞こえてくる。笑い声も混じっている。きっと毬おばあちゃんは、そんな賑やかな空気を喜んでいるだろう。向日葵は仏間へ入った。祭壇には優しく微笑む毬おばあちゃんの遺影。その隣には白い軍服姿の若い玄太郎の写真。二人は今も並んでいた。向日葵は線香をあげ、小さく手を合わせる。「久しぶり」自然と笑みがこぼれる。あの日から一年。高校三年生になった向日葵は、受験勉強に追われる毎日を送っていた。友達と進路の話をして将来のことを考え時々、恋の話もする。竹中先輩に憧れていた頃もあった。格好いいなと思う人もいた。…でも…。「まだ分かんないんだよね」向日葵は遺影を見ながら呟く。「私、まだ玄ちゃんや毬おばあちゃんみたいになれそうにないよ」好きという気持ち。一緒に時間を重ねること。誰かを想い続けること。その意味を、二人は教えてくれた。玄太郎が教えてくれた、「想いを重ねること」毬おばあちゃんが教えてくれた、「想い続けること」それは向日葵にとって、大切な宝物になっていた。「二人からの贈り物だったんだよね」そう呟いて、向日葵は持ってきた紙袋を開いた。「そうそう」「今日、お土産買ってきたんだ」まず取り出したのはシベリア。「毬おばあちゃん、大好きだったでしょ?」「玄ちゃんも、羊羮好きだったもんね」そして、もう一つ。向日葵は少し悪戯っぽく笑った。「玄ちゃんにはこれ!」照り焼きチーズのチョコバナナホイップ増し増しクレープ。「どう?」そしてすぐに笑いながら言った。「でも毬おばあちゃんは食べちゃ駄目だからね!」「絶対まずいって言うもん!」一人で笑って、一人で話して。…そして…。ふいに笑顔が止まった。静かな仏間には並ぶ二枚の遺影。向日葵の目が少し潤む。「ねえ、毬おばあちゃん」「聞いてよ」「玄ちゃん、本当に酷いんだよ」「修学旅行の時もさ」「和菓子もっと買えってうるさくて」「クレープなんて、あんな変なの選ぶし」話しながら、もう返事はない。「買った時だってさ……」そこで声が止まった。ぽたり。頬を伝った涙が畳へ落ちる。「玄ちゃん……」「毬おばあちゃん……」「もう会えないのかなぁ……」涙が止まらない。仏間の窓から、柔らかな風が入ってくる。土産の包装紙が揺れた。向日葵の耳元で本当に微かに。聞き慣
Terakhir Diperbarui: 2026-07-21
Chapter: 第十四話 邂逅
向日葵は毬の手を握ったまま、静かに俯いている。昔から変わらない優しい温もり。「おばあちゃん……」家族たちも皆、言葉少なくベッドを囲んでいた。そして、向日葵の中には玄太郎が見守っている。向日葵にしか分からない存在。玄太郎は長い間、ただ毬を見つめていた。やがて、呟く。『毬……』その声はあまりにも小さい。『待たせたな』向日葵は顔を上げる。『それと……すまなかった』『ずっと一人にさせてしまった』『今、やっと帰って来られた』玄太郎は静かに毬を見つめ続ける。『伝えたいことを伝えられず』『後悔ばかり抱えて彷徨ってきた』『それでも……ようやくお前の側まで戻って来られた』向日葵は涙を堪えながら玄太郎の声を聴いていたが、「玄ちゃん……」玄太郎はずっと毬だけを見ていた。ふと毬の頭元が揺らぐ。「……え?」思わず目を細める向日葵。そこに居るのは病室のベッドに眠る毬ではない。おさげ髪の若い毬。そして、白い軍服を着た若い玄太郎。向かい合う二人の姿。「玄ちゃん?」若い姿の毬が声を出す。次の瞬間、涙が溢れた。「遅いよ……本当に遅い」声を震わせながら笑う。「玄ちゃん……」「私、八十年近く待ってたんだよ……馬鹿でしょ……」俯いて泣く毬。玄太郎はそんな毬を静かに見つめた。そして優しく答える。『そうは思わない』向日葵は息を呑んだ。何度も聞いた口癖。不器用で、頑固で…。でも玄太郎らしい言葉を。玄太郎は少し困ったように笑っている。「毬、未練がましく彷徨ったおれを……笑ってくれるか?」毬は涙を拭いながら顔を上げる。「笑わないよ」「だって、玄ちゃんだもん…。」玄太郎の前に立つ毬。八十年越しの言葉を伝えた。「…おかえりなさい」玄太郎はゆっくり頷いた。そして。「毬、あの時駅で言えなかった」「聞いてくれるか?」二人の視線が重なる。玄太郎がゆっくり口を開く。その瞬間だった。ピーーーーーー……病室に長い電子音が響いた。「お母さん!」「おばあちゃん!」家族たちの悲鳴、泣き崩れる声。向日葵も毬の手を握ったまま離さない。もう若い毬の姿はない。玄太郎の姿もない。玄太郎の声も聞こえない…。…けれどベッドの上の毬は、今まで見たことがないほど穏やかな顔で微笑んでいた。長い長い旅を終えて、ようやく大切な人と再会できたような顔だった。向日葵は涙を拭った。「……伝えられたんだね」夜の風がカーテンを揺らす。もう玄太郎の声は聞こえない。けれど向日葵
Terakhir Diperbarui: 2026-07-21
Chapter: 第十三話 それぞれの恋
規則正しい電子音が病室に響いていた。一定の間隔で鳴り続けるその音だけが、この部屋で流れる時間を知らせている。窓の外は夕暮れだった。西日が白いカーテンを薄く染めている。向日葵はベッドの横に置かれた椅子へ座ったまま動けなかった。白い布団の中で眠る毬は、いつもよりずっと小さく見えた。一ヶ月前まで元気だったのに。縁側でお茶を飲みながら笑っていたのに。玄ちゃんの話になると止まらなくなって。「玄ちゃんったらね」そう言いながら嬉しそうに笑っていたのに…。今は目を閉じたまま動かない。向日葵はそっと毬の手を握った。細くなった指。しわの刻まれた手。何度も頭を撫でてくれた手だった。温もりはまだ残っている。けれど握り返してはくれなかった。「おばあちゃん……」返事はない。電子音だけが続く。本家から電話が掛かってきたのは三日前だった。毬が倒れた、搬送している。と。それだけだった。詳しい話はほとんど覚えていない。気付けば向日葵は病院へ向かっていた。嫌な予感がしていた。あの日…。電車の中で聞いた玄太郎の言葉が忘れられなかった。『毬の死期が近い』信じたくなかった。けれど今…、目の前にいる毬おばあちゃんを見ていると、その言葉が何度も胸の中で繰り返される。向日葵は唇を噛んだ。「おばあちゃん」声が震える。「起きてよ」返事はない。「まだ話したいこといっぱいあるのに」修学旅行の話も全部終わっていない。またお土産を持って来る約束もしていた。まだ一緒に食べたい和菓子だってある。…なのに…、毬は静かに眠ったままだった。向日葵は俯く。そして胸の奥へ呼び掛けた。「玄ちゃん」返事はない。「玄ちゃん」もう一度呼ぶ。しばらくして。『……向日葵』掠れた声が聞こえた。向日葵は顔を上げた。「おばあちゃん大丈夫だよね」沈黙。「大丈夫って言ってよ」『……』「玄ちゃん」向日葵の目に涙が浮かぶ。「連れて行ったりしないよね」返事はなかった。その沈黙が何より怖い。向日葵は首を横に振る。「嫌だ」涙が零れる。「まだ駄目だよ」「やっと会えたじゃん」「玄ちゃんの帰る場所を見つけたじゃん」握った毬の手に力を込める。「だからまだ駄目」涙が止まらない。「まだ二人とも一緒にいてよ」病室の空気が重くなる。玄太郎は何も言わなかった。ただベッドを見つめていた。向日葵にも分かる、玄太郎も苦しんでいる。毬が大切だから。誰よりも大切だから。だからこそ言葉が出ない。長い沈
Terakhir Diperbarui: 2026-07-21
Chapter: 第十二話 迎え
本家を出る時、毬は玄関先まで見送りに出てくれた。「またおいでね」「うん」向日葵が靴を履くと、毬は少し悪戯っぽく笑った。「今度も玄ちゃんを連れてきて」向日葵は思わず吹き出す。「だから見えてないでしょ」「どうかしらねぇ」毬は楽しそうだった。その笑顔はいつも通りだった。元気そうで、明るくて、 何も変わっていない。だからこそ向日葵の胸に残る不安の正体が分からなかった。玄太郎はあれから何も話さない。『そういうことか……』そう呟いてから、ずっと沈黙したままだった。「じゃあね」手を振る。「気をつけて帰るんだよ」夕陽の中で手を振る毬を見ながら、向日葵は本家を後にした。電車へ乗り込む。窓際の席へ座ると、列車はゆっくり動き始めた。聞き慣れた揺れが身体に伝わる。踏切を通り過ぎる。カン、カンという警報機の音が遠ざかっていった。向日葵は窓の外を見つめた、流れる景色。沈み始めた夕陽、住宅街の屋根。どれだけ待っても玄太郎は何も言わない。「玄ちゃん」返事はない。「玄ちゃん?」沈黙。胸の奥がざわつく。一つ目の駅を過ぎる。二つ目の駅を過ぎる。そして三つ目の駅を出た頃だった。突然、声が聞こえた。『呼ばれたのではなかった』向日葵は顔を上げた。「え?」玄太郎の声は妙に静かだった。まるで全てを受け入れてしまった人のように。『毬の死期が近い』向日葵の思考が止まる。「何言ってるの?」思わず声が大きくなった。周囲の乗客がちらりとこちらを見る。それでも構わなかった。「毬おばあちゃん元気だったじゃん!」『分かっている』「だったら!」『分かっている』その声は優しかった。優しいからこそ苦しかった。『毬がおれを感じ始めている』窓の外の景色が流れていく。『法事の頃からずっと、おれを感じていた』向日葵は言葉を失った。『迎えに来たんだ』「え?」『おれが』向日葵は首を振った。「嫌だ」『……』「そんなの嫌だ」胸が苦しくなる。「やっと会えたじゃん」「やっと帰る場所を見つけたじゃん」「なのに何でそんな事言うの」玄太郎はしばらく黙っていた。そして静かに語り始める。『知覧で思い出した』向日葵は息を呑んだ。『最後の日を』油の匂い、熱い機体、轟音。それらが突然流れ込んでくる。『おれはあの日、青い空に飛んだ』向日葵の胸に冷たい感覚が広がる。『目的地に迎う途中、たくさんの戦闘機に追われた』『弾が当たり、海へ墜落した』息が出来ない、肺が焼ける。冷たい海
Terakhir Diperbarui: 2026-07-21
Chapter: 第十一話 残された時間
玄太郎の話を一度始めるとなかなか終わらなかった。向日葵は縁側に座り、お茶を飲みながら相槌を打つ。「それでね、玄ちゃんったら「そうは思わん」って私が言う事をぜーんぶ否定するのよ。」「えっ、玄ちゃんが?」『……。』頭の中から少し恥ずかしそうな感情が伝わってくる。「でもあの口癖は否定じゃないの。玄ちゃん不器用だったからね」毬は楽しそうに笑う。「あ!屁理屈だ!」口から出て笑ってしまった。毬はますます笑った。話は次から次へと続いた。見合いの日、結婚式の日。一緒に食べた羊羮の話。夕暮れの畑を歩いた話。夫婦だった時間は決して長くない。それでも毬の中には、今も昨日のことのように残っていた。向日葵は頬杖をつく。「なんか凄いなぁ……」「何が?」「そんなに好きだったんだね」毬は少し首を傾げた。「どうだろうねぇ」「え?」「最初から好きだった訳じゃないもの」向日葵は思わず身を乗り出した。「えっ!?でも今でも大好きじゃん!」毬は声を立てて笑った。「そうねぇ」そして遠くを見るような目をした。「玄ちゃんと暮らして、優しい所を知って」「不器用な所を知って少しずつ好きになったのよ」向日葵は黙り込む。好きというものは最初からあるものだと思っていた。竹中先輩みたいに。格好いいと思う人を好きになるものだと思っていた。でも毬の話は違った。好きは育つものだった。時間をかけて。誰かと一緒に生きる中で。「私もそんな恋が出来るかな……」気付けば呟いていた。毬は優しく笑う。「出来るわよ、向日葵ちゃんは優しいから。」向日葵は少し照れた。その時だった。毬が突然向日葵を見つめた。「そういえば」「なに?」「向日葵ちゃんの中に玄ちゃん居るんでしょ?」向日葵は盛大にむせた。「えっ!?」『な、何だ!?』玄太郎の感情も大きく揺れる。毬は楽しそうに笑った。「玄ちゃん、出てきなさい!」向日葵の心臓が止まりそうになる。『な、なんだ突然……』「ほらほら」「ひ孫に取り憑いて!私に取り憑かないとは、どういうこと!」『馬鹿なことを言うな…。』「出てきそうでしょ?」毬はいたずらっぽく笑う。向日葵は呆然とした。「毬おばあちゃん……」「なんとなくね」笑顔のまま言う。「感じるの」縁側から見える庭へ視線を向ける。「法事からずっと。玄ちゃんを」庭木の葉が揺れる。向日葵は息を呑んだ。冗談を言っている顔ではなかった。『毬……』玄太郎の感情が震える。言葉にならない想
Terakhir Diperbarui: 2026-07-21
Chapter: 第十話 毬
修学旅行から帰った翌日。向日葵は朝から落ち着かなかった。部屋の床にはお土産袋が並んでいる。「毬おばあちゃん用」小さく書かれた袋を持ち上げる。中には鹿児島で買った和菓子が入っていた。『それだけか?』頭の中から玄太郎の声が響く。「十分でしょ」『そうは思わん』「出た」向日葵はため息をつく。『毬は和菓子が好きだ』『羊羮も好きだ』『饅頭も好きだ』『最中も好きだ』「全部好きなだけじゃん」『うむ』全く悪びれない。向日葵は呆れている。「これ以上買ったらお小遣い無くなるよ」『むう』不満そうな感情が流れ込んでくる。まるで駄々をこねる子供だった。「それに九州の写真も見せるし」『おお』今度は一気に機嫌が良くなる。『桜島も見せろよ』『知覧もだ』『あの青い海も見せたい』向日葵は少しだけ表情を曇らせた。知覧。その名前を思い出すだけで胸が痛くなる。だが玄太郎の感情は以前とは違っていた。悲しみだけではない。何かを受け入れた後の静けさがあった。『毬は驚くだろうな』「そうかな」『毬が見られなかった景色だ』その言葉に向日葵は何も言えなくなる。玄太郎がずっと見せたかった景色も、会いたかった人も、全て止まったまま。だからこそ今は、スマホの中の写真一枚一枚が宝物だった。昼過ぎ。向日葵は電車に乗り本家へ向かった。窓の外には初夏の景色が流れていく。『変わったな』玄太郎が呟く。『変わらぬものもある』「なに?」少し沈黙した後、『毬だ』向日葵は笑った。「はいはい」『本当だ』照れもなく返ってくる。向日葵は窓に映る自分の顔を見ながら思った。八十年も同じ人を好きでいられるものなのだろうか。自分にはまだ分からない、が羨ましいとは思った。本家に着くと玄関の戸が開いた。「向日葵ちゃん!」毬おばあちゃんだった。顔を見るなり嬉しそうに笑う。「おかえり」向日葵は少し照れながら答えた。「ただいま」このたった一言だが、玄太郎の感情が大きく揺れた。まるで長い旅から帰ってきた人のように。『毬……』懐かしい声がそして愛しさ。玄太郎の毬への想い、いや想いだけではない。様々な感情が向日葵の胸へ流れ込む。居間へ通されると、さっそくお土産を広げた。「はい、鹿児島のお菓子」「まあ、ありがとう」『ほらみろ、だからもう一つ買えば良かったのだ』「うるさい」思わず口に出る。毬が不思議そうに首を傾げた。「向日葵ちゃん?」「なんでもない!」慌てて誤魔化す。それから向日葵
Terakhir Diperbarui: 2026-07-21
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