そのあまりの綺麗さが、彼女の目に痛かった。
彼女が顔を背け、立ち去ろうとすると、拓真はまだあの質問にこだわっていた。
「あの時、なんで俺を探したんだ?」
琴音は手元のバッグをぎゅっと握りしめ、勇気を振り絞って彼の視線と向き合った。
「拓真……」
だがその時、個室のドアが開かれ、可愛らしい女の子の声が響いた。
「パパ……」
ドアの後ろからは咲の声がした。
「ほら葵、パパはあなたのヘアピンを探してくれているのよ。次はもう、そこらへんにポイポイ捨てちゃダメよ」
「はーい、ママ」
琴音の顔色は一瞬で真っ青になり、慌てて数歩後ずさりし、逃げるように足早にその場を後にした。
すれ違いざまに、咲は彼女に向かって微笑みかけた。
咲は知的で、大人の余裕があった。
それに比べて、まだ答えに執着している自分がどれほど惨めに見えるか。
外は土砂降りだった。
琴音はなりふり構わず雨の中に飛び出し、通りかかったタクシーに飛び乗った。
初春の夜気は冷たく、彼女は凍える唇をぎっと引き結んでいた。
その時、親友の水野結衣(みずの ゆい)から電話がかかってきた。
「どうだった?彼に会えた?聞きたいことは聞いた?」
琴音は黙り込み、窓の外の雨を見つめながら、どう言葉にすればいいのか分からなかった。
結衣は電話の向こうで深いため息をついた。
「だから言ったじゃない、今夜は行くべきじゃなかったって。
向こうは結婚して子供だっているんだよ。
琴音、きつい言い方になるけど、あんたのやってること、すごくみっともないよ。
まるで自分から愛人になりにいくようなもんじゃない。
もうこれ以上、自分を安売りするのはやめなよ!」
「愛人」という言葉が、屈辱の烙印のように、琴音の背筋をピンと張り詰めさせた。
結衣は彼女の一番の親友だ。あまりに失望していなければ、こんなキツイ言葉は口にしない。
琴音の唇が何度か震え、スマホを強く握りしめたまま、長いまつ毛を伏せてかすれた声で言った。
「……もう、しないから」
ただ、一度会わなければ、どうしても諦めきれなかったのだ。
あんなにも無残に捨てられたことが、まるで彼女の喉に刺さったまま抜け落ちない魚の骨のようにとなっていた。
吐き出そうとすれば痛むし、無理に飲み込もうとすればもっと深い傷を負うことになる。
借りているアパートに戻ると、顎からは雨水が滴り落ちていた。
タオルを手に取り、放心したように髪を拭いた。
結衣が解熱剤を持ってきて、慌ただしく彼女に手渡した。
「私、今日は夜勤でこの後すぐ病院に行かなきゃいけないの。
風邪ひく前にこれ飲んでおきな」
琴音と結衣は幼馴染で、同じ村から出てきた仲だ。
結衣の方が成績ははるかに良かったが、大学受験の時に出願が上手くいかず、最終的に医科大学に回され、名門大学ではあるものの、希望していなかった看護学部に入ることになったのだ。
琴音自身はジュエリーデザインを専攻した。
二人とも、高校の進学実績の駒として名門大学に放り込まれたようなもので、卒業と同時に直面する就職難は、名門の看板なんて在学中しか役に立たないという、まさに負け組のパターンだった。
全身がびしょ濡れの琴音は、まずシャワーを浴び、狭いユニットバスの床をモップで拭いていると、スマホが振動しているのが聞こえた。
大学のグループチャットで、誰かが彼女をメンションしていたのだ。
大学のクラスメイトの大半は裕福な家庭の出身で、彼女はひどく地味で浮いていた。
拓真との騒動で悪目立ちした以外は、彼女の存在感はほぼ皆無だ。
ただその綺麗な顔立ちだけが酒の肴にされる程度だった。
【浅野さん、拓真に会えた?彼、何て言ってた?】
【無視しないでよー、あんたが昔やったこと、みんな知ってんだから】
【同窓会に来なかったやつに教えてやるけど、俺、現場にいたんだぜ。マジでウケる!
拓真はあいつのこと全然知らないふりしてて、『なんで俺を探したんだ?』って聞いてたぜ】
【ウケるーwww】
こういう嫌味な言葉には、もうとっくに慣れていた。
これまでこのグループに残っていたのも、ただ皆の言葉の端々から拓真の今の生活を繋ぎ合わせようとしていたからだ。
どうしても、答えが欲しかった。
でも今はもう、その必要はない。
彼女はグループを退会し、静かにユニットバスの掃除を続けた。
掃除を終えると、またスマホが鳴った。
表示された名前を見て、彼女は電話に出なかった。
しかし、着信音は再び鳴り響いた。彼女が出ない限り、鳴り止む気配はない。
ついに、彼女は応答ボタンを押した。
実の兄である浅野翔(あさの しょう)からかかってきていたのだ。
「琴音、明後日は母さんの誕生日だぞ。
お前、2年もうちに帰ってきてないけど、まだあの精神科病院の件で根に持ってるのか?
あれも母さんはお前のためを思ってやったんだよ。
母さんが世間体を気にする性格なのは知ってるだろ」
琴音の指が、無意識にソファの生地を引っ掻いた。
その話はしたくなかった。
「母さんが言ったんじゃない。もう私みたいな娘はいらないと思うって」
電話の向こうは数秒沈黙し、やがて冷笑した。
「あの時、お前、大学もまともに卒業できなかったんだろ?
あの一年ちょっとの間、ずっと家族が養ってやってたんだぞ。
自分がどういう状況だったか忘れたのかよ。
近所の奴らはみんな俺たちが笑い者になるのを待ってたんだぞ。
今じゃ父さんも母さんも、外を歩くのも恥ずかしいって言ってる。
成績が良くたって何の意味もない。全部無駄だったな」
琴音は、その言葉に激しく刺激されたようだった。
「大学の学費は全部自分でバイトして稼いだよ!
実家に戻ってた一年間で、私が母さんから貰ったお金なんて30万円だけじゃない!
それを今日までネチネチ言われ続けて!
私、ずっと家に仕送りしてるでしょ?!
まだ返し足りないの?!……もう、家には帰らないから!」
電話を切った後、胸の中が煮えくり返り、全身に無力感が広がっていった。
夜になると、案の定、熱が出て、顔が焼けるように熱くなった。
寝返りを打って掛け布団を抱きしめ、何度か咳き込んだ。
布団に顔を埋めると、すぐにその布地は涙で湿っていった。
彼女は力を振り絞り、引き出しの上に置いてあったイブプロフェンを手に取り、水も飲まずに無理やり飲み込んだ。
また、よく見るあの夢を見た。
夢の中にあるのは、青春時代の明るい日差しと、痛みを伴う記憶だ。
拓真が彼女をおぶって山道を歩きながら、背中で泣きじゃくる彼女の声を聞いて、なぐさめるように言った。
「暗くなるまでまだ2時間もあるだろ。
何泣いてんだよ?お前をこんなとこに置いていくわけないだろ」
彼女はいつも、自分が彼に「選ばれた方」でありたいと願っていた。
だが結局、彼は彼女をそこに置き去りにしたのだ。
翌朝7時になって、ようやく熱が下がった。
会社に着いても頭はぼんやりしていた。
彼女は社長室に呼ばれた。
社長は大学時代からの知り合いで、彼の実家はオークションハウスをいくつか経営している。
琴音が大学を中退し、実家で一年間無駄に過ごした後、再び帝都に戻ってきた時にこのオークション会社に採用された。
彼女は大学時代からここでバイトをしており、社長はなかなか良い人だった。
社長の坂本健二(さかもと けんじ)はちょうど電話中だった。
電話を切ると、彼は琴音を見た。
「今日商談する相手はかなりの大口顧客だ。うちの取っておきの品を全部持っていくぞ」
彼女は頷き、車に乗り込んだが、二、三度咳き込んだ。
「具合でも悪いのか?」
「ただの軽い風邪です、ゲホッゲホッ」
しばらく経って、車は高級住宅地に着いた。
激しく咳き込み、身をよじっている最悪のタイミングで、別荘の扉が開いた。
そこに立つ人を見た瞬間、彼女は金縛りにあったように動けなくなった。
咲はあまりにも洗練されていて、優雅で余裕に満ちていた。
使用人が琴音たちを中へ案内した。
豪華で上品なリビング、手際の良い使用人たち、そして完璧に着飾った女主人。
全部、琴音が夢の中でしか見たことがないような光景だ。
だが、咲にとってはこれが生まれながらの日常なのだ。
健二が持参した品物をトレイに並べ、琴音がそれをテーブルの上に置いた。
オークションに出される品物は、実際には、真の名門が選び抜いた後の「余り物」にすぎない。
白鳥家は絶大な勢力を誇っており、咲が望むものは当然「唯一無二」のものでなければならない。
咲は笑顔で二人に目を向けた。
「坂本さん、よろしければ隣にいらっしゃる方に説明していただいてもいいかしら?
私、エメラルドにはあまり詳しくなくて」
そして琴音の方を見て、相変わらず非の打ち所のない笑顔で言った。
「琴音さん、あなたが帝都で働いていたなんて驚いたわ」
琴音は手慣れた動作で黒い手袋をはめた。
トレイには、30本のエメラルドのブレスレットが並べられており、どれも極上品だ。
「ええ、もう働き始めて2年になります。
白鳥さんは、どれが一番お気に召しましたか?」
健二は、この二人が知り合いだったことに少し驚いていた。
咲の視線は適当に品物を流し見ていたが、興味がないようだった。
まるでこの数百万円の値がつくブレスレットも、彼女の目にはガラクタ同然であるかのように。
「とりあえず全部説明してちょうだい。それがあなたの仕事なんでしょ?」
その言葉が出た瞬間、健二も現場の雰囲気が何か変だと気づいた。
だが琴音は表情を変えず、きっちり40分かけてすべての品を紹介した。
咲は、相手をイライラさせる才能があった。
琴音が真剣に説明している時にわざと上の空な態度をとり、時折使用人を呼びつけて話し込んだりした。
琴音はその度に説明を中断し、また続ける羽目になった。
インターホンが鳴ると、咲は軽く片手を上げて琴音の説明を遮り、自らドアを開けに行った。
外から子供の声が聞こえてきた。
「ママ!パパが今日、ポニーに乗せてくれたの!」
続いて拓真の声が聞こえた。
甘やかすような口調だ。
「言うことを聞かない葵が、どうしても行きたいってワガママ言ったんだろ」
今日の彼はカジュアルな服装で、シンプルな白シャツに黒いスラックス姿だった。袖口を少しまくって、引き締まった腕のラインを見せていた。
大人の刺々しさが抜け落ち、まるで一番自由気ままだったあの青春時代に戻ったかのように見えた。
琴音は視線を逸らし、説明する予定のブレスレットを静かに持ったまま待っていた。
だが、咲はすっかりこちらのことなど忘れてしまったようだった。
その時、拓真が尋ねた。
「家にお客さんが来てるのか?」
咲はそこで初めて、琴音たち二人を10分間も放置していたことを思い出したようだ。
「ああ、お義母様へのプレゼントにブレスレットを選んでって言ってたじゃない?
まさか琴音さんが営業に来るなんて思わなくて、私もびっくりしちゃったわ」
琴音の指先が縮こまった。
彼女はどうして自分が咲を嫌いなのか、ようやく分かった。
たとえ咲が直接、何か酷いことをしてきたわけではない。
しかし、彼女のその立ち振る舞いは、琴音に言い知れぬ劣等感を抱かせるのだ。
まるで自分の仕事が、彼女の目には取るに足らない卑しいものとして映っているかのように。