登紀子の存在があるため、咲と雅子はひとまず琴音への敵意を抑え込んだ。
それに、表向きには白鳥家は琴音の支援者でもあるのだから。
咲はすぐに駆け寄り、気遣うように言った。
「お祖母様、お医者様から風に当たってはいけないと言われているのでは?
どうして外に出歩いていらっしゃるんですか?」
登紀子は雅子を見やり、満足げに笑った。
「雅子に琴音ちゃんを探すよう頼んでいたのに見つからなくてね。
結局、私が偶然見つけたというわけだよ。
今から琴音ちゃんと2人で静かに食事をするから、あなたたちは邪魔しないでおくれ」
雅子は頷き、いかにも年配者を敬う完璧な嫁そのものだった。
登紀子は上機嫌で、雅子の脇を通り抜け、レストランの奥へと進んで行った。
琴音がその後ろを追うと、背中に刺さるような冷たい視線を感じた。
雅子だ。
雅子は唇を固く結び、顔色は見ていられないほど暗く沈んでいた。
自分はまたひどい目に遭わされるだろうと琴音は悟った。
二人の姿が遠ざかっても、雅子はその場から動かなかった。
咲は自らの感情を隠し、再び親しげに雅子の腕にすり寄った。
「お祖母様は柚木町で療養されていた頃、琴音さんととても仲が良かったんですよね。
もしお祖母様が琴音さんの味方についたら、あの時のことだって……」
雅子は冷笑し、咲の手の甲を優しくポンポンと叩いた。
「お義母様は体が弱いからね。琴音だって、そんな話をしてお義母様を刺激するような真似はしないわ」
咲はホッとしたものの、わざと不安そうな表情を作ってみせた。
「お義母様、拓真の体調がやっとここまで回復したのに、彼がまた琴音さんのせいで昔のようになってしまうのは嫌なんです。
あの女を、帝都から追い出す方法を考えた方がいいのではないでしょうか」
雅子自身もそこまで事を急ぐつもりはなかったのだが、琴音がこれほど反抗的で、あろうことか登紀子と連絡を取り合うとなれば話は別だ。
どうやら、一刻も早く手を打つ必要がありそうだ。
一方、個室に入った琴音はゆっくりと席に座った。
登紀子はボディガードたちをドアの外に待機させると、ひどく優しい眼差しで琴音を見つめた。
「あの時はあんたと一緒に大学受験の結果を待ちたかったのに、体が言うことを聞かなくてね。
琴音ちゃん、その後、大学はどうだったんだい?」
どうやら登紀子は、この数年間の琴音の身に起きたことを本当に何も知らないらしい。
琴音はふと疑問に思った。あの時自分が登紀子に助けを求めたことすら、彼女は知らなかったのではないか?
その間に、何か別のトラブルがあって自分のSOSが届かなかっただけなのではないか、と。
彼女は体の強張りを少し解いて答えた。
「帝都大学に合格しました」
登紀子の瞳がパッと輝いた。
実は彼らのようなトップ層の世界では、若い世代の多くが海外の名門校に進学しており、帝都大学に合格した自体はさして驚くべきものではない。
だが、それでも登紀子は琴音のために喜んでくれた。
「うちの琴音ちゃんは本当に大したものだわ!
拓真が知ったら、あの子もきっと喜ぶわ。
あの頃、あなたに勉強を教えなさいって頼んだら、あの悪ガキ、いつも不満そうに顔をしかめてたけどね」
テーブルの下で、琴音は一瞬にして拳を強く握りしめた。
柚木町の教育レベルは低く、中学校に入ってようやく英語の授業が始まったが、教師の発音すらまともではなかった。
琴音は必死に勉強したが、成績はなかなか上がらなかった。
登紀子と拓真が柚木町にやって来た後、拓真は彼女が12歳の時から17歳になるまで、ずっと勉強を教えてくれたのだ。
彼女が17歳の年、拓真は登紀子と共に柚木町を離れ、彼女が大学に合格する日を見届けることはなかった。
拓真はとても頭が良かった。琴音がこれまでの人生で出会った誰よりも頭がキレた。
どんな難問でも、彼はまるでおもちゃを弄るように解いてみせた。
そのおかげで彼女の成績は飛躍的に伸びた。
だからこそ、昼間にどれだけ彼にからかわれようと、夕方になれば大人しく登紀子の家へ行き、彼の勉強の指導を受けたのだ。
あの頃の田舎の夜空には、驚くほどたくさんの星が輝いていた。
外からは虫の鳴き声が聞こえ、部屋の中では拓真がブツブツと文句を言っていた。
「あーもう限界だ!琴音ってホントにバカだな!
この町はどれだけ遅れてんだよ?お前のその木偶の坊みたいな頭でクラスのトップに入れるなんて、奇跡としか言いようがないぞ」
そこへすかさず、登紀子の叱り飛ばす声が飛んできた。
「拓真!これ以上琴音ちゃんを馬鹿にしたら、その悪い口を引き裂いてやるからね!」
拓真は一瞬で口をつぐみ、頬杖をついて首を傾げながら琴音を見た。
「なあ、お前は勉強には向いてないから、いっそ芸術の道にでも進めば?顔だけはそこそこマシなんだから」
琴音は顔を真っ赤にした。彼女の視野はあまりにも狭く、「芸術を学ぶ」ということがどういうことなのかすら分かっていなかった。
幼い頃から彼女が受けてきた教育はただ一つ、勉強することだけが、ここから抜け出す唯一の道だということだった。
拓真は彼女がムキになるのを見て、大声を上げて笑った。
「お前、毎回そうやって顔を真っ赤にして怒るから、からかいたくなるんだよ。あははは」
そうやって笑い転げた後も、彼は真面目に勉強を教えてくれた。
琴音は本当に拓真が羨ましかったし、妬ましくもあった。学校に行かなくても、彼は何でも知っていたからだ。
後になって知ったことだが、拓真はネットを通じてエリート向けの教育を受けていた。
彼はもともと、多くの人間とは比べ物にならないほど頭が切れた。
だからこそ、彼をこんな田舎に追いやっても、学業に支障は出ないと桐生家の当主は確信していたのだ。
世の中には、生まれながらにして「選ばれた人間」というのは、確実に存在する。
あの頃の拓真は、今の彼のような氷のように冷たいオーラは纏っていなかった。
何もかもが、変わってしまった。
「琴音ちゃん、どうして泣いているの?」
その優しい呼びかけに、琴音はハッと我に返った。
登紀子の方を見ると、自分の頬が濡れていることに気づいた。
登紀子は自分のどの言葉が彼女を泣かせてしまったのか分からず、少し考えてから眉をひそめた。
「まさか、もう拓真に会ったのかい?あの子、またあんたをいじめたんじゃないだろうね?」
彼女はもちろん、自分の孫がどれほど傍若無人な性格かを知っていた。
昔から、琴音が困っている姿を見るのが大好きだったことも。
だが、この数年で拓真は大きく変わった。
特に桐生家の重圧を背負うようになってからは、兄のような落ち着きを身につけ、以前のように彼女をからかうようなことはもうしないはずだ。
そう思うと、登紀子は少し胸を痛めた。
「拓真も変わってしまったんだよ。昔は怖いもの知らずで、危険なスポーツばかりやりたがっていたのにね。
ここ数年、海外で相当苦労したみたいだけど、聞いても何も言わないんだ。
あんたもすっかり口数が減ってしまって、私の前でこんなに縮こまってるのを見ると、胸が締め付けられるようだよ」
ちょうどその時、店員が料理を運んできた。琴音は急いで頬の涙を拭った。
「さあ、召し上がってください」
彼女は箸で、ふっくらと焼けた鮭の切り身を丁寧に登紀子の取り皿へ移した。
だが、登紀子は箸をつけず言った。
「何か困ったことがあるなら、私に言いなさい。
拓真も海外から戻ってきているから、あの子に頼ってもいいんだよ」
やはり登紀子は、彼女と拓真の間にあった愛憎のドロドロ劇を、本当に何も知らないのだ。
当時のSOSも、登紀子は知らなかった。
琴音の胸にぽっと温かいものが広がり、ずっと心につかえていたしこりが完全に消え去った。
登紀子は、本当に優しくて立派な人だ。
「何も困ったことはありません。
ただ、帝都の生活は少し華やかすぎましたし、私は学校に入るのも遅くて、大学でも特別優秀だったわけではないですから。
今こうして働けているだけでも十分幸せなんです」
登紀子はパッと笑顔になり、琴音の皿へ丁寧におかずを取り分けてくれた。
「もっと笑わなきゃダメだよ。あの時、あんたは成績が上がったのが嬉しくて、将来大金持ちになったら、世界で一番大きなバースデーケーキをおばあちゃんに買ってあげるって言ってくれたじゃないか」
そう。若くて世間知らずだった彼女は、出世したら恩返しをするとよく口にしていた。
しかし、その出世への道はあまりにも険しすぎた。
自分のそんな青臭い言葉を登紀子が全て覚えていてくれたことに、彼女は顔を少し赤らめた。
彼女が照れ隠しに何か言おうとしたその瞬間、個室のドアが開いた。
拓真の姿が見えるより先に、彼の皮肉めいた声が響いてきた。
「ばあちゃんは欲しいものは何でも手に入るのに、わざわざこんな女のケーキなんか要るのか?
こいつの頭の中にはここ何年も、ばあちゃんのことなんかこれっぽっちもなかったというのに、ばあちゃんは勝手に思い込んでお節介を焼いているだけだろ」