Share

第7話

Author: アイスクリームが美味しい
その夜、私は晴香の家で一晩中過ごした。

彼女は家中のティッシュを全部リビングのローテーブルに運び出し、それから私の隣に座った。

何も言わず、ただそばにいてくれた。

私は、長いこと泣いた。

すすり泣くようなものじゃなかった。

3年間押し殺してきたものが、とうとう堰を切ったような泣き方だった。

ソファの隅で体を丸め、全身が震えるほど泣いた。

声が枯れるまで泣いて、息をすることさえ痛くなるほど泣いた。

「あの人、何様なの」私は泣きながら言った。「どうして私の代わりに決めるの?どうして私には耐えられないって勝手に決めつけるの?どうして一人で全部抱え込むの?」

晴香がティッシュを一枚差し出した。

「だって、浩人だから」

「どういう意味?」

「思乃、考えてみて。あなたたちが付き合っていた3年間、あの人がいつ、あなたに心配をかけた?」

彼女は静かに続けた。

「あなたが残業すれば迎えに行く。病気になればお粥を作る。お母さんと揉めたときだって、いつもあなたの味方だった。

そういう人なの。あの人の人生で一番大きな欠点は、何でも一人で背負いすぎること。

愛するっていうのは、相
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • いばらの道を共に歩もう   第11話

    3ヶ月後、浩人は退院した。薬の治療方針を調整し、病状はひとまず安定した。医師によると、今の状態は予想していたよりも良好だという。ただ、これからも定期的な検査は必要だった。彼は東町のあのアパート――私たちの部屋に戻った。「私たちの」という言葉を口にしたのは、彼のほうだった。この3ヶ月間、部屋には誰も住んでいなかった。ベランダの多肉植物には、晴香が何日かおきにやって来て、水をやってくれていた。今日、久しぶりにドアを開けると、その鉢はベランダで以前にも増して青々と茂っていた。その日の彼は、キッチンで料理をしていた。私はドア枠にもたれ、彼が野菜を切るのを眺めていた。ジャガイモを細切りにする彼の手つきは、相変わらずひどかった。太さはバラバラで、細切りというより、細い棒と太い棒が入り混じっている。「私にやらせて」見ていられなくなって、私は言った。「いい。自分でやる」「それのどこがジャガイモの細切りなの?ジャガイモの棒切りでしょ」「思乃、俺のこと嫌いになった?」「ずっと嫌いだよ。初めて塩と砂糖を間違えて料理に入れた日から、ずっと嫌い」彼が笑った。心からの笑顔だった。口元が上がり、目尻には細かな皺が浮かび、瞳には光が宿っている。こんなふうに笑う彼を見るのは、本当に久しぶりだった。夜、私たちはベランダに座って星を眺めた。東町には高い建物があまりなく、空がよく見える。小さな夜空が、頭上に広がっていた。「思乃」「ん?」「ずっと言ってなかったことがある」「また何か隠してたの?」彼は少し躊躇してから、ポケットから小さな箱を取り出した。私の呼吸が一瞬止まった。「プロポーズじゃないから」私の表情を見て、彼は慌てて言った。「緊張しないで」「じゃあ、なんで箱なんて出すの?」彼が箱を開けた。中には、銀色のシンプルな指輪が二つ入っていた。とても素朴なデザインで、ダイヤもなければ、模様もない。けれど、内側には文字が刻まれていた。私は手に取って、顔を近づける――『帰処』という文字だ。「これ、確定診断を受けたあとに作ったんだ」彼は静かに言った。「あの頃は、もし俺がいつか耐えられなくなったとしても、せめてこれだけは君に残したいと思ってた。君が俺の帰処だっ

  • いばらの道を共に歩もう   第10話

    浩人が入院していた1週間は、この3年間で一番穏やかな日々だった。毎朝、私は病院へ行き、砂糖を入れないアメリカーノを一杯持っていった。昔の彼は砂糖を入れていた。今は好みが変わった――人も、変わった。昼間、私は病室でノートパソコンを開いて仕事をし、彼はベッドで建築雑誌を読んだり、図面を描いたりしていた。私たちは、ほとんど話をしなかった。でも、その沈黙は気まずいものではなかった。むしろ、安心できた。まるで3年前、二人で過ごした静かな週末の午後のようだった。ある日、晴香が彼のお見舞いに来た。病室に入るなり、彼女は浩人を上から下までじっくり見て、「痩せたね」と言った。浩人は礼儀正しく笑った。「晴香、相変わらず率直だな」「あなたもね」彼女はベッドの足元に腰を下ろした。「こんな状態になっても、まだ強がってる」「強がってない」「はいはい」晴香は彼の言葉を遮った。「二人のことにはもう口出ししない。でもあんた、もしまた思乃に何か隠したら、私が直接ここに来て殴るからね」浩人は真剣な顔で彼女を見た。そして言った。「もう隠さない」「約束する?」「約束する」晴香は満足そうに頷いた。それから立ち上がり、私の肩をぽんと叩いた。「じゃあ、私は先に帰るね。ちゃんと面倒見てあげて。何かあったら電話して」「うん」彼女はドアまで行ったところで、また戻ってきた。すると、浩人を一度見て、少し迷ってから言った。「そういえば、あなたの受賞作品『帰処』、ネットで見たよ。すごくいい設計だった」浩人は一瞬、目を見開いた。「ありがとう」「でも、本当に思乃をあそこに住まわせたいなら、図面を描いてるだけじゃ駄目だからね」晴香は呆れたように目を回した。「自分の手で建ててあげなよ」そう言い残して、彼女は今度こそ出ていった。浩人は彼女が去っていった方向を見つめ、口元を少し緩めた。「君の友達、本当に手強いな」「慣れれば平気だよ」彼はしばらく黙っていた。それから私を呼んだ。「思乃」「ん?」「話したいことがある」私はパソコンを閉じ、真剣に彼を見つめた。「この病気について、全部知ってほしい。俺が君に世話をしてほしいからじゃない。君には、知る権利があるから」彼はほぼ

  • いばらの道を共に歩もう   第9話

    病院の廊下の照明は、青白く冷たかった。私は救急処置室の外にあるプラスチックの椅子に座っていた。服にはまだ、浩人のシャツについていた埃が付いている。玉美が駆けつけてきたとき、私は泥のついたパンプスさえ履き替えていなかった。「あの子は?」彼女の声は震えていた。「まだ中です。先生は、神経系の急性発作の可能性があるって」彼女は壁にもたれ、目を閉じた。「私がもっと早く気づくべきだった……」そして、呟くような声で言った。「ここ数か月、ずっと残業続きで、睡眠もほとんど取ってなかった。こういう病気は、疲労と感情の起伏が一番よくないのに……」感情の起伏?それは私だ。私が彼の感情を大きく揺さぶった。「おばさん、ごめんなさい」「あなたのせいじゃないわ」彼女は目を開け、私の手を軽く叩いた。「あの子の性格なら、遅かれ早かれこういうことは起きてた。あなたがいなくても、別の何かが引き金になっていたはずよ」そのとき、処置室のドアが開き、医師が出てきた。その表情が落ち着いていたことに、私と玉美は同時に安堵の息を吐いた。「患者さんは、もう安定しています」医師はマスクを外した。「今回の発作は、強い感情の変化が関係しています。ただ、幸い搬送が早かったので、不可逆的な損傷はありません」医師は一度言葉を切り、私を見て、それから玉美を見た。「ただ、最近の検査結果を見る限り、病気はどんどん悪化しています。今の薬物療法では、すでに十分ではない可能性があります。薬の調整が必要ですし、これからは経過を注意深く観察していく必要があります」「どのくらいまで悪化するんですか?」私は焦って尋ねた。医師は少し考えてから、言葉を選ぶように答えた。「個人差がかなり大きいです。進行が非常にゆっくりで、何年も普通の生活を続けられる人もいます。一方で……」「一番早い場合は?」「蘇我さん」玉美が私を呼んだ。「知りたいんです」医師は私を見た。「最悪の場合、3年から5年以内に、深刻な運動機能障害が現れる可能性があります」そして、すぐに付け加えた。「ただし、あくまで可能性の話であって、必ずそうなるというわけではありません」3年から5年?私は小さく頷き、それ以上は聞かなかった。浩人が一般病棟へ移されたときに

  • いばらの道を共に歩もう   第8話

    私は鍵を持っていなかった。でも、暗証番号が一度も変わっていないことは知っていた。ドアが開いた瞬間、埃と木の匂いが鼻をついた。明かりをつけた私は、言葉を失った。何もかも、3年前と同じだった。ソファも同じ場所にある。ローテーブルの上には、陶器のマグカップが置かれていた。それは、私が一番気に入っていた、あくびをしている猫が描かれたカップだ。本棚の本の並び方も変わっていない。私の『星の王子さま』は、今も2段目の一番左にあった。ベランダでは、私が昔育てていた多肉植物が、大きな鉢いっぱいに育っていた。少し形が崩れてはいるものの、誰かがずっと水をやっていたことは明らかだった。彼はずっと、ここに住んでいた。3年間、一度も引っ越さず、何一つ変えなかった。『帰処』は、彼が設計した作品なんかじゃなかった。こここそが、彼の帰る場所だったのだ。私はリビングの真ん中に立ち尽くし、突然分からなくなった。彼を憎めばいいのか。それとも、彼を思いやればいいのか。そのとき、玄関のドアの鍵が回る音がして、浩人がドアを開けて入ってきた。そして、リビングに立つ私を見た瞬間、彼の体が完全に固まった。彼の手には袋を提げていた。その中には、野菜と果物が入っているのが見えた。「思乃?」「ずっと、ここに住んでたんだね」彼はドアを閉め、袋を玄関の棚に置いた。答えはなかった。「浩人。私、聞いたよ」彼の靴を脱ぐ動きが止まった。「あなたが病気だってこと。昨日、お母さんが私に話してくれた」彼はゆっくりと体を起こした。私に背を向けたまま、長い沈黙が続いた。「母さんの言うとおりだ」ようやく彼が口を開いた。その声は低く、重かった。「君には知る権利がある」「じゃあ、どうして教えてくれなかったの?」「教えて、それからどうする?」彼が振り返った。その目に浮かんでいるものは複雑すぎて、私には読み取れなかった。「俺のために仕事も、自分の人生も捨てて、いつ倒れるかも分からない人間の世話をするのか?」「あなたに、私の人生を勝手に決める権利なんてあるの?」「だって、俺には無理なんだ!」突然、彼の声が大きくなった。「思乃、俺にはできない!君が俺のために犠牲になるのを見ているなんて、できな

  • いばらの道を共に歩もう   第7話

    その夜、私は晴香の家で一晩中過ごした。彼女は家中のティッシュを全部リビングのローテーブルに運び出し、それから私の隣に座った。何も言わず、ただそばにいてくれた。私は、長いこと泣いた。すすり泣くようなものじゃなかった。3年間押し殺してきたものが、とうとう堰を切ったような泣き方だった。ソファの隅で体を丸め、全身が震えるほど泣いた。声が枯れるまで泣いて、息をすることさえ痛くなるほど泣いた。「あの人、何様なの」私は泣きながら言った。「どうして私の代わりに決めるの?どうして私には耐えられないって勝手に決めつけるの?どうして一人で全部抱え込むの?」晴香がティッシュを一枚差し出した。「だって、浩人だから」「どういう意味?」「思乃、考えてみて。あなたたちが付き合っていた3年間、あの人がいつ、あなたに心配をかけた?」彼女は静かに続けた。「あなたが残業すれば迎えに行く。病気になればお粥を作る。お母さんと揉めたときだって、いつもあなたの味方だった。そういう人なの。あの人の人生で一番大きな欠点は、何でも一人で背負いすぎること。愛するっていうのは、相手に苦労させないことだって、あの人は思ってる」「でも……私がどうしたいか、聞いてくれてないじゃん!」「あの人は自分自身には聞いたんだよ」晴香は静かに言った。「その答えが、『苦い思いをさせたくない』だったんだと思う」私は膝を抱え、その中に顔を埋めた。「晴香……あの人、自分が私を突き放すのは、私のためだって思ってるのかな?」「きっと、そう思ってる」「でも、これは良いとか悪いとかの問題じゃない。私に選ぶ機会すら与えてくれなかったことが問題なの」晴香はしばらく黙っていた。そして、私を完全に泣き崩れさせる一言を口にした。「思乃。もし3年前、あの人があなたに真実を話していたら、どうしてた?」私は顔を上げ、彼女を見つめた。「あなたは残ったよ」彼女は、自分でその問いに答えた。「迷わず残った。そして、あの人の病状が少しずつ悪化していくのを見届ける。あんなに背が高くて、誇り高くて、あなたを社会の荒波から守ってくれた男が、やがて誰かの介助を必要とする病人になっていくのを……それに耐えられると思う?」「私が耐えられるかどうかは、私の問題でしょ!」「そ

  • いばらの道を共に歩もう   第6話

    まさか、最初に私を見つけ出すのが、浩人の母親だとは思わなかった。その日の午後、私は会社の下にあるカフェで企画書を修正していた。そこへ、ベージュのトレンチコートを着た中年の女性が、私の向かいに座った。「蘇我さん」彼女はサングラスを外した。「私のこと、覚えてる?」陸川玉美(りくかわ たまみ)は浩人の母親だった。3年前、彼女に会ったのは一度きりだった。あのときも、彼女は私の向かいに座り、見下ろすような口調で言った。「蘇我さん、あなたと浩人は合わないわ」どうして忘れられるだろう。……「おばさん」私はペンを置いた。「何かご用ですか?」「あなたと浩人が、今、一緒にプロジェクトを進めていることは知ってるわ」彼女は店員が運んできたお茶を手に取り、一口すすった。「今日は、あのとき言えなかったことを話しに来たの」私の胸の奥が、すっと重くなった。「3年前、私があなたたちの交際に反対したのは、家柄が釣り合わないと思ったからだと思ってる?」「違うんですか?」彼女はしばらく黙っていた。その目には、今まで見たことのない疲れが滲んでいた。「蘇我さん。浩人は病気なの。3年前に分かった」その声がひどく小さくなった。「遺伝性の神経系疾患よ。あの子の父親も、その病気で亡くなった。発症する年齢は、だいたい30歳から35歳の間」私の指先が、じわじわと痺れていく。「遺伝子検査の結果は陽性だった」彼女は続けた。「つまり、発症する可能性が極めて高いということ。今の医学では根治する方法はなくて、できるのは進行を遅らせることだけ」「じゃあ、彼は……今……」「薬でずっと症状を抑えている。今のところは大丈夫。でも、いつ悪化し始めるのかは、誰にも分からない」私は指の関節が白くなるほど、テーブルの縁をぎゅっと握りしめた。「3年前、検査結果を受け取った日の夜ね」玉美は私を見つめ、その目元が赤くなっている。「あの子、私にこう言ったの。『母さん。俺は、思乃に一生かけて、いずれ倒れる人間の面倒を見させるわけにはいかない』」「じゃあ……別れを決めたのは、彼自身だったんですか?」「そう。あの子に頼まれて、私も芝居に付き合った」彼女はゆっくりと息を吐いた。「私にあなたのところへ行って

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status