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いばらの道を共に歩もう

いばらの道を共に歩もう

Por:  アイスクリームが美味しいCompletado
Idioma: Japanese
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もう3年だ。1095日も経った。 私は、時間こそが最も真面目な職人なのだと思っていた。 何の決着もつかないまま途切れてしまったあの過去も、痛くも痒くもない小さな砂粒へと、時間が少しずつ風化させ、やがて風に乗せて、街のネオンの中へと散らしてくれるのだと、そう思い込んでいた。 そして、何事も予定どおりにこなし、必死に仕事に打ち込んだ。 夜更けのたびに、もう傷は癒えたと思っていた自分に、「もう吹っ切れた」と言い聞かせた。 だが、この日、運命は何の前触れもなく網を引き寄せ、私が「穏やかな日々を取り戻した」と思い込んでいた平静を、跡形もなく打ち砕いた。

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第1話
私・蘇我思乃(そが しの)は、もうずいぶん長いこと、会議中にぼんやりすることなどなかった。でも、今日は無理だった。なぜなら、私の向かいに座っているのが、陸川浩人(りくかわ ひろと)だから。もう3年が経った。彼は少し痩せている。以前よりも顎のラインがくっきりとしている。濃いグレーのスーツに身を包み、シャツの襟元のボタンは留めていなかった。そして、テーブルの上のコピーに視線を向けたまま、私のことを一度も見なかった。「蘇我さん、この企画の方向性についてはどう思う?」神原勝雄(かんばら まさお)の声に、私は我に返った。目の前に広げていたコピーに目を落とす。そこには、三日三晩ほとんど眠らずに書き上げたコピーが並んでいた。「いいと思います。核となるコンセプトは『帰れない場所を故郷と呼ぶ』。クライアントの観光プロジェクトの方向性にも合っています」勝雄は頷くと、向かい側へ顔を向けた。「陸川社長、そちらから何かご意見はありますか?」浩人がようやく顔を上げた。彼の視線が長い会議テーブルを越え、まっすぐ私の顔に落ちてくる。その瞬間、空気が急に薄くなったような気がした。「コピーは悪くない」その声は低く、よそよそしかった。「でも、もう少し生々しさが欲しい。『帰れない』というコンセプトは、少しぬるすぎる。もっと、胸に刺さるようなインパクトが欲しい」私は手にしたペンを強く握りしめた。彼が話しているのは企画のことだ。そう分かっているのに、なぜか別の何かを言われているような気がした。会議が終わると、浅草晴香(あさくさ はるか)が給湯室で私を待ち伏せしていた。「彼、戻ってきたんだね」彼女は給水機にもたれ、腕を組んでいる。「前から知ってた?」「神原さんからクライアントの担当者が変わるって聞いたのは先週。誰になったかは聞かなかった」「どうして聞かなかったの?」「聞いたところで、どうなるの?」晴香は数秒、私の顔をじっと見つめた。それから、ため息をついた。「思乃、手が震えてるよ」私は自分の手を見下ろした。確かに、かすかに震えていた。「大丈夫。低血糖だから」私は両手をズボンのポケットに突っ込んだ。「嘘をつくのだけは、3年経っても少しも上達しないね」私は何も答えなかった。
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第2話
晴香は、私がこれまで出会った中で根気強い人だ。翌朝早く、彼女はもう私の家の前に立っていた。手にはアメリカーノを2杯ぶら下げ、まるでこれから戦場へ向かうかのように真剣な顔をしている。「会社まで送る。ついでに浩人のことも話そう」「話すことなんてないよ」「思乃、昨日何時に寝たの?」私は答えなかった。午前3時まで、東町に関するプロジェクトの資料を確認していたからだ。「目の下のクマがひどくなってるよ」晴香はコーヒーを私の手に押しつけた。「飲んで。それから本当のことを言って。もう一度彼に会う覚悟はできてる?」「昨日、もう会ったじゃない」「会うのと、心の準備ができてるのとは別でしょ」私はコーヒーを一口飲んだ。苦さに、思わず顔をしかめる。「晴香。3年前のことなら、もう吹っ切れたよ」「へえ?じゃあ教えて。最後に泣いたの、いつ?」「泣いてない」「泣かなかったんじゃない」晴香の声が、ふいに柔らかくなった。「泣くことすら怖かったんでしょ。思乃、それは吹っ切れたって言えない。ただ、押し込めてるだけ」私は黙り込んだ。窓の外を1台のバスが通り過ぎた。ブレーキの音が、鋭く短く響いた。私は、別れてから最初の1ヶ月を思い出した。ある日、残業を終えて家に帰り、ドアを開けたその瞬間、いつもの癖で「ただいま」と声をかけた。返事はなかった。がらんとした部屋には、自分の声だけが響いていた。その夜、私は玄関の床に座り込み、靴箱の下に置き去りにされた彼の靴を、長いこと見つめていた。青い靴だった。靴底はもうすっかりすり減っていて、左足の靴紐には、彼が自分で結んだ固結びが残っていた。私はその靴を靴箱にしまい、物置の一番高い棚に置いた。それから立ち上がり、キッチンへ行って、自分のために一杯の麺を茹でた。茹ですぎてふやけていたけれど、それでも全部食べた。それ以来、家に帰って「ただいま」と言うことは二度となかった。3年前のあの夜、浩人は私の向かいに座り、今まで一度も見たことのないほど冷たい表情で言った。「思乃、もう飽きた」とても短い言葉だった。喧嘩もなかった。他の女の影もなかった。説明すらなかった。私は彼に尋ねた。「本気なの?」彼は言った。「俺はいつも本気だ」私は10
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第3話
東町の工事現場は、古びた住宅街の外れにあった。車のドアを開けた瞬間、懐かしい匂いが鼻をくすぐった。プラタナスの木と土が混ざり合った、あの匂いだ。3年前の夏、私は毎晩この匂いを嗅ぎながら、歩いて家に帰っていた。勝雄が私の前を歩き、浩人と握手を交わして挨拶をしている。私は二人から2メートルほど離れたところに立ち、浩人が指で遠くの建物の輪郭を示しながら、プロジェクト全体の計画について説明するのを見ていた。午後の日差しが彼の横顔を照らし、柔らかな輪郭を浮かび上がらせている。それが、記憶の中のある夕暮れと重なった。「蘇我さん?」私は我に返った。「すみません。今、何て言いました?」浩人が私を見ると、その目がほんのわずかに揺れた。「ここには昔、大きなプラタナスの木があったんだ」彼は工事現場の中央を指差した。「設計の段階で、残すつもりだった」私は彼の指先を追って視線を向けた。あのプラタナスは、まだそこにあった。太い幹には、歪んだ二つのアルファベットが刻まれている――SとHだ。Sは思乃の「し」で、Hは浩人の「ひ」だ。私の呼吸が、一瞬止まった。「この木、何か思い出がある?」勝雄が何気なく尋ねた。「いや。昔、この辺りに住んでいた住民が刻んだんだ」浩人は嘘をついていた。あれは私が刻んだものだった。引っ越して2ヶ月目、彼が残業している隙に、私はこっそり外へ出て、木に二人のイニシャルを刻んだ。翌日、それを見つけた彼は、公共物を壊したとか何とか言って、30分も私を叱った。そのくせ、その後何も言わずに二つの南京錠を買ってきて、私たちの名前を書いた札と一緒に木の枝に掛けた。南京錠はまだ残っている。けれど、もう錆びついていた。「行こう」浩人が振り返った。「中に、まだいくつか重要なポイントがある」それからの1時間、彼は私たちを連れて工事現場を隅々まで歩いた。説明は専門的で、話す速さも速すぎず遅すぎない。時折立ち止まっては、施工業者と細かな部分を確認している。私はノートを手に、彼が話すときの唇の動きではなく、その内容にできるだけ集中しようとした。「この角のスペースなんだけど」まだ壁のない曲がり角で、彼が足を止めた。「ここにセミオープン型の読書スペースを作ろ
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第4話
プロジェクトは順調に進んでいた。けれど、私と浩人の間には、ずっと張り詰めた空気が漂っていた。会議のたびに、彼はいたってプロフェッショナルだった。まるで訓練された他人のように、丁寧な口調と冷静な眼差しだった。それでも、ふとした細部が、彼の本心を隠しきれずにいた。たとえば、私が話しているとき、無意識に手の中のペンをくるくる回す。彼は昔、何かを考えているときも、いつもそうしていた。たとえば、私が冷たい飲み物を飲まないことを覚えていて、秘書にコーヒーを買わせるときには、必ず「温かいものを」と念を押していた。たとえば、会議が終わる前には、必ず私にだけ、「ほかに何か補足することはあるか?」と尋ねる。その声は、ほかの人に聞くときより、半音ほど柔らかかった。そんな細かな仕草が、針のように一本、また一本と、私が必死に築いてきた防壁に突き刺さってくる。水曜日の午後、私は修正した企画書を届けるため、彼の会社へ向かった。彼の秘書は席を外していて、受付の人に「そのまま社長室へどうぞ」と言われた。私はドアをノックしたが返事はなく、開けてみると、彼は私に背を向け、腰を屈めて引き出しの中を探していた。スーツのジャケットは椅子の背に掛けられ、シャツの袖は肘のあたりまでまくり上げられている。そのとき、私は彼の右腕の内側に、長い傷跡があるのを見た。手首から肘の内側まで伸びている。色はすでに薄いピンク色になっていたが、その長さと深さは、目を背けたくなるほど痛々しかった。私は足を止めた。彼も物音に気づき、勢いよく振り返った。そして反射的に、左手で右腕を覆った。「思乃」「その腕……」「何でもない」彼はすぐに袖を下ろした。「擦り傷だ」「浩人、それ、擦り傷なんかじゃない」「思乃、企画書を置いてくれ。あとで見る」「腕の傷……」「何でもないって言っただろ」彼の声が突然、硬くなった。「ほかに用は?」私は口を開きかけた。けれど、結局何も言えず、企画書を彼の机に置いて、そのまま部屋を出た。それでも、全身が痺れたような感覚は消えなかった。あの傷は新しいものではない。色や治り具合から見ても、少なくとも2年以上は経っている。つまり、私たちが別れて、そう時間が経たない頃のものだった。私はタ
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第5話
勝雄が私を食事に誘った日は、突然の雨が降った。彼は大きな黒い傘を一本持って会社の前に立っていた。私が出てくるのを見ると、傘をほとんど私のほうへ傾けてくれた。「近くに新しくできた寿司屋があるんだ。評判いいらしいから、行ってみない?」本当は、食事なんてしたくなかった。家に帰りたかった。一人になりたかった。浩人の腕にあったあの傷跡と、あの受賞作品のことを、ひとりでじっくり考えたかった。でも、勝雄は私によくしてくれているから、断る理由なんてなかった。彼が料理を注文するとき、私が食べないものを自然に避けてくれた。私は一度も彼に「わさびが苦手」なんて言ったことがない。それなのに、彼は知っていた。「どうして知ってるんですか?」私が見つめている前で、彼は私の前に置かれていたわさびの小皿を醤油の小皿に取り替えた。「この前の部署の食事会で、君の箸が緑色のものを全部避けてたから」彼は少し笑った。「企画書を書く人間は観察力が鋭いけど、俺だって負けてないよ」「神原さん、社員の食事の好みまで観察してるんですか?何か特別な目的でも?」彼は私を見た。その目は穏やかだったが、真剣だった。「もし、そうだと言ったら?」空気が、突然少しだけ変わった。「神原さん……」「答えなくていい」彼は箸を置いた。「でも、これだけは知っておいてほしい。蘇我さん、俺は会社に入った初日から君のことを気にしてた。君の企画書がよくできてるからっていうだけじゃない。笑うとき、目が細くなるだろ。でも、君はめったに笑わない」私は俯き、何と言えばいいのか分からなかった。「気にしなくていいよ。ただ、言わなかったら、いつか後悔するかもしれないと思っただけ」「後悔」という言葉が、鍵のように、私がわざと閉じていた引き出しを開けた。浩人があのとき「もう飽きた」と言ったとき、彼の目には、倦怠なんてなかった。あまりにも突然で、あまりにも苦しくて、当時の私はそこまで気づかなかった。でも今になって思い返してみると、あの目には明らかに別のものが隠れていた。それは恐怖だ。「神原さん、話してくれてありがとう。でも、今の私にはあなたに応えることができない」「陸川浩人がいるから?」「それだけじゃない。私自身の問題だから」彼
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第6話
まさか、最初に私を見つけ出すのが、浩人の母親だとは思わなかった。その日の午後、私は会社の下にあるカフェで企画書を修正していた。そこへ、ベージュのトレンチコートを着た中年の女性が、私の向かいに座った。「蘇我さん」彼女はサングラスを外した。「私のこと、覚えてる?」陸川玉美(りくかわ たまみ)は浩人の母親だった。3年前、彼女に会ったのは一度きりだった。あのときも、彼女は私の向かいに座り、見下ろすような口調で言った。「蘇我さん、あなたと浩人は合わないわ」どうして忘れられるだろう。……「おばさん」私はペンを置いた。「何かご用ですか?」「あなたと浩人が、今、一緒にプロジェクトを進めていることは知ってるわ」彼女は店員が運んできたお茶を手に取り、一口すすった。「今日は、あのとき言えなかったことを話しに来たの」私の胸の奥が、すっと重くなった。「3年前、私があなたたちの交際に反対したのは、家柄が釣り合わないと思ったからだと思ってる?」「違うんですか?」彼女はしばらく黙っていた。その目には、今まで見たことのない疲れが滲んでいた。「蘇我さん。浩人は病気なの。3年前に分かった」その声がひどく小さくなった。「遺伝性の神経系疾患よ。あの子の父親も、その病気で亡くなった。発症する年齢は、だいたい30歳から35歳の間」私の指先が、じわじわと痺れていく。「遺伝子検査の結果は陽性だった」彼女は続けた。「つまり、発症する可能性が極めて高いということ。今の医学では根治する方法はなくて、できるのは進行を遅らせることだけ」「じゃあ、彼は……今……」「薬でずっと症状を抑えている。今のところは大丈夫。でも、いつ悪化し始めるのかは、誰にも分からない」私は指の関節が白くなるほど、テーブルの縁をぎゅっと握りしめた。「3年前、検査結果を受け取った日の夜ね」玉美は私を見つめ、その目元が赤くなっている。「あの子、私にこう言ったの。『母さん。俺は、思乃に一生かけて、いずれ倒れる人間の面倒を見させるわけにはいかない』」「じゃあ……別れを決めたのは、彼自身だったんですか?」「そう。あの子に頼まれて、私も芝居に付き合った」彼女はゆっくりと息を吐いた。「私にあなたのところへ行って
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第7話
その夜、私は晴香の家で一晩中過ごした。彼女は家中のティッシュを全部リビングのローテーブルに運び出し、それから私の隣に座った。何も言わず、ただそばにいてくれた。私は、長いこと泣いた。すすり泣くようなものじゃなかった。3年間押し殺してきたものが、とうとう堰を切ったような泣き方だった。ソファの隅で体を丸め、全身が震えるほど泣いた。声が枯れるまで泣いて、息をすることさえ痛くなるほど泣いた。「あの人、何様なの」私は泣きながら言った。「どうして私の代わりに決めるの?どうして私には耐えられないって勝手に決めつけるの?どうして一人で全部抱え込むの?」晴香がティッシュを一枚差し出した。「だって、浩人だから」「どういう意味?」「思乃、考えてみて。あなたたちが付き合っていた3年間、あの人がいつ、あなたに心配をかけた?」彼女は静かに続けた。「あなたが残業すれば迎えに行く。病気になればお粥を作る。お母さんと揉めたときだって、いつもあなたの味方だった。そういう人なの。あの人の人生で一番大きな欠点は、何でも一人で背負いすぎること。愛するっていうのは、相手に苦労させないことだって、あの人は思ってる」「でも……私がどうしたいか、聞いてくれてないじゃん!」「あの人は自分自身には聞いたんだよ」晴香は静かに言った。「その答えが、『苦い思いをさせたくない』だったんだと思う」私は膝を抱え、その中に顔を埋めた。「晴香……あの人、自分が私を突き放すのは、私のためだって思ってるのかな?」「きっと、そう思ってる」「でも、これは良いとか悪いとかの問題じゃない。私に選ぶ機会すら与えてくれなかったことが問題なの」晴香はしばらく黙っていた。そして、私を完全に泣き崩れさせる一言を口にした。「思乃。もし3年前、あの人があなたに真実を話していたら、どうしてた?」私は顔を上げ、彼女を見つめた。「あなたは残ったよ」彼女は、自分でその問いに答えた。「迷わず残った。そして、あの人の病状が少しずつ悪化していくのを見届ける。あんなに背が高くて、誇り高くて、あなたを社会の荒波から守ってくれた男が、やがて誰かの介助を必要とする病人になっていくのを……それに耐えられると思う?」「私が耐えられるかどうかは、私の問題でしょ!」「そ
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第8話
私は鍵を持っていなかった。でも、暗証番号が一度も変わっていないことは知っていた。ドアが開いた瞬間、埃と木の匂いが鼻をついた。明かりをつけた私は、言葉を失った。何もかも、3年前と同じだった。ソファも同じ場所にある。ローテーブルの上には、陶器のマグカップが置かれていた。それは、私が一番気に入っていた、あくびをしている猫が描かれたカップだ。本棚の本の並び方も変わっていない。私の『星の王子さま』は、今も2段目の一番左にあった。ベランダでは、私が昔育てていた多肉植物が、大きな鉢いっぱいに育っていた。少し形が崩れてはいるものの、誰かがずっと水をやっていたことは明らかだった。彼はずっと、ここに住んでいた。3年間、一度も引っ越さず、何一つ変えなかった。『帰処』は、彼が設計した作品なんかじゃなかった。こここそが、彼の帰る場所だったのだ。私はリビングの真ん中に立ち尽くし、突然分からなくなった。彼を憎めばいいのか。それとも、彼を思いやればいいのか。そのとき、玄関のドアの鍵が回る音がして、浩人がドアを開けて入ってきた。そして、リビングに立つ私を見た瞬間、彼の体が完全に固まった。彼の手には袋を提げていた。その中には、野菜と果物が入っているのが見えた。「思乃?」「ずっと、ここに住んでたんだね」彼はドアを閉め、袋を玄関の棚に置いた。答えはなかった。「浩人。私、聞いたよ」彼の靴を脱ぐ動きが止まった。「あなたが病気だってこと。昨日、お母さんが私に話してくれた」彼はゆっくりと体を起こした。私に背を向けたまま、長い沈黙が続いた。「母さんの言うとおりだ」ようやく彼が口を開いた。その声は低く、重かった。「君には知る権利がある」「じゃあ、どうして教えてくれなかったの?」「教えて、それからどうする?」彼が振り返った。その目に浮かんでいるものは複雑すぎて、私には読み取れなかった。「俺のために仕事も、自分の人生も捨てて、いつ倒れるかも分からない人間の世話をするのか?」「あなたに、私の人生を勝手に決める権利なんてあるの?」「だって、俺には無理なんだ!」突然、彼の声が大きくなった。「思乃、俺にはできない!君が俺のために犠牲になるのを見ているなんて、できな
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第9話
病院の廊下の照明は、青白く冷たかった。私は救急処置室の外にあるプラスチックの椅子に座っていた。服にはまだ、浩人のシャツについていた埃が付いている。玉美が駆けつけてきたとき、私は泥のついたパンプスさえ履き替えていなかった。「あの子は?」彼女の声は震えていた。「まだ中です。先生は、神経系の急性発作の可能性があるって」彼女は壁にもたれ、目を閉じた。「私がもっと早く気づくべきだった……」そして、呟くような声で言った。「ここ数か月、ずっと残業続きで、睡眠もほとんど取ってなかった。こういう病気は、疲労と感情の起伏が一番よくないのに……」感情の起伏?それは私だ。私が彼の感情を大きく揺さぶった。「おばさん、ごめんなさい」「あなたのせいじゃないわ」彼女は目を開け、私の手を軽く叩いた。「あの子の性格なら、遅かれ早かれこういうことは起きてた。あなたがいなくても、別の何かが引き金になっていたはずよ」そのとき、処置室のドアが開き、医師が出てきた。その表情が落ち着いていたことに、私と玉美は同時に安堵の息を吐いた。「患者さんは、もう安定しています」医師はマスクを外した。「今回の発作は、強い感情の変化が関係しています。ただ、幸い搬送が早かったので、不可逆的な損傷はありません」医師は一度言葉を切り、私を見て、それから玉美を見た。「ただ、最近の検査結果を見る限り、病気はどんどん悪化しています。今の薬物療法では、すでに十分ではない可能性があります。薬の調整が必要ですし、これからは経過を注意深く観察していく必要があります」「どのくらいまで悪化するんですか?」私は焦って尋ねた。医師は少し考えてから、言葉を選ぶように答えた。「個人差がかなり大きいです。進行が非常にゆっくりで、何年も普通の生活を続けられる人もいます。一方で……」「一番早い場合は?」「蘇我さん」玉美が私を呼んだ。「知りたいんです」医師は私を見た。「最悪の場合、3年から5年以内に、深刻な運動機能障害が現れる可能性があります」そして、すぐに付け加えた。「ただし、あくまで可能性の話であって、必ずそうなるというわけではありません」3年から5年?私は小さく頷き、それ以上は聞かなかった。浩人が一般病棟へ移されたときに
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第10話
浩人が入院していた1週間は、この3年間で一番穏やかな日々だった。毎朝、私は病院へ行き、砂糖を入れないアメリカーノを一杯持っていった。昔の彼は砂糖を入れていた。今は好みが変わった――人も、変わった。昼間、私は病室でノートパソコンを開いて仕事をし、彼はベッドで建築雑誌を読んだり、図面を描いたりしていた。私たちは、ほとんど話をしなかった。でも、その沈黙は気まずいものではなかった。むしろ、安心できた。まるで3年前、二人で過ごした静かな週末の午後のようだった。ある日、晴香が彼のお見舞いに来た。病室に入るなり、彼女は浩人を上から下までじっくり見て、「痩せたね」と言った。浩人は礼儀正しく笑った。「晴香、相変わらず率直だな」「あなたもね」彼女はベッドの足元に腰を下ろした。「こんな状態になっても、まだ強がってる」「強がってない」「はいはい」晴香は彼の言葉を遮った。「二人のことにはもう口出ししない。でもあんた、もしまた思乃に何か隠したら、私が直接ここに来て殴るからね」浩人は真剣な顔で彼女を見た。そして言った。「もう隠さない」「約束する?」「約束する」晴香は満足そうに頷いた。それから立ち上がり、私の肩をぽんと叩いた。「じゃあ、私は先に帰るね。ちゃんと面倒見てあげて。何かあったら電話して」「うん」彼女はドアまで行ったところで、また戻ってきた。すると、浩人を一度見て、少し迷ってから言った。「そういえば、あなたの受賞作品『帰処』、ネットで見たよ。すごくいい設計だった」浩人は一瞬、目を見開いた。「ありがとう」「でも、本当に思乃をあそこに住まわせたいなら、図面を描いてるだけじゃ駄目だからね」晴香は呆れたように目を回した。「自分の手で建ててあげなよ」そう言い残して、彼女は今度こそ出ていった。浩人は彼女が去っていった方向を見つめ、口元を少し緩めた。「君の友達、本当に手強いな」「慣れれば平気だよ」彼はしばらく黙っていた。それから私を呼んだ。「思乃」「ん?」「話したいことがある」私はパソコンを閉じ、真剣に彼を見つめた。「この病気について、全部知ってほしい。俺が君に世話をしてほしいからじゃない。君には、知る権利があるから」彼はほぼ
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