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1-3【アデーレ・サウダーテ、十歳】

Author: 蕪菁
last update Petsa ng paglalathala: 2025-12-09 15:50:28

 最初に感じたのは、吹き抜ける潮風だった。

 鼻をくすぐる海の匂い。全身を包む柔らかな感触。

 とても穏やかに、体が揺れる。

(……あれ?)

 それは、あまりにもおかしな感覚だった。

 違和感が脳内を駆け巡り、急ぎ周囲を確認するため目を開けてみる。

 眩しさに目を細めた後、目の前に広がっていたのは楽園を思わせる美しい海。

 海底の砂が見えるほどの透明度と、青と緑の混じるエメラルドグリーン。

 そんな海を見渡せる白い砂浜の上に、脚を伸ばして座っていた。

 しかし、その脚は小さく細く色白で全く見慣れないものだった。

 手に付いた砂を払おうと、視線を下に移す。

 ……見慣れない服。髪も長くて鬱陶しさを覚える。

 手のひらは小さく、これまでのトレーニングのおかげでごつくなった手ではない。

 砂浜の白に負けないほどに美しい、色白でほっそりとした子供の手だ。

 更に視線を落とせば、多少だが胸に膨らみがあるように見受けられる。

(何だ? 何が起きてる?)

 ゆっくりと、裸足のまま砂浜に立つ。

 青い海、白い砂浜。遠くには白い岩の岬が海に向かって伸びる。

 そして今になって気づく。【彼は】自分がズボンをはいていないことに。

 着ている服は、男からすれば馴染みのないベージュのワンピースというものだった。

 これではまるで別人の……少女の体ではないか。

(落ち着け。まずは何か……自分の名前を思い出すんだ)

 大きく深呼吸し、頭の中から一番大事な記憶を紡ぎだす。

 記憶の底から最も大事なものを引き出し、口に出す。

「……アデーレ」

 それは、とても聞き慣れた名前だった。

 アデーレ・サウダーテ。それが『彼女』の名前だ。

 今年で十歳の少女。

 ここ【ロントゥーサ島】で生まれ、両親はこの島で長く農業を営んでいる。

 なのに……。

「……サエキ、リョウタ」

 もう一人の、聞いたこともない言葉で紡がれた名前。

 日本で生まれ、ヒーローに憧れ、志半ばで命を落とした二十一年の人生。

 それもまた、自分の記憶としてはっきりと思い出せてしまう。

 これが、前世の記憶というものだろうか。

          ◇

 傍らにあった革製のサンダルを履き、アデーレは港町へ続くあぜ道を歩いていた。

 道の周りは土と下草の目立つ荒野で、内陸に行くにつれて徐々に上り坂となっている。

 遠くには木々が見えるが、あれはレモンやオリーブといった農産物だ。

 特に今の季節……この島では夏場雨が少なく、乾燥に強い農作物を育てている。

 ブドウやイチジク、トマトなどもこの時期の作物だ。

 そんな慣れ親しんだことを、アデーレは改めて思い出していた。

 しかし、なぜかそれを未知の事と感じてしまう自分も存在しているのだ。

 まるで別人の意識が流れ込んだような……。

 いや、違う。これは思い出したのだろう。

 自分の知らない、もう一つの人生がアデーレの中に蘇ったのだ。

 ここまで見てきた物も良太の住んでいた地域で見られる作物ではなく、この場所が遥か南国であることをまざまざと示している。

「うん、きっとそうだ」

 うんうんとうなずき、現状を飲み込もうとする。

 過去に誰かが言っていた、生まれ変わりとか転生とか。

 それで片付ければ、現状もすっきり収まるはずなのだ。

「じゃあ、女に生まれたんだ……」

 今でもはっきりと思い出せる。

 かつて佐伯 良太と名乗っていた男は、無茶な出しゃばりによってその短い生涯を終えた。

 そして一体何の因果か。

 ロントゥーサ島という聞いたこともない島で、今度はアデーレ・サウダーテという少女の人生を送っていたのだ。

 これはとてつもない違和感だ。

 どちらも自分自身の人生なのに、まるで他人のようにも思えてしまう。

 自分が佐伯 良太なのか、アデーレ・サウダーテなのか。全く答えが見いだせない。

 死んだ人間の転生とは、こういうものなのか……。

 そんな過去の死に思いを馳せつつ歩き続けてしばらくすると、周囲に日干しレンガの建物が目に付くようになる。

 ここはロントゥーサの港町。

 島でも数少ない、人が集まる場所だ。

 ロントゥーサ島は狭く、大人の脚ならば一日もあれば島を一周することができる。

 農家は島のあちらこちらに点在しているものの、人口の大半は港町に集中している。

「なんかイタリアの田舎っぽいな」

 ふと、祖母が読んでいた旅行雑誌で見た、南イタリアの風景を思い出す。

 地中海沿岸の白い建物に青い空。海は真っ青で美しく、サボテンが生えていた。

 それとほぼ同じ風景が、目の前に広がっていた。

 それが意味するのは、良太がアデーレとして転生したのは、イタリアのどこかということなのか。

「……いや」

 アデーレは……良太は、はっきりと認識していた。

 今いるこの世界に、イタリアなどという国は存在しない。

 完全な異世界なのだ、と。

 自身の中で良太の記憶とアデーレの記憶が整理されていき、徐々に理解が進む。

 更に、そんな異常な状況にあっても、心の中は冷静なままだった。

 多少の混乱はあれど、現状に絶望とか、そんなことは一切ない。

 そこはやはり、アデーレとしての下地の上に、良太の記憶が降って湧いてきたおかげなのだろう。

 今の良太は、あくまでアデーレ・サウダーテなのだ。

「せっかく俳優、なれると思ったんだけどなぁ」

 雲一つない青空を仰ぐ。

 ろくでもない人生から脱却できると思ったら、その直前で命を落とした。

 その原因が、自身の慢心と来たものだ。

 結局、佐伯 良太は報われることのない星の下に生まれてしまった。

 強く願った夢も今は遠く、決して届くことはない。

 ならば、脱却しようと努力したことに、意味などあったのだろうか。

 今となっては……異世界の別人として生まれ変わってしまっては、もはや答えを見出すことも出来ないだろう。

「……ああ」

 抑えきれない苛立ち。

 今すぐ空に向かって、意味のない言葉を叫びたかった。

 思いつく限りの罵倒を、そこにはいない誰かにぶつけたかった。

 それが意味のないことだと分かっていても。

 でも、良太は夢を叶えることができなかったのだ。

 そして叶うことのない夢を抱えたまま、別世界へ転生してしまったのだ。

 ざわつく心を、抑え込むことなどできるはずがなかった――。

「ふざけんじゃないわよ!!」

 たった今聞こえてきた声のように、叫びたい気持ちでいっぱいだった。

「えっ?」

 上げた顔を下ろし、あぜ道の向こうを見つめる。

 ここに来て初めて聞いた別人の声。同い年くらいの少女のものだろうか。

 声は道を進んだ先の町中から聞こえたものだった。

 その口調から、ただならぬ状況になっている可能性は高そうだ。

 様子を見に行こうものなら、また面倒に巻き込まれるかもしれない。

 だからといって、無為に時間を浪費して、ただ腹を立てているだけでは何も始まらないだろう。

「……様子を見に行くだけなら」

 今はとにかく、行動するしかない。

 気は乗らなかったが、仕方なくアデーレは町中の方へ向かうことにした。

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