Masuk最初に感じたのは、吹き抜ける潮風だった。
鼻をくすぐる海の匂い。全身を包む柔らかな感触。
とても穏やかに、体が揺れる。
(……あれ?)
それは、あまりにもおかしな感覚だった。
違和感が脳内を駆け巡り、急ぎ周囲を確認するため目を開けてみる。
眩しさに目を細めた後、目の前に広がっていたのは楽園を思わせる美しい海。
海底の砂が見えるほどの透明度と、青と緑の混じるエメラルドグリーン。
そんな海を見渡せる白い砂浜の上に、脚を伸ばして座っていた。
しかし、その脚は小さく細く色白で全く見慣れないものだった。
手に付いた砂を払おうと、視線を下に移す。
……見慣れない服。髪も長くて鬱陶しさを覚える。
手のひらは小さく、これまでのトレーニングのおかげでごつくなった手ではない。
砂浜の白に負けないほどに美しい、色白でほっそりとした子供の手だ。
更に視線を落とせば、多少だが胸に膨らみがあるように見受けられる。
(何だ? 何が起きてる?)
ゆっくりと、裸足のまま砂浜に立つ。
青い海、白い砂浜。遠くには白い岩の岬が海に向かって伸びる。
そして今になって気づく。【彼は】自分がズボンをはいていないことに。
着ている服は、男からすれば馴染みのないベージュのワンピースというものだった。
これではまるで別人の……少女の体ではないか。
(落ち着け。まずは何か……自分の名前を思い出すんだ)
大きく深呼吸し、頭の中から一番大事な記憶を紡ぎだす。
記憶の底から最も大事なものを引き出し、口に出す。
「……アデーレ」
それは、とても聞き慣れた名前だった。
アデーレ・サウダーテ。それが『彼女』の名前だ。なのに……。
「……サエキ、リョウタ」
もう一人の、聞いたこともない言葉で紡がれた名前。
日本で生まれ、ヒーローに憧れ、志半ばで命を落とした二十一年の人生。
それもまた、自分の記憶としてはっきりと思い出せてしまう。
これが、前世の記憶というものだろうか。
◇
傍らにあった革製のサンダルを履き、アデーレは港町へ続くあぜ道を歩いていた。
道の周りは土と下草の目立つ荒野で、内陸に行くにつれて徐々に上り坂となっている。
遠くには木々が見えるが、あれはレモンやオリーブといった農産物だ。
特に今の季節……この島では夏場雨が少なく、乾燥に強い農作物を育てている。
ブドウやイチジク、トマトなどもこの時期の作物だ。
そんな慣れ親しんだことを、アデーレは改めて思い出していた。
しかし、なぜかそれを未知の事と感じてしまう自分も存在しているのだ。
まるで別人の意識が流れ込んだような……。
いや、違う。これは思い出したのだろう。
自分の知らない、もう一つの人生がアデーレの中に蘇ったのだ。
ここまで見てきた物も良太の住んでいた地域で見られる作物ではなく、この場所が遥か南国であることをまざまざと示している。
「うん、きっとそうだ」
うんうんとうなずき、現状を飲み込もうとする。
過去に誰かが言っていた、生まれ変わりとか転生とか。
それで片付ければ、現状もすっきり収まるはずなのだ。
「じゃあ、女に生まれたんだ……」
今でもはっきりと思い出せる。
かつて佐伯 良太と名乗っていた男は、無茶な出しゃばりによってその短い生涯を終えた。
そして一体何の因果か。
ロントゥーサ島という聞いたこともない島で、今度はアデーレ・サウダーテという少女の人生を送っていたのだ。
これはとてつもない違和感だ。
どちらも自分自身の人生なのに、まるで他人のようにも思えてしまう。
自分が佐伯 良太なのか、アデーレ・サウダーテなのか。全く答えが見いだせない。
死んだ人間の転生とは、こういうものなのか……。
そんな過去の死に思いを馳せつつ歩き続けてしばらくすると、周囲に日干しレンガの建物が目に付くようになる。
ここはロントゥーサの港町。
島でも数少ない、人が集まる場所だ。
ロントゥーサ島は狭く、大人の脚ならば一日もあれば島を一周することができる。
農家は島のあちらこちらに点在しているものの、人口の大半は港町に集中している。
「なんかイタリアの田舎っぽいな」
ふと、祖母が読んでいた旅行雑誌で見た、南イタリアの風景を思い出す。
地中海沿岸の白い建物に青い空。海は真っ青で美しく、サボテンが生えていた。
それとほぼ同じ風景が、目の前に広がっていた。
それが意味するのは、良太がアデーレとして転生したのは、イタリアのどこかということなのか。
「……いや」
アデーレは……良太は、はっきりと認識していた。
今いるこの世界に、イタリアなどという国は存在しない。
完全な異世界なのだ、と。
自身の中で良太の記憶とアデーレの記憶が整理されていき、徐々に理解が進む。
更に、そんな異常な状況にあっても、心の中は冷静なままだった。
多少の混乱はあれど、現状に絶望とか、そんなことは一切ない。
そこはやはり、アデーレとしての下地の上に、良太の記憶が降って湧いてきたおかげなのだろう。
今の良太は、あくまでアデーレ・サウダーテなのだ。
「せっかく俳優、なれると思ったんだけどなぁ」
雲一つない青空を仰ぐ。
ろくでもない人生から脱却できると思ったら、その直前で命を落とした。
その原因が、自身の慢心と来たものだ。
結局、佐伯 良太は報われることのない星の下に生まれてしまった。
強く願った夢も今は遠く、決して届くことはない。ならば、脱却しようと努力したことに、意味などあったのだろうか。
今となっては……異世界の別人として生まれ変わってしまっては、もはや答えを見出すことも出来ないだろう。
「……ああ」
抑えきれない苛立ち。
今すぐ空に向かって、意味のない言葉を叫びたかった。
思いつく限りの罵倒を、そこにはいない誰かにぶつけたかった。
それが意味のないことだと分かっていても。
でも、良太は夢を叶えることができなかったのだ。
そして叶うことのない夢を抱えたまま、別世界へ転生してしまったのだ。
ざわつく心を、抑え込むことなどできるはずがなかった――。
「ふざけんじゃないわよ!!」
たった今聞こえてきた声のように、叫びたい気持ちでいっぱいだった。
「えっ?」
上げた顔を下ろし、あぜ道の向こうを見つめる。
ここに来て初めて聞いた別人の声。同い年くらいの少女のものだろうか。
声は道を進んだ先の町中から聞こえたものだった。
その口調から、ただならぬ状況になっている可能性は高そうだ。
様子を見に行こうものなら、また面倒に巻き込まれるかもしれない。
だからといって、無為に時間を浪費して、ただ腹を立てているだけでは何も始まらないだろう。
「……様子を見に行くだけなら」
今はとにかく、行動するしかない。
気は乗らなかったが、仕方なくアデーレは町中の方へ向かうことにした。
礼拝堂を後にしたアデーレは、一人バルダート家の屋敷に続く坂道を上っていた。 この道は港から続く大通りで、馬車も通れるよう頑丈な石畳によって舗装されている。 バルダートのお嬢様と最悪の出会いを果たしたのも、この場所だった。 バルダート家がこの地に別邸を持ったのは、避暑のためである。 シシリューア島は周囲の島々に比べると、地熱の影響により気温が高いらしい。 だからロントゥーサ島の、風通しが良く港からも近い土地に別邸を建てたそうだ。 (だからって、歩いて通うのにこの坂はちょっと大変だ) 額に汗をにじませながら、アデーレは屋敷へ続く坂道を上る。 勾配は緩やかだが、それでも今日の晴天はほどほどに疲労を蓄積させてくる。 これが夏本番になると、気温はさらに上昇する。 こうなると、たとえ実家が近いとはいえ、屋敷の使用人部屋で住み込みという選択肢も出てくる。 なお、その場合の父の反応は、推し量るまでもなく容易に想像がつく。 そんな、アデーレ・サウダーテとしての日常。 これまでを振り返り、そしてこれからに思いを馳せ……。 時折思うのは、この先自分はどういう人生を送るのだろうということだ。 今はまだ、佐伯 良太として歩んだ時間の方が長い。 だが後十年も経たずして、アデーレは良太の享年を超えることとなる。 今後、アデーレとしてそれらしい人生を送るのだろう。
その日は一日、屋敷の掃除に明け暮れることとなった。 拭き掃除に掃き掃除、使われていなかった家具を磨き本家から運ばれた食器を磨き……。 幸いだったのは、夕暮れまでに帰宅することが許されたことだろうか。 「そう。そんなに急なお話だったの」 テーブルに突っ伏すアデーレを、食器を片付けるサンドラが心配そうに見つめる。 いつもは率先して家事を手伝うアデーレだが、慣れない重労働で動く気力を失っていた。 「家事ならって……正直、なめてた」 「さすがバルダート家のお屋敷だな。掃除一つ取ってもうちの比じゃなかったんだね」 顔を上げずに話すアデーレの肩を、ヴェネリオが優しくさする。 「それだけじゃないよ。あんなに広いのに人が少ないし」 メリナと仕事を進めていくうちに、アデーレは気づいたことがあった。 それは、メリナのような経験を積んだベテランの使用人が、一人か二人の新米使用人を連れて仕事をしてたということだ。 ベテランの使用人は、おそらくメリナを含めて十人ほど。 彼女達が率いる新人は、同年代の顔見知りばかりだった。 顔見知りが多いのは気楽だが、未経験者ばかりでは手際が悪い。 そうなると仕事量は増え、一人ひとりの負担も大きくなる。 その結果が、帰るなり息も絶え絶えのアデーレというわけだ。 (メリナさんもそうだけど、先輩たちの手際
その日の夜……。「えっ、ドゥラン様のところへご奉公に行くの?」 ランプの明かりに照らされたダイニングで、家族と夕食を囲んでいたアデーレ。 向かい側に座る両親との話題は、昼間のメリナと交わしたやり取りだ。 真っ先に反応したのは母のサンドラ。 アデーレは母親似で、特に背中の辺りまで伸ばした青交じりの黒髪はサンドラ譲りだ。「やってみないかって誘われただけだから。確かに六年前のことはあるけど……」 六年前のことは、島の者なら誰でも知っている。 大貴族バルダート家の一人娘に楯突いた農家の娘。 そのことで忌諱されるなどといったことはなかったが、良くも悪くも度胸がある子だと一目置かれることとなった。 あの頃は良太が物を知らなかっただけのことで、バルダート家がどういった家柄なのかもわからず口を挟んでしまった。 お嬢様ことエスティラの父、ドゥラン執政官。 執政官とは、ここシシリューア共和国における国家元首なのだ。 後にそのことを知ったアデーレ……というより良太は、いよいよ国のトップの娘に口出ししてしまったのかと、色々な意味で自分に感心してしまったものだ。 だが、後悔はしていないし、自分が悪いことをしたという認識もない。 何よりメリナと知り合えることも出来たのだ。今ではいい思い出だろう。一応は。「父さんは悪くないと思うよ。数年働けば、転職の際の紹介状も書いてもらえるらしいじゃないか」「そうは言ってもあなた、もしもエスティラお嬢様に目を付けられでもしたら」「なあに、あのドゥラン様のご息女だよ。六年も前のことを根に持つようなことはないさ」 手にしていたスプーンを皿に置いて、アデーレの顔色をうかがうサンドラ。 楽観的なヴェネリオに対し、やはりサンドラは娘の身を案じているようだ。「メリナさんが、一般の人はお嬢様に会うことはめったにないって」「そうかもしれないけど……やっぱり心配だわ」 サンドラのため息が、アデーレの耳に残る。 過保護を人の形にしたようなヴェネリオほどではないにしても、サンドラも人並みの母親以上の思いをアデーレに抱いていることが伺える。「まぁまぁ。それで、アデーレはどう考えているんだい?」「私は……一度屋敷に行ってみようと思う」 「そうか」とつぶやき、ヴェネリオが姿勢を改める。 アデーレの言葉を聞いたサ
良太の記憶を取り戻して、六年の歳月が過ぎた。 あれからアデーレの性格は、徐々に良太の人間性に引っ張られてしまった。 しかし彼女も元来おとなしい性格だったためか、周囲から違和感を抱かれたことは数えるほどしかない。 また、両親に恵まれなかった良太とは違い、アデーレの両親であるヴェネリオ、サンドラ夫妻は深い愛情を持っていた。 一人娘故の溺愛ともいえるが、農民なりに女性として満足のいく生活を送らせてあげようと、アデーレに着飾る機会などを与えてくれた。 今のアデーレは、良太が送った二十一年の人生と地続きになったような状態だ。 純粋なアデーレ・サウダーテとして育てられた十年の月日があったためか、幸いにも性別が変わったことを受け入れるのにそれほど時間が掛かることはなかった。 むしろ、そうでなければ……そんなことをふと思いつつ、着替え中の自身を鏡に映す。「中身、男のままだったらまずかったなぁ、これ」 そう言って、肌着越しに自分の胸に手をやる。 佐伯 良太としての率直な感想は、でかい。町でも上の方の大きさである。 おかげで町の男共の視線を集めるし、コルセットやら何やらは息が詰まる。 自分が女性であるという自覚があるからまだよかったが、着替える度に毎度ガチガチに抑え込むのは苦痛だった。 また、身長もかつての良太に比べれば低いとはいえ、女性としては高い方だろう。 東洋人では考えられない脚の長さについては、初めて気づいたときに感動してしまったほどだ。 とはいえ、男の頃の生活を思い出すと、今の身だしなみに気を遣わなければいけない生活は窮屈で仕方がない。 髪は伸ばした方が似合うと母に言われ、現在は長い髪を腰の上あたりで切りそろえている。 これを毎度キャップが収まるようまとめるのが、とにかく面倒なのだ。 大体これでは伸ばした意味があるのかと、アデーレとしては常日頃疑問に思っていた。「アデーレ、ちょっと来てくれないかしらー?」 扉越しに聞こえる母の声。 さすがに下着姿のまま自室を出る訳にもいかない。「ちょっと待っててー」 扉に向けて返事をするアデーレ。 そのまま周囲の衣服を手に取り、手早く朝の着替えを済ませるのだった。 ◇ 十六歳になったアデーレの仕事は、主に農作業の手伝いだ。 サウダーテ家の農場は港町
石灰の塗られた白い建物が並ぶ、石畳の大通り。 道の両側には店舗が並び、軒先に日よけを張り、野菜や日用雑貨が陳列されている。 路肩に積まれた木箱や樽。道行く人々。 日常の雑多な風景の中に、人々が取り巻く生活空間が生まれていた。 その中心にいるのは、眉を吊り上げ腕を組む、いかにも不機嫌そうな金髪の少女だ。 周囲の人々が着るくたびれた服とは違う、フリルをこしらえたピンク色のドレスは、彼女が高貴な家柄の人物であることを物語っている。 さて、そんな少女の前には、十代後半と思われる少女が膝立ちになり、何かを懇願している様子だった。 彼女の姿は黒いワンピースにエプロンドレス。白いキャップを被った明るい茶髪。 おそらくは、目の前の少女の家に仕える使用人だろう。「私のやることにケチ付けるとか、メイドのくせにっ」「で、ですが奥様からの言いつけですので、どうか」「いーやーだー!」 懇願する使用人に対し、お嬢様は耳を押さえてそっぽを向く。 状況の分からないアデーレだったが、それだけでお嬢様がわがままを通そうとしていることは分かる。 外見からして、彼女はまだ十歳に満たないくらいの子供だろう。 そうなれば、きっとアデーレと同じぐらいの年齢だ。 ただしこちらの精神面は二十歳過ぎの男でもある。 わがままを通そうとするお嬢様の姿に、内心呆れていた。「ありゃあ、バルダート様んトコの娘さんか?」「まーたお嬢様の癇癪かぁ」
最初に感じたのは、吹き抜ける潮風だった。 鼻をくすぐる海の匂い。全身を包む柔らかな感触。 とても穏やかに、体が揺れる。 (……あれ?) それは、あまりにもおかしな感覚だった。 違和感が脳内を駆け巡り、急ぎ周囲を確認するため目を開けてみる。 眩しさに目を細めた後、目の前に広がっていたのは楽園を思わせる美しい海。 海底の砂が見えるほどの透明度と、青と緑の混じるエメラルドグリーン。 そんな海を見渡せる白い砂浜の上に、脚を伸ばして座っていた。 しかし、その脚は小さく細く色白で全く見慣れないものだった。 手に付いた砂を払おうと、視線を下に移す。 ……見慣れない服。髪も長くて鬱陶しさを覚える。 手のひらは小さく、これまでのトレーニングのおかげでごつくなった手ではない。 砂浜の白に負けないほどに美しい、色白でほっそりとした子供の手だ。 更に視線を落とせば、多少だが胸に膨らみがあるように見受けられる。 (何だ? 何が起きてる?) ゆっくりと、裸足のまま砂浜に立つ。 青い海、白い砂浜。遠くには白い岩の岬が海に向かって伸びる。 そして今になって気づく。【彼は】自分がズボンをはいていないことに。 着ている服は、男からすれば馴染みのないベージュのワンピースというもの







