「ただ愛した、祝福を受けられない世界で、それでも結ばれたいと願った」 アムース子爵家の長女だった母親は、ディマルテ男爵家の跡取りと婚約していたが、結婚を目前に控えていた中で不義の子を宿し、破談となり勘当された。 母親は不義の相手を隠していたが......産まれた子である娘のミモレヴィーテが、 皇家の血を受け継いだ者でしか顕現させられない力を発現させた事により、 侯爵家の後妻として娘と共に迎えられた。 聖女の魅了。妖精王さえも魅了する力を持ったミモレヴィーテは、聖女としての人生を歩み始め、働きを求められ、しかし聖女は子を孕み産むと聖神力を損ねるため結婚は許されない。 だが、ミモレヴィーテには運命に背く願いがあった。 背信、謀略、思惑、欲望、それらの渦巻く世界で翻弄されながらミモレヴィーテは……。
View Moreこの世界は、世界と人間のみならず全ての生き物を豊かにする精霊で満ちている。
豊穣をもたらし、生き物を癒し、豊かな自然を守る。それは、天からの恵みであり、神が世界を慈愛でもって祝福している証だとされていた。 私、ミモレヴィーテは物心つく頃には世界に存在するあまたの精霊達が見えていた。精霊達は友好的で、私の事を気にかけて時には励まし時には一緒に遊んでくれた。 だからこそ、唯一の家族である母親が早朝から夜中まで働いていた為に独りで過ごす時間が長くても我慢出来た。 一度だけ、幼かった私は母親に精霊達を精霊と知らぬまま「可愛いお友達がいる」と話した事があった。飴細工かステンドグラスのような繊細で美しい羽を持っていて、私の周りをふわふわと飛んでまとわりつき皆が笑顔をたたえて話しかけてくれる。妖精達は世界のあらゆる事を知っていて、天候や大地からの恵みについても詳しかった。 けれど母親は、精霊について二度と口にしてはならないと私をきつく戒めた。それは懇願のような戒めだった。母親は、どうしてか悲しみと苦悩で顔を歪ませていた。 私を愛してくれる家族は母親だけだ。私は母親を悲しませた自分の発言を悔やんだ。そして、精霊達との交流は秘密にして誰にも──二度と口にしないと誓った。 それから何年経っただろう? 「ミモレヴィーテ、雨がやんだら町の橋に行きましょうよ」 「橋に? そこに何かあるの?」 水の精霊が私の耳もとを飛び、じゃれつくように囁きかける。私は内職の手を休めて訊ねた。精霊が心なしか胸を張る。 「綺麗なものが見えるわ。虹よ。それもね、空に端っこから端っこまで掛かって鮮やかな七色なの」 「それは素敵だわ。虹だなんて滅多に見られないもの、ぜひ見たいわ。この雨はいつやむかしら?」 「あと一時間もしないで上がるのよ。ね、ミモレヴィーテ、こんな薄暗いお部屋で手仕事ばかりしていないで綺麗なものを見ましょうよ」 「そうね……ええ、一緒に行きましょう」 「やった!」 精霊がはしゃいだ声を上げて私の周りを飛び回る。それにつられてか、他の精霊達も私に集まってきた。可愛らしいパステルカラーの精霊達がいると、殺風景な家の中が一気に華やぐ。 「皆、一緒に見に行きましょうか。虹は綺麗だもの、皆の栄養になるわ」 「本当に、ミモレヴィーテ?」 「皆で遊びに行けるの?」 「ええ。──でも、外では私に話しかけたら駄目よ?」 普通の人には精霊達が見えない。人前で精霊達と会話などしたら、独り言を言い続ける不審者になってしまう。あの家の娘は、ついに気がふれたと後ろ指をさされたら大変だ。 「うん、約束!」 「良い子ね。内職のお金が入ったら、少しだけれどクッキーを買ってあげる。皆で食べましょうね」 「やった、クッキー! ミモレヴィーテ大好き!」 「私も皆が大好きよ」 微笑んで、手を休めていた内職を再開する。雨がやむまでに一段落つくだろう。 ──この時、私はまだ何も知らなかった。 精霊達の事が見えて、親しめる力が何を意味するのか。 幼かった頃から数年を経たといっても、まだ13歳の少女だ。自分の生きる小さな部屋と母親、そして暮らす下町。それが世界の全てだった。世間を知らない私は、学べる知識も機会もなかった。 だから、虹を見に行った時──あんな事になってしまったのだ。母親との約束を破って。 「ミモレヴィーテ、早く早く!」 精霊達に導かれながら橋のたもとに向かって歩いてゆく。下町は今日も賑やかだ。この下町がある領地は税が他所より軽く、住みやすいために、暮らしの安寧を求めて移住してくる民もいた。もっとも、手に職がなければ働けないので、移民にとってそう甘い土地ではないのだけれど。 しかし、それにしても人が多い。いつもならば、こんなにもお祭りのように人がごった返す事などないのに、なぜだろうか。 周りを見ると、皆が皆、何やら晴れやかに笑っている。至るところで交わされるお喋りも声が浮き立っていて楽しそうだ。私は気になって耳をすませた。 「……ありがたいねえ、こんな田舎にまで聖女様がお越し下さるだなんて」 「救済院で癒しを行なって下さるそうだよ、うちの旦那も頼めるかねえ」 「働きすぎで腰と膝を傷めたんだっけ。聖女様なら、きっと治して下さるよ」 「ああ、ありがたい。雨もやんだし、早くお姿を拝見したいもんだよ」 「まったくだねえ。女神様みたいにお美しいって話じゃないか。楽しみだね」 「……聖女様……?」 ぽつりと、ほんの小さな声で独りごちる。噂になら聞いた事がある。何でも、不思議な力を用いて病や傷を癒せるだけでなく、国を護る祈りは天候まで操れて格段の力を持っているとか。 そんなにも素晴らしいお方がお見えになるなんて、精霊に誘われて町に出てきて良かった。もしかしたら、馬車に乗っておられるお姿を少しでも拝めるかもしれない。聖女様というくらいなのだから、どれほど神々しく清らかな美貌のお方だろう。 ──そう思っていると、精霊達が急かすように私の背中を押してきた。物理的な力はかからないから押されても転ぶ事はないけれど、はっとして虹の事を思い出す。早く行かなければ、せっかくの虹も消えてしまう。 私は歩く速度を上げて噂話から離れた。 そうして橋のたもとに着くと、ちょうど鮮やかな虹が空に掛かっていた。雨上がりの青空に映えて、おとぎ話の世界みたいだ。下町の子ども達も集まり、口々に綺麗だと歓声を上げている。自然の美しいものを好む精霊達も嬉しそうだった。代わるがわる私に抱きつき、頬に祝福のようなくちづけをしてくれる。 ──お母さんとも一緒に見たかったな……。 ふと、働きづめの母親を思う。 母親は、お腹に私を宿して下町に住むようになったらしい。理由は分からない。けれど、貧しいながらも女手ひとつで私を育てられるくらい働けるのだから、移民に甘くない町でも暮らしを始められただけの力が母親の生家にはあったのかもしれない。 そんな事を考えながら虹を見上げていると、何かの先触れの声が聞こえてきた。声のする方を見やると、きらきらした立派な馬車が多くの従者を連れて近づいてくる。町の皆が声に従って道を開けていた。 白い馬車には汚れひとつなく、繋がれた馬も毛艶や体格から相当高価な馬だと一目で分かる。もしかしたら、この馬車に乗っているのは聖女様だろうか。だとすれば町の皆の反応も、馬車の素晴らしさも納得がいく。 私も馬車の進行を妨げない場所に立ち、夢のような馬車に見惚れる。──と、私に寄り添っていた精霊達のうちの光の精霊が不意に私から離れた。精霊は、あろう事か馬車の中に入っていった。 内心で焦っていると、すぐそこまで近づいてきた馬車が私の間近に止まり、従者の一人が仰々しく馬車の扉を開く。驚きのあまり固まっていると、純白のドレスを身にまとった女性が馬車から優雅に降りてきた。辺りは一斉にどよめいて、「聖女様だ!」と叫ぶ大人の声で、女性が本当に聖女様なのだと分かった。それに、見つめてみていると、まばゆい金色の粒が女性を包んでいるのが見て取れる。まさに女神様みたいだ。生身の人間とは思えない気高さに、私は呆然とした。 「──あなた、名は?」 「えっ……」 聖女様は真っ直ぐ私の目の前に歩んで来られて、迷いなくお声をかけてきた。馬車に入っていった光の精霊が嬉しそうに私のもとへ戻ってくる。なぜだろう、他の精霊達も気持ちを昂らせているのが気配で伝わる。 とにかく、疑問は後回しにして聖女様にお答えしなくては失礼極まりない。私は声を震わせながら「ミモレヴィーテと申します」とかろうじて返事をした。 聖女様は目を細めて私を見つめ、細められた目からは感情の色が分からない。読めないというより、瞳が瞼に隠れて見えないのだ。それが私を更に縮こまらせ、心臓を激しく脈動させた。 立っているのも難しい程の緊張感。周りの人々も、聖女様に驚き見入っている。 「そう、ミモレヴィーテ……可憐な名ね。覚えておくわ。あなたとは、またいつか会うでしょう──精霊の愛し子さん」 「──!」 雷に打たれたとしたら、きっとこのような衝撃なのだろうか。畏怖、恐怖、驚愕。言葉では言い尽くせない。聖女様の考えも想像がつかない。どうして、なぜ、何が起きているのか──頭は混乱しきっていた。 しかし、聖女様はご満足なさったらしい。「ではね、ミモレヴィーテ」と優しそうなお声で告げて身を翻し、美しい所作で馬車へと戻っていかれた。残された私は、立ち尽くすしか出来なかった。 ……聖女様には、精霊達が見えておいでなのか? ようやく、そう考える。 空に掛かっていた虹は、いつの間にか消えていた。空がやたらと青い。日射しは聖女様のように眩しい。人々は遠巻きに私を眺め、ひそひそと怪訝そうに話している。 それにいたたまれなくなった時、いつも親切にしてくれる近所のおばさんが、まろぶように走って来て私にしがみついた。息を切らせて、それでも張りのある声で悲鳴に近い声音で叫ぶ。 「──ミモレ、あんた大変だよ! あんたの母親が侯爵様の馬車に轢かれて……!」 「──お母さんが?!」 現実味を感じさせなかった時間から、一気に真っ暗な現実に引き戻される。あまりにも残酷に。 ……この時から、私の運命が回り始めた。神が回したぜんまいがキリキリと歯車を動かし、その仕掛けに立たされた私は運命を舞うしかなくなったのだ。くるくると、くるくると。──それは、真っ白に輝く嵐だった。どんな銀細工よりもまばゆい光の嵐。なのに風は感じない。私は光のただ中で目を開けているのも難しいほど輝く空間に包まれて立ち尽くしていた。だが、やがて嵐が収まってゆき、光は優しく私を取り巻く。光の向こうに、誰かが見えた。金色の髪は艶やかに光を反射し、同じく金色の瞳が叡智をたたえて明るい色なのに、とても深い。向こうに誰かいる、──そう見えた次の瞬間には、そのひとは目の前に立っていた。身にまとう白い衣は見たこともない生地と作りで、その容貌を引き立てている。──こんなにも美しいひとは、見た事がない。中性的なような、どことなく男性的な風貌と容姿。神々しい程なのに威圧感はない。そのひとの私を見据える眼差しには、慈しみさえ伺えた。白銀に僅かな金色が溶け込んだような不思議な空間で、そのひとと私は相対する。相手の深い瞳は、感情を伺わせないのに温かく優しく、どこか懐かしい。「……そなたか。精霊との契約なしに、それも二度も精霊を使役した癒しを成したのは」「契約……?」声までも濁りなく美しいひとには、いつしか私と親しんでくれている精霊達が幸せそうにまとわりついていた。「王様、ミモレヴィーテは私達のお友達なのです」「精霊王様、ミモレヴィーテは私達と通じ合える事を内緒にしなくちゃいけなかったんです。契約したら、ミモレヴィーテ以外のひとにも私達が見えてしまうから」「精霊……王様?」「そうよ、ミモレヴィーテ。この方は創造神と唯一対等にお話し出来るお方。精霊の頂点に立たれるお方」これは幻だろうか?──しかし、夢幻にしては鮮やかすぎる。精霊王と呼ばれた方は、私を責める色もなく真っ直ぐに見つめてきていた。急に畏怖がやってくる。創造神とさえ対等に話せる程の方が、なぜ目の前に現れたのか。「大丈夫だ、咎め立てるつもりはないよ。ただ、本来ならば精霊の癒しは、精霊達と契約を結ばなければ十分な力を発揮出来ない。にも関わらず──ミモレヴィーテ、君は瀕死の重傷を負った母さえも癒した。それから様子を見ていたが……君につらく当たる娘さえも精霊達の力を用いて癒しただろう。精霊達と愛し子は一心同体、愛し子の心次第では悪意ある者を癒すなど出来ない。君は本当に変わっている……精霊達との親和性があまりにも強い」「それは……いけない事なのですか?」「悪くはない。しか
──そして、初めてのお茶会に参加する日の朝が訪れた。装いの選び方はミステラ夫人直伝だ。自分に何が似合うかをミステラ夫人は基本から教えて下さっていた。装いは十分なはずだ。目立ちすぎず、地味にもならず、清楚で可憐な新参者の令嬢としては完璧に近い。けれど、問題は他の貴族令嬢との交流をした事がなかった点だった。下町で育った私には、当然の事ながら貴族の方々とはまったく面識がない。そのため、お茶会では集まった数人の令嬢達とガネーシャ様が会話に花を咲かせているのを、ただ眺めているしかなかった。焦りをおもてに出してはいけない、退屈そうな素振りなど見せてはいけないと気を張り詰めて、置いてきぼりにされながら微笑みをたたえる。それにしても、昨夜から続く風の中でよく屋外のお茶会を楽しめるものだとも思う。羽織るものも膝掛けもなしにでは、暖まるのはお喋りで動かしている口だけだ。「ガネーシャ様、こちらのお茶は何て華やかな水色に爽やかな香りでしょう。とても美味しいですわ」「ありがとうございます。今日の為に東方から取り寄せた茶葉を使用しておりますのよ。よろしければカスタードのタルトも作らせましたのでお召し上がりになられてくださいませ。このお茶に良く合いますのよ」「まあ、素敵ですわ。そう言えば前回のお茶会に添えられていたミルクジャムも本当に美味しくて。お恥ずかしながら帰宅してから我が家の職人に再現させようと致しましたのですけれど、どうしてもあのお味になりませんでしたのよ。ガネーシャ様のお宅では腕の良い職人をお雇いになられておいでですのね」「お気に召されて下さったのでしたら何よりでしたわ。でしたら、今日の記念として皆様にミルクジャムの瓶詰めをご用意させて頂きますので、ぜひお持ち帰りくださいませ」「まあ、嬉しいですわ。ありがとうございます」「大した事でもございませんわ。お喜び頂けるのでしたら、それが何よりですのよ。──そうそう、アイナ様。先日は私どもをお誕生日のパーティーにご招待下さり感謝致しますわ。楽しく心踊るひと時でしたのよ。アイナ様のご婚約者様、フィヨルド様もお見かけ致しましたわ。変わることなく睦まじいご様子で憧れますの」「まあ、お恥ずかしいですわ。フィヨルド様は私を大切になさって下さいますけれど、私には甘すぎますの。実は、お誕生日の時に頂いたブローチを本日着けてまいりました
……幼い頃、一度だけお母さんが話してくれた。人生には、自分が確かに一人の生身の人間として生きていると味わえる出逢いが必ずあると。それが幸か不幸かは分からない。でも、生きている悲しみも喜びも確かに実感出来る出逢い。お母さんは何と出逢い、それを知り人生を変えたのか?私には、まだ分からない。流されるがままに毎日をこなして、今の自分に出来うる許された事をするのみだった。「──お父様、今宵はお酒が随分と進みますのね。少々お召し上がりになりすぎではないですか?」晩餐の時、ガネーシャ様が気遣わしげに口を開いた。お父様は既にワインのボトルを一本空けてしまっておいでだった。けれど、お父様は珍しく上機嫌に快活な笑みをたたえた。「なに、祝いの盃だ。今日は大変喜ばしい事が分かったからな。お前達にも話しておかねばなるまい──サリエルが私との子を妊娠したのだ」私のみならず、ガネーシャ様もブリジット様も咄嗟に言葉が出なかった。カトラリーを扱う手が止まり、お父様とお母さんを交互に見つめて──三者三様に信じられないといった思いを瞳に浮かべる。最初に気を取り直したのはガネーシャ様だった。「まあ、それは本当に喜ばしい事ですわね。お父様、……お母様、おめでとうございます。お祝いを考えなければなりませんわ」次いで、ブリジット様がことさらに朗らかな声を発する。「まさか、この歳になって弟か妹を迎えられるとは思っていませんでした。本当におめでたく、今から生まれてくるのが楽しみですね。父上、誠におめでとうございます」いっそ白々しいほどに、二人とも貴族然として新たな家族を祝福する。ブリジット様がこちらを見やって「ミモレヴィーテも嬉しいだろう、お二人の間の子はお前にとって本当の家族としての架け橋になる」と声をかけてきた。声音こそ明るいものの、言葉の端々に棘が隠されているのに気づかないほど、私も無邪気ではなくなっていた。それでも笑顔を取り繕い、鷹揚に従順に頷いてみせる。「はい、本当に驚きましたけれど……お父様、お母様、おめでとうございます。生まれてくる赤ちゃんの為にも、お母様はお身体をお大事にしてくださいね。でも、お父様がお母様をとても大切にして下さっておいでですので、きっと大丈夫と信じております」子供達の祝いの言葉を満足げに聞いていたお父様は、私の言葉が何よりお気に召したらしい。相好を
「──はい、よろしいですわ。テーブルマナーもきちんとマスターなさいましたね」「ありがとうございます!」ガラント侯爵家に迎えられて、まず付けられた指南役のミステラ夫人から頷かれて、私は声を弾ませた。貴族社会のルールやマナー、教養をミステラ夫人は事細かに教えて下さった。「下町訛りも元より耳障りな程ではございませんでしたし、きっとお母様がミモレヴィーテお嬢様を大切にお育てになられたのでしょう。明日からは刺繍をお教え致しましょうね」「はい、よろしくお願い致します」お母さんの事を褒められるのは、自分の努力を褒められるより嬉しい。侯爵様との結婚がお母さんにとって幸せか、それが分からないからなおさらだ。「──ミモレヴィーテお嬢様、お勉強はお済みでしょうか?」ドアをノックする音が軽く響き、ビオラの声が聞こえる。私は「はい、大丈夫です」とミステラ夫人が許可の目配せをして下さったのを見てから返事をした。静かにドアが開き、ビオラが深々とお辞儀をする。普段はマルタが傍に付いていてくれるので、ビオラが訪れることは珍しい。「ミモレヴィーテお嬢様、今宵の晩餐は御一家揃って食堂にてお召し上がりになられますよう、侯爵様よりお言葉がございました」「侯爵様……お父様が?」父を知らない平民だった私には、まだ言い慣れない呼び方だけれど、お父様と呼ぶように侯爵様から言われている。いずれは慣れるのだろうか。それよりも、お屋敷に迎えられてからずっと、食事は与えられた部屋へと運ばれてきてマルタの世話を受けながら一人で頂いていた。それも仕方のない事で、貴族のテーブルマナーも知らないうちから侯爵家の方々とご一緒しても恥ずかしい思いをするのは私のみならず、私を育ててくれたお母さんもなのだ。侯爵家の皆様を不快にさせるおそれもあり、私はその処遇を受け容れていた。ご一緒するのは緊張してしまいそうで怖かったというのもある。それが、お母さんの結婚から一か月経とうとしている今許された。新しい家族──義理の兄妹となった方々も含めて、疎遠というべきか滅多に顔を合わせた事もない。私がまず教わるべき事が多くて関わるいとまもなかったせいもあるものの、兄妹のお二人が私の部屋を訪れて来て下さった事は一度もなかった。「ミモレヴィーテお嬢様、ちょうどよろしいですわ。学んだ事を皆様にご覧頂く良い機会です」「はい……ですが、
* * *「お父様が再婚なされるお相手は、この侯爵家には相応しくない人なの?」ガラント侯爵家の令嬢として何不自由なく育てられたガネーシャは、小瓶を持って私室にやって来た専属メイドのショーンに問いかけた。13歳の誕生日を迎えたばかりのガネーシャは、何の苦労もなくメイド達によって指先までもが美しく手入れされており、高位貴族の令嬢らしく淑やかに高貴に振る舞う事のみを求められ応えてきていた。「まあ、ガネーシャお嬢様。メイド達の噂話でもお聞きになられましたか?」「屋敷中がこの話でもちきりよ、耳に入れるなという方が難しいわ。……アムース子爵家の方と聞いたけれど……」「ガネーシャお嬢様のお耳に触れるのは致し方ない事と存じますが……取るに足らない身分の女性ですわ。形の上では新しい母君様となりますが、亡くなられた奥様の足許にも及ばぬ者でございますので無理に親しむ必要などございませんのよ。──こちら、本日の美容水でございます」言葉の端々から、ショーンが再婚相手を蔑んでいるのが伝わる。そう、ガネーシャを産んだ本当の母親には到底敵う女性のはずがないのだ。ガネーシャは少し溜飲をおろし、ショーンから美容水の小瓶を受け取った。迷わず蓋を開け、すっと中身を飲み下す。背後に立ってガネーシャの髪を梳き始めたショーンは、その様子を心配そうに見ていた。「ガネーシャお嬢様、こちらの美容水は侯爵様からも禁じられておりますものでございます。お嬢様たってのお願いですのでお運び致しておりますけれど……」「大丈夫よ、ショーン。もう一年以上飲んできているものだわ。ほら、私を見てちょうだい──この肌の色は美容水無くしては手に入れられなかったものだわ。けれど、まだね。もう少し真珠のように……」鏡越しにショーンを見て話していると、美容水を飲んだ直後に話しすぎたのか悪心がガネーシャを襲う。口にしてしまえば美容水は二度と服用出来なくなるため、決して言えない不調をガネーシャは慣れた態度でやり過ごした。ショーンも分かっている。だから、それ以上は諌める事も不調をあからさまに気遣う事も出来ずに「本当にお美しい御髪ですこと、香油を評判の商会の物に変えてから更に艶やかになられましたわ」と話題を逸らして髪を梳く。──と、ガネーシャとショーンの二人きりだった部屋のドアが無遠慮に開かれた
──夜明けを迎える頃、ようやく眠りが浅くなってきたところで、私は夢を見た。シャンデリアが煌めく広いホールに、華々しいドレスを纏ったお嬢様達がエスコートされながら優雅に舞う。そんな光景は平民の私が見た事などないはずなのに、見下ろせば自分も艶やかなドレスを着ている事にも違和感を覚えなかった。淡いピンクのドレスは脇に白いフリルとレースをふんわりと広がるように使われていて、金糸で薔薇が蕾から花開いてゆくさまを刺繍されている。どうやら、夢の中の私は現実よりもいくつか歳上らしい。身体つきが身に覚えのない美しさだった。様々な貴族の令息らしき人達が私に声をかけ、ダンスに誘ってくる。私はひらりと断り、ホールの隅にある椅子へと向かって飲み物をとり、疲労の息をついていた。そこに、お会いした事もないのに不思議とどこか懐かしさを感じさせる令息がやって来て私に向かって穏やかに話しかけた。「ミモレヴィーテお嬢様、デビュタントのパーティーは楽しめておられますか?」「はい、皆様お美しくて蝶か妖精のようです」「このパーティーで最もお美しいお嬢様ですのに、謙虚でおられますね」彼は手入れの行き届いた黒髪に深い緑の瞳が、僅かな影を落としていて私などより遥かに美しく見える。返答に困っていると、すっと手を差し出してきた。「ミモレヴィーテお嬢様、私とダンスを楽しむ栄誉をお与えくださいませんか?」私がファーストダンスは既に他の人──パートナーと済ませていたと、夢の中の私はなぜか認識している。目の前の令息はご令嬢達から注目されていたらしい。羨む声に溜め息が、さざ波のように聞こえてくる。「──はい、よろしくお願い致します」恭しく出された手に自らの手を重ね、私は立ち上がった。あれだけ令息達からの誘いを断ってきていたのに、どうしてか目の前の彼と踊ることは自然に受け容れられた。ホールの中央に歩んでゆくと、ゆったりとした曲に変わる。手を重ね、吐息さえ感じそうな距離で二人踊り始めた。リードが上手いというだけでは納得出来ないほどに踊りやすい。身体が軽くて、まるで広大な空に踊っているかのようだ。「──ミモレヴィーテお嬢様、私は……」熱を帯びた声音で彼が囁きかけてくる。どきりと心臓が脈打ち、私は彼を見つめた。互いの眼差しが絡み合う。──そこで、夢は唐突に途切れた。「……あ……」目を覚ますと、大き
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