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第101話

Author: ルーシー
小燕邸をあとにした玲奈は病院へ戻り、ふたたび勤務にもどった。

午後の仕事のあと、彼女は昂輝と夕食の約束をしていた。

大学院進学や博士課程のことを考えている今、彼から経験談を聞いておきたかったのだ。

昂輝は上機嫌で自分の好物をいくつか注文した。

テーブルを挟んで向かい合うふたりは、話に花を咲かせた。

大学時代のこと、学業のこと、大学院進学の大変さ、初めて手術台に立ったときの緊張――

話題は尽きなかった。

昂輝は話もうまく、これまでのキャリアの興味深い出来事を次々と語った。

もちろん進学に関するアドバイスもしたが、彼女が緊張しないよう、話題が試験に偏りすぎないよう配慮もしていた。

和やかで、穏やかな時間だった。

玲奈にとって、こんなにも自然に笑えたのは久しぶりだった。

昂輝の語る大学院や博士課程の厳しさに、思わず身を構える一方で、どこか羨ましくも感じる。

もし、あのとき結婚ではなく進学を選んでいたなら――

今ごろは、昂輝と同じ舞台に立っていたかもしれない。

だが、それも叶わなかった夢にすぎない。

一度は逃してしまったチャンス。

だからこそ今度は、このチャンスを無駄にしたくなかった。

食事が終盤に差しかかった頃、昂輝は小さなバッグをテーブルに置いた。

「ここに何冊か本を入れてある。重要なところにはマーカーを引いてある。君の力なら、三ヶ月後にはきっと合格を手にすることができるはずだ」

玲奈はそのバッグを受け取り、気持ちを込めて言った。

「ありがとうございます、先輩」

昂輝は笑みを浮かべながら、彼女がいつか医学の世界で大きな存在になることを願っていると告げた。

ちょうどその頃――

店の入り口には、智也と沙羅が連れ立ってやって来た。

智也の姿を見つけた店員が、すぐに駆け寄って声をかける。

「新垣様、いつものお席でよろしいですか?」

「うん」と智也はそっけなく答えた。

「では、こちらへどうぞ」と案内され、ふたりは玲奈たちの席の後方にあるテーブルへと通された。

二組の席は、ちょうどテーブル二つ分ほど離れており、互いの会話が聞こえるような距離ではなかった。

玲奈は、智也たちに背を向けて座っていた。

智也が席に着いたとき、ふと視線をやった先に思いもよらず玲奈の姿を見つけた。

しかし、その胸中に特別な感情が湧くことはなかった。
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