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さようなら、初恋
さようなら、初恋
Author: 豹ちゃん

第1話

Author: 豹ちゃん
「黒澤さん、本当に全身の臓器を提供するおつもりですか?」

「はい、間違いありません」

そう言いながら、黒澤真希(くろさわ まき)はまるで解放されたかのように微笑んだ。

医師は一瞬言葉を失い、再び説得を試みた。

「確かにがんは末期に進行していますが、適切な治療を受ければ、少しでも命を延ばせる可能性があります」

でも、真希はますます笑みを深め、迷うことなく首を横に振った。

「必要ありません。先生、私は毎日、死を待ち望んでいます。

おそらくあと一ヶ月の命でしょう。その日が来たら、病院に連絡しますので、全身の臓器を提供してください。

多くの人を助けられれば、それで十分です。お手数をおかけしますが、よろしくお願いします」

穏やかにそう言い、真希は微笑んだまま立ち上がって去っていった。

医師は呆然と彼女の背中を見送った。これほどまでに死を望む患者に出会ったのは初めてだった。

――病院を出ると、スマホが鳴った。

画面に表示された名前を見て、真希の指先が一瞬固まった。

「もしもし」

「今日はなんで休みを取って、どこへ行ってた?」

冷たく低い声が、電話の向こうから聞こえてきた。

真希は一瞬迷い、正直に答えなかった。

「ちょっと風邪をひいて」

相手は明らかに関心がない様子で淡々と告げた。

「琵琶ホテルの314室に」

真希は何も言わず、すぐに向かった。

個室の扉を開けると、中には古川万尋(ふるかわ まひろ)のビジネス関係者が大勢いた。

「おっ、黒澤さんの登場か!噂には聞いてるよ。酒にはめっぽう強いらしいね?」

「酒を武器に数々の契約を取ったって話だ。今日はぜひその腕前を見せてほしいな」

「ここに九十九杯の酒がある。一気に飲み干せたら、契約を結んでやるぞ!」

それに、ソファに座る万尋は、意味ありげな笑みを浮かべ、静かに口を開く。

「期待を裏切るなよ」

周囲の視線が一斉に注がれるから、真希は一瞬の迷いも見せず、微笑みながらグラスを手に取った。

「では、僭越ながら」

――一杯、また一杯と飲み干していく。

胃が焼けるように痛む。

胃がんに蝕まれた身体には、痛みが何十倍にも増幅されると感じられた。

真希の顔色はどんどん青ざめ、指先まで震えていた。

それでも、彼女は止まらなかった。

そして――九十九杯目。

万尋は最後まで、一言も発さずに彼女を見ていた。

最後の一滴が喉を通った瞬間、部屋中に拍手が響いた。

「すごい!まさに伝説だな!」

真希は額に汗を滲ませながらも、なんとか微笑んで見せた。

すると、一人が興味深そうに声をかけた。

「黒澤さん、古川社長の下で働くには惜しいな。あんな酷い扱いを受けてるのに、俺のところに来ないか?」

真希は静かに微笑み、低い声で断った。

「お気遣いありがとうございます。でも、うちの社長はとても良くしてくださっていますので」

相手は「じゃあ、給料を三倍にしよう!」と言った。

それでも、真希は首を横に振った。

誰もが不思議そうに尋ねた。

「どうしてそこまでして、古川社長の元にいる?」

真希の笑みが少しだけ薄れた。

「償わなければならないんです」

相手は、会社に借金をしていると勘違いし、残念に思いながらも、仕方なく諦めた。

この夜の契約は、無事に成立した。

食事が終わり、夜が更けた頃。

万尋の運転手が近所から迎えに来て、真希がいつものように助手席に乗り込んだ。

万尋は彼女と一緒にいるのが大嫌いなのだ。

ようやく運転手が、真希の家の前で車を止めた。

「ありがとうございました」

彼女は疲れ切った声でそう言って降りた。

万尋がついてきていることに気づいていなかった。

彼は、ふらつく彼女の背中をじっと見つめていた。

その瞳は、深い闇を湛えていた。

エレベーターを降り、鍵を取り出した瞬間。

突然、手首を掴まれ、壁に押し付けられた。

廊下の人感センサーが作動し、淡い光が二人を包んだ。

次の瞬間。

万尋は真希の顎を掴み、強引に唇を塞いだ。

熱く、深く、呼吸を奪うようなキス。

ようやく唇が離れた時、彼の目には、涙のような赤みが滲んでいた。

震える声で、低く囁いた。

「そんな顔をして……俺の同情を引くつもりか?誘われても行かない?お前は……どうしてまだ俺の元にいる?」

真希は荒い息を整え、静かに答えた。

「償わなければならないんです」

その言葉が、万尋の逆鱗に触れた。

彼は拳を振り上げ、壁に叩きつけた。

その目に宿る憎しみは、刃のように鋭く、彼女の心をえぐっていた。

「なら……いっそ死ねばいいだろう?なぜ死なない?」

真希は、苦笑した。

――そのつもりだ。もうすぐ、そうなる。

何かを言おうとしたその時、万尋のスマホが鳴った。

彼は画面を見た瞬間、呼吸が少し乱れた。

表示された名前は――夏目京香(なつめ きょうか)。

彼の婚約者。

万尋は深く息を吐き、背を向けた。

電話を取ると、柔らかな声色で応じた。

「京香」

その瞬間、彼は再び「優しい古川社長」に戻っていた。

ただ、京香の言葉を聞いた彼は表情がふと揺らいだ。

そして次の瞬間、言葉もなく、彼は踵を返し、静かに去っていく。

真希は、壁にもたれかかった。

彼の背中が闇に消えた後、彼女はようやく扉を開け、浴室に駆け込んだ。

そして――

血を吐いた。

紅い、紅い塊が、何度も、何度も。

目の前の便器は、鮮血で染まっていた。

真希はそれを無表情で見つめ、流そうとしたが、そのまま意識を失った。

真希は夢を見た。

大学時代の夢だった。

梧桐の木の下、万尋と古川江茉(ふるかわ えま)と並んで歩いている。

江茉は真希の腕を引っ張りながら、甘えた声で言った。

「真ちゃん、週末にうちの学部と法学部でコンパがあるの。一緒に行ってくれるでしょ?」

万尋の顔色がさっと曇り、真希の手をぐいっと引く。

「お前、俺の彼女を勝手に誘っていいなんて、誰が言った?」

「お兄ちゃん、ケチすぎ!」

あの頃は、本当に幸せだった。

大学で江茉と出会い、彼女と親友になるまで、幼い頃に両親を亡くした真希は、ずっと孤独だった。

江茉の兄・万尋は、学内でも『高嶺の花』と称される存在だった。

冷たく気高く、女性を寄せ付けない雰囲気を纏いながらも、毎日大量のラブレターを捨てるような人だった。

真希はそんな彼に話しかけることすらためらっていた。

しかし、彼はいつも真希のそばにいた。

ノートをまとめてくれたり、一緒に図書館に勉強してくれたり、家まで送ってくれたり。

ある日、土砂降りの雨の中、傘を持たずに帰れなくなった真希を迎えに来たこともあった。

二人、一本の傘の下。

真希はとうとう聞かずにはいられなかった。

「古川君がこんなに優しくしてくれるのは、江ちゃんの友達だから?」

彼は無表情のまま、真希を壁際に追い詰めた。

「本当にバカだな。今ここではっきり教えてやるよ。どうしてお前に優しくするのか」

そう言って、彼は彼女の後頭部を押さえつけ、その唇を奪った。

その日から、二人は恋人になった。

これは、五年前。結婚式の前夜までのことだった。

あの日、真希と江茉は映画を観に行った。

夜も更け、二人は帰り道に狭い路地を通った。

その時、酒に酔った数人の男たちに行く手を阻まれた。

男たちは酔っていて、口にする言葉は卑劣そのものだった。

彼女たちを壁際に追い詰め、どこへも行けなくした。

二人とも恐怖で震えていた。

結局、江茉は真希を振り返り、力の限り男たちを押しのけながら叫んだ。

「真ちゃん!逃げて!」

真希は分かっていた。

彼女たち二人では、この酔っ払いどもに敵うはずがない。

だから――黒澤真希は逃げた。

向かいの通りまで走り、助けを求めた。

だが、助けを連れて戻った時には、すでに手遅れだった。

路地は静まり返り、男たちは姿を消していた。

地面には荒れ果てた惨状が広がり――

血まみれの江茉が横たわっていた。

何度も蹂躙され、命を奪われた彼女が。

万尋が駆けつけた時、彼が目にしたのは、江茉の無惨な遺体だった。

誰の目にも明らかだった。

彼女がどれほどの地獄を味わったのか。

万尋は呆然と立ち尽くした後、真希の手を掴み、震える声で叫んだ。

「なぜ逃げた!?なぜ江茉を捨てた!?お前は……なぜ逃げたんだ!!」

真希には、答えられなかった。

誰よりも、自分を憎んでいたのは彼女自身だった。

それ以来、古川家の人間は誰一人として、真希を許さなかった。

最愛の友を失い、愛する人とも敵同士になった。

でも、もうすぐ――彼女は死ぬ。

よかった。

江茉に直接、謝ることができる。

そして万尋も、やっと彼女から解放されるのだ。
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