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蒼き山に縛られし骨と沈む月

蒼き山に縛られし骨と沈む月

作家:  柚子ひとつ完了
言語: Japanese
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概要

切ない恋

ドロドロ展開

ひいき/自己中

クズ男

偽善

偽装死

三年前―― 紗夜の家族三人は、燃え盛る炎の中に閉じ込められた。 目の前で、両親が炎に呑まれていく。 その絶望の中、助けに飛び込んできたのは晴人だった。 それから、紗夜はどうしようもなく晴人に惹かれ、三年間、彼が織り上げた優しさに溺れていた。 でも―― あの日の火事、実は晴人自身が起こしたものだったと知る。 彼が近づいたのも、付き合い始めたのも、すべては彼の思い人のための復讐だった。 愛も、幸せも、全部最初から嘘だった。 「だったら、私も晴人の復讐ごっこに最後まで付き合ってあげる」 そう決めた紗夜は、自分が死んだように見せかけて姿を消す。 けれど、晴人が焼け焦げた紗夜の遺体を目の当たりにした瞬間、完全に正気を失った。

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第1話

第1話

結婚して六年、天音は夫の深い愛情がすべて偽りだったことに気づいた。

男ってなんでこんなに演技が上手いんだろう。

蓮司は「愛してる、すごくすごく愛してる」と言ってくれた。でも、これが本当に愛なのか?

天音は彼のもとを去ることを決めた。

「隊長、すぐにチームに復帰させてください」

「天音、君が突然いなくなったら、きっと蓮司は狂うぞ」男の淡々とした声にはわずかな驚きが混じっていた。彼は天音と蓮司が六年の結婚生活を送り、一人の息子を育て、円満な家庭を築いていたことを知っていた。

夫の蓮司は彼女を深く溺愛していた。

「彼のことはもうどうでもいいです」天音は携帯をぎゅっと握りしめた。

「分かった。君を失ったことは組織にとって最大の損失だった。長くても一ヶ月以内に、すべてを手配する。その時『天音』はこの世から消え、『叢雲(むらくも)』がチームに復帰することになる」

「ありがとうございます、隊長」

天音は携帯をしまった。

パソコンのモニターには、男と女が別荘のあらゆる場所で体を重ねあっている映像が流れていた。

その映像は天音の目を容赦なく刺した。

天音はこれまで思いもしなかった。十年の付き合い、学校で出会い結婚まで至った人が、まさか自分を裏切るなんて。

彼は息子の家庭教師と浮気していた。

書斎の床には色とりどりのコンドームが散乱し、いくつかは金庫中の結婚証明書の上にまで散らかっていた。

息子を産んでから、天音の体は消耗しきり、第二子を望んでいたが、もう妊娠することはできない。

だから二人はもうコンドームなど使っていなかった。

なのに、モニターの中の蓮司は次々とコンドームを開け、満足することがなかった。

蓮司はどうして天音にこんなことができたのか。

パソコンの画面に、突然チャットログが現れた。

蓮司のLINEはパソコンとスマホで同期されている。

【大智くんは、これから天音さんのことをお母さん、私のことをママって呼んでくれるって。旦那さん、あなたは?】

チャット欄の右下にすぐ返信が来た。

【嫁】

天音は「嫁」という言葉を見た瞬間、椅子に崩れ落ち、両手で胸を押さえた。

両手を握りしめ、爪が手のひらに食い込み、血が流れた。

でも、手の痛みよりも心の痛みのほうがそれを凌駕していた。

天音は無理に自分を落ち着かせて、数え切れないほどの破廉恥なチャット履歴を最後まで読んだ。

息子の風間大智(かざま たいち)が生まれてから、蓮司の浮気が始まったのだ。

五年の間。

それなのに蓮司は見事に全てを隠し通していた。

床に落ちている幸せそうな結婚写真は、山のように積もるコンドームよりもずっと目に刺さった。

天音は息子を思い出した。

今日は幼稚園の親子イベントの日で、大智が今、中村恵里(なかむら えり)と一緒にいて、彼女をママと呼んでいると思うだけで、天音の心はどうしようもなく痛む。

あの子は私の息子なのに。

天音は車の鍵を手にして階下へ向う途中、メイドたちのひそひそ話が耳に入ってきた。

「いやだ、何これ、どうして奥様の服の中に?」

「穴だらけの布きれだけど、これも服と呼べる?」

「しっ、恵里さんのだよ」一人のメイドが声をひそめた。

「彼女の部屋に投げ入れちゃえ」

「悪い女だね、他人の旦那を誘惑して天罰も恐れないなんて……」

天音は、メイドたちが一階のゲストルームの恵里の部屋を開け、セクシーな透け透けのナイトウェアを放り込むのを見ていた。そのあと彼女たちはくすくす笑った。

「天音奥様?天音奥様!」

メイドたちはリビングでぼう然と立ち尽くす天音を見て、慌てた様子でその場を去っていった。

結局、この別荘で騙されていたのは天音だけだった。

天音は心身ともに消耗し、幼稚園に駆けつけると、恵里と大智がふざけ合っていた。

「ママ、マンゴーケーキはどうしたの?」

手ぶらで来た母を見て、大智は不満そうに詰め寄った。

「ごめんね、大智くん」

「だったら、早く買ってきてよ」大智はふくれっ面で言った。「恵里さん、何度も食べたいって言ってたでしょ」

「気にしないで、大智くん。食べたくなったら、自分で買いに行くから」恵里は優しく微笑んだ。

天音は自分の愚かさに苦笑した。前は、恵里が大智をよく世話してくれていたから、いつもご褒美をあげていたのだ。

大智は恵里を喜ばせたくて必死だった。「恵里さん、あのお店すごく美味しいって言ってたよね?すごく人気で三時間も並ばないと買えないって」

「恵里さんは僕と一緒にいるんだから、三時間も離れちゃだめだよ。だから、お母さんが買いに行けばいいんだよ」

「天音さんに行かせるのはかわいそうだよ」

「お母さんって、僕のことなら何でもしてくれるんだよ。だって、お母さんは僕がいちばん大事なんだから」

大智の口調には、天音を支配しているかのような誇りがあった。

その言葉を聞いて、天音の心は締め付けられ、目には冷たい光が宿った。

そのとき、幼稚園の先生がやってきて、「二人三脚を、みなさん親御さんと一緒にやりましょう」と声をかけた。

天音は大智と遊びたくて、優しく声をかけた。「大智くん、ママと一緒にやろっか?」

「大丈夫だよ」大智はロープを手に取り、夢中で恵里と自分の足を結びつけ、振り向きもしなかった。「恵里さんの方がこのゲームに向いてるから」

「大智くん、私が本当のママなのよ!」天音はあきらめず、大智の手をつかんだ。

でも、大智はその手を乱暴に振り払い、鋭い声で、「お母さんうるさいよ。僕のために恵里さんに譲ってよ」

天音の心は鋭く刺された。「なんてことを言うの?」

天音は命を懸けて、大智を産んだ。

一つ一つ自分の手で大智を育て、毎日そばにいた。

なのに、恵里がたった三ヶ月の面倒を見ただけで、大智はこんなにも彼女に肩入れするなんて。

「天音さんって、大智くんのためなら何でもやっちゃうんでしょ?それにさ、体操選手みたいなママ、欲しくない子なんていないよね。私のほうが若いし、元気だし……それに、綺麗だしね」

「恵里さんなら絶対勝てるよ!」

恵里と大智は手のひらを合わせてハイタッチした。

恵里は大智の手を引き、天音を見上げる目には挑発の色が浮かんでいた。

天音は全身を震わせながら怒りをこらえた。

「何様のつもりだ。俺の妻に向かって無礼な口をきくとは」

蓮司は冷ややかな声で怒りをあらわにし、天音の腰を引き寄せた。「お前はただの大智の家庭教師だ。俺の妻に逆らうなら、すぐに出ていけ!俺の妻に謝れ!」

恵里はすぐに顔を伏せ、肩を小刻みに震わせて、怯えきったふりをした。「ごめんなさい、もう二度としません」

蓮司と恵里が結託して天音を欺くのを見た。

天音の心はすでに冷え切っていた。

天音は今、ただ大智がそばにいてくれることだけを望んでいる。大智を連れてここから出て行きたい。

しかし突然、大智は彼らに向かって狂ったように叫んだ。「パパ、どうして恵里さんに怒るの?だって、恵里さんの言う通りだよ、ママは本当にバカで年寄りなんだから!」

大智は恵里をかばい、天音を一切評価しなかった。

大智がなぜこんなふうになったのか?

天音は震える声で尋ねた。「そんなに彼女が好きなの?彼女にママになってほしいの?」

大智は目を見開き、極めて冷淡な声で言った。「そうだよ!」

その一言が天音を完全に崩壊させる最後の火種となった。

大智は恵里の手を取って、スタートラインへと駆けていった。

二人が寄り添い、コースを駆け抜け、楽しげに笑い合う姿を見た。

天音は絶望的な悲しみに襲われた。

「天音、子どもはまだ幼いからゆっくり教えてやって。無理して体を壊さないで、俺が後で母さんに言って、恵里を追い出すよう頼むから」蓮司は天音の耳元でささやいて慰めた。

蓮司の優しい眼差し、長年変わらぬ甘い言葉は気持ち悪く感じるようになった。

天音の心は限界だった。

父子がそろって彼女を選ぶのなら、天音は誰もいらなかった。

天音にもう未練はない。天音は蓮司を押しのけ、幼稚園を後にした。

最長で一か月、天音はこの世から消える。

これからは、空も海も果てしなく広がっていく。

天音のそばに、彼らの居場所はもうなくなった。
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第1話
曇市一の高級ホテル、そのVIPスイートのバスルーム。 全身裸のまま、朝倉紗夜(あさくら さよ)は葛城晴人(かつらぎ はると)に押さえつけられ、浴槽の中で激しく抱かれていた。 目の前には巨大な窓ガラス、半分の街が夜景になって揺れている。 晴人は興奮した様子で首筋をきつく掴み、「どう?ドキドキしてる?」と挑発的に囁いた。 ようやく全てが終わると、紗夜はぐったりとバスタブに沈み、少しだけ目を閉じてしまう。 再び目覚めたとき、バスルームには自分一人しかいなかった。 ドアは外から鍵がかかっている。 紗夜は必死に叩いたけど、外からは何の気配もない。 「晴人!そこにいるの?ドアが壊れたみたいで、開かないよ!」 「晴人!」 叫んでも、返事はない。 三年前の火事がトラウマになって、紗夜はひどい閉所恐怖症になっていた。 狭い空間に閉じ込められると、恐怖と震えが止まらなくなる。 必死に助けを呼んでも、誰も来てくれない。 呼吸はどんどん荒くなり、胸が締め付けられていく。 頭の中には、両親が炎に包まれていく映像が離れなかった。 気を失いかけたそのとき、ようやく外から物音がした。 「紗夜、ドアが壊れちゃったみたい。もう少しで開くから、頑張ってて」 晴人が業者を連れて戻ってきた。 ドアが開いた瞬間、紗夜は晴人の腕の中で気を失った。 「紗夜、ごめん。全部俺が悪いんだ。ずっと側にいなきゃいけなかったのに」 優しく抱きしめる晴人の目は、ひどく心配そうだった。 少しだけ休んでから、晴人は隣のスイートで友人たちとカードゲームを始めた。 さっきの恐怖も不快感も、まだ胸の奥に重く残っている。 無理やり身体を起こし、みんなの夜食でも持っていこうと部屋を出る。 隣の部屋のドアは半開き。 中から聞こえてくる声が、どうしても耳に入ってしまった。 「晴人、俺は思うんだけど、さっきもっと放っておいてやればよかったんじゃね?もっと症状悪化してたかもな。そっちのが復讐になるだろ」 「はは、あいつ絶対まだ晴人のこと救世主とか思ってんだろうな。笑えるよなぁ。晴人があいつのことなんか好きなわけないのに。三年間も付き合ってやったのは、全部復讐のためだってのにさ」 「だよな。卒論も、こっそり晴人がすり替えたせいで卒業証書
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第2話
晴人は酒の匂いをまとって部屋に戻り、ベッドに上がるなり紗夜を抱き寄せた。 後ろから細い腰をしっかりと抱きしめる。 低い声で、優しく名前を呼ぶ。「紗夜、紗夜、会いたかった」 仕草も言葉も深く愛おしげで、紗夜には一瞬、本気なのか分からなくなってしまう。 背中が少し強張る。紗夜は晴人の手の上にそっと自分の手を重ね、深く息を吸い込みながら、試すように問いかけた。 「晴人、本当に私のこと、愛してる?」 男は猫みたいに彼女の柔らかい髪に顎をすり寄せ、何の迷いもなく答えた。 「愛してる。すごく愛してるよ。紗夜、ずっと一緒にいよう。絶対に離れたりしないから」 紗夜の目は焦点のないまま虚ろに揺れ、晴人の手を自分の胸の上に導いた。 少し間を置き、静かに言う。 「うん、一生離れないよ」 晴人が自分を利用して復讐を遂げようとしているなら、紗夜もまた自分のすべてを賭けてその想いに応じる覚悟だった。 やがて男は眠りに落ち、静かな寝息を立てる。 紗夜は突然身を起こし、晴人のスマートフォンを手に取った。 まず自分の誕生日をパスワードに入力してみる。エラーだった。 口元に自嘲気味の笑みが浮かぶ。次に井芹夏穂(いせり かほ)の誕生日を入れると、あっさりロックが解除された。 何年も騙されていた自分が悔しい。 こんなにも晴人の嘘と復讐に気付かなかったなんて。 紗夜はLineを開き、晴人と友人たちのグループチャットを見つけてタップした。 「晴人、あと一ヶ月で夏穂の命日だな。その日に思いっきり派手なことやろうぜ。紗夜にガツンと教えてやるんだ、夏穂の供養にもなるだろ」 「そうだな、オレにいい案がある。三年前の悪夢をもう一度味あわせて、もっと大きな火事を体験させるんだ。そしたら晴人が颯爽と現れて助け出してやれば、ますます晴人に夢中になるさ。彼女が死ぬほど晴人を愛したその時に、パッと振ってやればいい」 晴人はしばらくしてから返信した。 「分かった。ただ、やりすぎるなよ。安全には気をつけろ」 「晴人、どうしてそんなに優しいんだ?忘れたのか?あいつがいなければ夏穂は死ななかったんだぞ」 「まさか、本当にあいつに情が移ったんじゃないだろうな?」 晴人はすぐに返した。 「ありえない。あいつは夏穂を殺した犯人だ。この先一生
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第3話
翌日、晴人は紗夜をバーに誘った。 「体調がよくないから、今日はやめておく」と断ったが、晴人は紗夜を強く抱きしめ、耳元で優しく囁く。 「行こうよ、紗夜。前にホテルであんなことがあって、みんなまだ心配してるんだ。たまには気分転換もしようよ」 まっすぐに晴人を見つめる。 また何か企んでいるのか、今度はどんな手で復讐しようとしているのか、紗夜には分からなかった。 少しだけ軽く笑ってみせる。 「分かった、行くよ」 バーに着くと、みんなが次々に紗夜にお酒をすすめてくる。 紗夜はそのすべてを断らず、グラスを一気に飲み干した。 あまりにも気持ちよく飲むので、みんなの表情には満足げな色が浮かぶ。 「紗夜、私からも一杯」と井芹夕凪(いせり ゆうな)がグラスを持って微笑みながら近づいてきた。 夕凪は夏穂の双子の妹で、姉と七割がた似ている。この数年ずっと晴人のそばにいた。 以前は友達だと思っていた。 けれど晴人との関係の真実を知ってからは、夕凪のことも素直に見られなくなっていた。 「ありがとう」 紗夜はグラスを持ち上げ、一息で飲み干した。 そのとき、夕凪の足元が滑り、手に持っていたグラスの酒がすべて紗夜の服にこぼれた。 「わっ、大変!ごめんね、紗夜。大丈夫?」 夕凪は心配そうに見せかけて声をかける。 「大丈夫」 頬が赤くなり、紗夜は頭を軽く押さえる。まるで酔っ払ったように見せかけた。 「服が濡れたままだと風邪ひいちゃうよ。上で着替えよう?」 晴人の顔を見ると、晴人も「大丈夫だよ、行っておいで」とうなずいた。 紗夜は立ち上がり、夕凪に支えられながらふらふらと歩く。 バーの上の階には、きれいな個室が用意されている。 夕凪は紗夜を部屋に連れていくと、「まず服を脱いでて。私が新しい服を取ってくるから。ここで待っててね、勝手に出歩いちゃだめだよ」と言い残して部屋を出ていった。 「うん、分かった」 紗夜は答える。 扉が閉まる。 さっきまで酔ったようだった紗夜の表情が一変する。 目は澄んでいて、どこにも曇りがない。 事前に飲酒対策の薬を飲んでいたから、いくら飲まされても何も感じない。 全部、彼らが何を仕掛けてくるか確かめるためだ。 晴人の服にはあらかじめ盗聴器を仕込んでおい
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第4話
「姉さん」という言葉を聞いた瞬間、晴人の表情はようやく少しだけ強くなった。 そうだ、紗夜が夏穂を殺したんだ。 彼女がどんな目に遭おうと、自業自得だ。 ――なのに、泣きはらした目で自分にしがみついてくる紗夜の姿を思い浮かべた途端、晴人の胸はほんの少しだけ痛んだ。 晴人は我慢できずに何杯も酒をあおり、アルコールが喉を焼くたびに、額にじんわり汗がにじんだ。 酔いで神経も頭も鈍らせて、無理やり考えないようにした。 そのころ、上の階。 氷川烈(ひかわ れつ)がドアを開けると、強い酒の匂いと、ほのかに甘い女の香りが混じっているのに気づいた。 烈はすぐに警戒し、荒々しい声で言う。 「今すぐ出ていけ」 ベッドの布団から、紗夜が小さな頭をそっと出す。 彼女はじっと烈を見て、口元に笑みを浮かべ、まったく動じることなく言った。 「取引しましょう」 烈が眉を上げる。「どんな取引だ?」 「二億円払うから、今夜だけここで寝させてほしい。あなたは何もしなくていいし、何も言わなくていい」 しばらくの沈黙のあと、烈は目の前の図太い少女をじっと見つめる。 自分の正体を知らないらしい――曇市で最も金に困らない男。それなのに二億円で一晩買おうとする女なんて、初めてだった。 なのに、なぜか烈は不快にならず、むしろ珍しく怒りもせず、その突拍子もない提案を受け入れた。 二人は何もなく、一晩を過ごした。 翌朝。 晴人が慌ててドアを叩きに来た。 「紗夜!紗夜、中にいるのか?無事か?」 紗夜はまだ洗面所で何かしていて、烈はソファに座り、面白そうに事の成り行きを見守っていた。 やがて、紗夜が出てくる。 彼女はシルクのキャミソールを身に着け、髪は少し乱れ、目は赤く泣き腫らした様子。 もともと白く細長い首筋には、青紫の跡がちらほら残っている。まるで……キスマークのようだった。 烈の瞳にはさらに遊び心が増す。 紗夜はゆっくりとドアまで歩き、扉を開けた瞬間、涙が糸の切れた真珠のように溢れ、晴人の胸に飛び込んだ。 彼女は泣くばかりで、何も言わない。 そんな紗夜の姿に、晴人も、彼の後ろにいた友人たちも、誰もが絶句した。 「どうして……どうしてこうなったんだ?」 晴人は彼女の細い体を抱きしめ、信じられないという
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第5話
「紗夜、ごめん。全部俺が悪い。だから、もう泣かないで。殴ってもいい、罵ってもいい、お前が少しでも元気になるなら、それでいいんだ!」 紗夜はただじっと晴人の目を見つめていた。 大きな瞳は涙で潤んで、言葉もなく、傷ついた小犬のように見えてとても哀れだった。 他の人たちは誰も一言も声を出せない。 晴人はとても長い時間をかけて、ようやく紗夜をなだめて眠らせた。 そっと起き上がり、ドアを閉めた瞬間、晴人の表情は一気に冷たくなった。 階下へ降りると、彼はみんなを鋭く睨みつけた。 その目の中の怒りは、この部屋を燃やし尽くしそうなほどだった。 「どういうことだ?絶対に失敗しないって言ったよな?」 「氷川は今まで女に全然興味がなかったんじゃないのか?お前ら、どうなってるんだ?」 みんなは晴人の様子に圧倒され、息をひそめて顔を見合わせるだけで、誰も答えようとしない。 夕凪が少し不満げに唇をかみ、そっと晴人の肩に手を置く。 「晴人……」 「放せ!」晴人は即座に手を振り払う。 夕凪の手は半端なまま宙に残り、気まずそうに固まった。 しばらくして、彼女は頭をかきながら、苦笑いを浮かべて続けた。 「晴人、別に一度寝られたくらいで何なの?そんなに大したことじゃないでしょ?だって本気で好きなわけじゃないんだから、どうしてそんなに怒るの?」 他の人たちも口々に声をあげる。 「そうだよ、晴人。まさか本当に紗夜のこと好きになっちゃったんじゃない?忘れたの?あの子が夏穂を殺したんだよ!」 夏穂の名前を聞くと、晴人のこめかみがぴくりと跳ねた。 彼は苛立たしげに手を振る。 「そんなわけないだろ。ただ腹が立つんだよ、計画通りにいかなかったことに!お前らの計画じゃ紗夜がボコボコにされるはずだったんだろ?でも今は……」 なぜか、晴人は無意識に紗夜がベッドで他の男に好き勝手されている場面を想像してしまい、息が荒くなる。 「大丈夫だよ、晴人。失敗したっていっても、これだって十分な復讐になったじゃない。さっきの紗夜、あんなに泣いてたじゃん。それに、私に考えがあるから!」 夕凪は口元にずる賢い笑みを浮かべた。 「でもさ、どんな女の子だって、こんなこと耐えられるわけないよ。紗夜はあんなに晴人のことが好きなのに、もしこのショックで
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第6話
紗夜はそっと部屋へ戻り、ドアを閉めて電話をかけた。 「叔父さん、もう一つお願いがあるの。三年前、曇市のダンススクールで女の子が飛び降りて亡くなった事件、その真相を調べてもらえないかな」 叔父と連絡が取れたのは、三か月前のことだった。 この世界に、まだ親族がいると知ったのはその時が初めてだった。 叔父はずっと紗夜に家に戻って遺産を継いでほしいと言っていたけど、晴人への愛が強すぎて、これまでずっと断り続けていた。 けれど今になって分かった。どんなに燃えるような恋でも、血の繋がった家族にはかなわない。 今回は自分の身を賭けて、晴人の人生を悔恨と苦しみで埋め尽くしてやると決めていた。 「紗夜、明日曇市の上流階級が集まるパーティーがある。一緒に行こう。みんなにお前を紹介しておきたい。これから結婚すれば、こういう場も増える。今のうちに慣れておかないとな」 洗面台の前で立っていると、晴人がすっと後ろから腰を抱きしめてきた。 柔らかい耳たぶにそっとキスを落とし、髪の香りを深く吸い込む。 鏡越しに見える自分の顔は、どこか作り笑いだった。 「うん」 晴人が手を伸ばし、ナイトドレスのリボンに手をかける。その手を紗夜は無意識に押さえてしまう。 「晴人、今日は体調が良くないから、やめておこう?」 男はしばらく紗夜の潤んだ瞳を見つめ、何かに気づきかけたような表情を浮かべる。 だがすぐに、烈と一緒に過ごした夜のことが頭をよぎり、苦笑しながらうなずいた。 「わかった。じゃあ、ゆっくり休んで。隣の部屋で寝るよ、邪魔したくないし」 「うん。おやすみ、晴人」 「おやすみ、紗夜」 ドアが閉まった瞬間、それまで張り詰めていた紗夜の顔に、ぐったりとした疲れがあらわれる。 洗面台に手をつき、ティッシュを二枚取って、さっき晴人にキスされた場所を何度も強く拭った。 あの男の唾液には、毒でも混じっているんじゃないかとすら思う。 毒に染まった男の口から出る甘い言葉なんて、全部毒入りの菓子だ。 明日、どんなことが待ち受けているか、まだ紗夜には分からなかった。 パーティー当日―― 紗夜は、晴人が朝早くから大手ブランド店で用意させた青色系の美しいロングドレスを着ていた。その色は、もともと白く透き通るような彼女の肌をさらに上品に
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第7話
夕凪が二人の後ろをついてソファの方へ歩いてくると、紗夜はなんとなく落ち着かない気持ちになった。 やはり、次の瞬間、夕凪は何の前触れもなく、紗夜のドレスの裾を踏んだ。 紗夜は眉をひそめ、思わず隣の晴人に手を伸ばして支えた。 だが、夕凪の狙いは転ばせて恥をかかせることではなかった――ドレスそのものだった。 紗夜がまだ何も気づかないうちに、周囲から驚きの声が一斉にあがった。 夕凪の力が加わったせいで、ドレスの縫い目が突然裂け、ドレスがはらりと落ちてしまう。 紗夜の体には、薄い下着しか残らなかった。 「ごめんなさい、紗夜、わざとじゃなかったの」と夕凪はすぐに謝ったが、その声に誠意は感じられなかった。 周りの人々の視線が、遠慮なく紗夜の体を舐めるように這いまわる。 強烈な羞恥心が襲いかかる。 紗夜は素早く床のドレスを拾い上げ、胸元を隠し、夕凪に向かって思いきり平手打ちをした。 夕凪の頬は瞬時に真っ赤になる。 晴人はすぐさま夕凪を自分の背後にかばい、冷たい視線で紗夜を睨みつけた。 「どうして手を出すんだ?彼女は謝っただろう?わざとじゃないんだぞ!」 紗夜の長い睫毛が震えながら、まっすぐに晴人を見つめる。 彼女には分かっていた。 今日の一件が、晴人と夕凪が示し合わせて用意したものだということくらい。 ドレスには最初から細工がされていた。そうでなければ、あんなに簡単に裂けるはずがない。 晴人はこんなやり方で自分を辱めようとした。 自分の醜態を見せたかったのだ。 だが、彼は自分の心の強さを甘く見ていた。 紗夜の瞳には、ほんのわずかな失望と、静かな平然さ、そしてどこか悟ったような色が浮かんでいた。 晴人はその視線に動揺し、急に心がざわつく。 眉間にしわを寄せながら、反射的に紗夜の腕をつかもうとしたが、紗夜はその手を振り払った。 「ごめん、紗夜、俺……」ようやく晴人は自分の上着を脱いで、紗夜の肩にそっとかける。 「着替えに行かせるから。紗夜、本当にごめん」 晴人は何度も謝ったが、紗夜は特に反応を見せなかった。 晴人はその場に立ち尽くし、ウェイターに紗夜を着替えさせるよう頼み、その背中を見送りながら、不安な気持ちがどんどん大きくなっていった。 何かが変わってしまった気がする。
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第8話
あっという間に、夏穂の命日がやってきた。 紗夜はすでに「死んだこと」にして姿を消す準備を終えていた。 晴人からもらったプレゼントはすべて捨て、二人で撮った写真もゴミ箱に投げ込んだ。 部屋の中に紗夜のものはもう何も残っていない。 あとは、この「芝居」が始まるのを待つだけだった。 「紗夜、さっき誰かからメールが来てね。三年前の火事に関する新しい手がかりがあるって。現場まで来てほしいって」 晴人は少し迷いながらそう言った。 「行こう」紗夜は一切迷わなかった。 「そ、そうか。じゃあ運転手に車を出させる。すぐ行こう」 晴人は紗夜の手を握った。 彼女の手は今日特に冷たかった。自分の手はこんなにも熱いのに、どれだけ握っても紗夜の手は少しも温まらない。 火事のあった現場は、今や廃墟と化したビル。 外壁にはまだ焦げ跡が残り、中も埃だらけだった。 「晴人、準備は万全だ。中には時限式の発火装置を仕込んである。あとは紗夜を中に誘い込んで、外から鍵をかければいい。火がついたら十五分だけ待って、晴人が中に入って救い出せ。彼女は死なない、せいぜい少し火傷するくらいさ。助け出されたら、感謝されるに決まってる」 これは、紗夜が事前に盗み聞きしていた晴人と友人たちの計画だった。 そして彼女も、「紗夜」という存在を完全に火の中に葬る覚悟を決めていた。 「紗夜」晴人の手は少し震えていた。 彼女の愛らしい顔を見つめる眼差しには決意と、どこか遠ざかる気配があった。 どしたの?と紗夜が尋ねる。 「……何でもない」 晴人はうつむき、何かを考え込んだかと思えば、突然口を開いた。 「紗夜、結婚しようか」 紗夜は不意に声をあげて笑い、廃墟になったビルを指差してから軽い口調で言う。 「こんな場所でプロポーズ?」 「ごめん、考えが足りなかった」 晴人に連れられてビルの中へ入る。 紗夜はとぼけたように尋ねた。 「メールをくれた人、何時に現場に来るって?」 晴人は時計を見て、唇を噛む。「書いてなかった……スマホ、車に置いてきた。取ってくるから、ここで待っててくれる?」 「うん」 晴人は踵を返して外へ出る。 ドアを閉める直前、いくら覚悟していたとはいえ、紗夜の胸は激しく痛んだ。 笑顔で晴人を呼び止める。
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第9話
車に戻った晴人にとって、過ぎる一秒一秒が拷問のようだった。 彼は拳をぎゅっと膝の上で握りしめ、舌先で下あごを押し、まばたきひとつせず廃墟となったあのビルを見つめ続けていた。 「晴人、そんなに緊張しなくて大丈夫だよ、絶対何も起きないって」 「そうだよ、焼け死ぬことなんてない。全部計算してあるから」 友人たちの言葉も、晴人の耳にはまったく届かなかった。 言葉を発する気力すら残っていない。 やがて、晴人は突然車から飛び出し、外へ走り出そうとした。 「晴人、何焦ってるんだよ?まだ十分しか経ってないぞ!今入っても紗夜には何も起きてないって!今回はちゃんと痛い目見せてやるって約束したじゃん!」 友人が晴人を引き止めた。 ビルの中では火の手が上がり、煙がもうもうと立ちこめていた。 晴人は、紗夜があの中でもがき苦しむ姿を思わず頭の中で想像してしまう。 彼は友人を突き飛ばし、冷たい声で言い放った。 「もう待たない!もし何かあったらどうするんだ!」 「大丈夫だって、晴人。忘れたの?紗夜は姉さんを殺したんだよ」 夕凪も立ちふさがって阻止しようとする。 晴人は迷った。 彼と夏穂は幼いころからの幼なじみだった。 家族同士も「大きくなったら二人を結婚させよう」なんてよく冗談を言っていた。 けれど、夏穂は人生の幸せを味わう間もなくこの世を去った。 そうだ、全部紗夜のせいだ。 こんな仕打ちくらい、報復にもならない。 晴人はもう一度座り込んだ。 無意識のうちに、三年前のことが脳裏をよぎる―― 火の海に飛び込んで、隅にうずくまって泣きじゃくっていた少女を抱きかかえて助け出したあの日のこと。 その火事で、彼女の家族はみんな亡くなった。 あれ以来、自分が紗夜にとって唯一の光になった。 けれど彼女は知らなかった――本当の悪夢を運んできたのは、ほかならぬ自分だったことを。 晴人は思わず眉間にしわを寄せる。 紗夜の人生に悪夢をもたらしたのは、間違いなく自分だった。 とうとう耐えきれず、晴人は車のドアを開けて仲間の制止を無視し、ビルに向かって走り出した。 ドアノブはもう火で熱くなっていた。 晴人は震える手で鍵を探し出すが、焦れば焦るほど手が言うことをきかず、なかなか鍵が差さらない。 火傷
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第10話
「晴人、そんなにしないでよ、お願いだから。俺たち、怖いんだ……!」 「こんなことになるなんて思ってなかった。まだ十分しか燃えてないし、あちこち全然火が回ってない。普通なら絶対に死なないはずなんだ」 友人の指さす方向を見ると、確かに火はそこまで大きくなっていなかった。 それでも、紗夜は死んだ。 彼女にはトラウマがあった。 火がついた瞬間、どれだけ怖かっただろう。 もしかしたら、あまりの恐怖で意識を失ってしまい、逃げることすらできなかったのかもしれない。 晴人の胸はますます重くなる。 彼はゆっくり立ち上がり、周囲の友人たちを一瞥し、冷たい笑みを浮かべて言った。 「全部お前らのせいだ。紗夜はお前らに殺されたんだ!」 そう言い放つと、地面に横たわる紗夜を抱き上げ、一歩一歩ゆっくりと外へ運び出した。 もう一度だけ、彼女の鼻先に顔を近づけ、あの朝のように息遣いを確かめようとした。 でももう、どんなに近づいても、紗夜の呼吸は感じられなかった。 「お前ら全員、ここで紗夜のために三日三晩、ここから一歩も出るな!」 晴人は何人ものボディーガードを連れて戻り、冷たい目で友人たちを睨みつけた。 その言葉を聞いた瞬間、みんなの顔色は一気に青ざめた。 その場で晴人にひざまずく者まで現れる。 「晴人、そんなのやめてくれ!ここには何もないし、三日もいたら死んじゃうよ!しかも……紗夜がここで死んでるんだ。もし夜になって彼女が戻ってきたら……」 「怖がるな」晴人の表情は冷たく、声にも一切の温度がなかった。「自分たちには関係ないって言ったんだろう?だったら怨霊に取り憑かれる心配もないはずだ」 「見張ってろ!一人も逃がすな!」晴人はボディーガードに命じた。 「承知しました、葛城さん」 晴人がその場を去ろうとしたとき、夕凪がふらふらと駆け寄り、彼の腕をつかんだ。 「晴人、私……私どうしたらいい?暗いの本当に苦手なの。今回の復讐計画だって、全部みんなが決めたことで、私には関係ないんだよ」 晴人は少し戸惑った。 夕凪は慌てて続けた。 「知ってるでしょ?私、小さい頃から暗いの苦手だったの。停電したら、いつも姉さんが抱きしめてくれたの」 案の定、話に夏穂が出た途端、晴人の表情は一気に和らいだ。 「分かった。行
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