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さようなら、初恋

さようなら、初恋

By:  豹ちゃんCompleted
Language: Japanese
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「黒澤さん、本当に全身の臓器を提供するおつもりですか?」 「はい、間違いありません」 そう言いながら、黒澤真希(くろさわ まき)はまるで解放されたかのように微笑んだ。 医師は一瞬言葉を失い、再び説得を試みた。 「確かにがんは末期に進行していますが、適切な治療を受ければ、少しでも命を延ばせる可能性があります」

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Chapter 1

第1話

「黒澤さん、本当に全身の臓器を提供するおつもりですか?」

「はい、間違いありません」

そう言いながら、黒澤真希(くろさわ まき)はまるで解放されたかのように微笑んだ。

医師は一瞬言葉を失い、再び説得を試みた。

「確かにがんは末期に進行していますが、適切な治療を受ければ、少しでも命を延ばせる可能性があります」

でも、真希はますます笑みを深め、迷うことなく首を横に振った。

「必要ありません。先生、私は毎日、死を待ち望んでいます。

おそらくあと一ヶ月の命でしょう。その日が来たら、病院に連絡しますので、全身の臓器を提供してください。

多くの人を助けられれば、それで十分です。お手数をおかけしますが、よろしくお願いします」

穏やかにそう言い、真希は微笑んだまま立ち上がって去っていった。

医師は呆然と彼女の背中を見送った。これほどまでに死を望む患者に出会ったのは初めてだった。

――病院を出ると、スマホが鳴った。

画面に表示された名前を見て、真希の指先が一瞬固まった。

「もしもし」

「今日はなんで休みを取って、どこへ行ってた?」

冷たく低い声が、電話の向こうから聞こえてきた。

真希は一瞬迷い、正直に答えなかった。

「ちょっと風邪をひいて」

相手は明らかに関心がない様子で淡々と告げた。

「琵琶ホテルの314室に」

真希は何も言わず、すぐに向かった。

個室の扉を開けると、中には古川万尋(ふるかわ まひろ)のビジネス関係者が大勢いた。

「おっ、黒澤さんの登場か!噂には聞いてるよ。酒にはめっぽう強いらしいね?」

「酒を武器に数々の契約を取ったって話だ。今日はぜひその腕前を見せてほしいな」

「ここに九十九杯の酒がある。一気に飲み干せたら、契約を結んでやるぞ!」

それに、ソファに座る万尋は、意味ありげな笑みを浮かべ、静かに口を開く。

「期待を裏切るなよ」

周囲の視線が一斉に注がれるから、真希は一瞬の迷いも見せず、微笑みながらグラスを手に取った。

「では、僭越ながら」

――一杯、また一杯と飲み干していく。

胃が焼けるように痛む。

胃がんに蝕まれた身体には、痛みが何十倍にも増幅されると感じられた。

真希の顔色はどんどん青ざめ、指先まで震えていた。

それでも、彼女は止まらなかった。

そして――九十九杯目。

万尋は最後まで、一言も発さずに彼女を見ていた。

最後の一滴が喉を通った瞬間、部屋中に拍手が響いた。

「すごい!まさに伝説だな!」

真希は額に汗を滲ませながらも、なんとか微笑んで見せた。

すると、一人が興味深そうに声をかけた。

「黒澤さん、古川社長の下で働くには惜しいな。あんな酷い扱いを受けてるのに、俺のところに来ないか?」

真希は静かに微笑み、低い声で断った。

「お気遣いありがとうございます。でも、うちの社長はとても良くしてくださっていますので」

相手は「じゃあ、給料を三倍にしよう!」と言った。

それでも、真希は首を横に振った。

誰もが不思議そうに尋ねた。

「どうしてそこまでして、古川社長の元にいる?」

真希の笑みが少しだけ薄れた。

「償わなければならないんです」

相手は、会社に借金をしていると勘違いし、残念に思いながらも、仕方なく諦めた。

この夜の契約は、無事に成立した。

食事が終わり、夜が更けた頃。

万尋の運転手が近所から迎えに来て、真希がいつものように助手席に乗り込んだ。

万尋は彼女と一緒にいるのが大嫌いなのだ。

ようやく運転手が、真希の家の前で車を止めた。

「ありがとうございました」

彼女は疲れ切った声でそう言って降りた。

万尋がついてきていることに気づいていなかった。

彼は、ふらつく彼女の背中をじっと見つめていた。

その瞳は、深い闇を湛えていた。

エレベーターを降り、鍵を取り出した瞬間。

突然、手首を掴まれ、壁に押し付けられた。

廊下の人感センサーが作動し、淡い光が二人を包んだ。

次の瞬間。

万尋は真希の顎を掴み、強引に唇を塞いだ。

熱く、深く、呼吸を奪うようなキス。

ようやく唇が離れた時、彼の目には、涙のような赤みが滲んでいた。

震える声で、低く囁いた。

「そんな顔をして……俺の同情を引くつもりか?誘われても行かない?お前は……どうしてまだ俺の元にいる?」

真希は荒い息を整え、静かに答えた。

「償わなければならないんです」

その言葉が、万尋の逆鱗に触れた。

彼は拳を振り上げ、壁に叩きつけた。

その目に宿る憎しみは、刃のように鋭く、彼女の心をえぐっていた。

「なら……いっそ死ねばいいだろう?なぜ死なない?」

真希は、苦笑した。

――そのつもりだ。もうすぐ、そうなる。

何かを言おうとしたその時、万尋のスマホが鳴った。

彼は画面を見た瞬間、呼吸が少し乱れた。

表示された名前は――夏目京香(なつめ きょうか)。

彼の婚約者。

万尋は深く息を吐き、背を向けた。

電話を取ると、柔らかな声色で応じた。

「京香」

その瞬間、彼は再び「優しい古川社長」に戻っていた。

ただ、京香の言葉を聞いた彼は表情がふと揺らいだ。

そして次の瞬間、言葉もなく、彼は踵を返し、静かに去っていく。

真希は、壁にもたれかかった。

彼の背中が闇に消えた後、彼女はようやく扉を開け、浴室に駆け込んだ。

そして――

血を吐いた。

紅い、紅い塊が、何度も、何度も。

目の前の便器は、鮮血で染まっていた。

真希はそれを無表情で見つめ、流そうとしたが、そのまま意識を失った。

真希は夢を見た。

大学時代の夢だった。

梧桐の木の下、万尋と古川江茉(ふるかわ えま)と並んで歩いている。

江茉は真希の腕を引っ張りながら、甘えた声で言った。

「真ちゃん、週末にうちの学部と法学部でコンパがあるの。一緒に行ってくれるでしょ?」

万尋の顔色がさっと曇り、真希の手をぐいっと引く。

「お前、俺の彼女を勝手に誘っていいなんて、誰が言った?」

「お兄ちゃん、ケチすぎ!」

あの頃は、本当に幸せだった。

大学で江茉と出会い、彼女と親友になるまで、幼い頃に両親を亡くした真希は、ずっと孤独だった。

江茉の兄・万尋は、学内でも『高嶺の花』と称される存在だった。

冷たく気高く、女性を寄せ付けない雰囲気を纏いながらも、毎日大量のラブレターを捨てるような人だった。

真希はそんな彼に話しかけることすらためらっていた。

しかし、彼はいつも真希のそばにいた。

ノートをまとめてくれたり、一緒に図書館に勉強してくれたり、家まで送ってくれたり。

ある日、土砂降りの雨の中、傘を持たずに帰れなくなった真希を迎えに来たこともあった。

二人、一本の傘の下。

真希はとうとう聞かずにはいられなかった。

「古川君がこんなに優しくしてくれるのは、江ちゃんの友達だから?」

彼は無表情のまま、真希を壁際に追い詰めた。

「本当にバカだな。今ここではっきり教えてやるよ。どうしてお前に優しくするのか」

そう言って、彼は彼女の後頭部を押さえつけ、その唇を奪った。

その日から、二人は恋人になった。

これは、五年前。結婚式の前夜までのことだった。

あの日、真希と江茉は映画を観に行った。

夜も更け、二人は帰り道に狭い路地を通った。

その時、酒に酔った数人の男たちに行く手を阻まれた。

男たちは酔っていて、口にする言葉は卑劣そのものだった。

彼女たちを壁際に追い詰め、どこへも行けなくした。

二人とも恐怖で震えていた。

結局、江茉は真希を振り返り、力の限り男たちを押しのけながら叫んだ。

「真ちゃん!逃げて!」

真希は分かっていた。

彼女たち二人では、この酔っ払いどもに敵うはずがない。

だから――黒澤真希は逃げた。

向かいの通りまで走り、助けを求めた。

だが、助けを連れて戻った時には、すでに手遅れだった。

路地は静まり返り、男たちは姿を消していた。

地面には荒れ果てた惨状が広がり――

血まみれの江茉が横たわっていた。

何度も蹂躙され、命を奪われた彼女が。

万尋が駆けつけた時、彼が目にしたのは、江茉の無惨な遺体だった。

誰の目にも明らかだった。

彼女がどれほどの地獄を味わったのか。

万尋は呆然と立ち尽くした後、真希の手を掴み、震える声で叫んだ。

「なぜ逃げた!?なぜ江茉を捨てた!?お前は……なぜ逃げたんだ!!」

真希には、答えられなかった。

誰よりも、自分を憎んでいたのは彼女自身だった。

それ以来、古川家の人間は誰一人として、真希を許さなかった。

最愛の友を失い、愛する人とも敵同士になった。

でも、もうすぐ――彼女は死ぬ。

よかった。

江茉に直接、謝ることができる。

そして万尋も、やっと彼女から解放されるのだ。
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第1話
「黒澤さん、本当に全身の臓器を提供するおつもりですか?」「はい、間違いありません」そう言いながら、黒澤真希(くろさわ まき)はまるで解放されたかのように微笑んだ。医師は一瞬言葉を失い、再び説得を試みた。「確かにがんは末期に進行していますが、適切な治療を受ければ、少しでも命を延ばせる可能性があります」でも、真希はますます笑みを深め、迷うことなく首を横に振った。「必要ありません。先生、私は毎日、死を待ち望んでいます。おそらくあと一ヶ月の命でしょう。その日が来たら、病院に連絡しますので、全身の臓器を提供してください。多くの人を助けられれば、それで十分です。お手数をおかけしますが、よろしくお願いします」穏やかにそう言い、真希は微笑んだまま立ち上がって去っていった。医師は呆然と彼女の背中を見送った。これほどまでに死を望む患者に出会ったのは初めてだった。――病院を出ると、スマホが鳴った。画面に表示された名前を見て、真希の指先が一瞬固まった。「もしもし」「今日はなんで休みを取って、どこへ行ってた?」冷たく低い声が、電話の向こうから聞こえてきた。真希は一瞬迷い、正直に答えなかった。「ちょっと風邪をひいて」相手は明らかに関心がない様子で淡々と告げた。「琵琶ホテルの314室に」真希は何も言わず、すぐに向かった。個室の扉を開けると、中には古川万尋(ふるかわ まひろ)のビジネス関係者が大勢いた。「おっ、黒澤さんの登場か!噂には聞いてるよ。酒にはめっぽう強いらしいね?」「酒を武器に数々の契約を取ったって話だ。今日はぜひその腕前を見せてほしいな」「ここに九十九杯の酒がある。一気に飲み干せたら、契約を結んでやるぞ!」それに、ソファに座る万尋は、意味ありげな笑みを浮かべ、静かに口を開く。「期待を裏切るなよ」周囲の視線が一斉に注がれるから、真希は一瞬の迷いも見せず、微笑みながらグラスを手に取った。「では、僭越ながら」――一杯、また一杯と飲み干していく。胃が焼けるように痛む。胃がんに蝕まれた身体には、痛みが何十倍にも増幅されると感じられた。真希の顔色はどんどん青ざめ、指先まで震えていた。それでも、彼女は止まらなかった。そして――九十九杯目。万尋は最後まで、一言も発
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第2話
「やめて!江ちゃん、早く逃げて!」真希は涙を流しながら飛び起きた。目の前に広がるのは、自分の部屋だった。血のついた服は着替えさせられており、ベッドのそばには宮野祐人(みやの ゆうと)が座っていた。祐人は真希の大学時代の同級生で、ずっと彼女を想い続けていた。しかし、万尋の存在があるため、気持ちを口にすることはできず、ただそばで静かに支え続けるしかなかった。今、彼の手には、くしゃくしゃに握られた一枚の検査結果があった、何度も何度も目を通していた。祐人は医師だ。その結果が何を意味するのか、彼には痛いほどわかっていた。。目を赤くしながら、震える声で問った。「胃がんなのか?」悪夢から目覚めた真希は、少しずつ冷静さを取り戻した。深く息を吸い込み、頬を伝う涙を拭うと、静かに頷いた。祐人は勢いよく立ち上がると、声を荒げた。「それでよく酒なんか飲めたな!また古川に強要されたのか?」真希は視線を落としたまま、何も言わなかった。しかし、祐人にはわかっていた。胸が締めつけられる思いで、真希の手を強く握った。「もう限界だろう?彼から離れて、すぐに治療を受けるべきだ!」だが、真希はそっと手を引いた。そして、かすかに微笑んだ。「そこまで深刻じゃないわ。大丈夫、自分のことはちゃんとするから」「胃がんがどんな病気か……わかってるのか?」「入院はしたくないの。祐人君、私に決めさせて」その表情を見て、祐人は何を言っても無駄だと悟った。彼にはわかっていた――五年前の江茉の件が、真希の心に深く刻まれた傷となっていることを。だから、彼女は万尋の専属秘書となり、償おうとしている。だから、万尋に何をされようとも、決して拒まない。祐人は何も言えず、その晩は彼女のそばに付き添った。翌朝、ようやく病院へ戻ることにした。真希もまた、慌てて会社へ向かった。今日、彼女は万尋とともに、とある食事会に出席しなければならなかった。ただし、彼の付き添いではない。あくまで秘書としての同伴。実は、万尋は京香とともに出席するつもりだ。彼女が現れると、京香は嘲るような笑みを浮かべた。「真希さん、よくまあ恥ずかしげもなく、まだ万尋のそばにいられるわね」京香は高校時代から万尋を想い続けていた。だが、
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第3話
真希はひとり池の中に立ち尽くし、言葉にできない寂寥感が胸の奥から込み上げてきた。身をかがめ、一晩中探し続けた末、ようやくそのブレスレットを見つけた。夜が明けるころ、震える体を引きずるようにして立ち上がった。全身が凍え切っていたが、そんなことを気にする余裕はなかった。ブレスレットを握りしめると、急いで会社へ向かった。社長室にいた京香は、それを受け取ると、汚らわしそうに一瞥しただけで吐き捨てるように言った。「泥だらけじゃない。こんなの、いらないわ」そう言いながら、ブレスレットを無造作に引きちぎり、ごみ箱に放り投げた。万尋もただ一瞥しただけで、冷淡に言った。「気に入らないなら捨てればいい。新しいのを買ってやるよ」京香は嬉しそうに微笑んだ。「優しいのね」真希は惨めな姿のまま、社長室を後にした。秘書室の同僚たちは彼女の姿を見ても、特に驚くことはなかった。何年もの間、真希がどれほど辛酸を舐めてきたか、誰もが知っていたからだ。それでも彼女がここに留まり続ける理由は、誰にも分からなかった。休みも取らず、ただ風邪薬を二錠飲み込んだまま、万尋と一緒に工場の視察へ向かった。すべてが終わる頃には、夕暮れ時に差し掛かっていた。その頃、京香が万尋を訪れ、食事に誘った。真希を見ると、親しげな笑顔で言った。「真希さんも一緒にどう?」と、しかし、料理が運ばれてきて、真希はその企みを悟った。ほとんどが辛いものばかり。唯一のデザートはマンゴーアイス――だが、マンゴーアレルギーだった。かつては、料理にほんの少しでも唐辛子が入ったと、万尋はわざわざ取り除いてくれたものだった。だが今は、まるでそんなことなどなかったかのように、真希を一瞥すらなく、ずっと京香に注意を向けていた。京香がわざとらしく尋ねた。「真希さん、どうして食べないの?」万尋も冷ややかな視線を向け、眉をわずかに寄せて言った。「食べないなら、出て行け」真希は仕方なく箸を取り、激辛唐揚げを一口噛み締めた。食事が終わると、万尋は京香を連れて帰っていった。真希はひとり帰路についた。辛さに汗が噴き出し、胃を締めつけるような痛みが襲っていた。しかし、家に着いてベッドに横たわりながら、どんなに痛くても、一滴の涙すら流れなかった。
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第4話
しかし、電話の向こうで、沈黙が流れた。どれほどの時間が過ぎたのか分からない。やがて、万尋が冷ややかに笑いを漏らした。「真希と一緒に俺を騙してるだろう?」祐人は万尋を殴りつけたい衝動に駆られながら、涙声で叫んだ。「真希さんは……」しかし、その瞬間、かすかな力で袖を引かれた。慌てて下を見ると、さっきまで意識を失っていた真希が、うっすらと目を開けていた。真希は苦しそうに首を振ると、唇を動かして言葉を紡ぐ。「ダメ……来させないで……」そのとき、その心拍数が、ゆっくりと上昇し始めた。「彼女に何があった?」電話の向こうで、万尋のかすれた声が響いた。だが、祐人はもはや答える余裕もなく、上昇する心拍数を確認すると、歓喜のあまり電話を切り、文蔵を呼びに走った。しばらくして、検査を終えた文蔵が、額の汗を拭いながらマスクを外し、安堵の息を漏らした。「容体は安定した。すぐに観察室へ運ぼう!」こうして、真希は観察室へと運ばれていった。一方、電話を切られた万尋は、スマホの画面をじっと見つめていた。何も言わず、何も動かず。彼の様子を窺っていた京香の目に、嫉妬の色が滲んだ。「万尋、あの二人、絶対に共謀してるわ。あなたの気を引こうとしてるだけよ。こんな手、真希が昔からよくやってたじゃない?」そう言いながら、万尋の手を取ろうとしたが、彼はすっと立ち上がり、すれ違うように避けた。「まだ仕事が残ってる。京香、先に帰れ」京香は、今夜こそ万尋のそばにいられると思っていた。しかし、あっさりと突き放され、悔しさに唇を噛みしめながら部屋を出ていった。書斎にて。万尋はパソコンを開いたものの、何一つ頭に入ってこなかった。思考は散漫になり、気づけば真希のことばかり考えている。しばらく逡巡した後、彼は別の秘書・田中朋也(たなか ともや)に電話をかけた。「真希の居場所を調べろ」その声は、微かに震えていた。朋也は即座に応じ、十分ほどして折り返しの連絡を寄こした。「社長、黒澤さんは数時間前に交通事故に遭い、現在明平病院にいます。ただ、命に別状はないようです」万尋はスマホを握りしめたまま、沈黙した。その沈黙があまりにも長かったため、朋也は思い切って尋ねた。「お見舞いに、行かれますか?」万尋はし
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第5話
真希は江茉の墓前で長い時間を過ごし、そろそろ帰ろうとしたその時、向かいから歩いてくる一団の姿が目に入り、思わず足が止まった。その中にいた万尋も、すぐに彼女を見つけた。真希が事故に遭ってから、二人が顔を合わせるのはこれが初めてだった。万尋は江茉の墓前に供えられた花に気づくと、表情が一瞬で冷え込んだ。次の瞬間、彼の隣にいた母親・古川章子(ふるかわ あきこ)が真希を見つけるなり、激昂して駆け寄り、彼女の腕を乱暴に掴んだ。「よくも来れたわね!」章子は怒りに震えながら、勢いよく真希の頬を平手打ちした。「今すぐ消えなさい!出ていけ!」鋭い痛みとともに、真希の視界が一瞬ぐらつく。後ずさりしながら、唇を震わせた。「おばさん、私はただ……」「黙ってよ!」章子は怒鳴り声をあげた。「あんたなんかが江茉を見に来る資格なんてない!江茉はあんたのせいで死んだのよ!消えなさい!」真希の頬はすぐに赤く腫れ上がった。痛みをこらえながら、ただ黙って章子の怒りを受け止めるしかなかった。万尋の父親・古川永正(ふるかわ えいせい)が慌てて章子を抱きとめ、必死になだめようとした。「黒澤さん、帰りなさい。もうここへは来ないでくれ」だが、章子の怒りはそれでは収まらなかった。地面にある花に目を留めると、永正の腕を振りほどき、それを掴み上げて真希に投げつけた。「偽善者ぶるんじゃないわよ!あの日逃げなかったら、江茉はこんな無惨な死に方をしなくて済んだのよ!酒に酔った男が五人もいて、江茉を一人残して逃げたんだ!あの子は……あの子は……」章子は真希を激しく憎んでいた。たとえ誰もが知っていたとしても――あの時、真希が逃げなかったら、結局二人とも同じ運命を辿っていただろうということを。だが、江茉の死はあまりにも惨かった。だからこそ、誰もが憎しみに囚われ、他の可能性を見ようとしなかった。真希が江茉を先に逃がさなかったことを責めた。犯人の男たちは、二度と外の世界に出られないようにされた。そして真希もまた、一生罪悪感という名の牢獄から逃れられないように――。章子は嗚咽を漏らしながら、拳を振り上げ、何度も真希を叩いた。「江茉はまだあんなに若かったのに……あんなに優しい子だったのに……どうしてあの場に一人置き去りにしたの!?どうして……!
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第6話
翌日、真希は会社を休んだ。そして、一人でお寺へ向かった。帝都近郊には、「霊験あらたか」と評判の空昭寺がある。この数年、真希は何度もこのお寺を訪れ、仏前で長い時間祈り続けた。江茉が極楽浄土へと旅立てるように――万尋が平穏無事でいられるように――だが、もう二度とここへ来るわけがないかもしれない。今回、真希は空昭寺の菩提樹の下に跪いた。昔から、心からの誠意を示せば、お寺の貴重な宝を授かることができると言われているからだ。日が暮れると、突然雪が降り始めた。冷たい風が容赦なく吹きつけ、真希の体を芯から凍えさせた。すると、全身が激しく痛み、寒さにもかかわらず、額には細かい汗が滲んだ。体が止めどなく震え、ついに「ぷっ」と、口から血を吐いた。それでも、真希は立ち上がらなかった。そのまま一昼夜、動かずに跪き続けた。夜が明けるころ、僧侶が境内を巡回していると、半分雪に埋もれた真希の姿を見つけた。近づくと、白い雪の上に鮮やかな血の跡が広がっていた。僧侶は静かに尋ねた。「大丈夫ですか?お嬢さん、そこまで誠心誠意を尽くして、一体何をお求めですか?」真希は青ざめた顔で、ふらつきながら立ち上がり、手を合わせて深く礼をした。「長生の蝋燭と……厄除お守りをいただきたいのです」長生の蝋燭は、亡き者の位牌の前で灯せば、その魂が来世で安らぎを得られると言われるもの。真希は願いを叶えてもらうと、震える体を引きずりながら、そのまま会社へ向かった。これが、去る前に彼らに残せる、唯一のものだった。万尋が自分の贈り物を受け取るはずがないことは、真希にも分かっていた。だから、昼休みの誰もいない時間を見計らい、そっと長生の蝋燭を万尋のデスクの上に置いた。厄除お守りは、後日、彼の車の中に忍ばせるつもりだった。会社を出たあとも、真希はすぐには立ち去らなかった。万尋がこの蝋燭を持ち帰るのか、どうしても確かめたかった。そして、午後六時半。万尋が会社を出てきた。その手には、長生の蝋燭の袋があった。真希の胸が高鳴った。しかし、次の瞬間、彼は無造作にその袋をそばにいた朋也へ渡し、ある方向を指差した。そこは、ゴミ捨て場だった。真希の顔色が変わった。捨てるつもりなのか?慌てて朋也のあとを追っ
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第7話
真希は、雨に濡れそぼったお守りをそっと拾い上げた。万尋はその中に小さな紙切れがあることには、気づかなかった。「万尋が平穏無事で、喜びに満ちた人生を送れますように」雨水に滲んだ文字は、もはや判別できないほどにぼやけていた。突然、血のような鉄臭さが喉元までこみ上げるが、真希は必死に飲み込み、目に滲んだ涙を無理やり押し戻した。三日後、真希は再び会社へ出勤した。交通事故による外傷はほぼ治っていたが、胃がんの症状はますます悪化していた。見かねた祐人がわざわざ訪ねてきて、「無理せず休んだほうがいい」と何度も説得したが、彼女の意思を変えることはできなかった。その夜、万尋と、またしても付き合いへ向かうことになった。次から次へと酒を勧められていた。真希は一切断らず、杯を重ねていった。「黒澤さん、さすがですね!こんなに飲める女性、なかなかいないよ!」喧騒の中、万尋は静かに彼女を見つめ、その姿を目に焼き付けるようにじっとしていた。結局、この夜も彼女は酒を飲み続け、宴が終わる頃にはすっかり泥酔していた。だが、胃は焼けるように痛んだ。人目を盗んでトイレに駆け込み、薬を二錠飲み込んだ後、何とか痛みに耐えながら席に戻った。しかし、個室に戻ると、すでに人はまばらだった。万尋の姿はどこにもない。いつものことだ。どうせまた、彼は先に帰ったのだろう。真希はそう思い、気にも留めずに店を後にした。冷たい風が吹きつけ、酔いが回った体に寒さが染みる。道路の車のライトは、霞がかったようにぼやけて見えた。ふらふらと車道の真ん中へと歩みを進め、片手を挙げてタクシーを止めようとした。「ビ――!!」甲高いクラクションが響き渡った。猛スピードで突っ込んでくる車。避けようとしたが、泥酔した体は言うことを聞かず、動きがワンテンポ遅れた。ぶつかってしまう。そう思った次の瞬間、後ろから強い腕が彼女の体を引き寄せた。ドンッ!勢いよく歩道に引き戻され、彼女は目を見開いた。目の前にあるのは、夜の闇のように深い瞳。「また轢かれるつもりか?」低く抑えた声が、静かに響いた。真希はぼんやりと彼を見上げた。現実と過去の記憶が交錯し、思考が曖昧になる。彼の腕の中にいる――それだけで、何年も前のあの夏の記憶が蘇った。
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第8話
土曜日、真希は同窓会に参加した。生命の最後に、もう一度あの頃の仲間たちと会って、自分の青春に別れを告げたかったのだ。だが、思いがけず万尋も来ていた。彼はもともとこういう社交の場が好きではなく、以前はいつも真希と江茉に無理やり連れてこられていた。それなのに、今日は自ら姿を見せただけでなく、京香まで連れてきていた。皆で酒を飲み、歌い、おしゃべりをして、やがてゲームが始まった。「さあ、ルーレットゲームだ!止まった人は真実か挑戦、どっちかを選べ!」ちょうどその時、万尋は仕事の電話を受けるために席を外していた。真希はこういうゲームには慣れていなかったが、皆に促されるまま参加することになった。ルーレットが回り、最初に止まったのは真希だった。カードに書かれた挑戦内容は、次に部屋へ入ってきた人と十秒間キスをすること。真希はそのカードを握りしめ、黙り込んだ。京香は得意げに笑いながら言った。「真希さんって純潔を大事にするタイプでしょ?どうしてもできないなら、私の靴を磨いてくれたら、挑戦は免除してあげるわ」その挑発的な視線に、真希は指を強く握りしめた。もうすぐ死ぬ身だ、誰とキスしようが関係ない。「挑戦するわ」彼女は静かに言った。京香は驚くどころか、むしろ笑みを深め、目の奥に鋭い光を宿した。その頃、廊下では。万尋は電話を終えて振り返った瞬間、汚れた格好の浮浪者が上機嫌に歩いてくるのを目にした。男は電話をしながら興奮した声で話していた。「今すげえ仕事ゲットしたぜ!ある女をはめるために、わざわざ俺にキスしろってさ!」電話を切ると、そのまま個室の扉へと向かった。男はニヤつきながら唇を舐め、ドアを押し開けようとした。その瞬間、突然強い力で腕をつかまれた。「すまん」万尋は冷ややかに言い放ち、先に個室へと足を踏み入れた。個室にいた皆は、入ってきた人物を見て一瞬で静まり返った。京香の顔色が変わる。なぜ彼が!?真希も驚いたように万尋を見つめた。だが、当の万尋は何事もなかったかのように冷然とした表情で、「何を見てる?」と低く問った。誰かがためらいがちに答えた。「ルーレットは止まった人が真希さん……最初に入ってきた人とキスしなきゃならなくて……」万尋は静かに席に座ると、「くだらん
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第9話
深夜。万尋はまだ寝室の窓辺に立っていた。手には少し古びた指輪が握られている。それは、かつて真希にプロポーズしたときの指輪。あのとき、ほんの少し――あと少しで、結婚できるはずだった。彼はじっと指輪を見つめ続けた。どれほどの時間が経っただろう。やがて目を閉じると、力いっぱい指輪を投げた。小さな指輪は、静寂に包まれた夜の闇へと消えていった。数日後。真希は病院での検査を終えて帰宅した。すると、家の前に車が停まっているのが目に入った。車にもたれかかるようにして立つ万尋の姿があった。まるで大学時代、彼がよく寮の前で待っていてくれた時のように。真希は買ってきた薬をバッグに隠し、彼のもとへ歩み寄った。「私に何か?」万尋は彼女を見つめ、ふと気づいた。真希が、以前よりずっと痩せたように見える。顔色も、ひどく蒼白だった。喉がわずかに動いたが、彼は何も言わず、ただポケットから招待状を取り出した。真希は視線を落とし、招待状を見た途端、全身が凍りついた。動くことも、声を発することもできないまま、じっと立ち尽くした。頭上から、万尋の冷淡な声が降ってきた。「俺と京香が結婚する。伝えておく。ただ、それだけだ。来るなよ。祝福の言葉もいらない」真希の胸に鈍い痛みが広がった。彼はもう、これほどまでに自分を憎んでいるのか。これから先、一生顔も見たくないほどに。震える手で招待状を受け取りながら、彼女は最後まで顔を上げることができなかった。かすかに頷き、小さく言葉をこぼした。「お幸せに」万尋と京香の結婚式は、一週間後に迫っていた。真希は会社に退職願を提出し、すぐに受理された。彼が結婚する。もう二度と自分には会いたくない。――それなら、自分が償うのもできないだろう。結婚式の三日前。真希はこれまでの財産を整理した。古川グループで働いた数年間、貯金はそれなりにあった。彼女は家を売り、その全額をこども育成基金に寄付した。結婚式の二日前。真希は墓地を訪れた。江茉のお墓の隣に、自分の墓の区画を購入した。そして、墓地のスタッフにこう頼んだ。「竿石には、名前を刻まないでください」墓参りに来る人もいないからだ。そうすれば、古川家の人が見ても、自分だと気づか
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第10話
帝都の一年に一度の企業交流会が、今年も例年通り開催された。会場に集まるのは、どれも名だたる企業の経営者たち。だが、誰の目にも明らかなように、その中心にいるのはただ一人。噂の男――古川万尋。三年の歳月が、彼をさらに洗練させた。家業を離れ、独立してからというもの、若き実力者として頭角を現し、一つの決算期だけで華々しい成果を叩き出した。今や彼を支えているのは、名門企業の後ろ盾ではなく、彼自身が切り開いた新たな産業である。突然、ある男性が隣の女の子に小さな声でつぶやいた。「ねえ、なんで古川社長はわざわざ家業を捨てて、独立したか知ってる?」めったに聞けないゴシップに、女の子は興奮気味に問いかけた。こういった場に来るのは初めてで、名だたる経営者たちに囲まれながら、先輩の里見晃樹(さとみ あき)の話に耳を傾けていた。「信じられないかもしれないけど、古川社長って昔、結婚式当日に逃げたのよ!俺も詳しいことは知らないけど、当時、長年付き合ってた花嫁を置き去りにして、パナメーラに乗ってそのまま消えたって話。金持ちの結婚なんて、俺たちが想像するほど単純じゃないのよ。あの結婚破棄は、自分の家族、花嫁の家族から裏切った。それでそのお父さんが事業を使って脅したんだけど、結局彼は全部放り出して辞めちゃったの」「ええっ……」女の子は思わず口元を押さえ、声にならない悲鳴を上げた。「それで、それで!なんで逃げたんですか!?気になるから最後まで話して!」「だから詳しいことは知らないってば。ただ、当時の関係者によると、古川社長は電話を受けた後、即座に会場を飛び出したらしいのよ。きっと、本当に愛してる人に何かあったんじゃない?愛する人を得られず、でも完全には手放せない……いやあ、まるでドラマみたいだよね」ところが、その時だった。女の子は突然、晃樹の背後に立つ長身の男の存在に気づき、顔面蒼白になった。彼女は慌てて晃樹の袖を引っ張るが、晃樹はまだ話し足りない様子で続けた。「ちょっと、何すんのか。そんなに引っ張ったら皺になるでしょ?後で部長にまた怒られるじゃん」「古……古川社長……」怖い女の子は顔を伏せ、心の中で「しまった……」と絶望した。もし、万尋が晃樹の話を全部聞いたら……万尋は整った顔立ちをしていたが、どこか冷
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