Masuk流れ落ちる水が少しずつ温かいものへと変化しても、心だけはずっと冷えたまま。足下に散らばった衣服を片付けることも出来ず皮膚に張り付く下着はそのままに、湿ったタイルを弱い力で叩き続ける。
怖い。
何に対してそう思うのかは分からない。嘘を吐かれていることに対してなのか、裏切られていると感じる事に対してなのか。もしかしたら捨てられてしまうのかも知れないことに対して抱く恐怖なのかも知れない。
これから先、どうすれば良いのだろう。
気が付かない振りをして、表面上の関係を続けるという選択肢を選べば、昴から離れること無く彼の傍に居ることが出来る。ただ、そうなると、疑いや嫉妬などが沸き起こり次から次へと不安は増えていくのかも知れない。
そうならないためには真実を突き止めるという選択肢もある。ただし、この場合は導き出した答えに自分自身が耐えられなくなり、早い段階で不安定になってしまう確率が高い。
どちらを選んでも良い結果とはならない結末。その先に待っているものはきっと、絶望という二文字だろう。
いつの間にかアップデートが終わり、開くというボタンが表示されているアプリの商品画面。そのボタンをタップし起動させると、アプリのアイコンで使われているものと同じロゴが画面いっぱいに表示され、暫くしてから見慣れたマイページが表示される。 本棚というアイコンについた赤い印は、何らかの変更があったことを知らせる合図。ページを切り換え移動すると、追い掛けていた作品が更新されていますというアナウンスが表示されていた。「あ。この話」 その中で目を引いたのは、一番のお気に入りだった恋愛小説の表紙である。「うわぁ……」 サムネール画面をタップすると、最後に読んでいたページが表示される。少しばかり忘れてしまっている内容を思い出しながら文字を追い、次のページへ移動する前に呼び出すチャプター一覧。「結構増えてる?」 リスト形式で表示されたページの情報は、先程まで読んでいたページを最後に白くなっている。その数を数えてみると、思った以上に未読が多いことに驚いた。「こんなに進んじゃったんだ」 暫くの間離れていただけなのに、気が付いたら大量に増えている未読ページ。 始めはその事に素直に喜んだのだ。 ただ、読み終わるまでにどれくらいの時間がかかるのだろう。そう考えた瞬間、ページを開くことを躊躇ってしまう。「どうしよう」 読み始めると、きっと止まらなくなってしまう。そんな予感から画面の上で彷徨う人差し指。 中毒性のあるストーリーはまるで、質の悪い毒のようで。のめり込めばのめり込むほど、日常の出来事を考えないで済むようになるから時間ばかりが盗まれてしまう。 明らかに依存している? それは分かっている。それでも、少しだけの間、憂鬱になるようなことを忘れさせてくれるのだから、それをやめたいという選択肢は選びにくくなってしまっている。「取りあえず、一ページだけ……」 我慢をするということがこれほど難しいことだとは思わなかった。甘い誘惑に抗えず指を動かし開くページ。最新話であるシナリオは、主人公の元へと格好良くヒーローが駆けつけるシーンから始まっている。「ああ!」 前回の終わりが絶体絶命のピンチで終わっていたため、この展開は素直に嬉しいと感じてしまう。「…………」 物語の中のキャラクターに感情移入し同調していく心。繰り広げられる展開に緊張感が高まり、つい呼吸をする
明日から出社するよ。 いつかは来ると思っていた日が遂に来てしまったことに、海亜は少なからず動揺してしまう。「きっと、処理しなければならないことが溜まってるんだろうなぁ」 ただ、昴の方はと言うとそんな海亜の態度には気が付かないようだ。今、彼が気に掛けていることと言えば、全体が見えてこないタスクやノルマの多さだろう。有能な秘書による業務報告によって、ある程度の流れを把握しているとは言え、実際に自分が動くのと人に動いて貰うのとでは勝手が違ってくる。本当に報告通りプロジェクトは進められているのか。その成果は新着状況と照らし合わせて正当なものだと判断出来るのか。考えれば考えるほど、そのような悩みは尽きることがない。「明日から頑張らないといけないから、今日くらいは僕の我が儘に付き合って貰えると嬉しいな」 いつの間にか空っぽになってしまっている汚れた皿。「あーあ」 ご馳走様と手を合わせると、大きく背伸びをしながら昴が席を立つ。「もう少し休んでいたかったけど、しょうがないか」 使用済みの皿はまとめてシンクへ。一杯分の珈琲を楽しんでから後片付けをし、落ち着いたところで始めるのが出掛ける準備である。時間は有限、一日のタイムカウントは既に始まっている状態。たった一日だけしかない今日を十分に満喫するべく即席で組み立てていく本日のプラン。「十時になったら出掛けようか」 提案した時刻まではまだ三十分以上余裕がある。「今日は、夕飯まで外で済ませてから帰宅しようね」 不意に頬へと触れる柔らかな感触。「え?」 驚いて昴をみると、彼は悪戯を思いついた子どものように笑いながら寝室を指さしこう言う。「それじゃあ、ゆっくりと支度してきて。僕はここで時間を潰しているから」 言い終わると直ぐに背を向けてしまう彼の後ろ姿。一度目の前から消え、戻ってきた後は持ってきた仕事の資料を机に広げ、作業を始めてしまう。「今のって」 海亜はというと、未だに頬に触れた感触がなんなのかを考え、しばらくの間固まったまま放心していた。時間が経つと少しずつ働き始める頭。漸く何が起こったのかを理解した瞬間、茹でた蛸の様に顔が一気に真っ赤に染まっていく。「す、直ぐに用意してきますから!」 相当恥ずかしかったのだろうか。彼女にしては珍しく、大きな足音を立てて部屋へと駆け込んでしまった。ただ、その反
「不安にさせて済まなかった」 そう言われても。思わず出てしまいそうになったその言葉を飲み込み、曖昧に浮かべた微笑み。疑うことはしないと決めた筈なのに、あのような光景を見せられてしまうと簡単に蘇ってしまう暗い感情に、嫌でも振り回されてしまう自分が嫌で仕方が無い。「彼女とは、仕事上の付き合いなだけだから」 何を言われても嘘に聞こえてしまう。非常に厄介な性分はどうやっても改善する兆しをみせてはくれないようで。「今回も、彼女の要望を聞く気は無かったんだよ。それは無理だって伝えたんだ。それは嘘じゃ無いんだよ」 そんな風に言葉を並べて欲しくない。そう言えたらどれ程気持ちが楽になれるのだろうかと。口を閉ざしたままそんな風に考えてしまう。「信じてくれ」 分かった。 そう答えてあげたい。その気持ちは本物だった。 それなのに、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく感覚に目眩を覚える。拾い上げることの出来ない情報に振り回され、何処をみたら良いのかの判断がつかず戸惑いばかりが大きくなっていくことがストレスで仕方が無い。 もう、これ以上は考えたく無い。 そうやって選ぶ逃避行動のせいで、互いが噛み合わない歯車のように少しずつ捻れていくのが悲しい。でも、その感情を昴にぶつけられるほど、我が儘になることが難しいと唇を噛む。 とは言え、これ以上臍を曲げていても蟠りが残るだけになってしまうだろう。 少なくとも、今回のことにおいては、こちらのことを蔑ろにし、相手の女性を選ぶためにと海亜の手を振り払ったりはしなかったので、ひとまずはこれで良いと自らを納得させ、この話題を打ちってしまうことにする。「今は兎に角、怪我を治すことに専念しませんか?」 いつだって傷付くことが怖いのだ。 だからこそ、無意識に逃げる方法を探してしまう弱い自分。今回だって、自ら踏み込んだ質問をしたはずなのに、結局は考えることを放棄し、今は別のことを優先するべきだと自身を騙して笑うことにしたことを、後で後悔するかも知れない。「もう、終わったことみたいなので、私は大丈夫です」 大丈夫? 本当に? 自問自答で抉る傷口は深くなるばかり。「昴さんが元気になってくれることの方が最優先ですよ」 いつかは答えが手に入る。そんな日はいつ訪れるのだろうか。 想定するのは最良と最悪という、二つの結果だけ。どちらに傾くか
それを聞いて、余りの言葉の酷さに絶句してしまう。「私だけでは足りないって……一体、どういうことですか?」 少しずつ、遅れてやってくる怒りという感情。不自然に声が震えてしまうのは、彼女の言った言葉が許せないと感じてしまうからだろうか。「確かに、四六時中昴さんの傍に居ることは不可能かも知れないですが……」「あ。奥さん居たの?」 海亜のことを横目で見る彼女の視線が、何となく不快に感じ嫌な気持ちになる。「ごめんなさーい。慌てていて、気が付かなくて」 どう聞いても巫山戯ているとしか言いようが無い謝罪は、此方に対しての牽制なのだろうか。海亜と昴の間に割り込むようにしてベッドに腰掛けている彼女が、一向にその場を離れようとしないことに、益々苛立ちが強くなっていく。「でも、昴が大変なときに呑気に寝ちゃえるんだから、居ても居なくても同じよねぇ」「繭っっ!!」 言葉に含まれる明らかな棘。それに対して不快感を表した途端、昴の怒号が部屋に響いた。「昴?」「いい加減にしてくれっ!!」 突然の事に驚いたのは海亜だけでは無い。勝手に割り込み、昴の隣に陣取っていた女性も同じだったようで、予想外の反応に目を見開き驚きの色を見せている。「四埜杜さん」「な、何よ」「君を危険な目に遭わせたことは悪いと思っている。その件については後日、改めて謝罪をさせて頂くよ。でも、悪いけど今は、君に付き合ってられるような余裕は無いんだ」「そ……それは……」 普段、怒ることの無い人間が見せる強い感情は、受ける側の萎縮を引き起こす。海亜自身が言われている訳では無いのに、何だか昴のことが怖く感じ自然と震える肩。「それに、君の親切は有り難いけれど、君がそこまでしてくれる必要を僕は感じて居ない。はっきり言って迷惑だから遠慮して貰えると助かる」 そうはっきり言われると、これ以上何も言えなくなってしまったのだろう。不満を隠しきれないと言うように態度で示しながらも、四埜杜繭は一度は大人しく引き下がる。「何よ」 このような出会いで無ければ、彼女のことを素直に可愛いと思えたのだろう。現に、ふて腐れるような拗ねて見せる態度は、庇護心を掻き立て思わず声を掛けたくなるほどだ。「昴のことが心配だからなんとかしてあげたかっただけじゃない」 相手のことを思いやる気持ち。その感情は本物かもしれない。ただ、
あの後、数十分も経たないうちに昴は検査のため一端部屋から姿を消してしまった。 残された海亜はというと、一人でここに居るのも何だかと思い、廊下のベンチに腰掛けて彼が帰ってくるのをぼんやりと待っている。「どうしよう」 場所が場所なだけに携帯電話の使用は憚られ、電源はずっとオフのまま。慌てて飛び出してきた事もあり、時間を潰す為の手段が手元に全く無いのは痛い話だ。「本を持ってくるべきだったわ……」 そうは言っても、現在の時刻はとっくに深夜を回りきっており、本屋はもう閉まっている時間である。「コンビニなら、開いてるかしら?」 確かに。口にした種類の店なら、いつ行っても気軽に入ることが出来るはずだ。 とは言え、病院に併設されているコンビニエンスストアはと言うと、営業時間は夜十時頃までで終わってしまうのが殆どで。どうしても店に行きたい場合は一度、この建物から出て近隣の店舗まで足を運ぶ必要がある。その場合、自分がこの場所を離れると言うことを知らせておきたいのに、今彼女の近くに頼れることが出来る人間が見当たらない。そうなってくると、場を離れることは難しくなってしまうわけで、そんな風に迷いに迷った結果、未だにどうするべきか判断が付かず現在に至ってしまっている。「こういう時って、時間があることの方が苦痛に感じてしまうのね」 忙しいときは、幾らあっても足りないと感じているそれは、今となっては持て余し、ただ過ぎるのを待つだけのものに変化してしまった。実に贅沢な悩みだと分かっては居ても、人間なんて結局自己中心的な生き物なのだ。都合が悪いと思えば邪魔だと感じるし、必要になれば寄越せと強請るのだからどうしようもない。「何時に帰れるかしら?」 検査に掛かる時間は一、二時間程度だと説明を受けたことを思い出す。「ふわぁぁあ……」 徐々に襲い来る眠気。気が付けば零した大きな欠伸のせいで、海亜の瞳から涙が零れ落ちていた。 検査が終わり一息吐いた頃には、後数時間したら朝という時間まで回ってしまっていた。「疲れた……」 こんなに長くかかるとは思っていなかったらしい。流石に昴の顔にも濃い披露の色が浮かんでいる。「お疲れ様です」 同様に海亜の顔にも疲れが浮かび、二人の口数は驚くほど少なくなってしまっていた。「眠いですか?」「少し」 気を抜けば、うつら、うつらと船を漕ぎ
「もう少し、昴さんの仕事に興味を持って聞いておけば良かった」 とは言え、これは良い機会なのかも知れない。これを機に昴に色々と教えてもらい、またこういうことが起きた時には直ぐにサポートに入れるようにしたら、滞りなく業務を進めていけるようになるはずだ。「いつまでも昴さんに甘えてちゃいけないわよね」 今が役に立てないと感じて居るのなら、今後は努力して役に立てる人間になっていけば良いだけ。 また一つ決意を固めると、海亜は気合いを入れるように小さく手を握り自分へと引き寄せる。「すいません」「あ、はい」 閉ざされていたはずの扉を開いたのは、二人で昴に会いに来ていた男性の内の一人だった。「旦那さんへの聴取が終わりそうなので」「分かりました」 室内では、もう一人の男性が話を続けている途中で、広げた手帳に忙しく手を動かしながら、聞いた内容を記している。「と言うことは、相手の顔は見ていない、と?」「はい」「そうですか」 落ち着き無く白い紙の表面に点を打つボールペンの先。「分かりました」 男性はそう言って手帳を閉じると、お疲れ様という言葉と共に軽く頭を下げてみせる。「また何か思い出しましたら、連絡ください」「はい」 差し出された名刺を受け取りながら昴が頷くと、彼は海亜の方へと向き直り再び頭を下げた。「お待たせいたしました。ご協力、感謝します」 別れ際に海亜にも名刺を渡すと、昴に伝えたのと同じ言葉を残し二人の刑事は部屋から出て行ってしまう。「はぁ」 ベッドの上では、疲れの色を見せる昴が大きな溜息を吐いている。「今日は、新しいこと尽くしだったな」 事情聴取なんて、生まれて初めて受けたよ。そう言って笑う仕草は少しだけこの状況を楽しんでいるように見えて憎たらしい。「出来ればこれきりにしてもらいたいとは思いますけど」「肝に銘じます」「宜しい」 今後の予定は医師に状況を確認してから、入院して様子を見るのか、自宅へ帰れるのかが決まるのだろう。廊下を歩いていた看護師に声を掛け、事情聴取が終わったことを伝えると、彼女は急いで何処かへ姿を消してしまった。彼女が戻ってくる間、海亜は再び昴と二人きり。「そう言えば、ここ数ヶ月、こうやって話をすることが出来なかったね」 昴から尋ねられたのは、ここ最近何をやっていたのかということ。「それはそうですよ」







