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第13話

Author: 南喬北木
湿り気を帯びた温かい海風が椰子の木々を揺らし、凛の髪に残っていた都会の憂いをふわりと吹き飛ばした。

傷を癒した小さな病院から、彼女はまっすぐここへ向かった。

緑濃い木立の間に佇む古びたアトリエ。半開きの扉からは、絵の具の懐かしい香りが漂っている。

ここは大学時代の恩師清水先生が隠居している場所。

彼女の傷ついた心の避難所でもあった。

「凛」

白髪の老人が足早に迎えに出てきた。清水先生だ。

皺の刻まれた顔に喜びと心痛が同時に浮かび、まだ病み疲れた面持ちながら不思議と平静な凛の顔を見つめた。

「早く中へ!随分と痩せて」

迷子になった子を迎えるように背中を軽く叩き、中へ招き入れる。

アトリエでは数人が作業を中断して顔を上げた。皆、凛の大学時代の先輩たちだ。

偽りのない笑顔と心配の色が浮かんでいる。

ここには悠真の派手な世界はない。あるのは絵の具とキャンバス、そして芸術への純粋な情熱だけ。

清水先生自ら淹れた熱いお茶を、作業台の上にそっと置いた。

創作の痕跡に満ちた部屋を見回し、再び凛を見る目には、安堵と深い悔しさが交錯していた。

「戻って来てくれて……良かった。
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    海辺の風は、いつも自由を運び、アトリエの窓の外の数本のヤシの木を揺らしていた。 陽光が大きな窓から差し込み、作業台に整然と並べられた精密な工具を照らしている。 かつて別荘の片隅で埃を被っていた道具たちは、今や凛の器用な指先で生き返っていた。アトリエの壁には、師匠とチームの受賞証明書がずらりと飾られている。 ここはもはや逃げ場ではなく、彼女の仕事の拠点であり、夢が再び船出する港となっていた。 作業の合間、凛の視線が机の上の写真立てに止まった。 中には、夕日の海岸で知樹と並んで写った写真があり、二人は肩を並べ、温かく自然な笑顔を浮かべている。 彼女はスマホを取り上げ、軽く指を滑らせて短いメッセージを送った。【夜に会おう】暮れかかる頃、知樹の車がアトリエの前に止まった。 「まずどこか寄っていく?」ドアを開けながら、知樹が優しく尋ねた。 凛は澄んだ瞳で頷いた。「うん、父に会いに行こう」 車は見慣れた海岸線を進み、やがて海を見渡せる静かな墓地に着いた。 松や柏の木が青々と茂り、かすかに波の音が聞こえる。 凛は清楚な白いデイジーの花束を抱え、父の墓前に立った。 写真の中の父は、相変わらず穏やかで優しい笑顔を浮かべている。 ゆっくりと腰を下ろし、花束を墓石の前にそっと置いた。 「父さん、会いに来たよ」 「父さんを傷つけた人たちは、皆それ相応の罰を受けた。法律が正義を示し、娘もこの因縁に決着をつけた」 彼女の目は静かな水面のように、墓石の父の笑顔を見つめた。 「安心して、私は今、とっても元気だよ」 振り返ると、少し離れたところで静かに立ち、いつまでも優しい眼差しを向け続ける知樹の姿があった。 彼女は心からの温かい微笑みを浮かべた。「新しい人生を始めるから、祝福してね」 立ち上がり、墓石の父の優しさに満ちた顔をもう一度深く見つめた後、ためらうことなく、未練もなく、きっぱりと背を向けた。 夕陽の残光が彼女の影を長く引き、彼女は一歩一歩、待ち受ける知樹のもとへと歩いていった。 墓石は静かに立ち、海風が嗚咽のように、長いため息と祝福を運んでいく。 過去のすべての愛憎、涙と因縁は、この瞬間、背後に広がる深まる夕闇の中に置き去りにされた。

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