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君の知らない愛の跡

君の知らない愛の跡

Par:  氷の如きComplété
Langue: Japanese
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高校時代、浅井湊人(あさい みなと)を振ってからというもの、彼は絶え間なく恋人を替え続け、その数は九人にものぼっていた。 同窓会の席、湊人は十人目となる現在の恋人を連れて現れ、私たち一人ひとりに招待状を配り歩く。 周囲ははやし立て、ニヤニヤしながら私、佐藤夏海(さとう なつみ)に目配せを送った。 私は胸を締め付けられるような痛みを感じながらも、毅然とした態度で立ち上がり、彼らを祝福する。 湊人は鼻で笑った。「俺の結婚式当日、お前の口から直々に祝いの言葉を聞かせてもらいたいもんだな」 私は微笑んでそれに応じたが、背を向けた瞬間に、バッグの中の診断書をそっと指先でなぞった。 来月の二十日か。 どうやら、そこまで私の命は持ちそうにない。

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Chapitre 1

第1話

高校時代、浅井湊人(あさい みなと)を振ってからというもの、彼は絶え間なく恋人を替え続け、その数は九人にものぼっていた。

同窓会の席、湊人は十人目となる現在の恋人を連れて現れ、私たち一人ひとりに招待状を配り歩く。

周囲ははやし立て、ニヤニヤしながら私、佐藤夏海(さとう なつみ)に目配せを送った。

私は胸を締め付けられるような痛みを感じながらも、毅然とした態度で立ち上がり、彼らを祝福する。

湊人は鼻で笑った。「俺の結婚式当日、お前の口から直々に祝いの言葉を聞かせてもらいたいもんだな」

私は微笑んでそれに応じたが、背を向けた瞬間に、バッグの中の診断書をそっと指先でなぞった。

来月の二十日か。

どうやら、そこまで私の命は持ちそうにない。

……

個室のドアが勢いよく開いた。

私は無意識に顔を上げる。

六年という歳月は、学生時代特有の青さを湊人から完全に削ぎ落としていた。仕立てのいい黒のスーツが、その広い肩幅と長い足をいっそう際立たせ、立ち姿は以前よりもずっと凛々しくなっている。

けれど、かつて私を優しく包み込んでくれたあの微笑みはどこにもなく、今のその顔には、ただ凍てつくような冷徹さだけが宿っていた。

彼の隣には、一人の女性が寄り添っている。

室内が一瞬の静寂に包まれたのも束の間、直後、それまでを遥かに凌ぐ喧騒が沸き起こった。

「よっ、湊人様のお出ましだ!遅刻したんだから、まずは駆けつけ三杯いっとけよ!」

「湊人、隣の美人は誰だよ。紹介してくれよ」

湊人は何も答えず、ただ視線を私に固定し、射抜くように釘付けにした。

対照的に、隣の女性は屈託のない笑みを浮かべる。大輪の薔薇のように華やかで、自信に満ちた笑顔だった。

「皆さん、初めまして。森下莉奈(もりした りな)だよ。

湊人の婚約者なの」

婚約者。

コップを握る私の手が、自分でも気づかないほど微かに震えた。

莉奈はそう言い終えると、バッグから金の箔押しが施された豪華な招待状を取り出し、にこやかに配り歩く。

「来月の二十日、湊人と結婚することになったんだ。みんな、絶対に来てね!」

私は目を伏せ、チクリとした胸の痛みを感じた。鏡を見なくても、今の自分の顔が死人のように青白いことは分かっている。

先週、病院から戻ったばかりだ。

主治医からは、長くても一ヶ月の命だと告げられた。

他の誰かにとっての一ヶ月は、盛大な結婚式を準備し、幸福な未来へ向かうための時間。

けれど私にとっての一ヶ月は、定められた死を待つための時間でしかない。

胸に馴染みのある圧迫感がこみ上げ、喉の奥に鉄錆のような生臭い味が広がった。

私は必死にコップを握りしめ、口元までせり上がってきた血を、強引に飲み下す。

今回の集まりには、本当は来るつもりはなかった。

親友の羽田真由(はだ まゆ)が電話で「夏海、おいでよ。湊人も来るから。

……これが湊人に会える最後のチャンスかもしれないと思って、会いにきなよ」と誘った。

最後のチャンスか。

そうだ、今会わなければ、もう二度と……

しかし、この「最後のチャンス」がこれほど残酷なものになるとは思わなかった。

私と湊人にも、穏やかで幸せな時間があった。

高校二年の頃、彼は誰もが憧れる秀才で、私はただの目立たない普通の女子生徒だった。

放課後の居残り勉強中、彼は広い校舎をわざわざ横切って、私に温かいココアを差し入れてくれた。

体育の授業でバスケットボールが当たった時は、周囲の目も気にせず、慌てて私をお姫様抱っこして保健室まで走った。

冬のグラウンドでは、私の冷え切った手を自分のコートのポケットに入れ、温かい掌で包み込んでくれた。

「夏海、ずっと一緒にいよう」

私はその言葉を信じていた。母が机の引き出しから、彼からのラブレターを見つけるまでは。

母は初めて私に激昂し、手紙をズタズタに引き裂いて警告した。「夏海、自分が何をしてるか分かってるの?受験も近いっていうのに、学生の分際で色恋沙汰なんて絶対に許しない!」

生まれて初めて母に反抗し、大喧嘩の末に荷物をまとめて家を飛び出した。

学校の向かいにある小さなビジネスホテルで一晩を過ごした。

翌日、母が私を見つけ出した。

母は叱ることもせず、ただ目を真っ赤にして、一通の診断書を私に突きつけた。

「先天性心疾患。

医師は、二十六歳までは生きられないと言っているわ」

母は私を抱きしめ、張り裂けんばかりの声で泣いた。

「お母さんが、どれほど多くのお医者さんに縋ってきたと思っているの……でも、結局は全部、無駄だった。

夏海、あなたは恋をしてはいけないの。誰かの人生を台無しにするのも、いつかあなたが病気を理由に捨てられる姿を見るのも、お母さんには耐えられない……」

その瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。

ようやく理解した。なぜ幼い頃から激しい運動を禁じられてきたのか。なぜいつも私だけが病弱だったのか。そして、なぜ母がいつも私を見ては、あんなにも深く溜息をついていたのか。

私の寿命は、最初から決まっていたのだ。

いつも待ち合わせていた大きな木の下で、私は湊人に別れを告げた。

彼は呆然とした顔で理由を尋ねた。

星を散りばめたような彼の瞳を見つめると、医師の宣告と母の涙が脳裏をよぎり、心臓を直接刃物で抉られるような痛みを感じた。

私は、ありったけの酷い言葉を彼に投げつけた。

「湊人、もう飽きちゃったの。

あなたと一緒にいても退屈。ただ、学年一の秀才と付き合うのがどんな感じか、ちょっと好奇心で試してみたかっただけ。

もう終わりにしましょう」

一言一言が、彼の心を、そして私の心さえも、容赦なく切り裂いていく。

湊人の瞳から、光が少しずつ、確実に消えていった。

「夏海」彼は歯を食いしばり、一文字ずつ噛みしめるように言った。「お前、大したもんだよ」

その日から、湊人は何かに取り憑かれたように次から次へと恋人を替え続けた。

別れてから数ヶ月もしないうちに一人目の彼女ができ、それからの大学四年間で、彼は九人もの女を乗り換えてきた。

その一つひとつの恋は、ことごとくが周囲を騒がせるほど派手に噂になった。

分かっていた。彼はわざとやっているのだ。

そうすることで、私に復讐しているのだと。

そして今、彼は十人目の、本物の婚約者を連れて招待状を渡しに来た。

私は、自分への報いがついに訪れたのだと感じた。

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azarashi
azarashi
話し合うかきっぱり別れるかすればいいのに新婦もこの2人に巻き込まれただけで迷惑すぎる
2026-09-13 22:18:12
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chizutank
chizutank
湊人なんも悪くないよね、、、むしろ可哀想。
2026-02-23 21:09:56
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ノンスケ
ノンスケ
25歳までいきられないとしても、それまでの生を大事にして欲しかったな。別れる必要なくない?死ぬまで2人で生きたってよかったじゃない。これじゃあ残された彼が可哀想だよ。
2026-02-14 09:07:32
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蘇枋美郷
蘇枋美郷
私は母親の態度と言葉が気に入らない!先の短いまだ若い娘に対してあんな風に言う?この火葬場での光景は見てた?親友が傍に居てくれたけど孤独に死んでいった娘の最期がこれで満足? 主人公も病気で別れるなら、何故こんな態度なの?もっと普通に別れろよ。残された彼氏の方がよっぽど可哀想だわ!
2026-02-13 18:42:59
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松坂 美枝
松坂 美枝
これ男が悪いの? 主人公が何も言わないで手酷く振ったからクズ男になったんでしょ? てっきり最初の告白を断ったのかと思ってたらつきあって途中で振ったってひどくないか 男が気の毒で可哀想だった。言って欲しかったよな
2026-02-13 09:55:11
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第1話
高校時代、浅井湊人(あさい みなと)を振ってからというもの、彼は絶え間なく恋人を替え続け、その数は九人にものぼっていた。同窓会の席、湊人は十人目となる現在の恋人を連れて現れ、私たち一人ひとりに招待状を配り歩く。 周囲ははやし立て、ニヤニヤしながら私、佐藤夏海(さとう なつみ)に目配せを送った。私は胸を締め付けられるような痛みを感じながらも、毅然とした態度で立ち上がり、彼らを祝福する。湊人は鼻で笑った。「俺の結婚式当日、お前の口から直々に祝いの言葉を聞かせてもらいたいもんだな」私は微笑んでそれに応じたが、背を向けた瞬間に、バッグの中の診断書をそっと指先でなぞった。来月の二十日か。どうやら、そこまで私の命は持ちそうにない。……個室のドアが勢いよく開いた。私は無意識に顔を上げる。六年という歳月は、学生時代特有の青さを湊人から完全に削ぎ落としていた。仕立てのいい黒のスーツが、その広い肩幅と長い足をいっそう際立たせ、立ち姿は以前よりもずっと凛々しくなっている。けれど、かつて私を優しく包み込んでくれたあの微笑みはどこにもなく、今のその顔には、ただ凍てつくような冷徹さだけが宿っていた。彼の隣には、一人の女性が寄り添っている。室内が一瞬の静寂に包まれたのも束の間、直後、それまでを遥かに凌ぐ喧騒が沸き起こった。「よっ、湊人様のお出ましだ!遅刻したんだから、まずは駆けつけ三杯いっとけよ!」「湊人、隣の美人は誰だよ。紹介してくれよ」湊人は何も答えず、ただ視線を私に固定し、射抜くように釘付けにした。対照的に、隣の女性は屈託のない笑みを浮かべる。大輪の薔薇のように華やかで、自信に満ちた笑顔だった。「皆さん、初めまして。森下莉奈(もりした りな)だよ。湊人の婚約者なの」婚約者。コップを握る私の手が、自分でも気づかないほど微かに震えた。莉奈はそう言い終えると、バッグから金の箔押しが施された豪華な招待状を取り出し、にこやかに配り歩く。「来月の二十日、湊人と結婚することになったんだ。みんな、絶対に来てね!」私は目を伏せ、チクリとした胸の痛みを感じた。鏡を見なくても、今の自分の顔が死人のように青白いことは分かっている。先週、病院から戻ったばかりだ。主治医からは、長くても一ヶ月の命だと告げられた。
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第2話
招待状が、ひらひらと舞い落ちる花びらのように一人ひとりの手元へと配られていく。最後の一通が、私の手元に届けられた。眩いほどに煌めく黄金の箔押しが、目を逸らしたくなるほど残酷に私の視界を刺し貫く。隣に座る真由が、心配そうに私の手を握りしめた。彼女の掌は驚くほど冷たく、私の手よりも凍えているように感じられた。私は大丈夫だと伝えるように、彼女にそっと微笑み返す。その時、耳障りなほど甘ったるい声が響いた。「ねえ、ずっと気になっていたことがあって」莉奈は手にしたワイングラスを軽く揺らし、楽しげに湊人を見つめている。「湊人、高校時代に初恋の人がいたって聞いたわ。すごく大事にしていたのに、最後は彼女に振られたって……それって本当なの?」彼女の声は決して大きくなかったが、個室の中は一瞬で水を打ったように静まり返った。全員の視線が、まるで合図でもあったかのように一斉に私へと注がれる。コップを握る私の指先に、いっそう力がこもった。真由が勢いよく立ち上がった。「莉奈さん、済んだ話を掘り返してどうするのよ。ほら、せっかくの料理が冷めちゃう、食べて食べて!」けれど、莉奈は聞こえないふりをして、グラスを手にヒールの音をカツカツと響かせながら、一歩ずつ私の方へと歩み寄ってきた。私の前で立ち止まった彼女は、値踏みするような視線で居丈高に私を見下ろす。「夏海よね?湊人から聞いたことがあるわ。この一杯、あなたに捧げるわね。あの時、彼を振ってくれてありがとう。おかげで私、こんなに素敵な人を独り占めできたんだもの」その言葉が放たれた瞬間、会場に大きなどよめきが広がった。私の心臓は見えない手に握りつぶされたかのように、呼吸がうまくできなくなる。無邪気さを装いながら、剥き出しの敵意を向けてくる彼女の瞳。私はそれを真っ向から見据え、ゆっくりとコップを持ち上げた。「おめでとう……」泣き出しそうな顔を笑顔で誤魔化し、コップの中の水を一気に飲み干した。隅の席で、酒の勢いを得たある同級生が茶化すように口を開いた。「湊人はこれまで九人も女を取り替えてきたんだぜ。莉奈さん、怖くないのか?今回もただの遊びだったらってさ」それは、その場にいる全員が喉元まで出かかっていた疑問だった。 再び沈黙が流れる。誰もが莉奈の
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第3話
そう思った瞬間、胸の奥で渦巻いていた苦しみと痛みが、奇跡のように少しだけ凪いだ。死を目前にした人間が、今さら何に執着するというのか。昔の同級生たちが、代わる代わる二人のもとへ挨拶に足を運ぶ。話題は仕事から家庭、そして子供のことへ。私は隅の席で、別世界の出来事を眺める幽霊のように、ただ静かに座っていた。存在を消して、誰の邪魔にもならないように。けれど、ずっと感じていた。熱を孕んだ視線が、絶え間なく私に注がれているのを。それが湊人だということは分かっていた。けれど、私は一度も彼を見ず、言葉を交わすこともなかった。今日ここへ来たのは、ただ、最後にもう一度だけ彼の姿を見るため。こうして目に焼き付けることができた今、この世に思い残すことはもう何一つない。宴がお開きとなった。外は雨が降っていた。真由の恋人が車で迎えに来て、彼女は去り際に私を強く抱きしめ、耳元で小さく囁いた。「夏海、あんな奴のことは気にしないで。あいつはもう、正気じゃないわ」私は微笑んで頷いた。「早く行きなよ。彼氏を待たせたら悪いわ」同級生たちのほとんどが帰路につき、何人かが「送っていこうか?」と気遣ってくれたけれど、私はそのすべてを笑顔で断った。莉奈は宴の途中で急用が入り、会社に呼び出されて先に帰っている。ホテルの車寄せは、あっという間に人気がなくなった。そこに残っているのは、数えるほどの人影。私と湊人も、そのわずかな人影の中にいた。彼は黒塗りのマイバッハに背を預け、指の間に挟んだ煙草を燻らせていた。火影が夜の闇に明滅する。雨糸が彼の額に垂れる髪を濡らし、その瞳は漆黒の闇に沈んでいた。 私は視線を逸らし、俯いて配車アプリで車を呼ぶ。すぐに一台のタクシーが予約を受け付けた。到着した車のドアを開けようとした、その瞬間。湊人が背後からそのドアを力任せに押さえつけた。驚いて振り返ると、底の見えない暗い彼の瞳と目が合った。「俺の車に乗れ」私は眉をひそめる。「湊人、何の真似よ?」彼は答えず、私の手首を問答無用で掴んだ。そのまま助手席のドアを乱暴に開けると、慈しみなど微塵も感じられない仕草で、私を車内へと押し込んだ。「どこへ連れて行くつもりなの?」湊人は聞こえないふりをして、ただ前方の一点を見つめている。そ
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第4話
あの同窓会以来、私は一度も湊人に会わなかった。クラスのLINEグループも退会した。真由以外のすべての連絡先を削除した。私は自らを絶海の孤島に閉じ込め、ただ独りで生きる道を選んだ。心臓の機能は、日に日に衰えていった。最初は胸が苦しい程度だったのが、やがて鈍い痛みが絶え間なく続くようになり、ついには呼吸をするたびに生臭い鉄の味が混じるようになった。 私は大量の血を何度も吐き出した。熱を帯びた、鮮やかな赤。真由は私の家に移り住み、寝食を共にしてくれた。私の前では、いつも太陽のように明るい笑顔を絶やさずに。「夏海、見て。新しいお花屋さんができてたから、あなたの好きな白バラを買ってきたよ」「夏海、新しいレシピを覚えたんだ。肉じゃが、早く食べてみてよ」けれど、彼女は私が眠りについたのを見届けると、洗面所へ駆け込むのだ。蛇口を全開にし、激しい水の音で、崩れ落ちそうなほどの泣き声を必死に押し殺していた。私は、すべてを知っていた。けれど、ただ目を閉じて、深く眠っているふりをするしかなかった。死を待つだけの人間には、誰かを慰める気力さえ、もう残っていなかった。湊人の結婚式まで、あと三日。昨日、主治医から「覚悟をしておいてください」と告げられた。いわゆる、看取りの準備というやつだ。分かっている。私は……そこまで持たない。ベッドに横たわる私の横で、真由がりんごの皮を剥いている。窓から差し込む陽光はどこまでも弱々しく、まるで薄いヴェールのように部屋を包んでいた。私は力なく首を巡らせ、彼女の顔を見つめた。彼女の目は、また赤く腫れている。「ねえ、真由」掠れた声で、私はそっと語りかけた。「……湊人は結婚式の日、何色のタキシードを着ると思う?」りんごの皮を剥く真由の手が、激しく震えた。刃が指先をかすめたが、彼女は痛みすら感じていないようだった。私は、遠い日の記憶を辿るように、独り言を続けた。「きっと、白よね。肌が白いから、白がすごく似合うもの。彼は昔から言ってたわ。黒は重苦しくて嫌だって。綺麗で、明るいものが好きだったから。ねえ、真由……そう思わない?」「もうやめて!」真由はりんごとナイフを放り出し、泣き叫んだ。「お願いだから夏海、もう……一言も喋ら
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第5話
結婚行進曲がチャペルに鳴り響く。けれど、湊人の視線はまだ泳いでいた。彼は確信しているのだ。私が、必ず来ると。白いタキシードを着た彼が、美しい花嫁を迎える姿を。彼が完全に別の女のものになる瞬間を、私が見届けに来るはずだと。隣に立つ莉奈の顔から、笑みが引き攣る。彼女はそっと手を伸ばし、湊人の袖を軽く引いた。「ねえ、湊人、私だけを見つめて」莉奈の甘く、とろけるような声が響く。湊人の視線が、ようやく彼女へと戻った。けれど、その瞳には何の感情も宿っておらず、ただ枯れ果てた荒野のように乾ききっていた。「……ああ」と、彼は短く、消え入りそうな声で応えた。神父が前へ進み出、聖書を開いた。その時――バンッ!激しい音を立てて、扉が外側から弾け飛ぶように開いた。列席者の全員が、一斉に振り返る。私も同じだった。真由が漆黒のドレスを纏って立っていた。泣き腫らした真っ赤な目で、彼女は湊人をまっすぐに射抜いている。湊人の瞳に、露骨な不快感と嫌悪が走った。「真由、何の真似だ。さっさと失せろ」真由は、泣き顔よりも痛々しい、引き攣った笑みを浮かべた。「何の真似かって?」彼女は湊人の目の前まで歩み寄り、立ち止まった。「湊人、結婚式をぶち壊しに来たんじゃないわ。私はただ……ご祝儀を届けに来たのよ」彼女は黒いバッグから、一枚のキャッシュカードを取り出した。そして、列席者全員の目の前で、それを湊人の顔に叩きつけた。カードの縁が彼の端正な頬を掠め、薄い赤線が走る。カードはそのまま力なく床に落ちた。湊人は呆然と立ち尽くし、莉奈も絶句している。「あなた、何てことを……っ」「暗証番号は、あなたの誕生日よ。夏海に頼まれたの」真由は彼を睨みつけ、一字一句、突き放すように告げた。「それが、彼女があなたに遺した最後のものよ」湊人は、射るような視線を真由に向けた。 「夏海はどこだ。本人に直接言わせろ!」彼はまだ、これが私の気を引くための駆け引きだと思っているのだ。自分を振り向かせるための、最後の手詰まりの悪あがきだと。そんな彼を見つめる真由の瞳から、わずかな光さえも消え失せ、底冷えするような冷徹さが宿った。「来られるわけないでしょ。湊人。夏海は死んだわ」その瞬間、宙に浮く私は、湊人の顔から
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第6話
莉奈の絶叫は、遠ざかる湊人の背中に虚しく消えていった。「湊人!待って、湊人!」彼女はドレスの裾を捲り上げ、必死に追いかけようとした。けれど、わずか数歩でその足は止まる。高すぎるヒールで足首を挫いたせいもあったが、それ以上に、列席者たちから向けられる軽蔑と憐憫が混じった視線に耐えられなかったのだ。彼女の顔はみるみるうちに青ざめ、屈辱に赤く染まった。やがて、彼女はその怨念のすべてを真由へとぶつけた。「あんたのせいよ!何てことしてくれたの、このくそ女!」真由は、冷え切った目で彼女を見下ろした。まるで見苦しいピエロでも眺めるかのように。「私?」彼女は、鼻で笑った。「感謝しなさいよ。夏海が優しすぎたおかげで、あんたは彼の隣に立つチャンスを貰えたんだから」言い捨てると、真由は誰を振り返ることもなく式場を後にした。私も、誰も見なかった。私の魂はふわふわと頼りなく宙に浮き、ただあの白い背中を追って、風のように流れていった。湊人は、取り憑かれたような速さで駆けていった。駐車場へなだれ込むと、自分の車を探す余裕さえなく、目に付いた同級生の黒いベントレーのドアを無理やりこじ開け、転がり込むように乗り込んだ。私は助手席に浮かびながら、ただ彼を見つめていた。ハンドルを握る手は白く強張り、浮き出た青筋が彼の激動を物語っている。あまりのスピードに不安さえ覚えたけれど、すぐに自嘲の笑みが漏れた。……死んでいる私が、何を心配しているんだろう。今の私は、実体すら持たない、ただの傍観者にすぎないのに。ふとした拍子に手が触れたのか、カーオーディオが不意に鳴り出した。流れてきたのは、ずっと昔、二人でよく聴いた懐かしい曲だった。あの頃――夏の放課後。彼が自転車の荷台に私を乗せて家まで送ってくれた。彼はイヤホンの片方を私に貸して、音程の怪しい鼻歌を歌いながら。 「夏海。俺たち、これからどうなるかな?」十六歳の湊人の声は、どこまでも澄んでいて、少年特有の根拠のない自信と輝きに満ちていた。私は自転車の揺れに身を任せ、彼の広い背中にそっと頬を寄せた。「きっと、同じ大学に行くのよ」「それから?」「それから……あなたは世界で一番の建築家になって、最高に素敵な家を建てるの」「その家には、誰が住むん
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第7話
宙に浮く私の魂は、声もなく彼を見つめていた。痛いよ。湊人。痛くないわけがないじゃない。胸も、体も、全部が痛い。でも、何より痛かったのは、あなたが別の女の子を連れて、何度も何度も私の前を通り過ぎていくのを見ることだった。痛いかって、あなたは聞くけれど。答えてあげたいけれど。もう、私の声は届かない。彼に返ったのは、死のような静寂だけだった。すると、彼は不意に笑った。泣き顔よりもずっと、痛々しい笑み。「夏海……お前は本当に、嘘つきだな」ようやく伸ばされた彼の指先が、私の冷たい頬をなぞる。「また俺を騙したのか。遊び飽きたんじゃなかったのかよ。俺のこと、退屈だって言っただろ?じゃあ、なんで……なんでまだ、これをつけてるんだよ」彼は掠れた声で言った。震える指がブレスレットに触れた瞬間、熱い何かに焼かれたかのように、彼は弾かれたように手を引っ込めた。彼は食い入るように私を凝視する。「俺のこと、滑稽だと思って見ていたのか?婚約者を連れてお前を辱めて、幸せだって見せびらかして……夏海、教えてくれ。お前から見て、俺は救いようのない馬鹿だっただろ?」大粒の涙が、雨のように次から次へと私の上にこぼれ落ちた。「どうして……どうして言ってくれなかったんだ!」堰を切ったように、彼の声が一段と高くなった。「勝手に決めるなよ!お前は何様のつもりだ?病気なら、何をしてもいいのか?病気なら、俺を勝手に捨ててもいいのかよ!恨んでやる。夏海、お前のことなんて、一生恨んでやる!」その時、告別式会場のドアが乾いた音を立てて開いた。逆光の中に、真由が立っていた。「彼女にはもう、何も聞こえないわよ。湊人」湊人が勢いよく振り返る。血走った目で彼女を睨みつけた。「お前……ずっと前から知っていたんだな!」狂ったように駆け寄り、真由の襟首を掴み上げる。「なぜ教えなかった!なぜ夏海と一緒に、俺を騙し続けたんだ!」真由は彼をじっと見つめた。その瞳には、恐怖など微塵もなかった。そこにあるのは、底知れない悲しみだけだ。彼女はなすがままにされながら、一言一句を突き刺すように告げた。「何を教えろって言うの?夏海が心臓の激痛に襲われるたび、声を殺して布団に顔を埋めていたこと?治療
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第8話
告別式会場には、また私たち二人だけが残された。一人は生者として、もう一人は死者として。私は湊人を見つめていた。私の前で膝をつき、息も絶え絶えに泣きじゃくる彼の姿を。胸の奥にくすぶっていたわだかまりも、割り切れない想いも、この瞬間に彼の涙とともに溶けて、消えていったような気がした。私はふわふわと彼に歩み寄り、さっきの彼のように、その頭を撫でようと手を伸ばす。けれど私の手は、実体を持たぬまま彼の髪を虚しくすり抜けていく。温もりも、手触りも、今の私には何一つ残せやしない。長い時間の後、ようやく彼の泣き声が止まった。彼はゆっくりと立ち上がり、私の傍らに歩み寄る。そして、埃にまみれた高価な白いタキシードの袖で、私の頬を濡らしていた自分の涙を、優しく、丁寧に拭った。その手つきは、少しでも力を入れれば壊れてしまう稀少な宝物を扱うかのように、どこまでも優しかった。「……夏海。ごめん……俺が悪かった。これからは、ちゃんとするから」彼は私を深く見つめた。その姿を魂の奥底まで刻み込もうとするかのように。それから、彼は静かに顔を伏せ、死の冷たさに支配された私の額に、六年の歳月を経てようやく届いた愛惜の口づけを落とした。「怖がらなくていいよ。これからはずっと、俺がそばにいるから」その言葉と同時に、私の魂は透き通り始め、意識がゆっくりと遠のいていった。意識が遠のく中で、私はまるであの樟の並木道が続いていた夏の日へ、引き戻されたかのような錯覚に陥った。十六歳の湊人が、逆光の中に立っている。その瞳は、夜空の星よりも輝いていた。「夏海。大学を卒業したら、俺と結婚してくれ。お前を、俺の花嫁にするんだ」私は笑って、力いっぱい頷いた。「ええ、いいわよ。湊人、ずっと待ってるからね」まばゆい光景が、淡く溶けるように消えていく。最後に私が見たのは、二十五歳の湊人が、純白のタキシードを脱ぎ、丁寧に畳んで私の隣に置く姿だった。それは、あまりにも遅すぎた、私たち二人だけの結婚の儀式。彼の瞳に宿っていた狂気と苦悶は、やがて音のない深い淵へと沈み込んでいった。分かっている。あの日、私たちの何かが、二度と元には戻らないほど粉々に砕け散ってしまったのだ。彼は生きていくだろう。私の分まで。そして、世界で一番美
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