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12.ネクタイはまた曲がっていた

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-10-27 16:13:36

月曜の朝は、どこか湿気を孕んでいた。十月も半ばになり、秋の匂いは濃くなってきたはずなのに、東京の空気はまだ汗ばんだ肌にじっとりと張り付くような温度を残している。

東都商事の営業二課フロアには、冷房の名残とコーヒーの香りと、キーボードの軽快な打鍵音が交錯していた。週明け特有の張りつめた空気が漂うなか、晴臣はすでにデスクに着いてメールのチェックを終え、会議用の資料に目を通していた。

エレベーターの扉が開く音がして、ゆるい足音がフロアに近づいてくる。晴臣は手元の資料を閉じ、気配だけで誰なのかを察する。

「おはようさん」

岡田佑樹の声だった。相変わらずのんびりとした関西訛り。大して早口でもないのに、言葉の輪郭だけがはっきりと届くその話し方は、フロアに不思議な余白を作っていく。

晴臣は顔を上げた。

案の定、岡田は今日も寝癖をつけたまま現れた。白いシャツはアイロンが甘く、ネクタイは見事なまでに右に傾いている。

「……おはようございます」

「ん、おはよ」

岡田はそのまま自席に座ると、鞄からぐちゃりとした資料を取り出し、机の上に広げた。椅子の背にジャケットを放り投げるようにかけ、ペンを探して机の中を引っ掻き回す。ペン立てに入っているにもかかわらず。

晴臣は無言のまま立ち上がり、会議室に提出する資料を手にした。そのついでのように、岡田の席に近づいていく。

岡田が気づくよりも先に、晴臣は手を伸ばした。

ネクタイの結び目に指先が触れる。

岡田の動きが一瞬、止まる。

ごく軽く、人差し指と親指で結び目を整える。その下の細い布がまっすぐになるように撫で下ろすと、晴臣の手の甲に微かな温もりが触れた。

岡田の喉が、わずかに動いた。

声を出すでもなく、身を引くでもなく、ただそこに立っている。

触れた首元の皮膚は思っていたよりも柔らかく、熱を持っていた。香水でも汗でもない、岡田の体温のような匂いが、わずかに指先にまとわりつく。

「……」

晴臣は何も言わず、手を引いた。

岡田がそのタイミングで顔を上げ、晴臣を見た。

「また直してくれてたんやな」

口元に浮かべたのは、いつもの緩い笑みだった。けれどその笑いの奥に、どこかふとした意識の光があった気がして、晴臣は瞬時に視線を逸らした。

「ネクタイ、曲がってましたから」

「そっか。おおきに」

「いえ」

それだけを言って、晴臣は資料を抱えたままその場を離れた。

背後で岡田が椅子のきしむ音を立て、資料をめくる気配がする。何もなかったように、朝の業務は進んでいく。

けれど、晴臣の指先にはまだ、あの温度が残っていた。

誰に頼まれたわけでもない。役職でも立場でもない。ただ、気づけば――いつも自分が直している。

それが、自然だと思っていた。

今までは、そうだったはずだった。

なのに、なぜ今日に限って、あの首元に触れたとき、胸が音を立てたのだろう。

わかっている。

あの人のだらしなさを整えたいのは、仕事の一環でも、好意でもない――そう思ってきた。

けれど、それが自分の中で形を変えはじめていることを、晴臣はまだ認められずにいた。

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  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   10.課長のくせに、ちょっとずるい

    午後六時を少し過ぎたオフィスには、キーボードを叩く音と、書類を束ねる紙の擦れる音が断続的に響いていた。東都商事・営業二課。定時を過ぎても席に残っている社員はまばらで、誰もがそれぞれのペースで仕事の仕上げに取りかかっている。エアコンの風音がかすかに耳に届く程度の静けさのなか、晴臣はパソコンの画面を睨みながら、手元の資料を一枚めくった。外はすでに陽が落ち、窓の外には夜景が広がっていた。街灯とビルの灯りがガラスに反射し、自分の顔と重なる。斜め後ろの席から、ふと軽口まじりの声が聞こえた。「いやー、岡田課長って、なんだかんだで仕事できるんすね」「わかる。最初見たときは絶対やばいやつやと思ったけど、昨日のクロージングとか、めちゃスムーズやったし」「たぶん、手抜いてるようで要所は押さえてんだよな」こそこそとした声ではあったが、内容は明確だった。晴臣はマウスを持った手を止め、無意識に耳をそちらに傾けた。そのとき、自分の胸の奥が、わずかにきしむような感覚を覚えた。…それ、俺の方が、先に知ってた。そう、誰に向けるでもなく、心の中で呟いた。岡田佑樹は、ずるいほどに「力を隠す」人間だ。何も考えていないような間延びした口調。シャツの襟元がずれていても気にせず、コンビニ袋をぶら下げて現れる。スリッパのまま会議室に入ってくる日もあった。あらゆる“だらしなさ”を隠そうともしないくせに、その裏で、仕事の核心だけはしっかりと握っている。昨日の商談で空気を和らげたのも、今日のプレゼンで要所を押さえたのも、決して偶然ではない。「課長、あの後またB社に連絡入れたみたいっすよ。なんか、納期調整も前向きらしいっす」「え、マジ?やっぱやるじゃん、あの人」笑い声が小さく起きる。晴臣は、それに微笑むことも、苦笑することもなく、ただ背筋を伸ばして席を立った。手元の書類をファイルに挟み、プリンターのある棚へと向かう。歩く先に、岡田の席があるのが視界の隅に入ってきた。岡田は、デスク

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   9.手が、少しだけ触れた

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