朝の空は雲ひとつなく、澄み切っていた。四月とは思えないほど冷たい風が、街路樹の葉を静かに揺らしている。通勤ラッシュにはまだ早い時間帯。東京のビジネス街にしては珍しく、人通りがまばらで、交差点の信号機だけが規則的に音を鳴らしていた。東都商事の本社ビル前に、牧野晴臣はいつものように静かに立っていた。手には資料の詰まった薄いブリーフケース。髪はきちんと整えられ、シャツの襟もスーツの肩も乱れひとつない。革靴の音をさせずに歩くことが身についているのか、アスファルトを歩いていても、彼の存在を先に気づく者は少ない。この時間に出社するのは、彼を含めても数人。晴臣は一つ深呼吸し、胸ポケットから社員証を取り出して入館ゲートに向かおうとした。だが、ふと足が止まった。ビルの柱の陰に、人影がひとつ。背の高い男が、コーヒーの紙カップを手にぼんやりと空を見上げている。背広姿ではあるものの、どこか妙に力が抜けている。肩のラインが合っていない。スラックスは少しよれていて、靴も革製ではあるが、くたびれた印象が否めない。何よりも目を引いたのは、首元のネクタイだった。結び目が片側に寄っている。しかもシャツの第一ボタンが留まっておらず、襟元が開いたままになっている。胸元からは白い肌が覗き、そこだけ妙に生々しい。晴臣はその男の顔を知らなかった。だが直感的に「関係者だ」と悟った。理由はわからない。ただ、彼の立ち方、所在なさげな表情、そして…何よりもその「違和感」が、どこか自分に近い種類のものだと感じたからだった。男がこちらに気づき、ゆっくりと振り返る。「おはようさん。ここ営業二課で合ってる?」柔らかな関西訛りだった。笑っているが、目元に眠気が残っている。髪はきちんと寝癖がついており、眉間には寝起き特有の皺が寄っている。それでも顔立ちは整っていた。まつ毛が長く、唇の形が妙に艶っぽい。身なりは崩れているのに、なぜかそこだけが整っている。晴臣は軽く頭を下げた。「はい。営業二課は五階になります。もしかして、今日から着任される岡田課長…でいらっしゃいますか?」男は目を丸くし、ああ、と小さく笑った。「そうそう。やっぱ合ってたんやな。助かったわ。初日から迷いかけてたとこや」言いながら紙カップを口元に運び、コーヒーをすすった。何の警戒もなく笑うその顔が、まるで朝に弱い大型犬のようで、晴臣は内心で小さ
Last Updated : 2025-10-24 Read more