そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。

そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。

last updateDernière mise à jour : 2026-02-02
Par:  中岡 始Complété
Langue: Japanese
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ヨレたネクタイ、寝癖まじりの髪、だらしない笑み。 岡田課長は、会社一の“やる気なさそうな人”だった。 だけど――実は、誰より仕事ができて、 笑うと一瞬だけ、息をのむほど綺麗な顔をする。 若手エースの牧野晴臣は、最初こそ呆れていたはずだった。 けれど、噛み合わない会話、すれ違う視線、 そして時折こぼれる素の優しさに、次第に心がほどかれていく。 これは、不器用なふたりが 愛し方を探しながら結び直す、大人の恋の物語。

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Chapitre 1

1.初日、ネクタイは曲がっていた

朝の空は雲ひとつなく、澄み切っていた。四月とは思えないほど冷たい風が、街路樹の葉を静かに揺らしている。通勤ラッシュにはまだ早い時間帯。東京のビジネス街にしては珍しく、人通りがまばらで、交差点の信号機だけが規則的に音を鳴らしていた。

東都商事の本社ビル前に、牧野晴臣はいつものように静かに立っていた。手には資料の詰まった薄いブリーフケース。髪はきちんと整えられ、シャツの襟もスーツの肩も乱れひとつない。革靴の音をさせずに歩くことが身についているのか、アスファルトを歩いていても、彼の存在を先に気づく者は少ない。

この時間に出社するのは、彼を含めても数人。晴臣は一つ深呼吸し、胸ポケットから社員証を取り出して入館ゲートに向かおうとした。だが、ふと足が止まった。

ビルの柱の陰に、人影がひとつ。背の高い男が、コーヒーの紙カップを手にぼんやりと空を見上げている。背広姿ではあるものの、どこか妙に力が抜けている。肩のラインが合っていない。スラックスは少しよれていて、靴も革製ではあるが、くたびれた印象が否めない。何よりも目を引いたのは、首元のネクタイだった。

結び目が片側に寄っている。しかもシャツの第一ボタンが留まっておらず、襟元が開いたままになっている。胸元からは白い肌が覗き、そこだけ妙に生々しい。

晴臣はその男の顔を知らなかった。だが直感的に「関係者だ」と悟った。理由はわからない。ただ、彼の立ち方、所在なさげな表情、そして…何よりもその「違和感」が、どこか自分に近い種類のものだと感じたからだった。

男がこちらに気づき、ゆっくりと振り返る。

「おはようさん。ここ営業二課で合ってる?」

柔らかな関西訛りだった。笑っているが、目元に眠気が残っている。髪はきちんと寝癖がついており、眉間には寝起き特有の皺が寄っている。それでも顔立ちは整っていた。まつ毛が長く、唇の形が妙に艶っぽい。身なりは崩れているのに、なぜかそこだけが整っている。

晴臣は軽く頭を下げた。

「はい。営業二課は五階になります。もしかして、今日から着任される岡田課長…でいらっしゃいますか?」

男は目を丸くし、ああ、と小さく笑った。

「そうそう。やっぱ合ってたんやな。助かったわ。初日から迷いかけてたとこや」

言いながら紙カップを口元に運び、コーヒーをすすった。何の警戒もなく笑うその顔が、まるで朝に弱い大型犬のようで、晴臣は内心で小さくため息をついた。

(終わったな)

それが彼の第一印象だった。少なくとも「新任の課長」という言葉から連想されるような、頼れる上司像とはかけ離れていた。

「ご案内します。セキュリティカードはお持ちですか?」

「ん? あ、ちゃうねん。まだ貰ってへんねん。初出社やし」

「承知しました。ゲストカードを申請しますので、こちらへ」

手際よく案内しながら、晴臣は目を逸らさずに観察を続けていた。岡田の足取りはやや不安定で、カップを持つ手も少し揺れている。だがその視線は明確で、廊下の案内板やフロアの構造を無意識に見ていた。ぼんやりしているように見えて、実際には何も見逃していないのかもしれない。

エレベーターが開き、二人は乗り込む。中は無音。晴臣は操作盤に触れながら、岡田の視線がガラス壁越しの街並みに向いているのを感じていた。

「このビル、思ったより古いなあ。もっとピカピカかと思ってたわ」

「昭和末期に建った本社ビルです。外装は改修済みですが、構造は当時のままです」

「ほう。じゃあ耐震とか大丈夫なん?」

「一昨年、基礎から再工事が入りましたので」

岡田は「さすがやな」と笑った。その笑いは悪意のないものだったが、どこか掴みきれない軽さがあった。晴臣はその空気に身を任せながらも、気持ちの奥底にひとつの疑問を抱えたままだった。

この人は、本当に“できる人”なのだろうか。

五階のフロアが開き、静かな朝のオフィスが広がった。デスクの並び、観葉植物、複合機の音。誰もいないが、それが逆に整然として見えた。

「お席はそちらです。前任のデスクをそのまま使用していただく形になります」

「ああ、助かるわ。えっと…これ、荷物置いてええ?」

「どうぞ。椅子は調整式ですので、高さはお好みで」

晴臣が説明している間、岡田は自分のカップをそっとデスクの端に置いた。持ち手の位置が不安定で、少し傾いていたが、本人は気にも留めない様子だった。

そしてネクタイがまた、微妙に曲がっていた。

シャツの襟から覗く首筋が、日差しの角度で鈍く光っている。汗ではなく、肌の温度のせいだろう。無防備なそれを見て、晴臣は一瞬だけ視線を逸らした。

「ネクタイ、曲がってますよ」

「あ、ほんまや。これなあ、朝、結び直すの忘れてて」

岡田は笑いながら結び目に手をかけたが、うまく直せていない。結び直す指先がもどかしく動き、余計にずれていく。見かねた晴臣は、手を伸ばしてその手を止めた。

「少し失礼します」

岡田が少し驚いたように目を見開き、次の瞬間、静かに身を任せた。晴臣は、指先でゆっくりと結び直した。ネクタイの滑らかな生地が手の中でしっとりと動き、体温がじんわりと指に伝わってくる。

結び目を整えた瞬間、岡田がふっと笑った。

「……あんた、もしかして几帳面なタイプ?」

「人に迷惑がかかるのが嫌いなだけです」

「ほな、これからもよろしく頼んますわ。俺、朝はほんまにアカンからなあ」

晴臣は返事をせず、ただ軽く会釈した。

岡田佑樹。見た目は最低。態度もルーズ。声は柔らかく、言葉は曖昧。だが、まっすぐな目だけは、どこか冗談では済まされないものを持っていた。

初対面のその朝、晴臣は確かに思った。

この人は、きっと厄介だ。

だけどーーなぜか、それでも少しだけ目が離せなかった。

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1.初日、ネクタイは曲がっていた
朝の空は雲ひとつなく、澄み切っていた。四月とは思えないほど冷たい風が、街路樹の葉を静かに揺らしている。通勤ラッシュにはまだ早い時間帯。東京のビジネス街にしては珍しく、人通りがまばらで、交差点の信号機だけが規則的に音を鳴らしていた。東都商事の本社ビル前に、牧野晴臣はいつものように静かに立っていた。手には資料の詰まった薄いブリーフケース。髪はきちんと整えられ、シャツの襟もスーツの肩も乱れひとつない。革靴の音をさせずに歩くことが身についているのか、アスファルトを歩いていても、彼の存在を先に気づく者は少ない。この時間に出社するのは、彼を含めても数人。晴臣は一つ深呼吸し、胸ポケットから社員証を取り出して入館ゲートに向かおうとした。だが、ふと足が止まった。ビルの柱の陰に、人影がひとつ。背の高い男が、コーヒーの紙カップを手にぼんやりと空を見上げている。背広姿ではあるものの、どこか妙に力が抜けている。肩のラインが合っていない。スラックスは少しよれていて、靴も革製ではあるが、くたびれた印象が否めない。何よりも目を引いたのは、首元のネクタイだった。結び目が片側に寄っている。しかもシャツの第一ボタンが留まっておらず、襟元が開いたままになっている。胸元からは白い肌が覗き、そこだけ妙に生々しい。晴臣はその男の顔を知らなかった。だが直感的に「関係者だ」と悟った。理由はわからない。ただ、彼の立ち方、所在なさげな表情、そして…何よりもその「違和感」が、どこか自分に近い種類のものだと感じたからだった。男がこちらに気づき、ゆっくりと振り返る。「おはようさん。ここ営業二課で合ってる?」柔らかな関西訛りだった。笑っているが、目元に眠気が残っている。髪はきちんと寝癖がついており、眉間には寝起き特有の皺が寄っている。それでも顔立ちは整っていた。まつ毛が長く、唇の形が妙に艶っぽい。身なりは崩れているのに、なぜかそこだけが整っている。晴臣は軽く頭を下げた。「はい。営業二課は五階になります。もしかして、今日から着任される岡田課長…でいらっしゃいますか?」男は目を丸くし、ああ、と小さく笑った。「そうそう。やっぱ合ってたんやな。助かったわ。初日から迷いかけてたとこや」言いながら紙カップを口元に運び、コーヒーをすすった。何の警戒もなく笑うその顔が、まるで朝に弱い大型犬のようで、晴臣は内心で小さ
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2.課内会議、伝説のはじまり
会議室の照明は朝の光を跳ね返すように白く、書類の紙面がどこか冷たく光って見えた。九時ぴったり。営業二課のメンバーが椅子を引く音や、マグカップを置く音が微かに混ざり合って、空間にはまだ眠気の残る空気が漂っている。牧野晴臣は、ホワイトボード側に置かれた自席に資料を並べながら、時計にちらと視線をやった。そのすぐ後、ドアが開いた。「おはようございます」三枝部長の声に続いて、柔らかな足音がもう一つ。岡田佑樹だった。スーツは相変わらず皺が目立ち、シャツの裾がほんのわずかにはみ出している。髪は朝より幾分マシになっていたが、寝癖は右の側頭部にしっかり残っていた。何より目立っていたのは、彼の手に資料もノートも、何一つなかったことだ。晴臣の眉が、わずかに動いた。部長が前に出て、口を開いた。「今日から営業二課に着任される岡田課長だ。大阪支社からの異動になる。実績も十分、頼りになる課長だよ。みんな、色々教えてもらいなさい」拍手がまばらに広がる中で、岡田が軽く頭を下げる。「どうも、岡田です。大阪から来ました。えー、見たまんまのゆるい人間ですが、よろしくお願いします」その瞬間、場の空気がふっとざわついた。田島陽介が隣の席でニヤけたまま肘をつき、川嶋紗英はきっちり結んだポニーテールを揺らしながら、明らかに不安げな顔をした。岡田はその反応にまったく動じる様子もなく、のんびりと席に座った。晴臣の隣だ。椅子の位置を調整することもなく、足を投げ出すように座り、手ぶらのまま、会議が始まるのを待っている。会議資料の束が一つ足りないことに、晴臣はすぐに気づいた。岡田の机の上には、何もない。(まさかとは思ったが…持ってきてない)晴臣は椅子から静かに立ち、手元に用意していた予備の資料にクリップをかけた。そして、岡田の席の上にそっと置いた。「こちら、会議資料です。予備もありますので」岡田は驚いたように目を丸くしたあと、にっこりと笑った。「おお、助かるわぁ。ほんま晴臣くんおらんかったら終わってたな」…名前呼び。会議室の空気が一瞬凍った。晴臣の唇がぴたりと閉じた。まるで何もなかったように、椅子へと戻る動きは滑らかだったが、その口元には一瞬だけ、かすかに力がこもったように見えた。その微細な変化を、田島は隣でしっかりと目にしていた。「牧野主任、名前で呼ばれるの、嫌いだった
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3.ネクタイは仕事道具です
晴臣が岡田のデスクに書類の束を置いたとき、朝の空気はすでに業務モードへと切り替わっていた。オフィスの中では、複合機の稼働音が遠くから微かに響いている。各デスクの電話はまだ静かで、キーボードを叩く音とマウスのクリック音が、時折リズムのように交差した。岡田は、椅子の背もたれに深く体を預けたまま、晴臣の差し出した資料を受け取った。相変わらずネクタイは曲がっており、シャツの襟元にはわずかに朝の寝癖の名残が見える。それでも彼は飄々と笑いながら紙をめくり、口元だけで「ありがと」と呟いた。「こちらの顧客管理システムが、今使っている基幹ソフトです。A、B、Cの三階層で分類していて、優先度と対応履歴はここで確認できます」晴臣は隣のデスクに立ち、パソコンの画面を指しながら説明を続けた。岡田は頷きながら覗き込んでいるが、メモを取る素振りはまったくない。普通なら少し眉をひそめるところだ。だが晴臣は、なぜか違和感を覚えなかった。「このタグを選ぶと、昨年度の取引履歴に飛びます。ここから、営業担当者ごとの成約率も確認可能です」「へえ、意外と融通効くんやな、これ」「見た目以上に優秀です。分析機能も搭載されているので、応用次第ではかなり使えます」岡田は身を乗り出し、マウスを持つ晴臣の手元をじっと見つめた。「じゃあこの顧客リスト、カテゴリーで分けてから報告書に載せとこか。タグ機能使えば、絞り込み楽やろ」思わず晴臣の手が止まった。「……やるじゃないですか」呟いた声には、わずかに驚きが混じっていた。想像よりずっと理解が早い。要点を即座に掴み、応用する力がある。記録に残らないが、現場で培われた勘のようなものが、確かに岡田にはあった。岡田は口角を上げ、どこか誇らしげに笑った。「こう見えて、10年もやっとるんよ?」「見えませんね」「そやろ?」笑いながら岡田が椅子の背もたれに再びもたれたとき、晴臣はふと彼の胸元に視線を向けた。曲がったままのネクタイが、また斜めにずれている。中心が上に引っ張られていて、結び目のバランスが崩れていた。きちんとしていないものが目に入ると、自然と指が動いてしまう。そんな性分なのだろう。晴臣は何も言わず、ネクタイに手を伸ばした。指先が布に触れる瞬間、一瞬だけ迷いが走る。触れていいのか、というためらいではなかった。何に迷っているのか、自分でも分からない
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4.放っておけるほど、無害じゃなかった
夕方のオフィスには、日中のざわめきがすっかり落ち着いた静けさが満ちていた。窓際のブラインド越しに射す西日が、デスクの上に淡い陰影を落とし、コピー用紙の白がやわらかく色づいている。天井の蛍光灯がまだ点いたままなのが、時間の移ろいを少しだけ鈍くさせていた。牧野晴臣の手元には、B社からの返品処理に関する書類が広がっていた。受領書と出荷明細、倉庫伝票に照らし合わせるように視線を走らせながら、右手はスマートフォンを握っている。通話先はB社の購買担当。トーンを抑えた交渉口調で、トラブルの経緯を説明していた。「型番違いが原因だとしても、御社側の注文書に誤記があったことは確認済みです。こちらとしては再納品の責任を負う形になりますが、送料についてはそちらとの折半を…」声の調子は冷静だった。だが書類のページをめくる指先には、かすかに力がこもっていた。そのときだった。「牧野くん」すぐ隣から呼びかける声がして、晴臣は視線をわずかにだけ逸らした。岡田佑樹が、手に一枚の資料を持って立っていた。無言で差し出されたそれは、B社との取引履歴のコピーだった。手書きの赤ペンで、いくつかの項目に印がつけられている。中でも一か所、型番の変更履歴が丁寧に丸で囲まれていた。「それ、B社の型番ミスやわ。去年から変わってる。これが新しいやつ」電話を持ったまま、晴臣は書類を受け取った。指先が岡田の手に一瞬だけ触れそうになり、けれど、その寸前で互いにわずかに引いた。紙を挟んだままの距離感。ほんの、数センチの隔たり。晴臣は何も言わずに書類に目を通した。赤ペンの筆跡は意外なほど整っていて、無造作ではあるが、必要な箇所だけを的確に拾っている。几帳面というより、情報を絞り込む力がある。そんな印象だった。「……見てたんですか?」晴臣は電話を切ったあと、静かに尋ねた。岡田は首を傾げ、ゆるい笑みを浮かべる。「見てたというか……見てまうんよな、あんたのこと」言葉がふわりと宙に漂い、オフィスの静けさの中に沈んだ。その声はいつもより、ほんの少しだけ低く響いた。晴臣は何かを返しかけたが、喉元で止めた。言葉にならない感情が、口の内で滲んだだけだった。どう返せばいいのか分からない。岡田の言葉が冗談なのか、それとも何か別の意味を含んでいるのか、その境界が見えなかった。岡田は肩をすくめ、軽く笑った。「まあ、主
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5.初日が終わって、ネクタイはまだ曲がっていた
ビルの照明は徐々にその白さを際立たせ始めていた。窓の外には茜色が滲み、街のビル群の端が、沈みゆく夕陽に照らされて輪郭を浮かべていた。午後六時を少し回った頃。営業二課のフロアには、すでに数人の社員しか残っていなかった。牧野晴臣のデスクには、まだ積み上がった書類が数センチほどの厚みで残されていた。得意先の契約更新に向けた資料整理と、社内報告用の文書修正。日中には進められなかった分の業務が、ひとつずつ彼の手元で処理されていく。彼の左隣の席──岡田佑樹のデスクは、すでに空だった。椅子が少し引かれたままになっていて、そこにあったはずのコーヒーカップももう片付けられている。晴臣は手元の文書に目を落としつつ、パソコンのキーボードを手早く打った。議事案のドラフトファイルを添付して、課内メーリングリストに送信予約をかける。内容を二度見して、ミスがないかを確認し、指先をわずかに止めたときだった。「先帰るわ。お疲れさん」背後から聞こえた声に、晴臣はゆっくりと顔を上げた。岡田が、ロビーへ続く通路の手前に立っていた。ジャケットのボタンは留めず、肩から掛けたカバンが少し斜めになっている。昼間よりは多少まともに見えるものの、ネクタイの結び目はやはり曲がっていた。夕暮れの光を背にしたその姿は、どこか頼りなく、しかし妙に目を惹いた。晴臣は立ち上がりもせず、椅子に座ったまま声を返した。「明日の朝会、議事案送っておきます」岡田はふと立ち止まり、振り返った。その動作に合わせて、窓の外から差し込む斜陽が彼の頬に淡く影を落とした。無造作に整えられた髪と、ゆるい笑み。胸元のネクタイはやはり左右非対称で、結び目がわずかに上を向いていた。晴臣は、ほんの一瞬、口を開きかけた。「課長、ネク…」だがその言葉は途中で喉奥に消えた。言うべきかどうか、判断がつかなかったわけではない。ただ、今日一日で幾度となくそのネクタイに目を留めてきた自分自身が、今更それを指摘することに、理由のない躊躇を覚えた。岡田は何も言わず、再び背を向けた。革靴の音が遠ざかる。自動ドアが開閉する際の短い電子音とともに、彼の姿はガラス越しのロビーに移り、やがて外の街灯の下に消えていった。晴臣はその背中を見送りながら、再び視線を窓の外へと向けた。西の空にはまだ赤みが残っており、その光が斜めに差し込んで、床に長く影を落として
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6.ぬるい朝と、冷えた会議室
空がうっすらと濁った灰色をしていた。十月に入ってからというもの、東京の朝はすっかり肌寒くなってきたが、今朝の曇り空は、それ以上にどこか気怠さを含んでいた。「……あ、あの人……また」出社のタイムカードを切るよりも先に、晴臣の視線は自然とガラス扉の向こうに吸い寄せられた。岡田佑樹。営業二課に異動してきたばかりの新しい課長。大阪支社での実績はあるらしいが、ここではまだ「何をしている人なのか」も判然としない存在で、だがひとつだけ確かなのは、そのだらしなさだ。今日も変わらず、寝癖を散らした髪に、しわの寄ったシャツ、そして決定的にズレたネクタイ。その先にあるコンビニのビニール袋とコーヒーの紙カップが、彼の「社会人らしさ」にとどめを刺していた。ゆるい足取りでフロアに入ってきた岡田は、晴臣に軽く顎をしゃくって挨拶をした。「おはようさん」「……おはようございます」ごく自然に返したが、声に微かな諦めが滲んでしまった気がした。それでも、晴臣は鞄を置いてから席につき、資料に目を通す。八時五十五分。定例の朝会議まであと五分。岡田もようやく自席に腰を落とし、コーヒーの蓋を静かに開けた。彼のその隣、数席離れたところから、晴臣は無意識に視線を向けていた。ネクタイの結び目が、また右に傾いている。シャツのボタンは、たぶん気づいていないのだろう、下から二番目だけ微かに浮いている。その下の鎖骨のあたりが、うっすらと見えた。会議の開始を告げるチャイムが鳴る。社内会議室。営業二課の定例ミーティングは、木曜の朝に行われる。部員全員が揃う中で、今週の進捗と来週の展望を確認し合う、社内では比較的重要な時間帯だった。晴臣は前に出て、プロジェクターに繋いだノートPCを操作する。「それでは、今週の進捗を報告いたします。まず、A社との件ですが……」声は落ち着いていた。緊張感のある内容でも、晴臣の話し方には安定がある。言葉を噛むこともなく、要点を押さえた説明に、部員たちの頷きが続く。だが、岡田はというと、手元のノートに視線を落としたまま、ほとんど何も反応を見せなかった。シャーペンの先が紙の上を擦る音だけが、わずかに聞こえる。「……」晴臣は話しながらも、その様子が視界の隅に入り続けていた。——この人、ちゃんと聞いてるんだろうか。課長であるにもかかわらず、一切の口出しをせず、ただペンを
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7.商談は、静かに崩れていく
窓の外は青空だったが、会議室の空気はどこか淀んでいた。午後一時過ぎ。B社・本社ビル六階の応接会議室。天井の照明が白々しく照らす中、晴臣はスーツの上着の袖口を指先でなぞりながら、正面に座る中年の男性に視線を向けていた。「……では、こちらの条件変更について、ご説明させていただきます」ゆっくりと、しかし明瞭に言葉を選んで口にする。「従来の納期設定では、我が社としても品質管理の面でリスクが生じる可能性がありまして…そのため、今後は月末納品を翌月第1週まで延長いただければと」斜め前に座るB社の営業部長、福永は無言のまま、分厚い資料の2ページ目に目を落とした。眼鏡の奥の目が動かない。静かすぎる。晴臣は、少しだけ口元を引き締めた。「もちろん、出荷スケジュールは極力調整しますが、安全性を最優先にしたいと考えております」沈黙が続いた。福永が資料から顔を上げたのは、晴臣が次の言葉を探す前だった。「要するに…うちに負担を寄せたい、ってことやないの?」声のトーンは低いが、語尾の重さに、あからさまな不快がにじむ。「いえ、決してそのような意図では…」「けど、そう聞こえるで。納期延ばして、でも納品数は変えんといて、品質も上げる…って、そりゃええことばっかり言われとるわ」パタンと資料が閉じられる音がした。思わず晴臣の喉が鳴る。冷房の風音が、やけに耳に刺さった。「おっしゃる通り、こちらの都合ばかりにならぬよう、他条件についても再調整を…」「そんなら、今ここで調整案出してもらわんと困るな」福永の言葉がピシリと空間を切り裂いた。晴臣の脳内が一瞬だけ真っ白になる。思考はある。理屈も詰めてある。だが、それを出すには「空気」が硬すぎた。もう一段、何かを砕かないと通らない。だが、何をどう砕けばいい…?そのときだった。「失礼しまーす。あれ?……ちょっと、お邪魔しましたかい
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8.その横顔は、知らない顔だった
午後三時過ぎ。ビル街の一角にあるこぢんまりとしたカフェに、晴臣と岡田は向かい合って座っていた。商談帰りに立ち寄ったのは、ふたりとも初めての場所だった。コーヒー豆の焙煎の香ばしい匂いと、バターの染み込んだ焼き菓子の香りが、足元から這い上がるように店内を包んでいた。外の喧騒が嘘のように静かで、室内には落ち着いたジャズが流れている。「…なんや、想像よりええ店やな」岡田がそう言いながら、フォークでドーナツを割って口に運んだ。表面にかかったグレーズが照明を反射して、岡田の指先まで微かに甘い艶を纏わせていた。晴臣は、カップを手にしながらも、なかなか口元に運ばずにいた。「課長、さっきの…わざとでしたよね」「どれのことや?」「俺が詰めすぎて、場が凍りかけたときに、あんなタイミングで来たことです」岡田はフォークを口から抜きながら、目を細めた。「…あれなあ、たまたまや」「嘘ですね」「うん、嘘やわ」そうあっさり認めると、岡田は笑いながらアイスコーヒーに口をつけた。氷のカランという音が耳に触れた瞬間、晴臣の喉が微かに動いた。「…主任が理詰めで詰めるときの声、ちょっと怖いんよな」「それでやってきたので」「そらそうやろな。あの声、すごいな。理路整然で、芯もあって、音の粒が揃ってる。けどな、ちょっと刺さるんや。相手にも、体温あるからな」晴臣は、返答をすぐには選ばなかった。目の前にいる男が、ドーナツの穴の向こうから、自分を淡々と評している。その口調は柔らかいのに、言葉の芯はしっかりと鋭い。「…俺には、ああいう空気を読んで、軟着陸させるスキルはないですから」「そう見えるけどなあ。ほんまは、読む力あるで。読みすぎて、詰めすぎるタイプちゃう?」「…どうですかね」晴臣はようやくカップに口をつけた。浅く苦みの残るコーヒーが舌に広がり、喉の奥でゆっくりと温度が沈んでいく。岡田
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9.手が、少しだけ触れた
昼過ぎの会議室には、静かな冷気が漂っていた。本社九階、使われていないミーティングルーム。壁際に置かれた長机の上にはノートパソコンとプリントアウトされた資料、ミネラルウォーターのボトルが一本だけ転がっている。蛍光灯の白い光が、整然と並んだ文字の上に規則正しく落ちていた。晴臣と岡田は、その一枚のモニターを挟んで、隣り合って座っていた。「ここの数字、最新のデータに差し替えてあります」晴臣は、画面の左下に表示されたグラフの棒を指さした。昨日まとめた収益率の推移に、今朝の更新分が追加されている。岡田はそれを覗き込むように身を乗り出し、頷いた。「うん、ええんちゃうかな。こっちのページとの整合も取れてるし」「……よかったです」会議室の空調が低く唸る音だけが、ふたりの間を満たしていた。資料のチェックは順調で、進行にも滞りはない。だが、そのわりには、空気に不思議な緊張が漂っていた。問題は、距離だった。晴臣の左肩と、岡田の右肩が、あと数センチで触れ合いそうな距離。座面を調整することもできたが、それをするには、なぜか妙な意識が働いた。画面をスクロールしようと、晴臣がマウスに手を伸ばした、そのときだった。「……っ」岡田の指先と、晴臣の手の甲が、わずかに触れた。ほんの一瞬。指の腹が、かすかに沈む感触。熱というより、柔らかさだった。紙をめくるような軽さで、それでいて確かに、相手の温度がそこにあった。音もなく、ふたりは動きを止めた。岡田がマウスを持っていた手をすっと引いた。晴臣はそのまま、触れた手を机の上に残したまま、モニターに視線を戻した。だが、もはや画面の文字は頭に入ってこない。たったそれだけの接触だったのに、手の甲に残った感触は、微かに痺れているようだった。岡田はすぐには何も言わなかった。ややあってから、ぽつりと呟いた。「……なあ、こういうの、苦手なん?」
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10.課長のくせに、ちょっとずるい
午後六時を少し過ぎたオフィスには、キーボードを叩く音と、書類を束ねる紙の擦れる音が断続的に響いていた。東都商事・営業二課。定時を過ぎても席に残っている社員はまばらで、誰もがそれぞれのペースで仕事の仕上げに取りかかっている。エアコンの風音がかすかに耳に届く程度の静けさのなか、晴臣はパソコンの画面を睨みながら、手元の資料を一枚めくった。外はすでに陽が落ち、窓の外には夜景が広がっていた。街灯とビルの灯りがガラスに反射し、自分の顔と重なる。斜め後ろの席から、ふと軽口まじりの声が聞こえた。「いやー、岡田課長って、なんだかんだで仕事できるんすね」「わかる。最初見たときは絶対やばいやつやと思ったけど、昨日のクロージングとか、めちゃスムーズやったし」「たぶん、手抜いてるようで要所は押さえてんだよな」こそこそとした声ではあったが、内容は明確だった。晴臣はマウスを持った手を止め、無意識に耳をそちらに傾けた。そのとき、自分の胸の奥が、わずかにきしむような感覚を覚えた。…それ、俺の方が、先に知ってた。そう、誰に向けるでもなく、心の中で呟いた。岡田佑樹は、ずるいほどに「力を隠す」人間だ。何も考えていないような間延びした口調。シャツの襟元がずれていても気にせず、コンビニ袋をぶら下げて現れる。スリッパのまま会議室に入ってくる日もあった。あらゆる“だらしなさ”を隠そうともしないくせに、その裏で、仕事の核心だけはしっかりと握っている。昨日の商談で空気を和らげたのも、今日のプレゼンで要所を押さえたのも、決して偶然ではない。「課長、あの後またB社に連絡入れたみたいっすよ。なんか、納期調整も前向きらしいっす」「え、マジ?やっぱやるじゃん、あの人」笑い声が小さく起きる。晴臣は、それに微笑むことも、苦笑することもなく、ただ背筋を伸ばして席を立った。手元の書類をファイルに挟み、プリンターのある棚へと向かう。歩く先に、岡田の席があるのが視界の隅に入ってきた。岡田は、デスク
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