東京本社での理不尽なトラブルにより、京都支社へ異動となった湊(みなと)。 孤立した日々の中で、ふと足を踏み入れたバーで出会ったのは、飄々とした男・瑛(あきら)だった。 一夜限りの関係…そう思っていたはずが、生活のほころびを見抜いた瑛は「住み込みで世話をする代わりに抱かせろ」と、奇妙な契約を持ちかける。 掃除、食事、そして夜ごとの抱擁。 整えられていく部屋と生活の中で、湊は次第に瑛の存在に縋るようになっていく。 しかしそれは、あくまで契約の範囲のはずだった――。 心の傷と不安を抱えたまま過ごすうちに、二人の距離は、言葉にできない温度を帯びていく。 やがて訪れる、契約という枠を超える夜。
View More東京本社の十階、窓際の席からは午後の陽光がビルのガラスに反射していた。営業部のフロアは今日も電話の声とキーボードの打鍵音が交じり合い、ひっきりなしに人が行き来する。大塚湊はそのざわめきの中で、淡々と資料を確認していた。二十七歳、スーツの襟元からのぞく白い首筋と整った横顔は、女性社員たちの視線を集める理由として十分すぎた。中性的で整いすぎた美貌は、初対面の相手に妙な警戒と好奇心を同時に抱かせるらしい。
湊自身は、そういう視線に慣れきっていた。慣れてはいるが、好ましいとも思わない。プライベートの話題になると、恋愛や結婚の話で盛り上がる輪からは自然に距離を置く。恋愛感情というものがどういうものか、自分には最後までよく分からなかった。
モニターに視線を戻し、来週のプレゼン資料にグラフを追加していると、背後から軽い声がかかった。
「大塚さん、この契約書の確認、お願いできますか」
振り向くと、水野が書類ファイルを抱えて立っていた。入社二年目、営業部の後輩で、最近は顧客対応の案件でペアを組むことが多い。大きな瞳に、表情を作るのが得意な笑顔。湊は頷き、書類を受け取った。
「明日の打ち合わせ用ですか」
「はい。私の方でも見直しましたけど、一応」
デスクに戻り、ページをめくる。水野の字は小さく整っている。必要な修正を赤ペンで書き込み、返すと、水野はまた笑って礼を言った。そのやり取りは、これまで何度も繰り返してきた、ごく普通の業務の一部だった。
しかし数日後、ふとした瞬間に違和感を覚える。資料室で一緒になったとき、水野がやたら近くに立っている。肩が触れるか触れないかの距離で、湊の持っていたペンを「これ、ちょっと貸してもらってもいいですか」と、自然な手つきで取っていく。貸した記憶もない私物の付箋が、いつの間にか彼女のデスクに置かれているのを見たこともあった。
「…あれ?」
声には出さず、湊は眉をわずかにひそめた。水野の態度が急に近くなった気がする。何かのきっかけがあっただろうかと考えるが、心当たりはない。業務に支障がなければ気にしすぎる必要もない…そう自分に言い聞かせ、視線をモニターに戻す。
外の光は傾き始め、窓際に長い影を落としている。フロアのざわめきは相変わらずだが、その中で、自分と誰かとの間にわずかな温度差が生まれつつあることを、湊はまだ深くは感じていなかった。
ドアを開けた瞬間、外の空気が一気に流れ込んできた。曇り空の下で冷えた空気は、部屋にこもった生活臭と熱気を押しのけ、頬をかすかに撫でていく。だが、その温度差よりも強く湊の胸を衝いたのは、視界に飛び込んできた人物の姿だった。「九条瑛です。今日はよろしくお願いします」落ち着いた低い声が耳に届く。作業着に身を包み、首元にはタオルをかけ、片手には掃除道具の入ったバッグ。なのに、その目元の形、口元の線、わずかな笑みの含みを湊は忘れられなかった。あの夜、柔らかな灯りの下で見た顔が、今は昼間の玄関に立っている。一瞬で心臓が跳ね上がり、指先が冷たくなる。喉が動かず、呼吸だけが浅く速くなっていく。頭の奥が真っ白になり、返事が出てこない。瑛はそんな湊の様子など気に留めた様子もなく、ゆっくりと笑みを深めた。目は柔らかく細められ、口元の動きは穏やかだ。まるで、これが初対面であるかのように自然な態度だった。「…あ、はい」ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。玄関の外から漂う冷気はすぐに押し返され、部屋の中のぬるい空気が再び肌にまとわりつく。瑛が一歩足を踏み入れた途端、狭い玄関の空気が変わった。洗剤や洗濯の香りとも違う、微かに懐かしい匂いが混じる。それが何なのか、すぐに言葉にはできない。ただ、あの夜と同じ香りだと体が覚えていた。湊は無意識に後ずさる。靴を脱いだ瑛がゆったりとした所作で上がり込み、作業バッグを片手に持ったまま視線を部屋の奥へと向ける。「では、お邪魔しますね」その一言すら、あの夜の会話と重なり、湊の胸の奥をざわつかせた。リビングに入った瑛は、特に何かを探るような様子もなく、乱雑に散らかった部屋を一瞥する。驚きも呆れも見せず、ただ仕事として淡々と受け止めている。その平静さが、逆に湊の中に不安と動揺を広げた。自分だけが、この再会に過剰に反応している。そう気づいた瞬間、胸の奥に熱がこもる。汗が背中にじっとりと滲み、視線を合わせられない。「今日はどのあたりから進めましょうか」瑛の声は相変わらず落ち着いていて、まるで何年もこの仕事をしてき
窓の外は雲に覆われ、昼間なのに薄暗かった。部屋の中も同じように沈んだ色をしている。予約を入れた日曜の午後が、こんな空模様になるとは思わなかった。湊はローテーブルの前に座り、ペットボトルを数本手に取って袋にまとめる。少しでも片付けておけば、来る人が作業しやすいはずだと思った。だが、袋の口を結んだところで動きが止まる。視線を動かせば、床の上にも、キッチンにも、片付けるべきものはいくらでもあった。始めるには、あまりにも多すぎる。立ち上がって洗面所に行く。鏡の中の自分は、寝不足のせいで目の下に薄い影を落としていた。髪も少し乱れている。家事代行サービスのスタッフにどう見られるかを想像して、思わず髪を整えた。「別に会うために呼ぶわけじゃない」口の中でつぶやきながら、指先で前髪を軽く整える。何度も繰り返し、自分に言い聞かせる。それでも、これから誰かがこの部屋に来るという現実は、否応なく心拍数を上げていった。キッチンのシンクには、数日前から放置されたままの空き容器が積み重なっている。ひとつを手に取り、水を流そうとしたが、指が途中で止まった。洗剤を手に取ることすら億劫だった。結局、それをそっと元の位置に戻し、視線を逸らす。時計を見ると、予約時間の二十分前だった。早く過ぎてほしいような、永遠にこのままでいてほしいような、矛盾した感覚が胸の中でせめぎ合う。ソファに腰を下ろし、膝の上に両手を置く。冷たい指先を握りしめ、深く息を吸う。外の空気を吸いたいと思い、窓際まで行ってカーテンを少しだけ開けた。曇り空から射し込む光は、白く弱々しい。それが部屋の中の散らかりを、余計に目立たせる。「やっぱりやめればよかったか」そんな言葉が一瞬、頭をよぎる。だが、今さらキャンセルする理由も勇気もない。自分で決めたことだ。テーブルの上に置かれたスマホの通知が光った。時間を確認すると、残り五分。心臓が一気に高鳴る。手のひらにじわりと汗がにじみ、指先が湿っていくのがわかる。足音が廊下の向こうから近づくような気配がして、息が浅くなる。自分の想像だとわかっていても、そのたびに心臓が跳ねた。そして、本物のチャイムが鳴る。
床には、つい先ほどまで気にも留めていなかった無数の物が散らばっている。丸めたコンビニのレシート、読みかけのまま折れ曲がった雑誌、封も切られていない郵便物。生活の残骸が足元を覆い、どこに足を置けば安全なのかわからない。湊はペットボトルを足先で押しやり、ソファに腰を下ろした。薄暗い部屋は、カーテンが閉め切られているせいで昼間なのに夜のように感じられる。照明を点けようか迷ったが、そのために体を起こすことすら億劫だった。リビングのローテーブルの端に置いていたスマホを手に取る。画面が光り、通知がいくつか並んでいたが、指はそれを無視して検索窓を開く。「家事代行サービス」文字を打ち込むまで、ほんの一瞬のためらいがあった。心のどこかで、自分はまだやれる、自分の生活くらい自分で立て直せると思っていたからだ。しかし、この部屋の有様を前にして、それはただの見栄に過ぎないと突きつけられる。検索結果には、笑顔のスタッフが写った広告写真が並ぶ。明るいキッチンで布巾を手にした女性、ベッドメイキングをしている男性、整然と片付いた部屋。その清潔感と今の自分の部屋の落差に、胸がきゅっと縮んだ。「…無理だな」小さく呟く。誰もいない部屋に響く声は、自分でも情けなく聞こえた。リンクをいくつかタップして、料金や対応エリアを確認する。初回限定プラン、二時間コース、スタッフ指名可…。便利そうな言葉が並んでいるのに、画面をスクロールする指は重かった。問題はそこではない。問題は、見知らぬ誰かがこの部屋に入ってくるという事実だ。床に落ちているもの、シンクに積まれた汚れた食器、クローゼットに押し込んだままの洗濯物。すべてを目撃される。想像しただけで、胃の奥がじんと重くなった。誰かに見られるくらいなら、自分で片付けたほうがまだましだ。…そう思ってきたのに、その「自分で」がもう出来ないのだと、ようやく認めざるを得ない。画面をスクロールしながら、湊はため息をついた。昼間の静けさの中、ため息がやけに長く、湿って響く。「もういいだろ…」自分にそう言い聞かせるように呟
カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、床に散らばった空きペットボトルを鈍く反射していた。湊は靴下のままその上を踏み、くしゃりという感触と、わずかな水滴が足裏ににじむ冷たさに眉をひそめた。それでも拾おうとは思わない。拾ったところで、この惨状が劇的に変わるわけではないことを知っているからだ。リビングのローテーブルには、数日前に食べ終えたコンビニ弁当の空き容器が三つ、重なったまま置かれている。横には未開封のペットボトルが転がり、その隣でパスタのソースが乾いてこびりついたプラスチックのフォークが転がっている。鼻をくすぐるのは、油が酸化した匂いと、こもった生活臭。最初は仕事が立て込んで掃除のタイミングを逃しただけだった。それが一度や二度続けば、すぐに「明日やればいい」という言い訳が常態化する。窓は一度も開けていない。エアコンの温風が部屋を乾かし、空気を淀ませている。部屋の片隅には、脱ぎっぱなしのワイシャツがぐしゃりと積まれ、その下には靴下が片方だけ行方不明のまま埋もれている。ハンガーラックには、しわだらけのスーツジャケットがだらりと掛けられていた。湊はその光景を見て、ため息をひとつ落とす。「…ひどいな」自分の声が思ったよりも乾いて響き、耳に残る。部屋の中は、ただの物理的な汚れだけではない。そこには数週間分の疲労や無気力、そして見ないふりをしてきた感情が堆積していた。帰宅してすぐ、鞄をソファに投げ、コートを脱いで床に放る。ほんの数ヶ月前、京都に来たばかりの頃は、この部屋はまだ新品同様だった。白い壁、きれいに並んだ家具、清潔なキッチン。週末には近くのスーパーで野菜や肉を買い、自炊もしていた。だが、職場での人間関係がぎこちなくなり、昼休みを一人で過ごすことが増え、帰宅後に誰とも話さない日々が続くうち、手は自然とコンビニのレジ袋を提げるようになっていた。最初は「今日は特別に」というつもりだった。それが気づけば、ほぼ毎日になっている。食べ終えた容器を流しに運ぶことすら面倒で、テーブルの端に積み重ねるだけ。結果、視界の端に映るたび、無意識に心の中で小さな棘が刺さる。それでも、刺さりっぱなしにしておく方が、抜くより楽だった。ソファに沈み込み、壁掛け時計の秒針を
シーツに背中を預けたまま、湊は天井を見つめていた。カーテンの隙間から淡い光が差し込み、夜と朝の境目のような色が部屋をぼんやりと照らしている。まだ外は静かで、遠くの道路から時折、タイヤが濡れたアスファルトを走る音が届くだけだった。身体は確かに疲れているはずなのに、まったく眠気が訪れない。瞼を閉じるたび、数時間前の感覚が鮮明によみがえる。触れられた肌の温度、唇が重なった瞬間の湿度、耳元で囁かれた低い声。思い出すたび、胸の奥で何かが熱を帯び、同時に喉の奥が締めつけられる。瑛の「もっと、自分を大事にしたほうがええ」という言葉が、まるで天井のひび割れに沿って何度も響き渡る。優しさのようでいて、拒絶にも聞こえる。あの笑みの奥にどんな意図があったのか、湊にはわからなかった。自分のことを案じてくれたのか、それとも深入りする気がないからそう言ったのか。答えを探そうとしても、さっき見送った背中が壁のように立ちはだかり、思考は堂々巡りを繰り返すだけだった。枕に顔を押しつけると、微かに香水の匂いが残っている。それは甘さとスパイスが混じった、落ち着きのある香りで、吸い込むほどに胸がざわつく。身体の奥に残った熱が、じわりと蘇るのを感じる。快感は確かに初めてのものだった。恥ずかしさや戸惑いはあったのに、それらは波に攫われる砂のように消えて、ただ強くて鋭い感覚が残った。そしてその感覚は、頭では否定できないほど鮮やかに、湊の中に刻み込まれてしまっている。シーツの上で足を少し動かすと、擦れた布が肌にひやりと触れる。その冷たさが逆に、さっきまでの熱をはっきりと思い出させる。どうしてあんなに気持ちよかったのか。どうして、あんなにも簡単に心も身体も許してしまったのか。自分の中で長く固く閉ざしてきた扉が、音もなく開いたような感覚が残っている。天井の模様を目でなぞりながら、湊は呼吸を深くした。冷静になろうとしても、胸の奥に残るざわめきがそれを邪魔する。あの瞬間、確かに自分は誰かに触れられるこ
湊はまだ息が整わず、背中をシーツに沈めたまま天井を見上げていた。部屋はほの暗く、ベッド脇のランプが瑛の輪郭だけを柔らかく浮かび上がらせている。外の世界は静まり返っているはずなのに、この小さな密室には、まだ二人分の熱がこもっていた。鼓動は少しずつ落ち着きを取り戻しているのに、肌にはまだ余韻がまとわりついている。さっきまで触れられていた箇所が、じんわりと熱を帯びて脈打っているのがわかる。喉の奥にかすかな渇きが残り、呼吸は浅く、口の端から漏れる空気が自分でも情けないほど震えていた。横を向くと、瑛が湊を見て微笑んでいた。さっきまでの熱を帯びた表情とは違い、落ち着いた、少し柔らかい笑み。指先がそっと湊の前髪を払い、髪を撫でる。その手のひらは温かく、まるで外の冷気を知らないかのように、安心する温度を持っていた。「もっと、自分を大事にしたほうがええ」低く、けれどはっきりとした声だった。湊は一瞬、その意味を掴みかねてまばたきをする。耳の奥で、さっきまでの心音よりも強くその言葉だけが反響する。何かを諭すようでもあり、慰めるようでもあった。「…どういう、意味ですか」そう問おうと唇を開きかけたが、声にはならなかった。喉の奥で言葉が絡まり、吐き出す前に瑛が視線を外してしまったからだ。瑛はベッドからゆっくりと身体を起こし、床に置いてあったシャツを手に取る。布越しに筋肉が動く様子がランプの光で浮かび、現実がじわじわと押し寄せてくる。ボタンを留める指先は落ち着いていて、まるでこれが予定の中の一つの行動であるかのようだった。湊は半身を起こし、ベッドの端に座ったまま瑛の背中を見つめる。引き止めたら何かが変わるのだろうか、と頭のどこかで考える。しかし同時に、何を言えばいいのかも分からなかった。シャツの次にジャケットを羽織り、足元の靴を履く。瑛の動作は一つ一つが無駄なく、そして急がない。まるで湊がその間に言葉を探す時間を与えているようにも見える。それなのに、湊の口は固く閉ざされたままだった。立ち上がった瑛は、最後にもう一度だけベッドの方を見た。その視線は優しいのに、どこか遠くを見ているようでもあった。
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