君と住む場所~契約から始まった二人の日々

君と住む場所~契約から始まった二人の日々

last updateLast Updated : 2025-08-31
By:  中岡 始Updated just now
Language: Japanese
goodnovel16goodnovel
Not enough ratings
24Chapters
22views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

東京本社での理不尽なトラブルにより、京都支社へ異動となった湊(みなと)。 孤立した日々の中で、ふと足を踏み入れたバーで出会ったのは、飄々とした男・瑛(あきら)だった。 一夜限りの関係…そう思っていたはずが、生活のほころびを見抜いた瑛は「住み込みで世話をする代わりに抱かせろ」と、奇妙な契約を持ちかける。 掃除、食事、そして夜ごとの抱擁。 整えられていく部屋と生活の中で、湊は次第に瑛の存在に縋るようになっていく。 しかしそれは、あくまで契約の範囲のはずだった――。 心の傷と不安を抱えたまま過ごすうちに、二人の距離は、言葉にできない温度を帯びていく。 やがて訪れる、契約という枠を超える夜。

View More

Chapter 1

視線の変化

東京本社の十階、窓際の席からは午後の陽光がビルのガラスに反射していた。営業部のフロアは今日も電話の声とキーボードの打鍵音が交じり合い、ひっきりなしに人が行き来する。大塚湊はそのざわめきの中で、淡々と資料を確認していた。二十七歳、スーツの襟元からのぞく白い首筋と整った横顔は、女性社員たちの視線を集める理由として十分すぎた。中性的で整いすぎた美貌は、初対面の相手に妙な警戒と好奇心を同時に抱かせるらしい。

湊自身は、そういう視線に慣れきっていた。慣れてはいるが、好ましいとも思わない。プライベートの話題になると、恋愛や結婚の話で盛り上がる輪からは自然に距離を置く。恋愛感情というものがどういうものか、自分には最後までよく分からなかった。

モニターに視線を戻し、来週のプレゼン資料にグラフを追加していると、背後から軽い声がかかった。

「大塚さん、この契約書の確認、お願いできますか」

振り向くと、水野が書類ファイルを抱えて立っていた。入社二年目、営業部の後輩で、最近は顧客対応の案件でペアを組むことが多い。大きな瞳に、表情を作るのが得意な笑顔。湊は頷き、書類を受け取った。

「明日の打ち合わせ用ですか」

「はい。私の方でも見直しましたけど、一応」

デスクに戻り、ページをめくる。水野の字は小さく整っている。必要な修正を赤ペンで書き込み、返すと、水野はまた笑って礼を言った。そのやり取りは、これまで何度も繰り返してきた、ごく普通の業務の一部だった。

しかし数日後、ふとした瞬間に違和感を覚える。資料室で一緒になったとき、水野がやたら近くに立っている。肩が触れるか触れないかの距離で、湊の持っていたペンを「これ、ちょっと貸してもらってもいいですか」と、自然な手つきで取っていく。貸した記憶もない私物の付箋が、いつの間にか彼女のデスクに置かれているのを見たこともあった。

「…あれ?」

声には出さず、湊は眉をわずかにひそめた。水野の態度が急に近くなった気がする。何かのきっかけがあっただろうかと考えるが、心当たりはない。業務に支障がなければ気にしすぎる必要もない…そう自分に言い聞かせ、視線をモニターに戻す。

外の光は傾き始め、窓際に長い影を落としている。フロアのざわめきは相変わらずだが、その中で、自分と誰かとの間にわずかな温度差が生まれつつあることを、湊はまだ深くは感じていなかった。

Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters

Comments

No Comments
24 Chapters
視線の変化
東京本社の十階、窓際の席からは午後の陽光がビルのガラスに反射していた。営業部のフロアは今日も電話の声とキーボードの打鍵音が交じり合い、ひっきりなしに人が行き来する。大塚湊はそのざわめきの中で、淡々と資料を確認していた。二十七歳、スーツの襟元からのぞく白い首筋と整った横顔は、女性社員たちの視線を集める理由として十分すぎた。中性的で整いすぎた美貌は、初対面の相手に妙な警戒と好奇心を同時に抱かせるらしい。湊自身は、そういう視線に慣れきっていた。慣れてはいるが、好ましいとも思わない。プライベートの話題になると、恋愛や結婚の話で盛り上がる輪からは自然に距離を置く。恋愛感情というものがどういうものか、自分には最後までよく分からなかった。モニターに視線を戻し、来週のプレゼン資料にグラフを追加していると、背後から軽い声がかかった。「大塚さん、この契約書の確認、お願いできますか」振り向くと、水野が書類ファイルを抱えて立っていた。入社二年目、営業部の後輩で、最近は顧客対応の案件でペアを組むことが多い。大きな瞳に、表情を作るのが得意な笑顔。湊は頷き、書類を受け取った。「明日の打ち合わせ用ですか」「はい。私の方でも見直しましたけど、一応」デスクに戻り、ページをめくる。水野の字は小さく整っている。必要な修正を赤ペンで書き込み、返すと、水野はまた笑って礼を言った。そのやり取りは、これまで何度も繰り返してきた、ごく普通の業務の一部だった。しかし数日後、ふとした瞬間に違和感を覚える。資料室で一緒になったとき、水野がやたら近くに立っている。肩が触れるか触れないかの距離で、湊の持っていたペンを「これ、ちょっと貸してもらってもいいですか」と、自然な手つきで取っていく。貸した記憶もない私物の付箋が、いつの間にか彼女のデスクに置かれているのを見たこともあった。「…あれ?」声には出さず、湊は眉をわずかにひそめた。水野の態度が急に近くなった気がする。何かのきっかけがあっただろうかと考えるが、心当たりはない。業務に支障がなければ気にしすぎる必要もない…そう自分に言い聞かせ、視線をモニターに戻す。外の光は傾き
last updateLast Updated : 2025-08-21
Read more
きっかけは残業後
年末が近づくにつれて、営業部のフロアはいつも以上に騒がしかった。電話の着信音があちこちで鳴り、プリンターの駆動音が途切れず続く。湊は、最後の案件の見積もりデータを入力し終えると、大きく息を吐いた。パソコンの時計はすでに二十一時を回っている。背中と肩が重く、視界がぼんやりしていた。コートを羽織り、エレベーターに向かう途中で声をかけられた。「大塚さんも今からですか」振り返ると、水野が同じようにコート姿で立っていた。書類鞄を抱え、疲れの色を浮かべながらも笑顔を作っている。「そう。今日、長かったな」「ですね…電車、一緒ですよね」偶然、帰り道の路線が同じなのは知っていた。二人でビルを出ると、夜気が頬を刺した。吐く息が白く伸び、街灯の明かりがアスファルトに丸い影を落としている。駅までの道を歩きながら、水野が言った。「あの…駅前にカフェありますよね。資料の件で少しだけ聞きたいことがあって…大丈夫ですか」湊は一瞬だけ迷ったが、特に急ぐ用事もない。頷くと、水野は小さく礼を言った。カフェの扉を開けると、コーヒーの香りがふわりと鼻をくすぐった。店内は半分ほどの席が埋まっていて、ジャズの低い音が流れている。窓際の二人席に座り、湊はカップを両手で包んだ。指先に温もりが戻る。「この前のプレゼン資料ですけど…この数値の根拠を、もう少し説明していただけますか」水野はノートパソコンを開き、画面をこちらに向ける。業務的な質問に答えながら、湊は時々コーヒーを口にした。苦味が疲れた喉をゆっくり通り過ぎる。会話は終始、仕事の話だけだった。二十分ほどで確認を終えると、水野は「すみません、遅くまでありがとうございました」と笑った。その笑顔に特別な意味を感じることはなく、湊も「じゃあ、また明日」とだけ返す。駅で別れ、改札を抜ける。ホームに入ってきた電車の車内は、終電前の静けさを帯びていた。吊革が小さく揺れ、窓の外には街の光が滲んで流れていく。最寄り駅に着く頃には、仕事のことも、水野との会話も頭から離れていた。冷たい空
last updateLast Updated : 2025-08-21
Read more
告発
昼前、内線電話が鳴った。受話器から聞こえた総務の声は簡潔で、しかし妙に硬かった。「営業部長がお呼びです。至急、部長室まで」胸の奥に小さな棘のような予感が刺さる。資料をまとめたまま席を立ち、部長室の扉をノックした。「入れ」短く返事があり、中に入ると部長は書類の束を机に置き、眼鏡越しに湊を見た。その目は、いつもの穏やかさを失っていた。「…大塚。水野さんが君のことで相談に来てな」低い声が、部屋の空気をさらに重くする。「相談?」「君にしつこく迫られたと言っている」言葉の意味をすぐには理解できなかった。空気が一瞬遠くなる感覚。「…は?」「残業帰りに無理やりホテルに誘われた、ともな。かなり詳細に状況を話している」頭に浮かぶのは、あの夜のカフェの光景。仕事の話だけをして、駅で別れた。それだけのはずだ。「それは…事実じゃありません」声は落ち着いているつもりだったが、自分でもかすかに震えているのが分かった。部長はため息をつき、椅子に深くもたれた。「お前がそう言うのは分かる。だが、向こうも一歩も引かん。証拠はない。だからこそ、厄介なんだ」返す言葉が見つからなかった。曇天の光がカーテンの隙間から差し込み、机の上にぼんやりと影を落とす。部長室を出ると、廊下の空気が妙に冷たく感じた。すれ違った女性社員が、視線を逸らす。昨日まで笑顔で挨拶を返してきた相手だ。給湯室の方から小さな声が聞こえる。「やっぱりね」「そう見えた」…断片的な言葉が背中に貼りつく。午後のミーティングでも、空気の変化は明らかだった。資料を手渡そうとした同僚の女性は、わずかに距離を取って受け取る。男性社員からは、軽く口の端を吊り上げた視線が向けられる。「女泣かせだもんな」と小さく呟く声が、妙に鮮明に耳に届いた。何を言っても、証明できない。空気はもう結論を出しているようだった。事実など関係なく、一度ついた色は簡単には消えない。その色が、じわじわと自分の輪郭を侵食していく。席に戻っても
last updateLast Updated : 2025-08-21
Read more
すれ違う呼吸
終業のチャイムが鳴った瞬間、湊の肩はひときわ重く落ちた。机の上には未処理の書類が積まれ、画面には未送信のメールが点滅している。ここ数日、集中力はまるで砂のように指の間からこぼれ落ち、単純な数字の転記すら間違えることが増えていた。そのたびに、上司の短く鋭い声が背中を突き刺す。今日もまた、会議室での叱責が耳の奥にこびりついて離れない。低く押し殺した声色と、冷えた視線。あれは内容よりも、「お前の噂は知っている」という含みを帯びているように感じられた。外に出ると、細かな雨が街灯に溶けるように降っていた。傘を差す気にもならず、ただうつむいて歩く。冷たい雫が髪に、襟に、ゆっくりと染みていく。信号待ちの間に吐いた息が白く漂い、その中に自分だけが取り残されているような感覚があった。鍵を回し、玄関のドアを開けると、温かい光が視界を満たした。キッチンから漂う味噌と出汁の香りが、濡れた服越しに柔らかく触れる。けれどその匂いは、空腹よりも、なぜか胸の奥の痛みを先に刺激した。「おかえり」リビングから瑛の声がした。振り返れば、エプロン姿の瑛が片手に鍋つかみを持ち、こちらを見ている。その目はいつも通り柔らかいはずなのに、湊には「疲れてる」という言葉を突きつけられているように見えた。「……ただいま」短く答え、靴を脱ぎ捨てるように脱ぎ、鞄をソファの端に置く。そのまま背中から沈み込むようにソファに腰を落とした。「濡れてるやん。タオル持ってこよか」「いい…あとで」視線を合わせることなく、額を膝に押しつける。ソファの布地がじんわりと湿り、冷たさと重さが混じる。目を閉じると、昼間の会議室の声や、給湯室で聞こえたひそひそ声が再び頭の奥でざわめき始めた。しばらくして、肩口にふわりと温もりが乗った。瑛が毛布を掛けてくれたのだと分かる。柔らかい繊維が濡れたシャツ越しに肌を包み、外の雨音よりも静かな鼓動を近くに感じさせた。「…風邪ひくで」低く囁く声が耳に落ちる。それは労わりの音色であるはずなのに、湊には「弱ってる」と見透かされる響きとして届
last updateLast Updated : 2025-08-21
Read more
異動辞令
会議室に呼び出された時には、もう結果は決まっていると感じていた。部長と人事課長が向かいに並び、机の上には何も置かれていない。無駄に広く感じる空間の中で、人事課長が口を開いた。「今回の件は、水野さんの勘違いということで処理します。ただ…」短い間を置き、淡々とした声が続く。「お互いのためにも、環境を変えた方がいいと判断しました。京都支社で人員の補充要請が出ています」言い訳のような柔らかい言葉の中に、逃げ場はなかった。空気を変えるため、と言いながら、結局は自分を追い出すだけだ。「分かりました」自分の声が意外なほど静かだった。怒鳴る気力も、食い下がる意志も、もう残っていなかった。数日後、午後のオフィスはいつもより静かだった。送別会の予定もなく、机の中を淡々と片付ける。ペン立てからボールペンを抜き、小さな段ボールに入れる。引き出しの奥に残っていた予備の名刺を手に取り、指先で縁をなぞった。あの日、この名刺を差し出す時、自分がどう見られていたのかを思い出す。外は小雨が降り始め、窓ガラスを細い筋が伝っていく。斜め向かいのデスクからは、話し声も笑い声も聞こえない。隣の席の女性社員はパソコンの画面から視線を逸らさず、湊が荷物をまとめる様子を見ようともしない。段ボールを抱え、フロアを出る。廊下を歩くたびに、誰かの視線が背中をかすめた。真正面から目を合わせる者はいない。遠くから低く囁く声がする。「京都だって」「やっぱり…」内容までは聞き取れなくても、その響きだけで十分だった。エレベーターの扉が閉まる瞬間、フロアの奥の窓際に水野の姿が見えた。彼女は携帯を耳に当て、外を眺めている。こちらには一度も視線を寄こさなかった。一階のエントランスに出ると、湿った空気が頬に触れた。ビルの前を行き交う人々は傘を差し、足早に歩いていく。段ボールの中の荷物がわずかに揺れ、紙の擦れる音がやけに大きく響いた。この街で築いたものは、もう何ひとつ残らない。信じれば裏切られ、弁明すれば嘲られる。胸の奥に重い影が沈み込み、それがこれからも消えることはないと直感した。傘を差し、歩き出す。
last updateLast Updated : 2025-08-22
Read more
新しい空気の中へ
京都駅からバスに揺られて十五分。窓の外には、古い町家と新しいビルが混ざり合う景色が続く。二月の朝は空気が澄んでいて、吐く息がすぐに白くなる。初めて降り立つ停留所で、湊はコートの襟を立て、支社が入るビルを見上げた。東京本社よりも小ぶりで、落ち着いた外観。灰色の外壁に控えめな社名が掲げられている。自動ドアをくぐると、暖房の匂いと柔らかな空気に包まれる。受付に立つ女性が微笑み、「大塚様ですね」と名札を渡してくれた。声は京都特有の抑揚があり、耳に心地よく残る。エレベーターで待っていたのは、案内役の営業課主任・山下だった。四十代半ば、柔らかな物腰で名刺を差し出し、「こちらへどうぞ」と促す。廊下の壁は淡いクリーム色で、ところどころに京都の風景写真が飾られている。東京本社のガラス張りの無機質さとは違う、時間の流れが少し緩やかに感じられる空間だった。フロアに足を踏み入れた瞬間、ざわめきがわずかに変わった。視線が、こちらへ一斉に集まる。湊は慣れた笑顔で軽く会釈を返すが、その奥で確かに女性たちの囁きが耳に届いた。「背、高いね」「顔…やばくない?」声のトーンは低く抑えられていても、視線の熱は隠せない。山下がデスクを案内する間も、女性社員たちの視線は途切れない。中には笑顔で会釈を返してくる者もいたが、男性社員の反応はまるで別世界だった。目が合っても一瞬で逸らされ、挨拶も必要最低限。湊が椅子を引く音よりも、小さなため息やキーボードの打鍵音の方が大きく響く。与えられたデスクは窓際の端。斜め前の席では、スーツ姿の男性が背を向けたまま書類をめくっている。机の島の中で、湊だけがぽつんと浮いて見えた。午前中のオリエンテーションが終わり、パソコンの電源を入れながら周囲を何気なく見渡す。女性社員たちは視線を交わしながら笑い合い、男性社員は各々の仕事に没頭している。会話の輪に入る隙間はなく、声をかけるべきか迷う間に時間だけが過ぎていく。この感覚には覚えがあった。東京本社でも、入社した頃から似たような反応を受けてきた。見た目ばかりが先に注目され、勝手に作られた印象が人との距離を決める。分かっていたつもりだったが、場所が変わってもそれが変わらない
last updateLast Updated : 2025-08-22
Read more
笑顔と壁
昼のチャイムが鳴ると同時に、向かいのデスクから明るい声が飛んできた。「大塚さん、一緒にお昼行きません?」顔を上げると、総務の若い女性社員が二人、期待に満ちた笑顔で立っていた。断る理由もなく、湊は軽く頷く。会社の近くにある和食の店は、昼休みの社員で賑わっていた。暖簾をくぐると、出汁の香りがふわりと鼻をくすぐる。木目のカウンターと小さなテーブル席が並び、外の寒さとは別世界の温かさが広がっている。奥の四人掛けに案内されると、すぐに注文を済ませ、湊を挟んで女性たちが座った。「東京ではどんな仕事してたんですか?」「休みの日って何してるんです?」矢継ぎ早に質問が飛んでくる。湊は笑顔を崩さず、簡潔に答えていく。仕事の話では業務内容や取引先のことを、趣味については「映画を観たり、本を読んだり」と当たり障りのない答えを返す。「やっぱり彼女さんとかいます?」その問いに、一瞬だけ箸が止まった。笑顔を保ったまま「いませんよ」と返すと、二人は視線を交わしながら小さく笑った。「えー、もったいない。すごくモテそうなのに」その言葉に、心の奥で小さな波紋が広がる。モテることが褒め言葉として受け取られている空気。だがそれは、湊にとって誇らしいことでも嬉しいことでもなかった。料理が運ばれてくると、話題は京都のおすすめスポットや、社内の人間関係へと移った。笑い声が絶えず、表面上は和やかで居心地の良い時間が流れていく。湊は相槌を打ち、時折冗談を返しながら、テーブルの上の湯気を見つめていた。和やかさの中にも、自分だけが少し外側にいるような感覚が、ずっと消えなかった。食後、会社に戻る道すがら、女性たちは前を歩きながら楽しそうに話を続けていた。湊は半歩後ろを歩き、その会話の内容が時折耳に届く。「東京ってオシャレ」「やっぱり垢抜けてるよね」…そんな言葉に、またあの小さな波紋が胸の奥で揺れた。午後の業務が始まり、湊はデスクで資料を整理していた。ふと背後から低い声が聞こえてきた。「…あの顔で無愛想やしな」「そんなんでも女はほっとかんやろ」明確に自分の名前は出されていない。だ
last updateLast Updated : 2025-08-22
Read more
静かな暮らしの始まり
新しい部屋の鍵を回すと、乾いた金属音が静かな廊下に響いた。ドアを押し開ければ、わずかに新しい木材と塗料の匂いが鼻をくすぐる。京都での生活が始まって三日目。まだこの部屋には、自分の匂いも、暮らしの重さも染みついていない。1LDKの間取りは、東京のワンルームに比べればずっと広く感じられる。白い壁と薄いベージュの床、窓には遮光カーテンがかかっているだけで、飾り気はない。リビングには小さなローテーブルとソファ、壁際に低いテレビ台。寝室にはベッドとスチール製のハンガーラックが置かれている。引っ越しの荷ほどきはひと通り終わっていて、段ボールはすでに片付けてある。整然としているといえば聞こえはいいが、生活感がなく、モデルルームのような冷たさが残っていた。コートを脱ぎ、ソファの背に無造作に掛ける。玄関脇のキッチンに立ち、コンビニの袋から弁当を取り出した。温められたプラスチックの蓋を剥がすと、湯気に混じって醤油と揚げ物の匂いが広がる。ローテーブルに腰を下ろし、テレビを点けたが、流れてくるニュースは頭に入ってこない。箸を動かすたび、空虚な音が部屋に響く。食べ終わった容器は、シンクの隅に置いた。洗う気力はなかった。明日の朝にまとめてやればいい…そう思いながら、水道の蛇口を閉めたまま、湯飲みに淹れた緑茶を持って再びソファへ。窓の外は真っ暗で、カーテンの隙間からは街灯の光が細く差し込んでいる。時計は夜の九時を少し過ぎていた。今日は午前中から社内で資料整理、午後は取引先との打ち合わせ。慣れない土地での通勤と、昼間の人間関係の緊張感で、身体よりも心の方が疲れていた。ベッドに横になれば眠れるだろう。しかし、まだ寝るには早いような気がして、スマホを手に取る。SNSのタイムラインを無意味にスクロールしながら、指先が冷えていくのを感じた。東京にいた頃も、こうして夜を過ごすことが多かった。部屋は徐々に散らかり、洗濯物は溜まり、ゴミ袋は口を縛られないままキッチンの隅に置かれる。それでも誰かが咎めることも、心配することもなかった。結局、自分一人の生活は、自分がどれだけだらしなくても成り立ってしまう。ソファから見えるキッチンのシンクには、さっきの弁当容器がそのまま残っている。視界の
last updateLast Updated : 2025-08-23
Read more
笑顔の裏の消耗
昼休みのチャイムが鳴ると、女性社員の一人が笑顔でこちらを振り返った。「大塚さん、一緒に行きませんか?」軽やかな声色に、断る理由を探す前に頷いてしまっていた。まだ京都に来て日が浅い自分が、最初から距離を置けば、余計な憶測を呼ぶだけだと分かっていたからだ。会社近くの和食ランチ店。木のテーブルと障子越しの柔らかな光が、東京本社の無機質なカフェテリアとは対照的だった。席につくと、すぐに湯呑みから立ち上る湯気が鼻先をくすぐる。出汁の香りが空腹を刺激するはずなのに、心の奥は妙に落ち着かない。「大塚さんって、やっぱり東京の人ですよね。雰囲気が全然違う」「分かる、スーツもすごく似合ってるし」「絶対モテますよね」矢継ぎ早に飛んでくる言葉は、どれも軽く、笑顔を伴っていた。湊は箸を動かしながら、「そんなことないですよ」と柔らかく返す。笑みは崩さず、しかし心の奥では会話の輪郭がどれも浅く感じられていた。料理が運ばれてきても、話題は変わらない。味噌汁の湯気越しに見える彼女たちの瞳は、どこか品定めをするような色を帯びている。恋愛の話題になると、「彼女はいないんですか」と当然のように聞かれ、「今はそういうのは…」と答えると、少し意外そうな顔が並んだ。笑顔と相槌で時間は過ぎていく。食器の触れ合う音、隣の席から漏れる別グループの笑い声。自分のいるテーブルも賑やかなはずなのに、その賑わいが膜の向こうにあるようで、耳に届くのは薄くなった音だけだった。店を出るとき、冬の陽射しが眩しく、目を細める。外の空気は冷たく、頬に触れる風が一瞬だけ頭を空にしてくれる。だが、会社に戻ればまた同じ空気が待っていることを、足が勝手に覚えていた。午後の業務に戻り、パソコンに向かって資料の数値を打ち込む。ふと、プリンターの横から低い声が聞こえた。「…まあ、あれは目立つよな」「女は放っとかんやろ」曖昧な笑い声が混じる。名前は出ていない。だが、今このフロアでそんな話題になるのは自分しかいないと分かってしまう。意識を画面に固定し、耳からその声を追い出そうとする。しかし、活字の間に挟まるように、その笑い声
last updateLast Updated : 2025-08-24
Read more
帰宅後の沈黙
玄関の鍵を回す音が、やけに大きく響いた。ドアを開けると、夜の冷気が背中を押し出すように部屋の中へ流れ込む。薄暗い玄関の奥、ローテーブルの上に朝のまま置きっぱなしのマグカップと皿が、帰宅した湊を出迎えた。靴を脱ぎ、カーペットの上に足を踏み入れると、踏みしめた感触が少しだけ硬い。何日か掃除機をかけていないせいだろう。靴下の裏に細かいゴミがくっつく感覚が、今日の疲れた身体には妙に不快だった。コートを脱ぎ、ソファの背に掛ける。荷物を床に置いた瞬間、ふっと肩の力が抜けた。けれどその解放感は一瞬で、次に広がるのは、何も音のない空間が押し寄せてくる重さだった。キッチンに向かうと、シンクの中には数日前の弁当容器が重なっている。油の匂いがほんのりと漂い、蓋の隙間から見えるソースの跡が乾いて黒ずんでいた。水を流して洗えばいいと分かっていても、手は動かない。湊は視線を逸らし、リビングへ戻った。リモコンを手に取り、テレビをつける。画面の中ではバラエティ番組の芸人が大声で笑っている。音量を少し上げると、部屋の中の静けさは薄れた。だが、それは賑やかさではなく、ただの「音の壁」だった。映像に集中する気力もなく、視線は自然とテーブルの上のマグカップや、開きっぱなしの書類に移っていく。京都に来てから、こういう時間が増えた。仕事が終わって部屋に戻り、コンビニの袋を片手に玄関を開け、食べては捨て、片付けもせずに眠る。新しい街での生活は、もっと新鮮で、何かを変えてくれると思っていた。けれど、漂っている空気は東京の頃と何も変わらない。孤独の温度も、息のしづらさも、すべて同じだった。テレビの音をBGMに、ペットボトルの水を一口飲む。冷たさが喉を通り、胃に落ちるまでの感覚を、やけに鮮明に感じる。「俺は何をしてるんだ」口に出すと、それは自分の声なのに、どこか遠くの誰かの呟きのように響いた。ソファに沈み込み、背もたれに頭を預ける。蛍光灯の白い光が天井から降り注ぎ、目を閉じても瞼の裏が明るく感じられる。寝室へ移動するのも面倒で、このままここで眠ってしまいそうになる。けれど、明日の朝はまた仕事がある。女性社員の笑顔と男性社員の視線、その間に挟まれて過ご
last updateLast Updated : 2025-08-24
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status