分享

第4話

作者: 狐坂
夜七時、蓮は遥を伴って私たちの新居に戻ってきた。

私が最後の服をスーツケースに詰め終えたとき、リビングから私を呼ぶ彼の声が聞こえた。

「柚羽、出てきてこれにサインしろ」

ローテーブルの上には、示談書のほかに、被害者としての「嘆願書」が置かれていた。

そこには、私の急かす声に焦った運転手が急な車線変更を行ったため、後続車が避けきれなかったと記されていた。

私がこの2つの書類にサインすれば、遥は刑事責任を問われないばかりか、行政処分による免許取り消しも免れることができるのだ。

「事故は、遥がスマホを拾おうとして前方不注意になったからよ」

私はその書類を押し戻した。

「防犯カメラ映像も、ドライブレコーダーの記録もある」

遥の目頭がみるみるうちに赤くなった。

「ゆず、私のせいで本当にごめんなさい。

でも、私、来月若手育成枠のレーシングチーム選考会があるの。

もし人身事故の過失運転で免許取り消しにでもなったら、ライセンスが剥奪されて、二度とサーキットに立てなくなっちゃう……」

遥は大学時代からカーレースに憧れていた。

ライセンスの取得費用を出したのは私で、最初のレーシングスーツを贈ったのも私だった。

遥が初めて表彰台に上った夜、私を抱きしめて一晩中泣きながら、「いつか世界一の表彰台に立ったら、このトロフィーをゆずにあげるね」と誓ってくれた。

それなのに今、彼女は私の未来を踏み台にして、自分の表彰台を手に入れようとしている。

蓮は私の手元に万年筆を置いた。

「お前の審査はもう終わったことだ。今さら遥を責め立てても何も戻らない。

サインしろ。お前のための個人アトリエを建ててやる」

またこれだ。

父の遺品も、私の心血も、私の夢も、蓮の目にはすべて値札が貼られているように見えるらしい。

十分な対価さえ支払えば、私が黙って理不尽を飲み込むとでも思っているのだろうか。

「サインはしないわ」

蓮は私を数秒間冷ややかに見つめた後、おもむろにスマホを取り出して電話をかけた。

「木下先生の旧アトリエの、賃貸契約の更新手続きを保留にしろ」

私は勢いよく顔を上げた。

父が他界した後、そのアトリエは佐伯グループが委託管理していた。

そこには父が遺した膨大なデザイン原稿が眠っており、今回の私の出展作品のインスピレーションの源でもあったのだ。

「あそこは父が遺してくれた大切な場所よ!」

「だからこそ、お前次第だ」

蓮はスマホをテーブルの上に置いた。

「柚羽、お前がこれにサインしさえすれば、アトリエには誰も手を触れさせない。結婚式も予定通り執り行う」

遥は慌てて彼の腕を掴んだ。

「蓮、ゆずを責めないで」

遥は私の前に膝をつき、泣きながら私の手を握りしめた。

「私があなたの作品を壊したの、どんな方法でも償うわ。

でも、あの選考会は私にとって最後のチャンスなの。

ゆず、昔みたいに私を応援してよ。もう一度だけ、助けてくれないの?」

10年にわたる友情と、四年紡いだ愛情。

片や床に跪いて泣きすがり、片やソファーに傲然と腰掛けたまま、私を奈落へと追い詰めていく。

だが、私が失ったものもまた、一生に一度きりの掛け替えのない機会だったのだと、誰一人として気にも留めない。

蓮は腕時計に目を落とした。

「1分だけ待ってやる」

そのとき、私のスマホがけたたましく鳴り響いた。

アトリエの管理人である老人が、焦りを含んだ声をあげた。

「柚羽お嬢ちゃん、佐伯グループの連中がやってきて、契約満了だから今夜中に明け渡せと、強引に荷物を運び出し始めたんです!

木下先生のデザイン原稿が多すぎて、奴らはそれを外へ運び出しています。外は雨なのに、このままでは台無しになってしまいます!」

私は通話状態のスマホを握ったまま、玄関へ走ろうとした。

しかし、蓮がその行く手を阻んだ。

私の前に立ちはだかる彼の背筋は、相変わらず凛と伸びている。

かつて、その背中は私をあらゆる嵐から守ってくれる盾だった。

しかし今、それは私を奈落の底へ突き落とす容赦のない壁と化していた。

「サインしろ」

「あのアトリエだけは守るって、私と約束したじゃない!」

「俺は遥にも、選考会に出場させると約束した」

蓮の眼差しには、微塵の揺らぎもなかった。

「柚羽、俺を困らせるな」

彼を困らせるな、か。

つまり、最初から捨てられる役割は私に決まっていたのだ。

窓の外で、遠く雷鳴が轟いた。

管理人から送られてきた動画。そこには、強引にこじ開けられたアトリエの扉が映し出されていた。

防水加工すら施されていない段ボールに詰められた父の遺稿が、激しい雨の中、トラックの脇にうずたかく積み上げられていく。

一番上の束から紙片が風に舞い散り、濡れたインクが雨水ににじんでいく。

「……やめさせて」

蓮は万年筆を私の手元にそっと滑らせた。

「サインしろ」

私は、二度と元には戻らない、雨に打たれる原稿の山を画面越しに見つめ、涙をぽつぽつと書類の上に零した。

震える指先は力が入らず、何度もペン先が紙面を滑る。

だが動画の中で、また1枚、大切なスケッチが雨の夜空へ吸い込まれていくのが見えた。

私はついに、ペンを走らせた。

その一筆一筆が、自分の心臓を鋭利な刃で切り刻むかのような痛みを伴っていた。

最後の文字を書き終えると同時に、蓮は素早く書類を奪い取り、すぐさまアトリエの明け渡しを中断するよう電話で指示した。

「最初からこうしていれば、何事もなかっただろう」

蓮が私の涙を拭おうと手を伸ばしてきたが、私は顔を背けてそれを拒絶した。

遥は依然として床に伏せたまま、小さく鼻をすすり上げていた。

「ゆず、本当にごめんなさい……」

私は左手の薬指から婚約指輪を外し、跪く遥の掌へと、ぽつりと落とした。心はとうに灰のようになっていた。

「もう謝らなくていいわ。

あなたが欲しいものは、全部あげるから」

私の親友も、4年間愛し続けた男も、そしていつか手にするはずだった私たちの温かい家庭も、すべて。

蓮の表情が険しく強張った。

「柚羽、何の真似だ。その指輪を元に戻せ」

私は玄関脇に置いてあったスーツケースのハンドルを握り締めた。

彼はそこで初めてその大きな荷物に気づき、眉根を深く寄せた。

「荷物をまとめてどうするつもりだ」

「お父さんの遺したデザイン原稿の様子を見に行くの」

「今夜は戻らないつもりか」

私は答えなかった。

蓮は、私が単にへそを曲げているだけだと思い込み、遥の体を床から引き起こした。

「アトリエは守られたんだ。これ以上、無茶な真似はするな」

彼は私の外した指輪を自らのポケットにねじ込み、断固とした口調で命じた。

「明日の朝、迎えに行く」

スーツケースをしっかりと握り直し、私は最後に彼を見つめた。

「……その必要はないわ」

蓮が不快そうに顔をしかめた。

だが、背後から遥が痛みに顔を歪めて彼の名を呼ぶと、蓮は躊躇なく遥の方へ向き直った。

過去に何度も繰り返されてきた、いつもの光景。

遥が口を開きさえすれば、私は決まって置き去りにされる。

ドアが閉まる直前、蓮の冷淡な声が響いた。

「勝手にしろ。気が済んだら戻ってこい」

私は何も答えず、二度と振り返らなかった。

12時間後、私はロンドン行きの飛行機に乗り込んだ。

今度は、もう戻ることはない。

在 APP 繼續免費閱讀本書
掃碼下載 APP

最新章節

  • なぜ恋人の私があなたの旧知に我慢すべきなの?   第10話

    巡回展の最終日を控えた夕方、ようやく蓮と会う決意をした。すでに廃業して薄暗いあの焼肉屋の店内に、蓮は静かに座っていた。窓際の席は、当時のままそこにあった。通路側にぽつんと置かれたあの予備の椅子も、片付けられることなく残されている。テーブルの上には、3組の食器が並べられていた。ただ、私の席の前だけは、やはりタレの小皿が置かれていない。蓮はこちらの姿を認めるやいなや、弾かれたように立ち上がった。1年ぶりに見る彼は、ひどく痩せこけていた。かつては決してシワ一つなかった上質なシャツは少しよれており、その手首には、かつて私がプレゼントした安価な古い腕時計がはめられていた。「座ってくれ」蓮は、窓際の席の椅子を引いた。そこは、かつていつも遥が座っていた特等席だった。腰を下ろさずに、立ち尽くした。「時計、無事に受け取ったわ。ありがとう」「俺が直したんじゃない」蓮の声は、消え入りそうなほど細かった。「あの老職人が丸一年かけて探し出してくれたんだ。俺はただ、それをお前に返しただけだ」蓮はロースターのスイッチを入れた。網の上の豚バラ肉の端がじわじわと縮み、脂が炭火に滴り落ちてパチパチと小さな音を立てる。肉がちょうどよく焼き上がると、蓮は最初の一枚を私の皿に移した。「ネギは抜いてある」この数年間で、最初の一口を私にくれたのは、これが初めてだった。けれど、箸を持とうとはしなかった。蓮は、目の前でゆっくりと冷めていく肉を見つめ、その瞳をじわじわと赤く染めていった。「柚羽、俺はあの日以来、一人で何度もここに来たんだ。毎回この席に座り、お前の好きだったものを注文しようとした。……なのに、お前が食べる豚バラ肉は、カリカリに焼いた方が好きだったのか、それとも柔らかい方が好きだったのか、どうしても思い出せなかったんだ……お前が風に当たるとすぐ頭痛を起こすことも、冷たいものに触れてはいけないことも、腰が痛むときにどの薬を飲むべきかも、すべて覚えているのに。お前のことを、誰よりも理解しているつもりだったんだ。なのに……お前が普段何を好んで食べていたかさえ、俺は何も知らなかった」蓮はうつむき、肩を震わせて咽び泣いた。私は静かに窓の外を見つめ、何も答えなかった。「時間はいくらでもあると

  • なぜ恋人の私があなたの旧知に我慢すべきなの?   第9話

    1年後、私は完成した作品とともに、国内の巡回展のために帰国した。空港に降り立ったその日、ロビーの出口で遥に呼び止められた。彼女はひどく痩せ細り、あれほど大切にしていた艶やかな長髪を耳元まで短く切り揃え、右手首には、かすかに白い傷跡が残っていた。「ゆず、5分だけでいいから、話を聞いて」彼女は、あの百回記念の焼肉プレートを私に差し出してきた。裏面に深く刻まれていたあの文字は綺麗に削り取られ、ただ無残な研磨の跡だけが残っている。「蓮は、あの日以来、二度と私に会ってくれなくなった。あの新居のスマートキーの暗証番号も変えられちゃったし、私たちが毎月通っていたあの焼肉屋も、蓮が店ごと買い取ってその日のうちに閉店させちゃったのよ」私はそのプレートを受け取らなかった。「それらはすべて、私には関係のないことよ」遥の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。「分かっているよ。私、ずっとゆずが蓮を奪ったんだって思い込んでいた。でもね、ようやく気づいたの。蓮が本当に私を愛していたなら、あの十年のうちのどこかで、とっくに私を選んでくれていたはずだって。蓮が私を庇い続けたのはただの惰性に過ぎなくて、ゆずが絶対に自分から離れていかないと、高を括っていたからなのよ」遥は袖で涙を拭った。「ゆず、あの懐中時計を落とす直前、本当に思いとどまろうとしたの。おじ様が亡くなった日、あなたが私を抱きしめて『これからはお互い、家族になろうね』と言ってくれた言葉が、脳裏をよぎったから。……なのに私、どうしても手を離してしまった。本当にごめんなさい」空港の構内アナウンスが響き、乗客たちを急き立てる。私の青春のすべてを共に歩んできたこの遥を見つめながら、私の胸にはまだ、わずかな痛みが走っていた。未練などではない。ただ、10年も続いた友情が死を迎えたというのに、そこには墓標も葬儀すらもない。その事実に、どうしようもない寂しさを覚えるだけだった。私たちはきちんとした別れの言葉さえ交わす暇もなく、互いに、二度と思い出したくない存在になってしまったのだ。「遥」彼女は弾かれたように顔を上げ、その瞳に微かな期待の光を宿した。「あなたが初めてプレゼントしてくれたあのマフラー、まだ持っているわ。お父さんの葬儀のとき、3日3晩、私の隣に

  • なぜ恋人の私があなたの旧知に我慢すべきなの?   第8話

    蓮はロンドンを去らなかった。カレッジの近くに高級マンションを借り、毎朝、砂糖抜きの温かいカフェラテを届けるようになった。初日は、管理人にお願いしてそれをそのまま処分してもらった。2日目は、手付かずのまま蓮の部屋へと送り返した。やがて蓮は名前を書くのをやめ、ただの保温ボトルを静かに私の部屋のドアの前に残すようになった。それでも、私がそれに口をつけることは決してなかった。冬が訪れた頃、大学の年間優秀作品展が開催された。私は、あの3つに割れてしまった作品をあえて修復し、すべての痛々しい亀裂をそのまま残した。そして作品のちょうど中心に、父の、あの止まったままの懐中時計を埋め込んだ。タイトルは『離席』とした。審査員から、なぜ傷跡を隠そうとしなかったのかと尋ねられた。私は、その表面の鋭い断面に静かに指を滑らせた。「壊れてしまったものは、どれほど繕っても元には戻らないからです。無理に覆い隠したところで、傷を負わなかったことにはできませんから」「離席」は、その年の最優秀賞を受賞した。授賞式の当日、蓮は会場の最後列に静かに腰掛けていた。万雷の拍手が響き渡る中、蓮もまた静かに立ち上がり、惜しみない拍手を送ってくれた。目頭を真っ赤に染め、瞳を潤ませているのが見えたが、それ以上、私に近づいて語りかけてくることはなかった。授賞式が終わった後、蓮は指導教授を介して、一通の書類封筒を遺していった。中には、父のアトリエの土地建物の登記書類、新居の所有権譲渡書、そして佐伯グループが例の追突事故における一切の責任を認めるという公式声明書が入っていた。すべての書類には、すでに彼のサインと捺印がなされている。私に一切の負担を強いることなく、復縁を迫る文言すら一切添えられていなかった。そして一番底に、一枚の便箋が眠っていた。【柚羽へ。お前にとって何が最善かを勝手に決めつけることや、傷つけた後に高価なもので穴埋めをすることが、愛などではないのだと、思い知らされた。おじ様に「柚羽を生涯守り抜く」と誓っておきながら、お前を最も深く傷つけたのは俺自身だった。アトリエもお前のものだ。あの家もお前のものだ。これらは許しを得るための道具ではなく、ただ元ある場所へ返すだけのものに過ぎない。俺に会う必要はない。そし

  • なぜ恋人の私があなたの旧知に我慢すべきなの?   第7話

    ロンドンに到着した蓮は、カレッジの正門前で丸一日立ち尽くして待っていた。夕暮れ時、しとしとと冷たい小雨が降り始めていた。私はどうにか繋ぎ合わせた出展作品を抱え、校舎から出てきたところで、すぐにその姿が目に入った。蓮は傘も差さず、ずぶ濡れになって立っていた。漆黒のコートは雨を吸って重く垂れ下がり、その手には、一つの古い木箱が大切そうに抱えられている。それはアトリエで雨に晒され、蓮が回収した父の遺稿たちだった。「柚羽」蓮はかすれた声で私の名前を呼び、ゆっくりと歩み寄ってきた。私は足を止めた。「どうしてここにいるの」自分でも驚くほど、冷淡で平坦な声が出た。かつては、蓮とわずか数時間連絡が取れないだけで、不安に駆られて一晩中眠れなくなったものだ。それなのに、彼が地球の反対側から私を追いかけて目の前に立っている今、私の心にはさざ波一つ立たなかった。蓮は、大切そうに抱えた木箱を私に差し出そうとした。「修復できる原稿は、すべて専門家に依頼して元通りにしてもらった。遥が故意に懐中時計を落とした証拠の映像も見つけた。事故の再調査も行われ、遥はチームから除名され、免許も取り消しになる予定だ」私は手を出さなかった。「それで?」蓮は言葉を失ったように立ち尽くした。長い沈黙の後、彼は消え入りそうな声で絞り出した。「お前を連れ戻しに来たんだ。一緒に帰ろう」「私に帰る家なんてあるの」「俺たちの新居は、今もあの時のままだ。」「あれは、あなたの持ち物でしょう」「もうお前の名義に変更した。アトリエの土地も建物も丸ごと買い取ったから、もう二度と、おじ様の遺品を脅かす奴なんて現れない」蓮は焦ったように一歩踏み出した。「お前の失った奨学金の分は、俺が全額補償する。お前がロンドンで学びたいなら、俺もここに残る。本社の機能ごとこちらに移転させてもいい」蓮は何から何まで完璧なお膳立てを用意していた。これまで、過ちを犯すたびに蓮が繰り返してきた、お決まりのやり方だ。ただ、今回の「補償」は、あの懐中時計から巨大な企業へと、その規模が跳ね上がったに過ぎない。「佐伯蓮、あなたにはまだ分かっていないのね」私はようやくその重い木箱を受け取り、表面に刻まれた、雨で滲んだ父のサインにそっと指先で触れた。

  • なぜ恋人の私があなたの旧知に我慢すべきなの?   第6話

    遥の顔から笑みが急速に消え失せていった。「蓮、どうしちゃったの」「出ていけと言っただろう!」蓮は彼女を無視して通り過ぎようとしたが、遥は慌ててその袖を掴んだ。「またゆずが何か言ったの……?あの子はいつもそうなの。自分が気に入らないと、すぐにあなたに謝らせようとして……今回だって、あの子がどうしても許してくれなくて、私のレーサーとしての夢まで台無しにしようとしたのに……」蓮の足が止まった。「柚羽は去った」遥は数秒間、呆然と固まった。「どこへ行ったの」「ロンドンだ」「そんなの嘘よ!」遥は叫ぶように言い放ち、その顔は蓮よりもさらに真っ白になった。「あの子、私と約束したはずよ。もう二度と王立デザインカレッジには出願しないって!」蓮はゆっくりと首を巡らせた。「あいつがいつ、そんな約束をした」遥は小さく口を開けたものの、言葉を紡ぐことはできなかった。蓮は遥を凝視した。その瞳から、最後の温もりが完全に消え去っていく。「遥、まだ俺に隠していることがあるだろ」蓮は秘書に命じて、新居の廊下に設置されている防犯カメラの映像を取り寄せた。深夜1時47分、遥がゲストルームから姿を現した。胸に毛布を抱えた遥は、一度は玄関に向かおうとしたものの、踏み止まって部屋へと引き返した。カメラの死角に入り、室内の様子は映らない。だがしばらくして遥が再び出てきたとき、その手には明らかに機械式の懐中時計が握られていた。遥は廊下の明かりの下でそれをじっと見つめた後、おもむろに指を離した。時計が床に叩きつけられて砕ける金属音が、スピーカー越しに非情なほど鮮明に響いた。その冷徹な響きに、胸が締め付けられる。遥はわざとらしくよろけて後退し、自らガラスの破片の上に足を踏み入れた。最初から最後まで、クローゼットの扉が突然開いた事実などなく、突発的な事故でもなんでもなかったのだ。「なぜだ」蓮の声は、不気味なほどに静かだった。遥の目から涙が決壊したように溢れ出た。「ただ、嫉妬したのよ!あなたはあの女と出会ってまだ4年しか経っていないのに、結婚式を挙げ、家を買い、あの女の父親のうらぶれたアトリエまで必死に守ろうとする。私の方がずっと先に隣にいたのに、どうしてあの女が現れた途端、私はただの『

  • なぜ恋人の私があなたの旧知に我慢すべきなの?   第5話

    私が出発した翌日、遥は若手育成枠のレーシングチーム選考会に見事合格した。蓮が自ら、遥の首にメダルをかけた。客席から地響きのような拍手が沸き起こる中、遥は何度も会場の入り口へ視線を送っていたという。だが、祝勝会が幕を閉じるまで、そこに私の姿が現れることはなかった。「ゆず、まだ返事がないの」遥は首にかけたメダルを握りしめ、不安そうに眉をひそめた。蓮はスマホの画面に目を落とした。3人だけのグループトークには、彼が昨夜送ったメッセージが既読すらつかずに残っている。【アトリエの件は片付いた。荷物もすべて元に戻させた】【いい加減にへそを曲げるのはやめて戻ってこい】【俺に無理やり連れ戻させるな】彼は不機嫌そうに画面を消した。「あいつはわざと俺たちを無視しているだけだ。2、3日もすれば、間違いなく自分から這い戻ってくる」遥は引きつった笑みを浮かべた。「そうよね。ゆずは蓮のことをあんなに愛しているんだもの、本当にいなくなったりするはずないわ」その言葉は、蓮のプライドを大いに満足させた。過去四年間、どんなに激しい喧嘩をして、「もう出て行く」と無茶な真似をしても、有名店のモンブランさえ買って帰れば、いつも自分から折れてくれた。今回も、例外ではないはずだった。 蓮はわざと遠回りをして、馴染みの洋菓子店へ向かった。店員はすぐに彼の顔に気づき、嬉しそうに最後のモンブランを箱に詰めた。「佐伯様、彼女さんは本当にお幸せですね。いつも喧嘩をなさるたびに、こうしてお優しい佐伯様が買いに来てくださるなんて」蓮は紙袋を受け取り、静かに訂正した。「婚約者だ」新居に戻ると、玄関は吸い込まれそうなほど真っ暗だった。蓮は明かりをつけることもせず、リビングの冷蔵庫に直接モンブランを入れた。以前の私なら、蓮がどれほど遅くなろうとも、必ず玄関に小さな明かりを灯して待っていた。蓮が接待で深夜に帰宅するときは、ソファで毛布にくるまり、限界まで睡魔と闘いながら、しじみの味噌汁を温めるために起き上がったものだ。けれど今夜は、明かりもなければ、人の気配すらない。「柚羽」静まり返った広い家の中から、返答はなかった。蓮が寝室のドアを開けると、クローゼットの中身が半分ほど空になっているのが見えた。ドレッサーの上の

更多章節
探索並免費閱讀 優質小說
GoodNovel APP 免費暢讀海量優秀小說,下載喜歡的書籍,隨時隨地閱讀。
在 APP 免費閱讀書籍
掃碼在 APP 閱讀
DMCA.com Protection Status