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なぜ恋人の私があなたの旧知に我慢すべきなの?

なぜ恋人の私があなたの旧知に我慢すべきなの?

By:  狐坂Completed
Language: Japanese
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付き合って4周年の記念日、佐伯蓮(さえき れん)は私・木下柚羽(きのした ゆずは)と親友の浅倉遥(あさくら はるか)を連れて、行きつけの焼肉屋へ向かった。 店員は二人を見るなり、親しげな笑顔で尋ねた。 「いつも通りのご注文でよろしいですか」 蓮は無言で頷いた。 窓際の二人掛けの特等席。当然のように遥が蓮と対面で座る。 豚バラ肉はよく焼き、タレはネギ抜き。 最初の一枚も、最後の一枚も、蓮は遥の口へと運んでやる。 通路側に置かれた予備の丸椅子に押し込まれ、目の前にはタレの小皿すら用意されていなかった。 会計の際、店員が会員カードの利用履歴をめくりながら笑顔で告げた。 「佐伯様、浅倉様、今夜でなんとご来店百回目となります!特典として、お二人の専用プレートをお持ち帰りいただけますよ」 手渡されたプレートの裏面には、手彫りの文字が深く刻まれていた。 【蓮と遥、永遠に離れない二人】 添えられた日付は、3年前のものだった。 私はそこでようやく思い出した。あの日、蓮は病院で私の誕生日を祝ってくれていたはずだった。 彼が途中で抜け出したあの2時間は、会社で緊急会議があったからではなかったのだ。 遥はその刻印を愛おしそうになぞりながら、蓮に甘えるように尋ねた。 「ねえ、将来ゆずと結婚しても、私たちの毎月のデートは続けてくれるの?」 蓮は遥の首にマフラーを優しく巻き直してやりながら、私の方を冷淡に振り返った。 「当然だ。あいつもそこまで物分かりの悪い女じゃない。 それに、俺たちの付き合いはもう10年になるんだ。 あいつがどうしても気にするって言うなら、あいつの方から俺たちに歩み寄るべきだろ」 帰りの車内、私は当然のように後部座席に押し込まれた。 遥は助手席のシートを自分の好みの角度へ手慣れた様子で倒し、カーナビは自動的に音声を流した。 【目的地、遥の自宅へ向かいます】 窓ガラスに映る自分の疲れ果てた横顔を見つめながら、私は突如として、言いようのない疲労感に襲われた。 私は静かにうつむき、スマホを開いて、7日後のロンドン行きの片道航空券を購入した。 あなたたちの「10年」にはこれから先も未来があるだろう。 けれど、私たちの「4年」は、ここで終わりにする。

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Chapter 1

第1話

遥の住むマンションの駐車場は、外部の車の夜間駐車が禁止されている。

だが、蓮はそのまま車を乗り入れた。事前に登録を済ませてあったのは明らかだった。

「蓮、うちのリビングの電気が切れちゃったみたい」

遥は車から降りようとせず、例のプレートを抱えながら、甘えた声でこぼした。

「管理会社には明日じゃないと修理に行けないって言われちゃって。一人だと、ちょっと怖くて」

蓮はシートベルトを外した。

「少し見てくる」

ドアノブに手をかけた瞬間、蓮はバックミラー越しにようやく私に気づいたようだった。

「柚羽。ここで待っていてくれ。10分で戻る」

車内は十分に暖房が効いていた。

それでも、蓮は車を降りる際、マフラーを私の膝の上に放り投げた。

「窓は開けるなよ。お前、冷たい風に当たるとすぐ頭痛がするだろ」

蓮はいつもそうだった。

私の細かな習慣をすべて覚えているくせに、私を車内に置き去りにして、平気で他の女の世話を焼きに行く。

自分は愛されている――そう思いかけるたびに、遥の存在が現実を突きつけてくる。

彼のあの細やかな優しさは、私だけの特別なものではないのだと。

10分が過ぎても、見上げた部屋の窓に明かりは灯らず、蓮も戻ってこなかった。

うつむいてロンドン行きのフライト情報を確認していると、運転席のドアが開いた。

蓮は遅くなった理由を説明することなく、温かいカフェラテを私の手に握らせてきた。

「そこの店で買ってきた。砂糖は入れてない」

すでに飲み口のフタまで開けられていて、温度も私の好みにぴったりな、少しぬるめの絶妙な温かさだった。

私はスマホのチケット購入画面を見つめたまま、私はそのカフェラテに手を伸ばそうとはしなかった。

蓮は数秒待ち、不思議そうにこちらを振り返った。

「何をそんなに熱心に見ているんだ」

私ははっと我に返り、慌てて画面を消してカップを受け取った。

「何でもない。仕事のメール」

蓮はわずかに目を細め、スマホを握りしめている私の右手に視線を落とした。

「嘘だな」

静かに紡がれたその二言が、車内の空気を一瞬で凍りつかせる。

蓮は後部座席に向けて手を伸ばし、手のひらを上に向けた。

「スマホを見せてくれ」

彼は誰よりも私のことを知っている。

緊張すると、私の右手は無意識にスマホの縁をさすってしまうのだ。

動かない私に引きずられるようにして、彼が身を乗り出そうとしたその瞬間、助手席のドアが勢いよく開いた。

遥が再び乗り込んできて、寒さで鼻の頭を赤く染めて言った。

「蓮、うちのブレーカーが落ちちゃって。冷蔵庫にある薬、冷やしておかないとだめなのに」

そこまで一気にまくしたてると、遥はようやく私の方を振り返った。

「ゆず、今夜そっちの家に泊まらせてもらってもいい?」

遥は私の小指にそっと指を絡めてきた。

大学時代、彼女が私の家に泊まりたがるときは、いつもこうして私の手を揺らしながら、頷くのを待っていた。

けれど今回は、私が口を開くより早く、蓮が助手席のシートヒーターのスイッチを入れた。

「部屋はいくらでもある。あいつの許可なんて必要ないだろ」

私はカフェラテを握りしめた。カップの側面がみしりと音を立てて歪む。

二人で暮らすあの家において、決定権のない余所者は私の方だったのだ。

蓮はようやく私に目を向けた。

「主寝室の隣のゲストルームを遥に使わせてやってくれ。遥は眠りが浅いから、今夜はドライヤーを使うなよ」

「あそこはだめ」

新居に引っ越したとき、ゲストルームの鍵を自ら交換したのは蓮だった。

亡き父の遺品がすべてそこに保管されている。

あのとき、私にたった一つの鍵を手渡し、ここには誰も入れないと言ってくれたはずだった。

しかし今、蓮の眉根が不機嫌そうに歪み、その表情は冷たく静まり返っていた。

その様子を察した遥は、目を潤ませてうつむき、蚊の鳴くような声で言った。

「……やっぱりいい。ホテルに泊まるわ。ゆずがおじ様の遺品を誰にも触られたくない気持ち、よく分かるから」

遥が物分かりの良さを示すほど、私が薄情で、心の狭い人間に見えていく。

蓮は冷徹な顔でエンジンをかけた。

「遥は身内も同然だ」

ふっと短い沈黙を挟み、彼はバックミラー越しに私を鋭く射すくめた。

「柚羽。記念日に、これ以上俺の我慢を試すな」

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第1話
遥の住むマンションの駐車場は、外部の車の夜間駐車が禁止されている。だが、蓮はそのまま車を乗り入れた。事前に登録を済ませてあったのは明らかだった。「蓮、うちのリビングの電気が切れちゃったみたい」遥は車から降りようとせず、例のプレートを抱えながら、甘えた声でこぼした。「管理会社には明日じゃないと修理に行けないって言われちゃって。一人だと、ちょっと怖くて」蓮はシートベルトを外した。「少し見てくる」ドアノブに手をかけた瞬間、蓮はバックミラー越しにようやく私に気づいたようだった。「柚羽。ここで待っていてくれ。10分で戻る」車内は十分に暖房が効いていた。それでも、蓮は車を降りる際、マフラーを私の膝の上に放り投げた。「窓は開けるなよ。お前、冷たい風に当たるとすぐ頭痛がするだろ」蓮はいつもそうだった。私の細かな習慣をすべて覚えているくせに、私を車内に置き去りにして、平気で他の女の世話を焼きに行く。自分は愛されている――そう思いかけるたびに、遥の存在が現実を突きつけてくる。彼のあの細やかな優しさは、私だけの特別なものではないのだと。10分が過ぎても、見上げた部屋の窓に明かりは灯らず、蓮も戻ってこなかった。うつむいてロンドン行きのフライト情報を確認していると、運転席のドアが開いた。蓮は遅くなった理由を説明することなく、温かいカフェラテを私の手に握らせてきた。「そこの店で買ってきた。砂糖は入れてない」すでに飲み口のフタまで開けられていて、温度も私の好みにぴったりな、少しぬるめの絶妙な温かさだった。私はスマホのチケット購入画面を見つめたまま、私はそのカフェラテに手を伸ばそうとはしなかった。蓮は数秒待ち、不思議そうにこちらを振り返った。「何をそんなに熱心に見ているんだ」私ははっと我に返り、慌てて画面を消してカップを受け取った。「何でもない。仕事のメール」蓮はわずかに目を細め、スマホを握りしめている私の右手に視線を落とした。「嘘だな」静かに紡がれたその二言が、車内の空気を一瞬で凍りつかせる。蓮は後部座席に向けて手を伸ばし、手のひらを上に向けた。「スマホを見せてくれ」彼は誰よりも私のことを知っている。緊張すると、私の右手は無意識にスマホの縁をさすってしまうのだ。動か
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第2話
深夜2時、ガラスが砕け散る激しい音で私は目を覚ました。 慌ててゲストルームへ駆け込むと、遥が裸足のまま、散らばる破片の真ん中に立ち尽くしていた。その手には、父が遺した機械式の懐中時計が握られている。文字盤のカバーガラスは割れ、秒針は完全に静止していた。「ゆず、ごめんなさい」遥は顔面を蒼白にしながら、私の手を掴もうとした。「毛布を探そうと思って……クローゼットを開けたら、これが落ちてきちゃって」私は遥の手から懐中時計をひったくった。父が亡くなる前、この時計をしっかりと握りしめ、丸一日私を待ち続けていた。しかし、蓮が突然の高熱で倒れたため、父の最期を、この目で看取ることすらできなかった。それ以来、この懐中時計は、私が何人にも触れさせないと誓った唯一の宝物だった。「ここは入っちゃだめって……あれほど言ったじゃない!」叫んだ自分の声が、激しく震えていることに気づいた。遥の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。「わざとじゃないの……」「出ていって」「ゆず……」「出ていってと言っているの!」ドアを指さした私に怯えるように、遥は不意に後ずさりした。遥は足の裏でガラスの破片を踏み抜き、痛みに顔を歪めてその場にへたり込んだ。物音を聞きつけた蓮が、慌てた様子で部屋に飛び込んできた。血を目にした瞬間、蓮の顔色が変わり、私を素通りして遥を抱き上げた。「どこを怪我した」遥は彼の首にしがみつき、泣きながら首を振った。「全部、私のせいにしてください……ゆずは何も悪くないの」蓮は眉根を深く寄せ、遥の足を確認した。かつて、私が料理中に手を切ったときも、蓮は同じように険しい顔をして私を病院へ連れて行ってくれた。痛みに泣きじゃくる私に、彼は優しく涙を拭いながら囁いたものだ。――いい子だから泣かないで。俺がいる。もう痛い思いはさせないから。あのときと同じ、温かく、包み込むような声。けれど今、蓮がなだめているのは、別の女だった。「傷口を見るな。今すぐ病院へ連れて行く」私を通り過ぎようとした瞬間、蓮はようやく私の手のひらに流れる血に目を留めた。壊れた懐中時計の尖った金属片が、私の皮膚を切り裂いていた。蓮の足が一瞬、止まった。「救急箱がベッドサイドの引き出しにある。先に手当てをし
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第3話
翌日、蓮の秘書がアンティークの懐中時計を届けてきた。父のものと同じブランド、同じ年代のもので、オークション価格は優に1000万円を超える代物だ。秘書がベルベットの箱を私の前に差し出した。「佐伯社長はこの時計を探し出すために、午前中の会議を2つもキャンセルなさいました。それから、遥様も深く反省しておられますので、これ以上責めないでほしいとのことです」私は箱を開けようともしなかった。蓮はいつだって、惜しみなく補償をしてくれる。けれど、私がなぜ傷つき、痛んでいるのか、蓮は決して見ようとはしない。午後、私はカレッジから提出を求められていたコンペティションの出展作品を抱え、展示会場へと向かった。この一連の作品は、奨学金の獲得がかかった極めて重要なものであり、私が海外へ渡る前に済ませておくべき最後の大仕事でもあった。車が市街地を抜けた頃、蓮から電話がかかってきた。「出かけたのか」「ええ、審査会に向かっているところ」電話の向こうで、数秒の静寂が流れた。「何時に終わる? 迎えに行く」私はスマホを握りしめ、すぐには答えられなかった。昨夜、遥を抱きかかえて出て行ったとき、彼は一度も振り返らなかった。それなのに、今日の私の審査会のことは覚えているのだ。「午後4時」「わかった」蓮の声が、少し柔らかくなった。「終わったらどこにも行かずに待っていてくれ。お前の好きなモンブランを予約してある。遥も、直接謝罪したいと言っている」二度と元には戻らないと分かっていながら、彼はこうして私の機嫌を取ろうとする。以前の私なら、彼が少し折れるだけで、すぐに心を許してしまっていただろう。けれど、もう二度と、そんな過ちは犯さない。「大事な審査があるの。終わってからにして」電話の向こうが再び静まり返った。「何時に終わるんだ。迎えに行くと言っているだろ」その一言だけで、築き上げた心の壁が、脆くも崩れ去りそうになる。冷めきっていたはずの心が、情けなくも揺らいでしまう。言葉を返そうとしたその瞬間、凄まじい衝撃とともに、車体が大きく揺れた。背後から、鼓膜を突き刺すような激しい衝突音が響き渡る。運転手が急ブレーキを踏み、固定台に置いてあった作品用のガラスケースが床に激突した。頭をぶつけた痛みを気にす
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第4話
夜七時、蓮は遥を伴って私たちの新居に戻ってきた。私が最後の服をスーツケースに詰め終えたとき、リビングから私を呼ぶ彼の声が聞こえた。「柚羽、出てきてこれにサインしろ」ローテーブルの上には、示談書のほかに、被害者としての「嘆願書」が置かれていた。そこには、私の急かす声に焦った運転手が急な車線変更を行ったため、後続車が避けきれなかったと記されていた。私がこの2つの書類にサインすれば、遥は刑事責任を問われないばかりか、行政処分による免許取り消しも免れることができるのだ。「事故は、遥がスマホを拾おうとして前方不注意になったからよ」私はその書類を押し戻した。「防犯カメラ映像も、ドライブレコーダーの記録もある」遥の目頭がみるみるうちに赤くなった。「ゆず、私のせいで本当にごめんなさい。でも、私、来月若手育成枠のレーシングチーム選考会があるの。もし人身事故の過失運転で免許取り消しにでもなったら、ライセンスが剥奪されて、二度とサーキットに立てなくなっちゃう……」遥は大学時代からカーレースに憧れていた。ライセンスの取得費用を出したのは私で、最初のレーシングスーツを贈ったのも私だった。遥が初めて表彰台に上った夜、私を抱きしめて一晩中泣きながら、「いつか世界一の表彰台に立ったら、このトロフィーをゆずにあげるね」と誓ってくれた。それなのに今、彼女は私の未来を踏み台にして、自分の表彰台を手に入れようとしている。蓮は私の手元に万年筆を置いた。「お前の審査はもう終わったことだ。今さら遥を責め立てても何も戻らない。サインしろ。お前のための個人アトリエを建ててやる」またこれだ。父の遺品も、私の心血も、私の夢も、蓮の目にはすべて値札が貼られているように見えるらしい。十分な対価さえ支払えば、私が黙って理不尽を飲み込むとでも思っているのだろうか。「サインはしないわ」蓮は私を数秒間冷ややかに見つめた後、おもむろにスマホを取り出して電話をかけた。「木下先生の旧アトリエの、賃貸契約の更新手続きを保留にしろ」私は勢いよく顔を上げた。父が他界した後、そのアトリエは佐伯グループが委託管理していた。そこには父が遺した膨大なデザイン原稿が眠っており、今回の私の出展作品のインスピレーションの源でもあったのだ。「あ
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第5話
私が出発した翌日、遥は若手育成枠のレーシングチーム選考会に見事合格した。蓮が自ら、遥の首にメダルをかけた。客席から地響きのような拍手が沸き起こる中、遥は何度も会場の入り口へ視線を送っていたという。だが、祝勝会が幕を閉じるまで、そこに私の姿が現れることはなかった。「ゆず、まだ返事がないの」遥は首にかけたメダルを握りしめ、不安そうに眉をひそめた。蓮はスマホの画面に目を落とした。3人だけのグループトークには、彼が昨夜送ったメッセージが既読すらつかずに残っている。【アトリエの件は片付いた。荷物もすべて元に戻させた】【いい加減にへそを曲げるのはやめて戻ってこい】【俺に無理やり連れ戻させるな】彼は不機嫌そうに画面を消した。「あいつはわざと俺たちを無視しているだけだ。2、3日もすれば、間違いなく自分から這い戻ってくる」遥は引きつった笑みを浮かべた。「そうよね。ゆずは蓮のことをあんなに愛しているんだもの、本当にいなくなったりするはずないわ」その言葉は、蓮のプライドを大いに満足させた。過去四年間、どんなに激しい喧嘩をして、「もう出て行く」と無茶な真似をしても、有名店のモンブランさえ買って帰れば、いつも自分から折れてくれた。今回も、例外ではないはずだった。 蓮はわざと遠回りをして、馴染みの洋菓子店へ向かった。店員はすぐに彼の顔に気づき、嬉しそうに最後のモンブランを箱に詰めた。「佐伯様、彼女さんは本当にお幸せですね。いつも喧嘩をなさるたびに、こうしてお優しい佐伯様が買いに来てくださるなんて」蓮は紙袋を受け取り、静かに訂正した。「婚約者だ」新居に戻ると、玄関は吸い込まれそうなほど真っ暗だった。蓮は明かりをつけることもせず、リビングの冷蔵庫に直接モンブランを入れた。以前の私なら、蓮がどれほど遅くなろうとも、必ず玄関に小さな明かりを灯して待っていた。蓮が接待で深夜に帰宅するときは、ソファで毛布にくるまり、限界まで睡魔と闘いながら、しじみの味噌汁を温めるために起き上がったものだ。けれど今夜は、明かりもなければ、人の気配すらない。「柚羽」静まり返った広い家の中から、返答はなかった。蓮が寝室のドアを開けると、クローゼットの中身が半分ほど空になっているのが見えた。ドレッサーの上の
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第6話
遥の顔から笑みが急速に消え失せていった。「蓮、どうしちゃったの」「出ていけと言っただろう!」蓮は彼女を無視して通り過ぎようとしたが、遥は慌ててその袖を掴んだ。「またゆずが何か言ったの……?あの子はいつもそうなの。自分が気に入らないと、すぐにあなたに謝らせようとして……今回だって、あの子がどうしても許してくれなくて、私のレーサーとしての夢まで台無しにしようとしたのに……」蓮の足が止まった。「柚羽は去った」遥は数秒間、呆然と固まった。「どこへ行ったの」「ロンドンだ」「そんなの嘘よ!」遥は叫ぶように言い放ち、その顔は蓮よりもさらに真っ白になった。「あの子、私と約束したはずよ。もう二度と王立デザインカレッジには出願しないって!」蓮はゆっくりと首を巡らせた。「あいつがいつ、そんな約束をした」遥は小さく口を開けたものの、言葉を紡ぐことはできなかった。蓮は遥を凝視した。その瞳から、最後の温もりが完全に消え去っていく。「遥、まだ俺に隠していることがあるだろ」蓮は秘書に命じて、新居の廊下に設置されている防犯カメラの映像を取り寄せた。深夜1時47分、遥がゲストルームから姿を現した。胸に毛布を抱えた遥は、一度は玄関に向かおうとしたものの、踏み止まって部屋へと引き返した。カメラの死角に入り、室内の様子は映らない。だがしばらくして遥が再び出てきたとき、その手には明らかに機械式の懐中時計が握られていた。遥は廊下の明かりの下でそれをじっと見つめた後、おもむろに指を離した。時計が床に叩きつけられて砕ける金属音が、スピーカー越しに非情なほど鮮明に響いた。その冷徹な響きに、胸が締め付けられる。遥はわざとらしくよろけて後退し、自らガラスの破片の上に足を踏み入れた。最初から最後まで、クローゼットの扉が突然開いた事実などなく、突発的な事故でもなんでもなかったのだ。「なぜだ」蓮の声は、不気味なほどに静かだった。遥の目から涙が決壊したように溢れ出た。「ただ、嫉妬したのよ!あなたはあの女と出会ってまだ4年しか経っていないのに、結婚式を挙げ、家を買い、あの女の父親のうらぶれたアトリエまで必死に守ろうとする。私の方がずっと先に隣にいたのに、どうしてあの女が現れた途端、私はただの『
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第7話
ロンドンに到着した蓮は、カレッジの正門前で丸一日立ち尽くして待っていた。夕暮れ時、しとしとと冷たい小雨が降り始めていた。私はどうにか繋ぎ合わせた出展作品を抱え、校舎から出てきたところで、すぐにその姿が目に入った。蓮は傘も差さず、ずぶ濡れになって立っていた。漆黒のコートは雨を吸って重く垂れ下がり、その手には、一つの古い木箱が大切そうに抱えられている。それはアトリエで雨に晒され、蓮が回収した父の遺稿たちだった。「柚羽」蓮はかすれた声で私の名前を呼び、ゆっくりと歩み寄ってきた。私は足を止めた。「どうしてここにいるの」自分でも驚くほど、冷淡で平坦な声が出た。かつては、蓮とわずか数時間連絡が取れないだけで、不安に駆られて一晩中眠れなくなったものだ。それなのに、彼が地球の反対側から私を追いかけて目の前に立っている今、私の心にはさざ波一つ立たなかった。蓮は、大切そうに抱えた木箱を私に差し出そうとした。「修復できる原稿は、すべて専門家に依頼して元通りにしてもらった。遥が故意に懐中時計を落とした証拠の映像も見つけた。事故の再調査も行われ、遥はチームから除名され、免許も取り消しになる予定だ」私は手を出さなかった。「それで?」蓮は言葉を失ったように立ち尽くした。長い沈黙の後、彼は消え入りそうな声で絞り出した。「お前を連れ戻しに来たんだ。一緒に帰ろう」「私に帰る家なんてあるの」「俺たちの新居は、今もあの時のままだ。」「あれは、あなたの持ち物でしょう」「もうお前の名義に変更した。アトリエの土地も建物も丸ごと買い取ったから、もう二度と、おじ様の遺品を脅かす奴なんて現れない」蓮は焦ったように一歩踏み出した。「お前の失った奨学金の分は、俺が全額補償する。お前がロンドンで学びたいなら、俺もここに残る。本社の機能ごとこちらに移転させてもいい」蓮は何から何まで完璧なお膳立てを用意していた。これまで、過ちを犯すたびに蓮が繰り返してきた、お決まりのやり方だ。ただ、今回の「補償」は、あの懐中時計から巨大な企業へと、その規模が跳ね上がったに過ぎない。「佐伯蓮、あなたにはまだ分かっていないのね」私はようやくその重い木箱を受け取り、表面に刻まれた、雨で滲んだ父のサインにそっと指先で触れた。
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第8話
蓮はロンドンを去らなかった。カレッジの近くに高級マンションを借り、毎朝、砂糖抜きの温かいカフェラテを届けるようになった。初日は、管理人にお願いしてそれをそのまま処分してもらった。2日目は、手付かずのまま蓮の部屋へと送り返した。やがて蓮は名前を書くのをやめ、ただの保温ボトルを静かに私の部屋のドアの前に残すようになった。それでも、私がそれに口をつけることは決してなかった。冬が訪れた頃、大学の年間優秀作品展が開催された。私は、あの3つに割れてしまった作品をあえて修復し、すべての痛々しい亀裂をそのまま残した。そして作品のちょうど中心に、父の、あの止まったままの懐中時計を埋め込んだ。タイトルは『離席』とした。審査員から、なぜ傷跡を隠そうとしなかったのかと尋ねられた。私は、その表面の鋭い断面に静かに指を滑らせた。「壊れてしまったものは、どれほど繕っても元には戻らないからです。無理に覆い隠したところで、傷を負わなかったことにはできませんから」「離席」は、その年の最優秀賞を受賞した。授賞式の当日、蓮は会場の最後列に静かに腰掛けていた。万雷の拍手が響き渡る中、蓮もまた静かに立ち上がり、惜しみない拍手を送ってくれた。目頭を真っ赤に染め、瞳を潤ませているのが見えたが、それ以上、私に近づいて語りかけてくることはなかった。授賞式が終わった後、蓮は指導教授を介して、一通の書類封筒を遺していった。中には、父のアトリエの土地建物の登記書類、新居の所有権譲渡書、そして佐伯グループが例の追突事故における一切の責任を認めるという公式声明書が入っていた。すべての書類には、すでに彼のサインと捺印がなされている。私に一切の負担を強いることなく、復縁を迫る文言すら一切添えられていなかった。そして一番底に、一枚の便箋が眠っていた。【柚羽へ。お前にとって何が最善かを勝手に決めつけることや、傷つけた後に高価なもので穴埋めをすることが、愛などではないのだと、思い知らされた。おじ様に「柚羽を生涯守り抜く」と誓っておきながら、お前を最も深く傷つけたのは俺自身だった。アトリエもお前のものだ。あの家もお前のものだ。これらは許しを得るための道具ではなく、ただ元ある場所へ返すだけのものに過ぎない。俺に会う必要はない。そし
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第9話
1年後、私は完成した作品とともに、国内の巡回展のために帰国した。空港に降り立ったその日、ロビーの出口で遥に呼び止められた。彼女はひどく痩せ細り、あれほど大切にしていた艶やかな長髪を耳元まで短く切り揃え、右手首には、かすかに白い傷跡が残っていた。「ゆず、5分だけでいいから、話を聞いて」彼女は、あの百回記念の焼肉プレートを私に差し出してきた。裏面に深く刻まれていたあの文字は綺麗に削り取られ、ただ無残な研磨の跡だけが残っている。「蓮は、あの日以来、二度と私に会ってくれなくなった。あの新居のスマートキーの暗証番号も変えられちゃったし、私たちが毎月通っていたあの焼肉屋も、蓮が店ごと買い取ってその日のうちに閉店させちゃったのよ」私はそのプレートを受け取らなかった。「それらはすべて、私には関係のないことよ」遥の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。「分かっているよ。私、ずっとゆずが蓮を奪ったんだって思い込んでいた。でもね、ようやく気づいたの。蓮が本当に私を愛していたなら、あの十年のうちのどこかで、とっくに私を選んでくれていたはずだって。蓮が私を庇い続けたのはただの惰性に過ぎなくて、ゆずが絶対に自分から離れていかないと、高を括っていたからなのよ」遥は袖で涙を拭った。「ゆず、あの懐中時計を落とす直前、本当に思いとどまろうとしたの。おじ様が亡くなった日、あなたが私を抱きしめて『これからはお互い、家族になろうね』と言ってくれた言葉が、脳裏をよぎったから。……なのに私、どうしても手を離してしまった。本当にごめんなさい」空港の構内アナウンスが響き、乗客たちを急き立てる。私の青春のすべてを共に歩んできたこの遥を見つめながら、私の胸にはまだ、わずかな痛みが走っていた。未練などではない。ただ、10年も続いた友情が死を迎えたというのに、そこには墓標も葬儀すらもない。その事実に、どうしようもない寂しさを覚えるだけだった。私たちはきちんとした別れの言葉さえ交わす暇もなく、互いに、二度と思い出したくない存在になってしまったのだ。「遥」彼女は弾かれたように顔を上げ、その瞳に微かな期待の光を宿した。「あなたが初めてプレゼントしてくれたあのマフラー、まだ持っているわ。お父さんの葬儀のとき、3日3晩、私の隣に
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第10話
巡回展の最終日を控えた夕方、ようやく蓮と会う決意をした。すでに廃業して薄暗いあの焼肉屋の店内に、蓮は静かに座っていた。窓際の席は、当時のままそこにあった。通路側にぽつんと置かれたあの予備の椅子も、片付けられることなく残されている。テーブルの上には、3組の食器が並べられていた。ただ、私の席の前だけは、やはりタレの小皿が置かれていない。蓮はこちらの姿を認めるやいなや、弾かれたように立ち上がった。1年ぶりに見る彼は、ひどく痩せこけていた。かつては決してシワ一つなかった上質なシャツは少しよれており、その手首には、かつて私がプレゼントした安価な古い腕時計がはめられていた。「座ってくれ」蓮は、窓際の席の椅子を引いた。そこは、かつていつも遥が座っていた特等席だった。腰を下ろさずに、立ち尽くした。「時計、無事に受け取ったわ。ありがとう」「俺が直したんじゃない」蓮の声は、消え入りそうなほど細かった。「あの老職人が丸一年かけて探し出してくれたんだ。俺はただ、それをお前に返しただけだ」蓮はロースターのスイッチを入れた。網の上の豚バラ肉の端がじわじわと縮み、脂が炭火に滴り落ちてパチパチと小さな音を立てる。肉がちょうどよく焼き上がると、蓮は最初の一枚を私の皿に移した。「ネギは抜いてある」この数年間で、最初の一口を私にくれたのは、これが初めてだった。けれど、箸を持とうとはしなかった。蓮は、目の前でゆっくりと冷めていく肉を見つめ、その瞳をじわじわと赤く染めていった。「柚羽、俺はあの日以来、一人で何度もここに来たんだ。毎回この席に座り、お前の好きだったものを注文しようとした。……なのに、お前が食べる豚バラ肉は、カリカリに焼いた方が好きだったのか、それとも柔らかい方が好きだったのか、どうしても思い出せなかったんだ……お前が風に当たるとすぐ頭痛を起こすことも、冷たいものに触れてはいけないことも、腰が痛むときにどの薬を飲むべきかも、すべて覚えているのに。お前のことを、誰よりも理解しているつもりだったんだ。なのに……お前が普段何を好んで食べていたかさえ、俺は何も知らなかった」蓮はうつむき、肩を震わせて咽び泣いた。私は静かに窓の外を見つめ、何も答えなかった。「時間はいくらでもあると
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