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みんな、さようなら

みんな、さようなら

By:  ココ・アンCompleted
Language: Japanese
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その日は私――高瀬晴香(たかせ はるか)の誕生日だった。 恋人の田川雅人(たがわ まさと)と、海辺で一緒に花火を見に行けると思っていた―― けれど彼は、朝倉奈美(あさくら なみ)とその子どもを連れてきた。 「奈美は子ども連れで大変なんだ。少し気をつかってあげて。 道にも不慣れだし、荷物も多いから、俺が先にホテルまで送ってくる」 雅人はまるで取るに足らないことでも説明するように、あっさりと言った。 こんな優しさの前では、怒る私のほうが理不尽に見えてしまう。 彼は二人を車に乗せ、子どもには自らシートベルトを締めてやった。 そして私に向かって、穏やかに笑いながら言った。 「すぐ戻るから。余計なこと考えるなよ」 三人は、まるで家族のように去っていった。私は道端に立ち尽くし、ただ見送った。 夜の気配が降りて、海風が肌を刺すほど冷たい。 私はまだ待っていた――スマホ画面に奈美の動画投稿が流れてくる、その瞬間まで。 雅人は奈美の娘を腕に抱き、海辺で花火を見上げている。 それは本来、私が自分の誕生日のために用意していたものだった。 コメント欄はこうだ。 【ほんとお似合い。幸せそうな三人家族】 誰かがどうして私を迎えに行かないと雅人に尋ねた。 彼は笑って答える。 「晴香は気が長いし、怒らないから」 その瞬間、ケーキは溶けて、とろりと崩れていった。 彼は冷たい人ではない。ただ、あまりにも確信していた―― 私はいつまでも待っている、と。 けれど、優しさの中で放っておかれる時間が長くなれば、心だって冷えていく。 波が岸を打つたびに、私の最後の幻想も砕けていく。 今度こそ、私はもう、彼の帰りを待たない。

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Chapter 1

第1話

それは、私――高瀬晴香(たかせ はるか)が丸一か月かけて計画した、海辺で過ごす誕生日旅行だった。

その日くらいは、恋人の田川雅人(たがわ まさと)が私のことを気にかけてくれる――そう思っていた。

海沿いのヴィラを前もって押さえ、レストランも選び抜き、花火が見えるディナーまで特別に予約しておいた。

それは私と雅人だけの、ロマンチックな旅になるはずだった。

出発の日、チャイムが鳴る。

扉を開けると、玄関に立っていたのは朝倉奈美(あさくら なみ)。彼女の腕の中には、四歳の娘美桜(みおう)を抱いている。

「雅人がね、この辺の海を案内してくれるって。ついでに、子どもにも外の空気を吸わせたいって」

奈美は白いシフォンドレスをまとい、隙のないメイクにブランドのバッグ。その姿は、休暇というより撮影にでも行くかのようだ。

彼女は笑みを浮かべて言葉を足す。

「私も、さすがに悪いかなって言ったの。お二人の予定を邪魔しちゃうし。でも雅人が、あなたがいいって言ってくれたって」

私は一瞬、固まった。

そんなこと、言っていない。

階段を下りると、雅人の車がすでに家の前に止まっていた。

雅人の友人が二人、後部座席に座っている。奈美の娘は助手席にもたれかかり、手を伸ばして言う。

「おじさん、だっこして――」

雅人は笑ってその子を抱き上げ、やわらかい声であやした。

「気をつけて。転ばないようにね」

一瞬、いつものように優しい彼が他人のように見えた。

ドアが開き、席はもうすべて埋まっている。

車内には、気まずい沈黙が漂っている。

友人のひとりがすぐに席を立ち、言う。

「じゃあ、俺たち降りるか?晴香を一人で待たせるのもなんだし」

奈美はすぐに手を振り、優しくて気づかいのある口調で言う。

「いいのよ。私と美桜は行かないわ。先に行って。晴香をひとりで暑い中待たせるなんて、かわいそうだから」

少し間を置いて、彼女はさらりと言葉を足す。

「美桜は今夜の海辺の花火をずっと楽しみにしてたの。雅人、写真と動画、たくさん撮って送ってくれる?この子が見たいから」

その瞬間、彼女の気の利き方は、妙にちょうどよかった。気づけば、場違いなのは私のほうになっていた。

雅人は眉間にしわを寄せ、わずかに不機嫌な調子で言う。

「もういい、押しつけ合うなって。たいした距離じゃないし、俺が先に送ってくる」

そう言ってから、彼は私に目を向け、声色を和らげた。

「奈美は子ども連れで動きづらいんだ。ここで待っててくれる?すぐ戻るから」

私は彼を見つめながら、ゆっくりと手のひらを握りしめる。

彼の顔に浮かぶ、あの確信――私が怒らないという確信、いつでも分別を守るという確信――が、息苦しかった。

「雅人」

私は小さく彼を呼びかけた。これが本来、私の誕生日旅行なのだと、気づいてほしかった。

けれど彼は小さくため息をつき、気まぐれな子どもをあやすみたいに言う。

「晴香、もういいって。彼女は子どもを連れてるんだ。本当に不便なんだよ。君はいつも一番、分別があるから分かってくれるだろ?」

そう言って、彼は一瞬だけ私を見つめ、ほんのわずかにためらった。まるですぐ戻るという言葉で、自分を納得させようとしているように。

その瞬間、鼻の奥がつんとした。

「分別がある」という言葉は、彼が私を無視することを正当化するための言い訳なのだ。

そばにいた友人たちが視線を交わし、ためらいがちに言う。

「雅人、やっぱり彼女も一緒に連れて行ったほうがいいんじゃないか?こんな日差しの下でひとりで待たせるのは、さすがによくないだろ」

雅人の声が、わずかに冷えた。

「余計なこと言うな」

奈美はすぐに笑顔をつくり、場を取りなそうとする。

「本当に大丈夫だ。私のせいで揉めないで。ここで少し待っててもらっても別に大したことじゃないわよ」

そう言って私のほうを見て軽くうなずき、やさしい声で続ける。

「暑いのに、ごめんなさいね。

私なら、とっくにこの日差しは無理だわ。あなた、本当に我慢強いのね」

私は彼女を見つめ、その笑みの奥に潜むわずかな得意の色をはっきりと見た。

雅人が車のドアを閉める。

車は砂ぼこりと海風を巻き上げ、遠ざかっていく。

私はその場に立ち尽くした。容赦のない陽射しが肌を刺し、視界が白くかすむ。

汗が首筋をつたって落ちる。水も持ってきていなかった。

足もとに落ちる影は、夕陽に引き延ばされ、まるで余計な人間の輪郭みたいだった。

電話をかけて、早く戻ってきてと伝えようとした。

けれど、さっきの「分別がある」と言う彼の声を思い出し、私はスマホを握った手をそっと下ろした。

ただ、確かめたかった。彼が本当に、戻ってくるのかどうかを。

スマホの画面がふっと明るくなった。奈美のSNSが更新されている。

彼らはすでに海辺に着いていて、動画の中で雅人は美桜を抱き上げ、海辺でカモメに餌をやっている。

次の投稿では、風に乱れた奈美の髪を、彼が身をかがめて整えている。

キャプションには、こう書かれていた。

【美桜にとって、いちばん楽しい一日】

コメント欄には【お似合い】、【ほんと家族みたい】と並ぶ。

奈美は否定せず、笑顔のスタンプだけを残していた。

その瞬間、画面の光がやけにまぶしく感じた。

幸せそうな二人の動画を見つめながら、指先に力がこもる。

心は陽に焼かれたように、からからに乾いて、じりじりと熱をもった。

頬をかすめる風には、塩の苦さが混じる。

容赦ない陽射しに焼かれ、目の前が何度も暗くなった。ほとんど熱中症だ。

手のひらのスマホは静かに横たわり、画面は明滅をくり返す。

無意識にダイヤル画面を開き、指先は雅人の名前で止まった。

「いつ帰ってくるの?」――そう聞きたかった。

けれど結局、私はその名前を見つめているだけだ。

どうしても、確かめたかったのだ。彼が、私のことを思い出すかどうか。

海風が吹き抜け、潮の匂いとほのかな冷たさが肌を撫でた。

その冷たさは、ゆっくりと胸の奥まで沁みていく。

私はわかっていた。これが彼に与える最後の猶予だ。

私が彼に期待を抱くのも、これが最後だと。
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第1話
それは、私――高瀬晴香(たかせ はるか)が丸一か月かけて計画した、海辺で過ごす誕生日旅行だった。その日くらいは、恋人の田川雅人(たがわ まさと)が私のことを気にかけてくれる――そう思っていた。海沿いのヴィラを前もって押さえ、レストランも選び抜き、花火が見えるディナーまで特別に予約しておいた。それは私と雅人だけの、ロマンチックな旅になるはずだった。出発の日、チャイムが鳴る。扉を開けると、玄関に立っていたのは朝倉奈美(あさくら なみ)。彼女の腕の中には、四歳の娘美桜(みおう)を抱いている。「雅人がね、この辺の海を案内してくれるって。ついでに、子どもにも外の空気を吸わせたいって」奈美は白いシフォンドレスをまとい、隙のないメイクにブランドのバッグ。その姿は、休暇というより撮影にでも行くかのようだ。彼女は笑みを浮かべて言葉を足す。「私も、さすがに悪いかなって言ったの。お二人の予定を邪魔しちゃうし。でも雅人が、あなたがいいって言ってくれたって」私は一瞬、固まった。そんなこと、言っていない。階段を下りると、雅人の車がすでに家の前に止まっていた。雅人の友人が二人、後部座席に座っている。奈美の娘は助手席にもたれかかり、手を伸ばして言う。「おじさん、だっこして――」雅人は笑ってその子を抱き上げ、やわらかい声であやした。「気をつけて。転ばないようにね」一瞬、いつものように優しい彼が他人のように見えた。ドアが開き、席はもうすべて埋まっている。車内には、気まずい沈黙が漂っている。友人のひとりがすぐに席を立ち、言う。「じゃあ、俺たち降りるか?晴香を一人で待たせるのもなんだし」奈美はすぐに手を振り、優しくて気づかいのある口調で言う。「いいのよ。私と美桜は行かないわ。先に行って。晴香をひとりで暑い中待たせるなんて、かわいそうだから」少し間を置いて、彼女はさらりと言葉を足す。「美桜は今夜の海辺の花火をずっと楽しみにしてたの。雅人、写真と動画、たくさん撮って送ってくれる?この子が見たいから」その瞬間、彼女の気の利き方は、妙にちょうどよかった。気づけば、場違いなのは私のほうになっていた。雅人は眉間にしわを寄せ、わずかに不機嫌な調子で言う。「もういい、押しつけ合うなって。たいした距離じゃないし、
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第2話
私は道端で三時間も待ち続けた。昼から夕暮れへと移りゆくあいだ、海風は熱を失い、少しずつ冷たくなっていく。空の光は次第に色を失い、私の影も薄れていった。それでも、雅人からの連絡は、とうとう来なかった。スマホのバッテリーが残り1%になったところで、私はしかたなくタクシーを拾い、家に戻った。家に入って間もなく、奈美のSNSがまた更新された。動画の中で、彼らは海辺に立ち、花火を見上げている。雅人は美桜を抱き上げ、風に乱れた奈美の髪をそっと整えてやっていた。彼らの背後の海は、幾重にも重なる金色の光でゆらめいている。笑い声ははっきり聞こえるのに、どこか遠い――まるで別の世界から響いてくるようだ。奈美のキャプションはこうだ。【花火はきらめいて、ロマンチックな光がしあわせを連れてくる】その瞬間、私は息が止まりそうになった。あの花火は、本来、私が自分の誕生日のために用意したものだった。流す曲だって、私が決めていた。画面ではコメントが次々と流れる。【幸せそうな三人家族】【その子、雅人にそっくり】奈美は返事をせず、例の笑顔のスタンプだけを残していた。その動画の向こうから、誰かの声が聞こえる。「雅人、晴香を迎えに行くんじゃなかったの?」雅人の声は低くて、穏やかだった。「少しくらい遅れても平気だよ。晴香は気が長いし、怒らないから」その優しい口調で、私は完全に悟った――彼は意地悪で私のことを無視したのじゃない。ただ、私が許してしまうことに、あまりにも慣れきっているのだ。私は画面を見つめ、指先でスマホの縁をそっとなぞる。胸の奥がひやりと冷えて、痺れるような感覚が広がる。彼の目には、私は決して怒らない人間に映っている。いつでも分別があって、決して彼のもとを離れない人間に。ソファにもたれ、過去の記憶がふっと脳裏をよぎる。あの冬、雪は果てしなく降り続いていた。私が体調を崩して休んだとき、彼は夜通し車を走らせ、薬を玄関まで届けてくれた。彼は言った。「覚えておいて。俺はいつだって、そばにいるから」私は微笑んで返した。「私たち、ただの友だちよ」彼はしばらく黙ってから、静かに言った。「じゃあ、俺は一生、君を待つ友だちでいるよ」数か月後、私の誕生日に彼は告白
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第3話
雅人は奈美と美桜を連れて、ようやく私を置いていったあの道へ戻ってきた。道の街灯はぼんやりと黄ばんでいて、風には潮の匂いが混じっている。私はもうそこにはいない。あるのは、がらんとした通りと、寄せては返す海風だけ。雅人は眉をひそめ、胸のあたりに言葉にならない焦りがにじむ。そのとき、彼のスマホが震えた。画面には、私からのメッセージが浮かび上がる。――【迎えに来なくていい。自分で家に帰ったから】彼は思わずほっと息をついた。だがその息がこぼれた途端、胸の奥はますます空しくなった。私は別荘で荷物をまとめている。部屋に残る馴染んだ匂いが、息苦しい。雅人から電話がかかってきたが、私は画面に浮かぶ名前を見つめるだけで、出なかった。泣くべきか、笑うべきか、それすら分からない。もしかしたら、最初から期待なんてするべきじゃなかったのかもしれない。奈美と初めて会った日のことを思い出す。私が十歳の時だった。里親の家庭から、私は生みの両親のもとへ引き取られた。あの家こそ、夢が始まる場所だと信じていた。そこには、ぬくもりと笑い声、そして家族が待っているはずだと思っていた。けれど扉を開けると、両親は別の女の子を抱きしめていた。彼女はつややかな髪をして、私が一度だって持ったことのない白いワンピースを着ていた。「この子が奈美よ」母はやさしく笑いながら紹介した。「あなたが行方不明だったあの数年間、彼女はずっと私たちのそばにいてくれた」父は続けて言った。「晴香、奈美は君より年下なんだ。分別を持って、妹の面倒を見てやりなさい」そのとき「分別」という二文字が、胸の中をちくりと刺した。それでも私は笑ってうなずいた。「うん、わかった」けれど奈美はかすかに笑っただけで、その目には温もりはなかった。あとになって知った。私がいなくて、里親のもとで暮らしていたあの年月、奈美は私の部屋に住み、私のベッドで眠り、私の両親を「お父さん」「お母さん」と呼んでいた。そして両親もまた、彼女を本当の家族として扱っていた。両親は口をそろえて「奈美は何も悪くない」と言った。そして私は、分別よく振る舞うことを求められる側になった。あるとき、彼女が食卓でうっかりグラスを割った。私は立ち上がって手伝おうとしただけ
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第4話
雅人の顔に、はっきりと驚きの色が走った。こんなふうに彼を突き放したのは、これが初めてだ。彼は部屋の前に立ち、眉間に皺を寄せ、かすれた声で言う。「晴香、ごめん。怒らないで。君につらい思いをさせるつもりはなかったんだ」言葉を返そうとしたその瞬間、不意に唐突な泣き声が響く。――美桜だ。奈美はしゃがみ込み、美桜の背中をやさしく撫でながら言う。「もう泣かないの。ママは平気よ。さっきは晴香おばさんがちょっと怒っちゃっただけ」その声はひどくやさしく、子どもをあやす調子。けれど、言葉の端々には――「私のほうが悪い」と言外の響きがあった。美桜は唇をきゅっと結び、涙がぽろぽろと頬を伝った。泣き声は次第に大きくなる。雅人は反射的に手を伸ばし、ドアを開けようとしたが、その泣き声に押しとどめられたように、手を下ろした。泣き声を聞きつけて、母が部屋から出てくる。奈美と美桜の泣きはらした目を見た瞬間、母の眉間に皺が寄る。「晴香、これが、あなたのいけないところよ」口調はやさしいのに、その言葉はまるで裁きのようだ。「あなたはいつも感情に振り回されすぎるのよ。奈美は帰ってきたばかりなのに、少しは気を遣ってあげられないの?小さいころから変わらないわね。何かと心配ばかりかけて。奈美は違うのよ。昔から本当にしっかりしてた」何気なく放たれたその言葉は、ただの事実のように響いた、けれど、私の心の奥に深く裂け目を刻んだ。母の目に映る私は、いつだって「心配をかける子」だ。雅人は何度か口を開きかけたが、言葉は出てこなかった。うつむいたまま、誰を先に気遣うべきか迷っているように見える。部屋の空気が、ぴたりと止まった。その時、二階から、弟の高瀬直輝(たかせ なおき)が駆け下りてきて、奈美を見るなり目を輝かせた。「奈美!帰ってきたんだ!」彼は私をすり抜け、まっすぐ奈美の前へ走っていく。奈美は笑って直輝の頭を撫で、優しく言う。「直輝、立派な大人になったね」ようやく私に気づいた直輝の表情が、わずかに曇る。「晴香、なんでここにいるの?」その声には、無意識の警戒が滲んでいる。「晴香、もう奈美に当たるのはやめてよ。帰ってきたばかりなんだから」私は彼を見つめ、思わず笑ってしまった。その笑みには、少しの諦め
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第5話
夕食どきになっても、私は戻らなかった。母は少し不機嫌そうに言う。「晴香、どうしてまだ帰ってこないの?」直輝は横でゲームをしながら、顔も上げずに口を挟む。「わざとやってるんだよ。みんなの気分、下げたいだけ。母さん、放っときなよ。どうせすぐ帰ってくるから」父は眉をひそめ、箸を置いた。「どこへ行ったんだ。なんでまだ帰らない?雅人が探しに行ったんじゃないのか?どうしてまだなんだ」母は不機嫌を隠そうともせず言う。「さあね。どうせ雅人が迎えに行ったら、あの子はわざとぐずぐずしてるんでしょ。いい年して、まだ気を引こうとするなんて。雅人も雅人よ、どうしてまだ帰ってこないの?」誰も私のことを心配してはいなかった。みんなが気にしていたのは、逆に雅人の方だ。そのころの彼は、街じゅうを駆け回って、私を探していた。私を喜ばせようとして、わざわざオークションに出向き、高額のルビーのネックレスを競り落としたのだ。彼は私に伝えようと、電話をかけてくれたが、つながらなかった。彼はまた、私がよく行く場所をひとつひとつ回って探した。けれど、どこにも私の姿はなかった。最後に、彼は私の家へ向かった。「おじさん、おばさん、晴香は帰ってますか?」両親はきょとんとして首を振る。「帰ってないよ。あなたたち、二人一緒じゃなかったの?」雅人の顔色がさっと消え、震える声で言う。「い、いえ……どこを探しても見つからなくて。電話もつながらないし、彼女がよく行く場所は全部回りました。おじさん、おばさん、晴香に何かあったんじゃないでしょうか?」そのときになってようやく、両親は何かがおかしいと気づいた。二人の顔から血の気が引き、一瞬で真っ白になった。直輝も驚いて、手にしていたスマホを床に落とした。――それから丸一か月、私は姿を見せなかった。雅人は私を探し続け、みるみるやつれていった。田川家の人たちは次第に不満を募らせ、彼に婚約解消を説得し始める。彼らはもともと私を好んでおらず、私なんか雅人には釣り合わないと思っていたのだ。「雅人、晴香は一か月も姿を消しているのよ。どう考えても、わざとあなたを避けてるに決まってる」「まだ結婚もしていないのに、そんなだらしないことをして、この先どうするの?」「やっぱり
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第6話
雅人は自分の両親を説得できず、やむなく私の両親のところへ助けを求める。玄関に入るなり、美桜が駆け寄ってきて、両手を伸ばす。「雅人おじさん、やっと来た。美桜、ずっと会いたかったの!」けれど今の雅人の頭の中は私のことでいっぱいで、美桜に構う余裕などはない。そのままリビングに足を踏み入れると、散らかった部屋を見て、彼の表情が一気に険しくなった。「お父さん、お母さん」両親は彼をちらりと見ただけで、何も言わなかった。雅人は気にも留めず、部屋を見回す。すると、散らかったリビングの隅に、自分の部屋の毛布が放り出されているのが目に入った。それは、私が手編みで作り、彼がずっと大切にしていた毛布だ。けれど今は、リビングの隅に投げ出され、すっかり汚れていた。雅人はお手伝いさんをにらみつけ、声が冷たく響く。「誰が、俺の部屋の物を触っていいと言った?」その気迫に美桜が怯え、わっと泣き出す。音を聞きつけて直輝が駆け込んできた。彼は雅人をにらみつけ、むっと言う。「何怒鳴ってんだよ。美桜が怖がるだろ!」お手伝いさんはびくりと肩を震わせ、慌てて弁明する。「田川様、どうか誤解なさらないでください。朝倉奈美様がもう古いから捨ててしまえって、そうおっしゃったんです」その言葉に、雅人の視線が一気に冷え切る。くるりと向きを変え、奈美の部屋へ大股で向かう。ただならぬ気配を感じた直輝が、慌ててあとを追う。「おい、雅人!何するつもりだ!ここは俺の家だぞ!」雅人は勢いよくドアを押し開け、そして目に飛び込んできた光景に、怒りで体を硬直させる。奈美が、私のウェディングドレスを身にまとい、鏡の前でポーズを取っていたのだ。それは、私が雅人との結婚式のために自ら選び、特注で仕立てたものだ。なのに今、奈美の体に押しつけられるように着られている。背中のウエスト部分は、きつさに耐えきれず裂けている。奈美の体つきは私よりずっとふっくらしており、そのドレスは彼女にはまるで似合っていなかった。「奈美、何をしてるんだ?」奈美はびくりと体を震わせ、振り返る。「雅人?どうしてここにいるの?」雅人は冷ややかな目で彼女を睨みつけ、低く言い放つ。「何勝手にそのドレスを着てるんだ!今すぐ脱げ」奈美はしぶしぶといった
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第7話
雅人は破れたウェディングドレスを抱えたまま、私の部屋へ向かった。ドアを押し開けた瞬間、雅人はその光景に言葉を失った。私の部屋は、すでに子どものダンスルームへと作り替えられていた。壁一面には美桜の踊る姿の写真が貼られ、ピンク色のカーペットの上には彼女のダンスシューズやおもちゃが無造作に散らばっている。――私の持ち物は、すでに跡形もなく消えていた。雅人は目を見開き、信じられないものを見るように目の前の光景を見つめた。胸を押さえる。心臓のあたりに、鈍い痛みがじくじく広がる。――晴香は、この家でこんな扱いしか受けていなかったのだ。その瞬間、雅人はようやく気づいた――あのとき晴香が置き去りにされたとき、どれほど無力で、どれほど傷ついていたのかを。雅人はウェディングドレスを抱いたまま、ゆっくりと部屋を出た。リビングの前を通りがかると、直輝が彼に気づき、一瞬動きを止めた。雅人は冷ややかに視線を向け、低く言う。「直輝、晴香は本当に高瀬家の実の娘なのか?」その一言に、直輝の顔色がさっと曇った。そして、ようやく、直輝は晴香の部屋がダンスルームに変えられていたことを思い出した。好きではない姉だとしても、他人に踏みにじられるのは見過ごせない。自分の家のお手伝いさんにここまでさせたことが、情けなく感じる。直輝はお手伝いさんをにらみつけ、苛立ちを隠さずに言い放つ。「誰が晴香の部屋を勝手に触っていいって言ったんだ!」お手伝いさんはびくっとして顔をこわばらせ、慌てて言う。「高瀬直輝様、これは私の判断ではございません……朝倉奈美様のご指示で、高瀬晴香様はもうお戻りにならないし、空き部屋のままでは無駄だと」直輝は、部屋の中で慣れた足取りで踊っている美桜に目をやり、さらに顔を曇らせる。「美桜、毎日ここで踊ってるのか?」お手伝いさんはおびえたまま、こくりとうなずいた。「はい、そうです」そこへ、母と奈美が上がってくる。母は雅人を見るなり、顔を険しくした。「雅人、まだ帰ってなかったの?」そう言い終えた母は、ふと美桜のいる部屋に気づき、顔色がさっと変わる。そしてお手伝いさんに鋭い目を向け、苛立った声で言う。「ここ、晴香の部屋よ。誰の許可で勝手に改造したの?」母は奈美に視線を向ける。彼女
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第8話
雅人は、打ちのめされたままウェディングドレスを抱えて、高瀬家をあとにした。彼が去ると、高瀬家はいつもの静けさを取り戻した。――けれど私は戻らず、彼らのことにももう目を向けない。私は、幼いころ暮らしていた小さな町へ戻った。そこは、かつて私に深い傷を残した場所でありながら、どこか懐かしさも感じる場所だ。今の私はもう大人で、あのやせっぽちの子どもではない。この町の人たちはもう、昔人身売買でここへ連れてこられた小さな女の子のことなど、とうに忘れている。私は貯金で小さな庭つきの家を買い、ここで腰を落ち着けることにした。それから教員免許を取り、近くの小学校の教師になった。この町の人たちは素朴で温かく、子どもたちの笑顔もまっすぐで無邪気だ。この子たちと過ごす日々の中で、私は少しずつ過去の痛みを忘れていった。しばらくして、私は何気なくスマホを開くと、雅人からのメッセージが数えきれないほど届いていた。【晴香、どこにいるんだ?】【晴香、お願いだ、戻ってきてくれ】【晴香、俺が悪かった。もう一度だけ、チャンスをくれ】……画面に並ぶメッセージを見ても、私の胸の奥は何の波も立たない。そして最後に、一言だけ送った。――【雅人、私たち、別れよう】メッセージを送り終えると、私はSIMカードを外して、そのままゴミ箱に捨てた。それからもう、外の世界のことには一切目を向けなかった。子どもたちと過ごす毎日が、私にこれまでにない静けさを与えてくれた。三年後。私はこの町で、平凡で穏やかな日々を送っている。――彼に出会うまでは。彼の名は藤堂慎哉(とうどう しんや)。穏やかで知的な雰囲気をまとい、近所の本屋の店主だ。その日、私は本を買いに彼の店を訪れた。ふいに、彼と目が合った。彼は私に気づいた瞬間、ほんの一瞬、見とれたような表情を浮かべ、すぐに丁寧に声をかけてくる。「いらっしゃいませ」私は微笑んでうなずき、軽く言葉を交わして、そのまま店をあとにした。それからというもの、私はよくその本屋に通うようになった。行くたびに彼がいた。こうして、少しずつ親しくなり、気がつけば、私たちは何でも話せる友人になった。慎哉は物知りで優しく、細やかな気遣いのできる人だ。彼と過ごす時間は、驚くほど楽で息がしやすい。
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第9話
田川家を出ると、私は思いがけない顔に出くわした。――直輝だ。あの頃のチャラついた感じはもうなくて、今の彼はすっかり落ち着いた大人になっている。私に気づくと、彼は一瞬だけ驚いた目をして、すぐに笑みを浮かべる。「晴香、帰ってきたんだ。なんだか前よりきれいになってて、最初は気づかなかったよ」私はふっと笑った。「直輝、あなたも変わったね」直輝は頭をかき、少しばつが悪そうに言う。「いろいろあってさ。まあ、少しは成長したつもりだ」そして、私をちらりと見て、ふいに口を開く。「晴香、一度家へ寄っていかない?父さんと母さん、ずっと会いたいってさ」私はハッとしたが、すぐにうなずいた。「うん」もともと一度は顔を出して、無事を伝えるつもりでいた。直輝と一緒に家へ戻ると、玄関先が騒がしい。「お願い、中に入らせてください。私、本当に反省しているの!」――奈美の声だ。彼女は玄関先で拒まれても、なお食い下がっている。奈美は私を見るなり、目に怨みを宿して吐き捨てる。「晴香、何しに戻ってきたの?あんたなんか、もうここにいない方がいい!」直輝は眉をひそめ、私の前に立つ。「いい加減にしろ。あのときあんなことしておいて、今さらここで騒ぐな」奈美は歯を食いしばって黙り込む。直輝は軽く手を振り、警備員を呼んだ。「彼女を外に出してくれ。もう一度騒ぎを起こすようなら、警察を呼べ」警備員がすぐに前へ出て、奈美を強引に外へ連れて行った。直輝は私に向き直り、説明する。「晴香、あなたは知らなかっただろう。あなたが去っていったあとも、彼女は、まだ雅人と結婚しようとしていた。食事にまで薬を混ぜて、既成事実を作るつもりだったんだ。でも、母さんが誤って口にしてさ……危うく命を落とすところだった。幸い、命を取りとめた。うちはもう彼女と縁を切って、彼女を家から追い出した」私は思わず息をのんだ。まさか、奈美がそんなことまでしていたなんて。けれど、それももう私には関係のないことだ。「晴香、気にしなくていい。入ろう」直輝はそう言って、私の手を取ると、家の中へ入った。父と母は、私の姿を見るなり感情を抑えきれず、駆け寄ってきた。「晴香、やっと帰ってきたのね!」母は私の手を取り、顔から
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第10話
雅人は、どこからか、私が結婚するという話を聞きつけたらしい。そして再び、私の前に現れる。「晴香、結婚するって、本当なのか?」彼は悲しげな表情を浮かべ、絶望の色を宿した目で私を見つめる。「もう一度だけ、チャンスをくれないか?二度と同じ過ちはしない。約束する」私は彼を見つめて、心は少しも揺れなかった。「雅人、私たちはもう戻れないよ。私にはもう婚約者がいるの。あなたとやり直すことはない」雅人は呆然としたままうつむき、かすれた声で問う。「そんなに俺のことが憎いのか?」私は小さくため息をつき、首を振る。「憎んでなんかいないわ。ただ、もう愛していないだけ」長い沈黙ののち、雅人はゆっくりと顔を上げた。「そうか。幸せになってくれ」それだけ言うと、彼は背を向けて歩き出した。遠ざかる背中に、どうしようもない寂しさが漂っている。そのあと、藤堂家の後継者がまもなく婚約式を挙げるという知らせが瞬く間に広がった。周りの人々はようやく、私が藤堂家の奥様になると知ったのだ。かつて私を見下していた人たちまでが、両親に祝辞を寄せた。けれど、私はすでに別荘を出ていた。あの家とは、もう線を引いたのだ。婚約式当日。私は白いドレスに身を包み、慎哉の腕に手を添えて来客を迎えている。図々しくも、両親は現れた。「晴香、おめでとう」私は無表情のまま「ありがとう」とだけ答える。招待状のない二人は、すぐに警備員に止められた。「申し訳ありません。ご招待状のない方はお通しできません」両親は取り乱したように、私の方を振り向く。「晴香、私たちはあなたの親なのよ!どうして中に入れてくれないの?」私は二人を見つめ、淡々と告げた。「私たちはもう、ずっと前に縁を切ったはずよ。悪いけど、あなたたちのことなんて知らないわ」そう言って、私は慎哉の腕に手を添え、そのまま会場へと歩み入った。式は滞りなく進み、慎哉は私の指に婚約指輪をはめてくれる。「晴香、これからもずっと愛してる」私は彼を見つめ、自然と笑みがこぼれる。「私も、あなたを愛している」式のあと、私は慎哉とともに藤堂家へ戻った。藤堂家の人たちは温かく私を迎え入れ、まるで本当の家族のように扱ってくれた。慎哉もまた私のことを尊重してくれてい
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