LOGIN婚姻届を出す数日前、友人たちが盛り上がって「人生のブラインドボックス」というゲームをすることになった。 男性陣がそれぞれプレゼントを用意し、それを女性陣へランダムに配るという趣向だ。 これが一番公平だと、皆が口を揃えて言う。 だが、私が開けた箱の中にあったのは、薄っぺらいカードが1枚だけ。 【ご参加ありがとうございました】 その場が一瞬静まり返ったあと、誰かが耐えきれずに吹き出した。 婚約者の黒川隼人(くろかわ はやと)は、私の頭を優しく撫でながら言った。 「相変わらずくじ運が悪いな」 幼馴染の神谷哲(かみや てつ)も声をひそめて囁いた。 「笑えよ。ノリが悪いと思われるぞ」 同じラウンドで、橘透子(たちばな とうこ)はシークレット賞を引き当てた。 箱の中身は、隼人が自ら選んだピンクダイヤモンドのネックレス、私が3年間ずっと憧れていた南の島のペア旅行チケット、そして哲が添えたメッセージカードがある。 【これからも、皆でずっと君を守るよ】 私は二人に合わせるように笑い、そのカードを空の箱に戻した。 くじ引きなんて、運次第なのだから。 洗面所へ向かう途中、控え室から司会者が確認する声が聞こえてくるまでは、ずっとそう思っていたのだ。 「黒川様、さっきの配り間違いじゃなかったですよね? シークレット賞は橘さんへ、残念賞は桜井さんへ……」 隼人は短く「ああ」と応じた。 哲が笑いながら口を挟んだ。 「それでいい。彼女なら勝手に自分で折り合いをつけるさ」 扉の外に立ち尽くしながら、私はふと18歳のあの夜を思い出した。 成人式の夜、雨の中で零時の花火を待っていたときのことだ。 隼人と哲は、たった1本の傘を透子に差し出し、振り返って私にこう言ったのだ。 「南、君は家が近いんだから、走って帰ればすぐだろ」 あの日、ずぶ濡れで帰宅した私は「運が悪かっただけ」と自分に言い聞かせ、彼らを庇った。 だが今夜、ようやく悟ったのだ。 あの傘は、最初から私に差し出されるつもりなんてなかったのだと。 だから私は、あの残念賞のカードをビリビリに破り捨て、もう婚姻届を提出しないと決めた。 彼らが仕組んだこのゲームから、私がもう降りさせてもらう。
View More高速バスのドアが閉まると、隼人が少し追いかけてきた。哲も同じように、後を追った。けれど、バスはそのまま走り去った。窓際に座った私は、一度も振り返らなかった。車窓の外で、二人の姿がみるみる小さくなっていく。まるで雨に洗われて色あせていく古い写真のようだ。私は視線を落とし、イヤリングのケースを開いた。パールは、そこにあった。ただ、その一粒の表面に少し傷が入っている。指の腹でそっと触れてみると、胸の奥は、今もまだ痛んでる。けれど、耐えられない痛みではない。人は誰しも、幾ばくかの傷を抱えながら前へ進んでいくものだ。同じ場所に立ち尽くし、同じ刃物で何度も切り刻まれることさえしなければ、それでいい。南段市に到着した頃には、すっかり日が暮れていた。新しい会社の同僚が出迎えに来てくれていた。山田遥(やまだ はるか)という名の、丸顔の可愛らしい女の子だ。スーツケースを引いてる私を見つけると、彼女はすぐに駆け寄って手を貸してくれた。「桜井課長ですよね? ようこそお越しくださいました! お疲れじゃなかったですか? 温かいミルクティー買ってきたんです」手のひらに温かいミルクティーをそっと手渡され、私は呆気にとられた。遥は照れくさそうに笑った。「お好きなものがわからなかったので、一番オーソドックスなものにしちゃいました」私は手元にあるミルクティーを見つめた。立ち上る湯気が目に沁みて、目頭が熱くなった。誰かに執着するほど愛されなくても、雨の夜にそっと温もりを分け与えてくれる人はいるのだ。私は口元を緩めた。「ありがとう」入社初日、私はイヤリングを引き出しの奥に鍵をかけて仕舞い込んだ。二日目、小さなアパートを借りた。三日目、隼人と哲の連絡先をすべてブロックした。一ヶ月後、私のもとに宅配便が届いた。差出人の名はなかった。箱の中には、一枚のキャッシュカードと振込明細書、そして一本の古い傘が入っていた。18歳のあの夜、二人が透子のために差しかけていたあの傘だ。傘の生地はすっかり古び、持ち手には亀裂が入っていた。中に一枚の紙が挟まれていた。哲の筆跡だった。【南、ごめん。あの日、本当は振り返って君を見かけていたんだ。でも透子が泣いて怖がっていたから、迎えに行けなかっ
私は南段市行きの始発の高速バスに乗り込んだ。古びた車体で、座席も少し硬い。窓の隙間から冷たい風が吹き込んできた。それでも窓際に腰を下ろした私は、これまで味わったことのないように心が軽かった。バッグの中には、新しい採用通知書が入っている。南段市にある文化関連の会社で、総務課長職だ。給料はそれほど高くはない。けれど、一人で生きていくには十分だ。何よりそこには、隼人も哲もいない。私が傷ついた時に「大目に見ろ」と諭してくる人も、誰一人としていないのだ。バスが街を抜ける頃、雨が上がった。雲の切れ間から、温かな日差しがこぼれ落ちてくる。窓の外を眺めながら、私はふと遠い昔のことを思い出していた。かつて隼人が私にこう尋ねた。「南、君はどうしてそんな小さなことで満足できるんだ?」あの時、彼が温かいコーヒーを買ってくれたのだった。私はそれを両手で大切そうに抱え、まるでとびきり上等なプレゼントをもらったかのように嬉しそうに飲んでいた。確かにあの頃の私は、簡単に満足してしまう人だった。ほんの少しの優しさ、覚えていてくれた一言、一度だけ振り返ってくれた視線など、その程度のことで、何年も自分を納得させ続けることができたのだから。バスがパーキングエリアに停車したため、水を買いに車を降りた。コンビニの入口に差し掛かったその時、背後から声をかけられた。「南!」振り返ると、数メートル離れた場所に隼人が立っていた。スーツはしわくちゃで、髪は風に乱れ、その目は痛々しいほど血走っていた。そして、哲の姿もあった。彼の手には、私の名前が刻まれたあの黒い傘を握りしめている。二人は私を見つけると、まるで失ったものをようやく見つけ出したかのような顔をした。隼人が一歩一歩近づいてくる。その声は震えている。「南、イヤリングが見つかったんだ」彼が手を開いた。手のひらには、あのパールのイヤリングが静かに横たわっていた。私はそれを見つめていると、不意に目頭が熱くなった。隼人のためではない。母のためだ。私は手を伸ばしてイヤリングを受け取り、大切にケースの中へ収めた。「ありがとう」その一言が、鋭い針のように隼人の胸に深く突き刺さった。「南、頼むからそんなよそよそしい言い方をしないで」私は顔を上げ、
哲は南の住んでいたマンションまで行き、そこで管理人を見つけた。南はすでに解約手続きを終えていた。管理人の話では、彼女が立ち去ったのは夜が明ける前で、荷物はスーツケース一つしか持って出なかったらしい。哲は誰もいないがらんとした部屋に立ち、ベランダに取り残された片方だけの白い靴下を見つめた。小ぶりな靴下が、風にゆらゆらと揺れている。彼はふと、何年も前のことを思い出した。あの頃、南はいつも彼らの後ろをついて歩いていた。隼人の足が速いから、南は小走りで追いかけて来た。見かねる哲が立ち止まって待ってくれると、南は弾ける笑顔で、「哲ちゃん、やっぱり一番優しいね」と言った。けれど、透子がやって来てからすべてが変わった。彼女は涙を流したり、暗闇を恐れたり、怯えて震えながら「不安でたまらない」と訴えたりしていた。それから、誰もが南にこう言い聞かせるようになった。「南、譲ってあげなさい」「南は強いんだから我慢できるだろ」「南、いちいち気にするな」哲もそういう風に言ってるんだ。何度も何度も口にするうちに、彼自身すらそれを信じ込んでしまったのだ。南が傷つくことなど、決してないと。管理人が物置から古びた紙袋を取り出してきた。「桜井さんが昨夜部屋を引き渡す際に置いていかれたものです。もしどなたかが訪ねてきたら、神谷さんという方にお渡しするようにと」哲はかすかに震える手でそれを受け取った。紙袋に入っていたのは、たった一枚の写真だ。18歳の誕生日を迎えたあの夜のものだ。背景には夜空に広がる大輪の花火がある。隼人と哲が、透子を左右から守るように寄り添っている。二人は、たった一本の傘を彼女のために差していた。そして写真の隅っこで、南は雨の中に立ち、皆のために買ってきたケーキを抱えていた。スカートの裾はびしょ濡れで、濡れた髪が頬に張り付いて、作ったような笑顔を浮かべていた。写真の裏には、南が書いた文字は残されていた。【哲ちゃん、あの日、本当は私の家、近い所ではなかったの。家に着くまで、半時間も雨の中を走ったんだ。その後39度の高熱を出して、隣のおばさんが病院へ連れて行ってくれた。二人に言わなかったのは、透子ちゃんが雷を怖がっているって言っていたから】哲の目から溢れ出た涙が、
ホテルの控室は、すでに混乱の渦中にあった。隼人はスタッフに指示し、メイクルームの隅々まで探させていた。透子はずっと泣き続けていた。泣きすぎて、最後には声まで掠れていた。「隼人……私、本当に取っていないの。どうして南さんは、そこまで私を疑ってるの?」昔なら、彼女がこうして涙を流せば、隼人は必ず許してあげる。けれど今日の彼は、ただメイク台の前に立ち、冷たい目で透子を見つめていた。「最後に一度だけ聞く。イヤリングはどこだ?」透子の涙が、一瞬止まった。哲が眉をひそめてる。「隼人、やめろよ。透子は気が弱いんだ」すると隼人は、ふっと笑った。「気が弱い?」彼はテーブルの上に置かれていた進行資料を手に取り、そのまま哲の胸元へ叩きつけた。「気が弱いなら、南の結婚式を自分のための舞台みたいに変えたのか?気が弱いなら、南の母親の形見を着けて撮影したのか?気が弱いなら、控室で南に謝らせたのか?」資料をぶつけられた哲は、半歩後ろへよろめいた。険しい表情のまま、低く言った。「それ、全部お前が許したことだろ」その一言で、隼人はその場に凍りついた。ああ、そういえばそうだ。全部、自分が認めたことだった。結婚式の内容を変えたのも、イヤリングを透子に渡したのも、ブラインドボックスの件も、黙認したのはすべて自分だった。南なら、きっと我慢するって隼人はずっと思っていた。傷ついても、自分で折り合いをつける。でも、彼は忘れたのは、人がいつまでも、自分で折り合いをつけるわけじゃない。我慢する気がなければ、もう二度と譲ることもないのだ。その時、ホテルスタッフが慌てた様子で控室へ駆け込んできた。「黒川様、見つかりました」彼女の手には、透明な密封袋が握られていた。中に入っていたのは、あのパールイヤリングだった。隼人が手を伸ばしたが、その指先はひどく震えていた。スタッフは小さな声で告げた。「橘様のメイクポーチの内ポケットから見つかりました」控室が静まり返った。透子の顔から、一瞬で血の気が引いた。「違う……私じゃない……どうしてそこに入っていたのか、私にも分からないよ」隼人は、ただ彼女を見つめた。その視線はあまりにも冷たく、透子は泣くことすら忘れていた。哲もまた