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愛の「ブランドボックス」

愛の「ブランドボックス」

By:  狐坂Completed
Language: Japanese
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婚姻届を出す数日前、友人たちが盛り上がって「人生のブラインドボックス」というゲームをすることになった。 男性陣がそれぞれプレゼントを用意し、それを女性陣へランダムに配るという趣向だ。 これが一番公平だと、皆が口を揃えて言う。 だが、私が開けた箱の中にあったのは、薄っぺらいカードが1枚だけ。 【ご参加ありがとうございました】 その場が一瞬静まり返ったあと、誰かが耐えきれずに吹き出した。 婚約者の黒川隼人(くろかわ はやと)は、私の頭を優しく撫でながら言った。 「相変わらずくじ運が悪いな」 幼馴染の神谷哲(かみや てつ)も声をひそめて囁いた。 「笑えよ。ノリが悪いと思われるぞ」 同じラウンドで、橘透子(たちばな とうこ)はシークレット賞を引き当てた。 箱の中身は、隼人が自ら選んだピンクダイヤモンドのネックレス、私が3年間ずっと憧れていた南の島のペア旅行チケット、そして哲が添えたメッセージカードがある。 【これからも、皆でずっと君を守るよ】 私は二人に合わせるように笑い、そのカードを空の箱に戻した。 くじ引きなんて、運次第なのだから。 洗面所へ向かう途中、控え室から司会者が確認する声が聞こえてくるまでは、ずっとそう思っていたのだ。 「黒川様、さっきの配り間違いじゃなかったですよね? シークレット賞は橘さんへ、残念賞は桜井さんへ……」 隼人は短く「ああ」と応じた。 哲が笑いながら口を挟んだ。 「それでいい。彼女なら勝手に自分で折り合いをつけるさ」 扉の外に立ち尽くしながら、私はふと18歳のあの夜を思い出した。 成人式の夜、雨の中で零時の花火を待っていたときのことだ。 隼人と哲は、たった1本の傘を透子に差し出し、振り返って私にこう言ったのだ。 「南、君は家が近いんだから、走って帰ればすぐだろ」 あの日、ずぶ濡れで帰宅した私は「運が悪かっただけ」と自分に言い聞かせ、彼らを庇った。 だが今夜、ようやく悟ったのだ。 あの傘は、最初から私に差し出されるつもりなんてなかったのだと。 だから私は、あの残念賞のカードをビリビリに破り捨て、もう婚姻届を提出しないと決めた。 彼らが仕組んだこのゲームから、私がもう降りさせてもらう。

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第1話
部屋に戻ると、透子はすでに皆に囲まれ、写真撮影の中心になっていた。胸元にはピンクダイヤモンドのネックレスが輝いている。まるで、誰かの想いを閉じ込めた一粒の涙のようだった。誰かが面白半分に声を上げた。「隼人、このシークレット賞は豪華すぎない?何も知らない人が見たら、今日プロポーズする相手って透子ちゃんだって勘違いされるぞ」その言葉に、透子はすぐに目を潤ませた。「やめてよ……南さんが嫌な気分になっちゃうわ」彼女がそう言った瞬間、周囲の視線が一斉に私へ向いた。隼人は私が戻ってきたことに気づくと、ほんの少し眉を動かした。「そんなところで何してるんだ?知らない人が見たら、まるで俺たちにいじめられたみたいじゃないか」私は彼を見つめ、なぜか、急におかしくなってしまった。傷ついているのは、私のほうなのに、ただ黙っているだけで、まるで私がわがままを言っているみたいに扱われている。だから、私はその場から動かなかった。隼人は眉間にわずかに皺を寄せた。すると哲が先に立ち上がり、私の前まで歩いてきた。彼は穏やかな顔立ちで、いつも優しく笑っているように見える。18歳になるまで、哲だけは、絶対に私を傷つけたり、恥をかかせたりしない人だと思っていた。でも今、彼は私を見下ろしながら、声を落として言った。「南、こんな時に隼人を困らせるなよ」私は彼を見る。「私、何か言った?」哲は一瞬、言葉に詰まった。すると透子はネックレスを握りしめ、さらに涙をこぼした。「南さん……だったら、このネックレス返すね。私、本当は受け取っちゃいけなかったんだよね」彼女が首元のネックレスに手を伸ばした瞬間、隼人が口を開いた。「そのままでいい」そして隼人は私を見た。「引いた人のものだろ」私は小さく笑った。その瞬間、部屋が静まり返った。隼人の表情も少しずつ冷たくなっている。哲が眉をひそめた。「南、ただのゲームだろ。わざわざこんな空気にする必要あるのか?」そして彼は透子の前に立った。声は相変わらず優しい、でも、その言葉はまるで私の胸を深くえぐるようだった。「透子は昔から不安になりやすいんだ。やっと楽しそうにしてるのに、少しくらい譲ってやれないのか?」また、その言葉だ。私は思
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第2話
翌日の午前、私は一人でドレスショップへ向かった。店員がドレスカバーからウェディングドレスを取り出した瞬間、その目を輝かせた。「桜井様、本当にお似合いです。黒川様は今日いらっしゃいますか?」私は少し迷ってから答えた。「来てくれると思う」それが、私が隼人を信じて言えた最後の言葉だった。けれど、10時になっても彼は来なかった。10時半になると、彼の秘書からメッセージが届いた。【桜井様、黒川社長は急な予定が入ってしまい、本日は伺うことが難しくなりました】私は隼人に電話をかけた。何度か鳴ったあと、彼はようやく電話に出た。けれど、電話の向こうから聞こえてきたのは、透子の涙を堪えるような声だった。「南、俺は今病院にいる」私はスマホを固く握りしめた。「どうしたの?」「俺じゃない。透子が……昨日のネックレスでアレルギーが出たんだ。首が腫れてる」私は自分が着ているウェディングドレスを見下ろした。ウエストはきつく締められ、息苦しいほどだった。「今日は私たちのドレス試着の日だよね」電話の向こうが、一瞬静かになった。そして隼人は小さく息を吐いた。「南、透子と張り合うなよ。明日、俺と婚姻届を出す相手は君だ。結婚式で隣に立つのも君だろ。透子はただ具合が悪いから、俺が少し付き添うくらいだけだ。君はそれだけの余裕も持てないのか?」喉の奥が、何かで塞がれたようだった。その時、店員が一つの箱を抱えてこちらへ歩いてきた。「桜井様、黒川様からのお届け物です」箱の中に入っていたのは、淡いベージュ色のサテン生地のウェディングシューズだ。ヒールは低く、かかとには靴擦れ防止のパッドまで貼られている。その横には、一枚のカードが添えられていた。【かかと、すぐ靴擦れするだろ。高いヒールは履くなよ】私はそのカードを握りしめ、胸が締め付けられるようだった。まだ、覚えていてくれたんだ。18歳の頃、初めてヒールを履いた日、かかとは擦れて、血が滲むほどだった。電話の向こうで、隼人の声が少し柔らかくなる。「靴、届いたか?」「うん」私が答えると、彼はまるで子供をあやすように言った。「いい子にしてろ。夜には帰って、一緒に飯を食うから」私が返事をする前に、透子の声が聞こえた。「隼人
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第3話
翌日、それでも私は役所へ向かった。彼が本当に来るのかどうか、自分の目で確かめたかったからだ。午前9時15分、道路の向かいに、隼人の車が停まった。ドアが開いた瞬間、張り詰めていた気持ちが少しだけ緩んだ。私は無意識に髪を整えた。もし彼が「南、待たせたな」と言ってくれるなら、昨夜の悲しみも、きっともう一度だけ我慢できると思う。けれど、その時、隼人のスマホが鳴った。彼は電話に出た。向こうの透子から何を言われたのかは分からない。ただ、隼人の表情が変わった。次の瞬間、彼は振り返り、そのまま車へ戻っていく。ドアが閉まる音は小さかったのに、なぜか胸の奥にドスンと重く響いた。10分後、透子がSNSを更新した。【一人になりたくないって言ったら、本当に戻ってきてくれた】投稿された写真には、点滴を受ける透子の手を、隼人が握っている姿が写っていた。9時40分、哲が役所へ駆けつけた。車から降りた彼は、明らかに寝不足の顔をしていた。「もう待たなくていい。隼人は今日は来られない」私は彼を見た。「隼人なら、さっき見たわ」哲は一瞬、言葉を失った。口を開いて何か言おうとして、結局こういった。「透子のアレルギーが昨夜から何度もぶり返してるんだ。精神的にも不安定だから、刺激を与えちゃいけないんだ」私は静かに聞いた。「じゃあ、私は刺激を受けてもいいわけ?」哲は眉をひそめた。「南、そういう言い方するなよ」彼は私に近づき、なだめるような声で続けた。「君には結婚式もあるし、ちゃんと黒川夫人になるんだろ。だけど透子には何もないんだ。頼れる家族だっていない。ただ、俺たち友達がいるだけだ」私は何も言わず、必要な書類をしまった。そして、その場を後にしようとした。哲が私の腕を掴んだ。「どこへ行くんだ?」「ウェディングサロンよ」哲は少し安心したように息を吐いた。「流れを確認するだけだよな?」私は小さく頷いた。すると、哲の表情が少し和らいだ。「それでいいんだ。せっかくの日をめちゃくちゃにするなよ。じゃなきゃ後で後悔するのは南なんだから」ウェディングサロンへ向かうと、担当プランナーの表情がどこか気まずそうだった。彼女は恐る恐る、披露宴会場の演出資料を私に見せた。画面に映
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第4話
夜11時になっても、隼人は帰ってこなかった。私は新居のリビングに座り、結婚式の進行表を最初から最後まで確認していた。私の名前が記されていたのは、たった2箇所だけだった。この結婚式は、もう私と隼人のためのものには見えなかった。午前1時、玄関の鍵が開く音がした。隼人が帰ってきた、消毒液の匂いをまとったまま。私がまだ起きているのを見ると、眉をひそめた。「まだ寝てなかったのか?」私は彼を見た。「イヤリングは?」ネクタイを緩めようとしていた隼人の手が止まった。「透子、明日の朝も撮影があるんだ。だから、まだ彼女が持ってる」私は立ち上がった。「今すぐ返して」隼人の表情が険しくなった。その目から、少しずつ我慢の色が消えていく。「桜井南。明日、俺が結婚する相手は君だ。一体、他には何を求めているんだよ」私は答えた。「私のものを返してほしいだけ」すると隼人は、ふっと冷たく笑った。声は小さい。けれど、その言葉には隠しきれない傲慢さがあった。「透子は少し着けてみただけだろ?南、そこまで欲張るなよ」私は呆然と彼を見つめた。そうか。隼人にとって、母の形見を取り戻したいと思うことは、欲張りなことだったんだ。その時、哲から電話がかかってきた。声は焦っていた。「隼人、大変だ。透子が……イヤリングをなくした」私の体が強張った。30分後。私たちはホテルの控室へ向かった。透子は隼人のジャケットを羽織り、メイク台の前に座っていた。目は泣き腫らして赤くなっている。化粧台の上は荒れていた。けれど、そこにあるはずのパールイヤリングだけがなかった。私はメイク担当者に尋ねた。「防犯カメラの映像は?」彼女は俯いた。「午後から故障していて……」なんて都合がいいのだろう。私は透子を見詰めた。「返して」透子の目から、すぐに涙がこぼれ落ちた。「南さん、私本当に取ってない」「なら警察に通報する」その瞬間、透子の顔色が変わった。そして突然、窓へ向かって走り出して、飛び降りようとした。「全部私が悪いの!南さんの大切なものなのに、触ったりしなければよかった……もう……消えたほうがいいよね!」隼人がすぐに彼女を抱き止めた。哲も慌てて駆け寄る。二人は左右から透子を守る
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第5話
その言葉が聞いた瞬間、隼人の手から指輪のケースが滑り落ちた。カタン、と乾いた音が響いた。中に入っていたペアシェイプのダイヤモンドが転がり、彼の革靴の先にぶつかった。哲の顔に浮かんでいた笑みも固まった。「今、なんて言った?」責任者は隼人の表情に怯え、慌ててタブレットを差し出した。「本日の午前4時頃、桜井様ご本人からお電話があり、すべての手配をキャンセルされました。ホテルの披露宴、会場装飾、撮影、演奏、フラワーアレンジメント……すべて中止になっています。それから、黒川様が了承されない場合は、違約金の請求先を桜井様個人にしてほしいと……」隼人は画面を見つめ、キャンセル確認者の欄には、はっきりと桜井南という名前が記されていた。時刻は、午前4時17分だった。隼人はようやく状況を理解したように、すぐスマホを取り出し、南へ電話をかけた。しかし返ってきたのは、無機質な音声だけだ。【おかけになった電話への通話はお繋ぎできません】何度かけても、同じだった。隼人の顔から、完全に血の気が引いた。「南はどこにいる?」誰も答えられなかった。ホテルの入口には、すでに招待客が少しずつ集まり始めていた。隼人の母親・黒川香里(くろかわ かおり)が、深紅の和装の礼服姿で現れた。彼女は途中まで撤去されたウェルカムボードを見るなり、顔色を変えた。「隼人……これはどういうこと?」隼人が答えるより先に、透子が控室から駆け出してきた。首元にはまだガーゼが貼られていて、目も赤く腫れていた。「隼人、南さんはまだ私のこと怒ってるのかな……」彼女が声を上げた瞬間、隼人の母親の視線が彼女へ向いた。そして、透子が着ているブライズメイドドレスを見た瞬間、さらに表情が険しくなった。「今日は隼人と南の結婚式でしょう?どうして彼女が花嫁みたいな格好をしているの?」透子の体がわずかに強張った、哲は反射的に彼女を庇おうとした。けれど、隼人は動かなかった。ただ、撤去途中のウェルカムボードを見つめていた。そこに写っている写真は、南は一番端に立っていた。透子は隼人の腕に手を絡めている、まるで本当の花嫁のように笑っている。その瞬間になって、隼人は初めて気づいた、この写真が、こんなにも不自然だったか。昨日まで
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第6話
私は墓園へ向かう途中で、スマホを再起動した。画面が点いた瞬間、通知が次々と表示された。隼人から、哲から、そして黒川おばさんからのメッセージが届いた。私は一つも開かなかった。運転手がバックミラー越しに私を見た。「お客様、今日は結婚式ですか?」私は膝の上に置いたベールを見つめた。これは昨日、ドレスショップの店員が追いかけてきて、渡してくれたものだった。本当は捨てるつもりだった。でも、結局持ってきてしまった。このベールは、私自身が選んだものだったから。本当は、隼人の花嫁になりたかった。それに結婚式の誓いの言葉だって、彼に内緒で何度も書き直した。「はい、誓います」という言葉を、少しだけ優しく言いたかった。じゃないと、自分が泣き出してしまうだろう。墓園の入口に着いた頃、また雨が降り始めた。私には傘がない。18歳のあの夜も、そして今日も依然として傘がない。でも、もう立ち尽くして誰かが戻ってくるのを待つことはなかった。私はベールを抱え、一段ずつ階段を上った。母の墓石は、雨に洗われて綺麗になっていた。私はしゃがみ込み、ベールを墓前に広げた。「お母さん……ごめんね」声にした瞬間、喉が詰まった。「お母さんのイヤリング……守れなかった。結婚式も、なくなっちゃった」頬を伝う水滴が、雨なのか涙なのか分からなかった。「でも……お母さん。もう、私には無理。今日さえ乗り越えれば、やっと私にも帰る場所ができるって思ってた。でも……あの人たちは、お母さんの形見を他の人につけさせて、私の結婚式を三人の思い出みたいに変えて。私が傷ついたことまで、わがままだって言われた」私は冷たい墓石に額を押し当てた。「お母さん……私、結婚することをやめた。許してね」その時、スマホがまた震えた。今度は隼人だ。私は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。そして、ゆっくり通話ボタンを押した。電話の向こうは、ひどく騒がしかった。まるで結婚式会場が混乱しているようだった。それでも、隼人の声だけは低く震えているように聞こえた。「南……どこにいる?」私は答えなかった。すると、彼は焦ったように続けた。「結婚式は中止にした。写真も全部撤去させた。イヤリングも、今探してる。戻っ
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第7話
ホテルの控室は、すでに混乱の渦中にあった。隼人はスタッフに指示し、メイクルームの隅々まで探させていた。透子はずっと泣き続けていた。泣きすぎて、最後には声まで掠れていた。「隼人……私、本当に取っていないの。どうして南さんは、そこまで私を疑ってるの?」昔なら、彼女がこうして涙を流せば、隼人は必ず許してあげる。けれど今日の彼は、ただメイク台の前に立ち、冷たい目で透子を見つめていた。「最後に一度だけ聞く。イヤリングはどこだ?」透子の涙が、一瞬止まった。哲が眉をひそめてる。「隼人、やめろよ。透子は気が弱いんだ」すると隼人は、ふっと笑った。「気が弱い?」彼はテーブルの上に置かれていた進行資料を手に取り、そのまま哲の胸元へ叩きつけた。「気が弱いなら、南の結婚式を自分のための舞台みたいに変えたのか?気が弱いなら、南の母親の形見を着けて撮影したのか?気が弱いなら、控室で南に謝らせたのか?」資料をぶつけられた哲は、半歩後ろへよろめいた。険しい表情のまま、低く言った。「それ、全部お前が許したことだろ」その一言で、隼人はその場に凍りついた。ああ、そういえばそうだ。全部、自分が認めたことだった。結婚式の内容を変えたのも、イヤリングを透子に渡したのも、ブラインドボックスの件も、黙認したのはすべて自分だった。南なら、きっと我慢するって隼人はずっと思っていた。傷ついても、自分で折り合いをつける。でも、彼は忘れたのは、人がいつまでも、自分で折り合いをつけるわけじゃない。我慢する気がなければ、もう二度と譲ることもないのだ。その時、ホテルスタッフが慌てた様子で控室へ駆け込んできた。「黒川様、見つかりました」彼女の手には、透明な密封袋が握られていた。中に入っていたのは、あのパールイヤリングだった。隼人が手を伸ばしたが、その指先はひどく震えていた。スタッフは小さな声で告げた。「橘様のメイクポーチの内ポケットから見つかりました」控室が静まり返った。透子の顔から、一瞬で血の気が引いた。「違う……私じゃない……どうしてそこに入っていたのか、私にも分からないよ」隼人は、ただ彼女を見つめた。その視線はあまりにも冷たく、透子は泣くことすら忘れていた。哲もまた
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第8話
哲は南の住んでいたマンションまで行き、そこで管理人を見つけた。南はすでに解約手続きを終えていた。管理人の話では、彼女が立ち去ったのは夜が明ける前で、荷物はスーツケース一つしか持って出なかったらしい。哲は誰もいないがらんとした部屋に立ち、ベランダに取り残された片方だけの白い靴下を見つめた。小ぶりな靴下が、風にゆらゆらと揺れている。彼はふと、何年も前のことを思い出した。あの頃、南はいつも彼らの後ろをついて歩いていた。隼人の足が速いから、南は小走りで追いかけて来た。見かねる哲が立ち止まって待ってくれると、南は弾ける笑顔で、「哲ちゃん、やっぱり一番優しいね」と言った。けれど、透子がやって来てからすべてが変わった。彼女は涙を流したり、暗闇を恐れたり、怯えて震えながら「不安でたまらない」と訴えたりしていた。それから、誰もが南にこう言い聞かせるようになった。「南、譲ってあげなさい」「南は強いんだから我慢できるだろ」「南、いちいち気にするな」哲もそういう風に言ってるんだ。何度も何度も口にするうちに、彼自身すらそれを信じ込んでしまったのだ。南が傷つくことなど、決してないと。管理人が物置から古びた紙袋を取り出してきた。「桜井さんが昨夜部屋を引き渡す際に置いていかれたものです。もしどなたかが訪ねてきたら、神谷さんという方にお渡しするようにと」哲はかすかに震える手でそれを受け取った。紙袋に入っていたのは、たった一枚の写真だ。18歳の誕生日を迎えたあの夜のものだ。背景には夜空に広がる大輪の花火がある。隼人と哲が、透子を左右から守るように寄り添っている。二人は、たった一本の傘を彼女のために差していた。そして写真の隅っこで、南は雨の中に立ち、皆のために買ってきたケーキを抱えていた。スカートの裾はびしょ濡れで、濡れた髪が頬に張り付いて、作ったような笑顔を浮かべていた。写真の裏には、南が書いた文字は残されていた。【哲ちゃん、あの日、本当は私の家、近い所ではなかったの。家に着くまで、半時間も雨の中を走ったんだ。その後39度の高熱を出して、隣のおばさんが病院へ連れて行ってくれた。二人に言わなかったのは、透子ちゃんが雷を怖がっているって言っていたから】哲の目から溢れ出た涙が、
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第9話
私は南段市行きの始発の高速バスに乗り込んだ。古びた車体で、座席も少し硬い。窓の隙間から冷たい風が吹き込んできた。それでも窓際に腰を下ろした私は、これまで味わったことのないように心が軽かった。バッグの中には、新しい採用通知書が入っている。南段市にある文化関連の会社で、総務課長職だ。給料はそれほど高くはない。けれど、一人で生きていくには十分だ。何よりそこには、隼人も哲もいない。私が傷ついた時に「大目に見ろ」と諭してくる人も、誰一人としていないのだ。バスが街を抜ける頃、雨が上がった。雲の切れ間から、温かな日差しがこぼれ落ちてくる。窓の外を眺めながら、私はふと遠い昔のことを思い出していた。かつて隼人が私にこう尋ねた。「南、君はどうしてそんな小さなことで満足できるんだ?」あの時、彼が温かいコーヒーを買ってくれたのだった。私はそれを両手で大切そうに抱え、まるでとびきり上等なプレゼントをもらったかのように嬉しそうに飲んでいた。確かにあの頃の私は、簡単に満足してしまう人だった。ほんの少しの優しさ、覚えていてくれた一言、一度だけ振り返ってくれた視線など、その程度のことで、何年も自分を納得させ続けることができたのだから。バスがパーキングエリアに停車したため、水を買いに車を降りた。コンビニの入口に差し掛かったその時、背後から声をかけられた。「南!」振り返ると、数メートル離れた場所に隼人が立っていた。スーツはしわくちゃで、髪は風に乱れ、その目は痛々しいほど血走っていた。そして、哲の姿もあった。彼の手には、私の名前が刻まれたあの黒い傘を握りしめている。二人は私を見つけると、まるで失ったものをようやく見つけ出したかのような顔をした。隼人が一歩一歩近づいてくる。その声は震えている。「南、イヤリングが見つかったんだ」彼が手を開いた。手のひらには、あのパールのイヤリングが静かに横たわっていた。私はそれを見つめていると、不意に目頭が熱くなった。隼人のためではない。母のためだ。私は手を伸ばしてイヤリングを受け取り、大切にケースの中へ収めた。「ありがとう」その一言が、鋭い針のように隼人の胸に深く突き刺さった。「南、頼むからそんなよそよそしい言い方をしないで」私は顔を上げ、
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第10話
高速バスのドアが閉まると、隼人が少し追いかけてきた。哲も同じように、後を追った。けれど、バスはそのまま走り去った。窓際に座った私は、一度も振り返らなかった。車窓の外で、二人の姿がみるみる小さくなっていく。まるで雨に洗われて色あせていく古い写真のようだ。私は視線を落とし、イヤリングのケースを開いた。パールは、そこにあった。ただ、その一粒の表面に少し傷が入っている。指の腹でそっと触れてみると、胸の奥は、今もまだ痛んでる。けれど、耐えられない痛みではない。人は誰しも、幾ばくかの傷を抱えながら前へ進んでいくものだ。同じ場所に立ち尽くし、同じ刃物で何度も切り刻まれることさえしなければ、それでいい。南段市に到着した頃には、すっかり日が暮れていた。新しい会社の同僚が出迎えに来てくれていた。山田遥(やまだ はるか)という名の、丸顔の可愛らしい女の子だ。スーツケースを引いてる私を見つけると、彼女はすぐに駆け寄って手を貸してくれた。「桜井課長ですよね? ようこそお越しくださいました! お疲れじゃなかったですか? 温かいミルクティー買ってきたんです」手のひらに温かいミルクティーをそっと手渡され、私は呆気にとられた。遥は照れくさそうに笑った。「お好きなものがわからなかったので、一番オーソドックスなものにしちゃいました」私は手元にあるミルクティーを見つめた。立ち上る湯気が目に沁みて、目頭が熱くなった。誰かに執着するほど愛されなくても、雨の夜にそっと温もりを分け与えてくれる人はいるのだ。私は口元を緩めた。「ありがとう」入社初日、私はイヤリングを引き出しの奥に鍵をかけて仕舞い込んだ。二日目、小さなアパートを借りた。三日目、隼人と哲の連絡先をすべてブロックした。一ヶ月後、私のもとに宅配便が届いた。差出人の名はなかった。箱の中には、一枚のキャッシュカードと振込明細書、そして一本の古い傘が入っていた。18歳のあの夜、二人が透子のために差しかけていたあの傘だ。傘の生地はすっかり古び、持ち手には亀裂が入っていた。中に一枚の紙が挟まれていた。哲の筆跡だった。【南、ごめん。あの日、本当は振り返って君を見かけていたんだ。でも透子が泣いて怖がっていたから、迎えに行けなかっ
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