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長い道の先で、もうあなたを待たない

長い道の先で、もうあなたを待たない

By:  星摘みCompleted
Language: Japanese
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待ちに待ってようやく手に入れたグッズを、彼氏にゴミとして捨てられた。 土砂降りの中、私――白石澪(しらいし みお)は地面に膝をつき、ゴミ置き場をあさっていた。 黒瀬尚弥(くろせ なおや)は、その場に立ち尽くした。 「何を探してるんだ?」 「グッズ」 私は顔も上げずに答えた。 「三回も言ったよね。サイドボードの左の引き出しに入れてあるって」 尚弥のシャツは雨に濡れていた。彼は反射的に口にした。 「美咲の車が故障して、迎えに行ってたんだ。そのことは忘れてた」 忘れてた。 先週、私が徹夜で整理した記念チケットの半券も、尚弥は古紙だと思って捨てた。 先月、祖母が遺してくれたブローチも、古いボタンかと思ったと言った。 いつだって、尚弥は軽く「忘れてた」と言うだけだった。 私は皮肉めかして唇を吊り上げた。 「美咲のことには、いつもずいぶん熱心だよね」 尚弥は高梨美咲(たかなし みさき)が置いていったヘアゴムを拭きながら、当然のように答えた。 「美咲はお前のいちばんの親友だろ。だったら、俺にとっても大事にすべき相手じゃないか。彼女とうまくやっておけば、俺たちだって長く続く。結局、全部お前のためなんだよ」 私はその手慣れた仕草を見つめていた。全身に疲れがのしかかってきて、もう一言も出てこなかった。 以前、書斎の引き出しには触らないでと、私は何度も尚弥に言った。 それなのに尚弥は、私が大切に集めていた絶版の切手を、何のためらいもなく捨てた。 マンゴーにアレルギーがあることも、繰り返し伝えていた。 それなのに食事会で、尚弥は私にマンゴーミルクティーを注文した。 けれど美咲が何気なく「眠れない」とこぼしただけで、尚弥は毎日、眠れる音楽を送った。 美咲が好きだと言ったレストランには、街中を駆け回り、知り合いにまで頼み込んで予約を取った。 尚弥にとって、私に関することは何もかも面倒で、美咲のことだけが気にかける価値のあるものなのだ。 それなら、私ももう、尚弥の手を煩わせるべきではない。

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第1話
待ちに待ってようやく手に入れたグッズを、彼氏にゴミとして捨てられた。土砂降りの中、私――白石澪(しらいし みお)は地面に膝をつき、ゴミ置き場をあさっていた。黒瀬尚弥(くろせ なおや)は、その場に立ち尽くした。「何を探してるんだ?」「グッズ」私は顔も上げずに答えた。「三回も言ったよね。サイドボードの左の引き出しに入れてあるって」尚弥のシャツは雨に濡れていた。彼は反射的に口にした。「美咲の車が故障して、迎えに行ってたんだ。そのことは忘れてた」忘れてた。先週、私が徹夜で整理した記念チケットの半券も、尚弥は古紙だと思って捨てた。先月、祖母が遺してくれたブローチも、古いボタンかと思ったと言った。いつだって、尚弥は軽く「忘れてた」と言うだけだった。私は皮肉めかして唇を吊り上げた。「美咲のことには、いつもずいぶん熱心だよね」尚弥は高梨美咲(たかなし みさき)が置いていったヘアゴムを拭きながら、当然のように答えた。「美咲はお前のいちばんの親友だろ。だったら、俺にとっても大事にすべき相手じゃないか。彼女とうまくやっておけば、俺たちだって長く続く。結局、全部お前のためなんだよ」私はその手慣れた仕草を見つめていた。全身に疲れがのしかかってきて、もう一言も出てこなかった。以前、書斎の引き出しには触らないでと、私は何度も尚弥に言った。それなのに尚弥は、私が大切に集めていた絶版の切手を、何のためらいもなく捨てた。マンゴーにアレルギーがあることも、繰り返し伝えていた。それなのに食事会で、尚弥は私にマンゴーミルクティーを注文した。けれど美咲が何気なく「眠れない」とこぼしただけで、尚弥は毎日、眠れる音楽を送った。美咲が好きだと言ったレストランには、街中を駆け回り、知り合いにまで頼み込んで予約を取った。尚弥にとって、私に関することは何もかも面倒で、美咲のことだけが気にかける価値のあるものなのだ。それなら、私ももう、尚弥の手を煩わせるべきではない。その夜遅く、私は三日後に発つ航空券を予約し、海外赴任の申請を出した。翌日、鍵と指輪を一緒に尚弥の前へ押しやると、尚弥は呆気に取られた。「そこまですることか?」私は笑った。そこまですることではない。ただ、自分の未来へ向かって進むほうが、誰か
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第2話
スーツケースを引いて寝室から出ると、尚弥と美咲が肩を並べて座っていた。美咲は私を見るなり、慌てて肩にかけていた上着を脱ごうとした。「忘れてた……尚弥、これ、先に持ってて……」「脱がなくていい」尚弥は美咲の手を押さえ、淡々と言った。「澪は気にしないから」そして、私に視線を向ける。「美咲、最近体調がよくないんだ。この数か月、よくなったり悪くなったりを繰り返していて」説明するように、彼は一言添えた。「もうすぐ生理だし、余計に冷やさないほうがいい」胸を、ぎゅっと握りつぶされたような気がした。尚弥は、美咲の生理周期まで覚えているのだ。私たちは四年も一緒にいた。私が毎回、痛みに耐えきれずベッドの上で体を丸めていたとき、尚弥がくれたのはいつだって「温かいものでも飲んで」という言葉と、慌ただしく出ていく背中だけだった。美咲は親しげに私の腕を取った。ためらうように私を見つめる。「澪、誤解しないで。尚弥はあなたに気を遣って、私のことを見てくれてるだけなの。本当に、最高の彼氏だよ」美咲の笑みが、顔に貼りついたまま固まった。絡めていた手の力が、少し抜ける。尚弥は眉をひそめ、何か言いかけた。私は腕を引き抜き、うなずいた。「うん。最高の彼氏だね。誰にとっての、かは分からないけど」尚弥の顔が険しくなった。「澪、どういう意味だ?」彼は眉間にしわを寄せ、うんざりしたように言った。「お前はいつもそうだ。少し気に入らないことがあるとすぐ騒ぐ。疲れないのか?」私は玄関先に立ち、振り返って尚弥を見た。尚弥は苛立たしげに髪をかき乱した。「俺と美咲は同僚だ。美咲が体調を崩していたから、少し面倒を見ただけだ。それ以上でも以下でもない。お前だって、研究室の連中としょっちゅう食事に行ってるだろ。なんでも悪いほうに考えるの、いい加減やめられないのか?そういうところ、本当にうんざりする」一つひとつの言葉が、小石のようにぶつかってくる。ひどく痛むわけではない。けれど細かく、隙間なく、胸の奥に沈んでいった。「澪!」美咲が突然、駆け寄ってきた。「待って」彼女の指が私の腕をつかむ。かすかに震えていた。「明日……」彼女は唇を噛み、声を落とした。「明日、私の誕生日なの」私は動
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第3話
尚弥は眉をひそめた。「あなたがいるでしょ?」私は笑った。「美咲の生理周期はあなたが覚えている。難しい問題があれば、あなたが徹夜して解いてあげる。じゃあ、友達である私はここで何をすればいいの?二人の観客にでもなれって?」尚弥の顔色が、少しずつ青ざめていった。「澪……」その声には、明らかな動揺が滲んでいた。私は振り返らずに出ていった。翌日、スマホは一日中震え続けた。尚弥からの着信が七件。メッセージも次々と届いた。【起きた?昨夜は風が強かったから、風邪ひかないように】【美咲、昨夜は気持ちが落ち着かなかったみたいでさ。今日は誕生日だし、みんなで食事しようと思ってる。お前も来いよ。もう拗ねるな】【彼女、一晩中泣いてたんだ。早く来てなだめてやってくれ。お前の言うことなら聞くから】【澪、もう怒るな。早く飯に来いよ。お前の好きなビストロを予約したから】最後の一通は、午後五時半に届いた。【六時半、いつもの店。みんなを待たせるなよ】私はスマホを裏返してテーブルに置き、スーツケースに服を畳んで詰め続けた。夕方六時、最後のコートを仕切りの奥へ押し込み、スーツケースのファスナーを閉めた。それから、SNSを開いた。尚弥は、普段ほとんど投稿しない。四年一緒にいても、彼の投稿は全部合わせて二十件にも満たなかった。たまに研究関係の記事をシェアし、たまに研究室の窓から見える夕暮れの雲を載せ、たまに私の投稿に「いいね」を押すくらいだった。それなのに今日、尚弥は珍しく三件も投稿していた。一件目は午後。二枚の映画の半券が、財布の上に並べて置かれている写真だった。新しく公開されたばかりの、あのSF映画。三回目の上映回。添えられた言葉はこうだった。【ずっと見たいと言っていたから、一緒に。誰かさんが来ないなら、チケットが無駄になる】二件目は夕方。美咲の後ろ姿の写真だった。彼女はショッピングモールのショーウィンドウの前に立っていた。高く結んだポニーテール。横顔は灯りを受けて、柔らかな色に染まっている。添えられた言葉は、【今日の主役はきれいだった。毎日笑っていてほしい】三件目は六時ちょうど。九枚の写真が並んでいた。中央にあるのは、花束を抱えた美咲が、うつむいてろうそく
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第4話
三人で初めて食事をしたときのことだ。尚弥は美咲のグラスに三度も飲み物を注ぎ、しゃぶしゃぶの牛肉を器いっぱいに取り分け、研究所のプロジェクトの話で彼女と楽しそうに盛り上がっていた。私の器の中の料理は、とっくに冷めていた。それなのに尚弥は、気づきもしなかった。その夜、帰り道で、私は我慢できずに言った。「今夜、美咲のことばかり気にかけすぎじゃなかった?」尚弥は一瞬きょとんとして、それから笑った。「澪、お前の顔を立てて、美咲に親切にしてるんだよ。お前の親友だろ。俺が気を遣わなくて誰が気を遣うんだ?お前に恥をかかせるわけにはいかないだろ」お前の顔を立てて。その言葉は、まるで万能の鍵だった。それから私は、何度も尚弥に伝えようとした。「つらい」「二人は近すぎる」「美咲のことは覚えているのに、私のことは覚えていない」けれどそのたびに、尚弥は同じ理由で私の気持ちを押し戻した。「お前の顔を立ててるんだよ」「美咲はお前の親友だろ。俺が美咲によくしてるのは、お前の代わりにやってるだけだ」「まさか、お前の友達に冷たくしろって言うのか?」そうして何度も「お前の顔を立てて」と言われるうちに、尚弥の口から美咲の名前が出る回数は、どんどん増えていった。「今日の美咲の研究テーマ、すごくよくできてた」「美咲が、新しくできたレストランがいいって言ってたんだ。週末に行ってみないか?」「知ってるか?美咲も昔の映画が好きなんだって。昨夜、三本も勧めてきた」「澪、美咲が最近風邪をひいたから、ついでに薬を届けてきた」尚弥は、ついでだと言った。けれど尚弥の家は街の東側、研究所は西側、美咲の家は南側にある。彼は三つの区をまたいで、その「ついで」を済ませた。以前は、美咲の話をするとき、尚弥はまだ私の顔色をうかがっていた。そのうち、ただ日常を共有するみたいに話すようになった。話さずにはいられない、というふうに。やがて、尚弥は美咲のことを覚えるようになった。彼女がパクチーを嫌いなこと。寒がりなこと。生理痛がひどくて、鎮痛薬を飲むこと。私が、彼は生まれつき物覚えが悪いのだと思い込んでいた部分は、突然すべて治った。それなのに、私のマンゴーアレルギーだけは、忘れてしまった。電話の向こうで、尚弥
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第5話
翌日、婚約パーティー。式が始まろうとしているのに、赤いカーペットの先には誰もいなかった。尚弥は眉をひそめ、低い声で言った。「澪は?電話して急がせろ」秘書は困惑した顔をした。「黒瀬部長、白石さんの電話ですが……ずっと出ません」「出ないなら、出るまでかけろ」尚弥の声は落ち着いていた。「どうせまた拗ねてるだけだ。昨夜のことをまだ引きずってるんだろ。式がもう始まる。すぐ来いと伝えろ」秘書は再び出ていった。三度目に戻ってきたとき、額には汗が浮かんでいた。「黒瀬部長、白石さん……やはり来ていません。電話は三十回以上かけました。そのあと、電源が切られています。ホテルにも確認しましたが、部屋の予約も荷物の預かりもありません。ドレスショップにも確認したところ、あのウェディングドレスは……」「ドレスがどうした?」「まだ誰も受け取りに来ていないそうです。店長が昨日、受け取り時間の確認で電話したそうですが、それもつながらなかったと」尚弥の体がこわばった。招待客の視線が、針のように突き刺さってくる。腕時計を見る人。顔を寄せ合ってささやく人。すでにスマホで何かを調べ始める人。尚弥はその場に立ち尽くし、喉仏を一度上下させると、美咲を見た。美咲はドレスの裾を持ち上げ、一歩ずつ壇上へ上がり、尚弥の隣に立った。そして、そっと彼の腕に触れた。「尚弥、時間は待ってくれないよ。澪は来ない」美咲の声はとても小さく、尚弥にだけ聞かせるようだった。「でも、あなたには私がいる」尚弥は三秒、黙っていた。それから司会者に差し出されたマイクを受け取り、笑みを浮かべた。「申し訳ありません。相手側に少し急な事情がありまして。ただ、今日という予定は変わりません」深夜、招待客がすべて帰ったあと。尚弥は澪とのトーク画面を開き、短く打ち込んだ。【今日はどうして来なかった?みんな待ってたんだぞ】送信はできた。けれど、いつまで経っても既読はつかなかった。彼は少し固まり、通話画面に切り替えると、すっかり覚えてしまった番号を押した。受話口から、無機質な女性の声が流れた。「おかけになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめのうえ、もう一度おかけ直しください」尚弥の顔から血の気が引いた
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第6話
同棲を始めて一か月で、尚弥は三キロ痩せた。美咲のマンションに引っ越した日、尚弥はまだどこか浮き立っていた。四日目、美咲は尚弥のタオルの畳み方が気に入らないと言い、目の前でそれを引き抜いて畳み直した。五日目、尚弥が残業で十時に帰ると、冷蔵庫は空っぽだった。美咲はソファでパックをしながら、顔も上げずに言った。「私はもう食べたから、自分でデリバリーでも頼んで」七日目、尚弥はシャワー中に排水口を詰まらせた。美咲はバスルームの前に立ち、「少しは常識ってものがないの?」と三回も繰り返した。二週目に入る頃には、尚弥はベッドで寝る時間より、ソファで寝る時間のほうが長くなっていることに気づいた。きっかけは、寝室の明かりを消し忘れたことだった。夜中に明るさで目を覚ました美咲は、そのまま尚弥をリビングで寝かせた。尚弥は枕を抱えて暗がりに立ち尽くし、寝室のドアにカチャリと鍵がかかる音を聞いた。その瞬間、澪と暮らしていた頃のことをふと思い出した。彼女はいつも、尚弥が残業から帰る時間に合わせて、明かりをひとつ残しておいてくれた。最初、尚弥は、美咲の機嫌がたまたま悪いだけだと思っていた。けれどその後、機嫌のいい日はほとんどなかった。美咲は歯磨き粉の絞り方に文句をつけ、食器を洗う音がうるさいとこぼし、尚弥の体に残った消毒液の匂いを嫌がった。尚弥が取引先に電話をかけると、うるさいからベランダへ行けと言う。ベランダでかければ、今度は風でカーテンがぱたぱた鳴るのが嫌だと言う。尚弥が何をしても間違いだった。何をしても、美咲の気に入ることはなかった。尚弥が残業で遅く帰ると、美咲はテレビの音量を最大にした。週末に少し寝ようとすると、わざと尚弥の部屋の前で掃除機を何度も往復させた。あるとき、尚弥はただ、書類袋を取ってくれないかと頼んだだけだった。美咲はその中身を丸ごと床にぶちまけた。「自分で探して。あなた、物を探すの得意なんでしょう?」尚弥はしゃがみ込み、床に散らばった書類を拾った。去年の古い契約書を指でつまんだ瞬間、彼はふいに動きを止めた。澪は、こんなことをしなかった。尚弥が鍵を忘れれば、彼女は何も言わず会社からタクシーで戻って届けてくれた。尚弥が、彼女の編んだマフラーをなくしたときでさえ、澪は
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第7話
雨はさらに激しさを増していた。透の傘は、少しもぶれずに私の頭上を覆っていた。透自身は、私と尚弥のあいだに体を割り込ませている。その声は、ひどく冷たかった。「澪は話したくないって」「どけ」尚弥はさらに一歩踏み出した。雨水が顎を伝い、ぽたぽたと落ちる。「澪、話を聞いてくれ……」透は片手を上げ、尚弥の胸元を制した。力は強くなかった。それでも、その姿勢には一歩も退く気配がなかった。「会いたくないって言ってるだろ」尚弥の呼吸が荒くなった。「どけと言ってるだろ」尚弥は突然、透の襟元をつかんだ。次の瞬間、もう片方の手が振り上げられる。透の体が横に傾き、膝が地面に打ちつけられた。「透!」私は駆け寄り、彼のそばにしゃがみ込んだ。透は肘をついて起き上がろうとしていた。もう片方の手で顔を押さえている。私は手を伸ばして支えようとした。そのとき、透の指の隙間から血がにじんでいるのが見えた。「血が出てる」声が震えた。透の顔は真っ青だった。それなのに透は、地面に倒れていた傘をとっさに拾い上げ、私の頭上へ差しかけた。雨は遮られ、傘の布を細かく激しく叩いている。けれど透自身は、まだ雨に打たれたままだった。「君は濡れるな」透の声は震えていた。「先週、風邪が治ったばかりだろ」私は一瞬、言葉を失った。胸の奥を、強く握りしめられたようだった。勢いよく振り返り、尚弥をにらみつけた。雨の幕に包まれて、尚弥の姿はぼやけて見えた。その拳は、まだ固く握られている。尚弥の唇が、わずかに動いた。「そいつの芝居だ」尚弥が突然、叫んだ。声は、彼とは思えないほどかすれていた。「今のは本気で殴ったわけじゃない。そいつがわざと倒れたんだ」私は立ち上がった。雨が顔を濡らしていく。骨まで冷えるような雨だった。一歩ずつ尚弥に近づき、彼の前で立ち止まった。「消えて」尚弥は呆然とした。「消えてって言ってるの」私は一語一語、はっきりと言った。「警察を呼ぶ。ここはあなたの思い通りになる場所じゃない。誰もあなたを中心に動いていないし、人を殴っておいて正当化できるなんて思わない」尚弥の顔から、少しずつ血の気が引いていった。雨が尚弥の顔を打つ。彼は口
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第8話
翌日、尚弥はマンションの前に立っていた。仕事を終えて帰ってくると、尚弥は私に歩み寄り、袋をひとつずつ開けて見せた。ひとつ目はマフラーだった。カシミヤの、霧がかったブルー。昔、私が好きだと言っていたものだ。ふたつ目はボーンチャイナのカップとソーサーのセット。手作業で焼かれたもので、同じもののリンクをお気に入りに入れていたことがある。三つ目はレコードだった。古いジャズのアルバムで、大学時代、私がSNSでシェアしたことのある曲が入っていた。尚弥は、たしかに覚えていた。どれも、かつて私が好きだったものばかりだった。「澪、見てくれ」尚弥はマフラーを少し差し出した。「昔、お前が欲しいって言ってたもの、全部探してきたんだ」私はしばらく、それを見下ろしていた。ブルーのカシミヤはきちんと畳まれ、タグもまだ外されていなかった。私はそれを受け取り、そのままゴミ箱のそばまで歩いていって、手を離した。マフラーはゴミ箱の中へ滑り落ち、柔らかく縁にかかった。尚弥の顔色が変わった。「何してるんだ?」私は戻って、ボーンチャイナのカップとソーサーも手に取り、同じゴミ箱へ入れた。「澪……それ、全部お前が好きだったものだろ」尚弥の声には焦りが滲んでいた。「マフラーは欲しいって言ってたし、カップだってリンクを保存してた。レコードも、昔お前が……」「昔」私は彼の言葉を遮った。尚弥は言葉に詰まった。私は振り返って尚弥を見た。「尚弥、あなたが言っているのは、全部昔のことよ。昔、私が欲しかったもの。昔、私が好きだったもの。昔の私は、あなたが小さなことを覚えていてくれただけで、一日中うれしくなれた。でも、それは昔の話。今、これを目の前に並べられても、もう欲しいとは思わない」尚弥は街灯の下に立ったまま、唇をわずかに動かした。まるで喉を何かで塞がれたようだった。「あなたは、三年前の私が欲しがっていたものは覚えているのね」私は笑った。口元だけが、かすかに弧を描く。「でも、三年前に自分が私へ何を約束したかは、一度も覚えていなかった。私を大事にすると言った。ひとりで不安にさせたりしないと言った。ちゃんと見ている、覚えていると、そう感じさせると言った。そのどれひとつ、あなたは守らなかった。今さらこん
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第9話
三日後。ドアを開けると、尚弥が壁にもたれて立っていた。額にはガーゼが貼られている。「澪」かすれた声で私を呼ぶと、彼の目に光が差した。「約束しただろ」私はドア枠に手をかけたまま、尚弥を中へは入れなかった。「行ってきた。お前も見ただろ」尚弥はポケットからスマホを取り出し、バンジージャンプの動画を開いて、私の目の前で揺らして見せた。「俺がやったら、もう一度チャンスをくれるって言ったじゃないか」その目は、私の表情を逃すまいとするように、じっとこちらに向けられていた。私は尚弥を眺めた。ガーゼ、ひびの入ったスマホ、濡れたズボンの裾、乾いて割れた唇。私は小さく息を吐いた。「尚弥」私は声を落とした。「あの約束をしたのは、まだあなたを好きだった頃の私よ。あなたが私にマンゴーケーキを食べさせようとしたときには、もう気持ちは離れていた。婚約パーティーまで開いておきながら、『美咲をがっかりさせるな』と言われたとき、最後に残っていた未練も消えた。あなたはたしかにやった。けれど、もう遅いの。私の気持ちは、二度と戻らない」尚弥の唇がわずかに動いた。「約束なんて、その気持ちがあって初めて意味を持つものよ。もう好きじゃないのに、いつまでも同じ約束に縛られるわけないでしょう」廊下の照明が、ふっと瞬いた。尚弥は明滅する光の中に立ち尽くしていた。目元が赤く染まっている。「澪……一度言ったことを、なかったことにするのか?」「あなたが私に約束したことだって、一度も守られなかったじゃない」殴られたように、尚弥の体が揺れた。それでもなんとか踏みとどまる。廊下の奥で、透の足が止まった。透は何も言わず、私の隣まで歩いてくる。私は彼の手から袋を受け取り、中をのぞいた。「今日は何?」「クロワッサン。駅前の、いつも並んでる店のやつ」透の声はいつもどおり穏やかだった。そばにもう一人立っていることなど、見えていないみたいに。「先週、食べたいって言ってただろ。今日、少し早く抜けて並んできた」私は笑って、袋の口を開けた。焼きたてのバターの香りが、ふわりと立ちのぼった。「入ろう。外、寒いから」「うん」透は自然に袋を受け取り、私の少し後ろをついてきた。私は家の中へ向かって歩き出した。
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