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初めての夜

Author: 雫石しま
last update Huling Na-update: 2025-07-28 05:06:38

黒い瓦の総檜造りの和風家屋。離れには鹿おどしが響き、白に朱色の錦鯉が揺らぐ瓢箪池、辰巳石の門構え、赤松の枝が曲がりくねり空を目指し針葉樹の陰を作る。手入れが行き届いた芝生を臨む軒先に揺れる卵型のハンギングチェア。

カコーン

 菜月のスカートが微風に揺れ、絹糸の髪がふわりと舞う。静かな庭にカラコロと下駄の音が近付いて来た。屈み込んだ影が菜月の唇に軽く触れた。

「菜月、起きて」

「・・・・・・」

「菜月」

 菜月の膝の上で擦り切れた赤い表紙の赤毛のアンのページがパラパラと捲れた。その指先がピクリと動く。二重瞼、長いまつ毛の焦茶の瞳がゆっくりと開いて湊に微笑む。

「おはよう」

「寝ちゃった」

「風邪ひくよ」

「うん」

 湊が足元の御影石に腰を掛け、菜月の顔を見上げた。

「なに?」

「僕、今日二十七歳になったよ」

「え、え、な、なに突然」

「約束でしょ」

「そ、そうだけど」

 菜月は両手で顔を覆った。その頬は真っ赤で耳の端まで色付き、心臓の鼓動が早くなった。

「お、お父さんやお母さんが、いるから」

「もうみんな出掛けたよ」

「あ・・・・そうだった!」

郷士は、杜撰な経営による一連の不祥事で社員に迷惑と心配をかけたと深く謝罪し、1泊2日の慰安旅行を計画した。朝の座敷に差し込む光の中、代表取締役としての責任を果たそうと、郷士は社員の士気を高めるべく奔走していた。社長の湊も本来なら参加すべき立場だったが、ゆきから「菜月を屋敷に一人残すのは心配だから」と留守番を言い付けられた。

「そう、慰安旅行だったわね。」

「うん」

「でっ、でも!多摩さんがいるでしょう」

「多摩さんも、佐々木と一緒に出掛けたよ」

「え、そうなの!?」

 菜月は、多摩さんにこの会話を聞かれるのではないかと辺りを見回したが、確かにその気配は無かった。

カコーン

 今夜この屋敷には菜月と湊しかいない。湊は立ち上がると飛び石を
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  • ゆりかごの中の愛憎   初めての夜②

    カコーン湊は、檜の香りの湯気に包まれながら、湯船の湯をすくい上げ、顔を洗った。(とうとうこの日が!)これから自分は恋焦がれた菜月の肢体を抱き締める。「あっ、冷たっ!」 風呂の天井から垂れ落ちる雫が肩に当たり我に帰った。(まさかこんな日が来るなんて嘘みたいだ) 頭の中をこれまでの出来事が往来した。「え!?菜月の見合いが決まったの!?」「うん」「どうして!今まで嫌だって言ってたじゃない!」「お父さんの会社の取引先の息子さんなの」「そんなの政略結婚じゃないか!」 これまで、何度も流れていた菜月の縁談話がまとまった。菜月が見ず知らずの男と結婚する。ガラガラと、何もかもが音を立てて崩れた。ところがその1年後、菜月の夫の不倫行為が発覚した。「私、初めては湊が良かった!」 菜月は、悲痛な声で湊の名前を呼んだ。(こんな日が来るなんてびっくりだ、信じられないよ) 湊は躊躇いや戸惑いを洗い落とすように、念入りに身体の隅々まで泡立てた。 風呂場から檜の洗い桶の音が響いてくる。いつもこんなに明瞭に聞こえて来ただろうか。湊は意外と長風呂で菜月は暇を持て余した。(こんな時はどうするんだっけ) 賢治はいつも無言でベッドに潜り込み、菜月の感情などお構いなしに、機械的に事を済ませると、さっさと身体を離した。手渡されるティッシュの乾いた音が、静かな部屋に冷たく響く。菜月は痛みと嫌悪感に耐えながら、黙って衣類を身に着けた。あの頃の孤独と傷は、菜月の心に深い影を落としたが、今、湊との絆がその過去を静かに癒している。(あれは、あのセックスは、なんの参考にもならないわ) 菜月は立ち上がるとパジャマの前ボタンを一個、二個と外して上着を脱ぎ、潔くズボンも脱ぐと枕元に畳んで置いた。「湊、遅い」 暇を

  • ゆりかごの中の愛憎   初めての夜

    黒い瓦の総檜造りの和風家屋。離れには鹿おどしが響き、白に朱色の錦鯉が揺らぐ瓢箪池、辰巳石の門構え、赤松の枝が曲がりくねり空を目指し針葉樹の陰を作る。手入れが行き届いた芝生を臨む軒先に揺れる卵型のハンギングチェア。カコーン 菜月のスカートが微風に揺れ、絹糸の髪がふわりと舞う。静かな庭にカラコロと下駄の音が近付いて来た。屈み込んだ影が菜月の唇に軽く触れた。「菜月、起きて」「・・・・・・」「菜月」 菜月の膝の上で擦り切れた赤い表紙の赤毛のアンのページがパラパラと捲れた。その指先がピクリと動く。二重瞼、長いまつ毛の焦茶の瞳がゆっくりと開いて湊に微笑む。「おはよう」「寝ちゃった」「風邪ひくよ」「うん」 湊が足元の御影石に腰を掛け、菜月の顔を見上げた。「なに?」「僕、今日二十七歳になったよ」「え、え、な、なに突然」「約束でしょ」「そ、そうだけど」 菜月は両手で顔を覆った。その頬は真っ赤で耳の端まで色付き、心臓の鼓動が早くなった。「お、お父さんやお母さんが、いるから」「もうみんな出掛けたよ」「あ・・・・そうだった!」郷士は、杜撰な経営による一連の不祥事で社員に迷惑と心配をかけたと深く謝罪し、1泊2日の慰安旅行を計画した。朝の座敷に差し込む光の中、代表取締役としての責任を果たそうと、郷士は社員の士気を高めるべく奔走していた。社長の湊も本来なら参加すべき立場だったが、ゆきから「菜月を屋敷に一人残すのは心配だから」と留守番を言い付けられた。「そう、慰安旅行だったわね。」「うん」「でっ、でも!多摩さんがいるでしょう」「多摩さんも、佐々木と一緒に出掛けたよ」「え、そうなの!?」 菜月は、多摩さんにこの会話を聞かれるのではないかと辺りを見回したが、確かにその気配は無かった。カコーン 今夜この屋敷には菜月と湊しかいない。湊は立ち上がると飛び石を

  • ゆりかごの中の愛憎   その日を待って

    湊は、賢治の仕事を引き継ぎ、綾野住宅株式会社の社長に就任した。「なんなんだ、これ、酷すぎる」賢治が引き起こした杜撰な経営状態を軌道修正するには、少なくとも半年、いや一年は必要だと考えられた。湊は業務にまだ不慣れで、代表取締役の郷士に指南を仰ぎながら、懸命に仕事に勤しんだ。朝の座敷で、菜月とゆきが親指と人差し指でまちまちな距離を示し、穏やかに微笑む中、湊は新たな責任に立ち向かっていた。しかし、この頃から精神的負担が原因と思われる胃痛が続き、鎮痛剤を常用するようになった。ストレスが湊の身体を蝕む一方で、菜月との絆は彼の心を支えた。「い、痛っ」「湊社長、また痛むんですか」 症状が重い時は背中も痛んだ。「久保さん、お水をもらおうかな」「こんなに鎮痛剤ばかり飲まれて、胃を痛めますよ」「分かってはいるんだけどね」 額に脂汗をかくこともあった。「病院に行かれたらどうですか?」「この書類の山を見てよ、忙しくてそれどころじゃないよ」「本当に大丈夫ですか」「精神的なものだから大丈夫だよ」 責任感の強い湊は、久保の心配をよそに、経営の軌道修正を優先し、仕事に没頭した。しかし、身体の違和感、特に胃痛が続くことに気づきながらも、病院を受診することはなかった。鎮痛剤を常用し、精神的負担を堪え続けた。カコーン「菜月」「今日も忙しかったの」「うん、もうクタクタだよ」「お疲れさま」 そんな湊の癒しは、菜月との穏やかな時間だった。菜月は、疲れ切った湊の髪の毛を優しく撫でながら、愛おしく抱き締めた。「おやすみ」「おやすみなさい」 二人は一線を超える事なく布団を並べ、手を繋いで眠った。湊は、菜月のいびきがうるさい。とその鼻を摘んだが、数日で、もう慣れたよ。と諦めた。「菜月」「・・・・なに?」「初めての夜は、僕の誕生日が良いな」「それまではしないの」「・・・我慢する」「変なの」

  • ゆりかごの中の愛憎   待ち人来ず

    カコーン 湊は枕元のスマートフォンを手に取ると時刻を確認し、布団の中でまんじりともせず夜を過ごした。(菜月が来る、菜月が来る、菜月が来る!) スマートフォンのアラームのバイブレーター音に飛び上がった湊は掛け布団の上に正座をし、菜月が襖を開ける瞬間を今か今かと待った。(・・・・・来ない) ところが廊下を歩いてくる人の気配が無い。(・・・・・来ない) 居ても立ってもいられなくなった湊は畳の上をずりずりと移動し襖を開けた。キョロキョロと廊下を見回して見たが父親の地鳴りの様ないびきが奥の寝室から聞こえて来るだけだ。(父さんうるさいな、母さん、あれでよく一緒に寝られるよ) ゆき の聴覚を疑いながら、湊は月の明かりが漏れる廊下を忍足で歩いた。ギシ、ギシ、ギシ「・・・菜月、菜月、ねぇ」 仏間に隣接した菜月の部屋の襖を少しずつ開けると、片脚を掛け布団から放り出し、仰向けで万歳の格好をした菜月が、軽いいびきをかいていた。(な、菜月)クォーーーークォーーーー(寝てるじゃないか!) 賢治の一連の騒動が解決し、無事、離婚届が市役所に受理された菜月は気が緩み、爆睡してしまった。(約束と違うじゃないか!) 湊は、その寝顔を見ながら襖を閉めた。大きな溜め息を吐いた湊の胃は、シクシクと痛み始めた。(き、緊張したのかな。僕、ストレス耐性なさすぎだろ)カコーン 鹿おどしが明け方の空に響き、その音で菜月は目を覚ました。腕で口元に垂れた涎を拭き取ると冷たかった。なにかを忘れている様な気がする。「アッ!」 スマートフォンを見ると時刻は6:30と表示されていた。慌てて飛び起きた菜月を待っていたのは、洗面所で歯磨きをする不機嫌そうな湊の後ろ姿だった。「み、みな、湊」 洗面所の鏡の中に、気不味い顔の菜月が、作り笑いをしていた。「お、おはよう」「んがんが」

  • ゆりかごの中の愛憎   そうきたか

    翌朝、湊は出勤の準備を終え、ネクタイを整えたスーツ姿で座敷に正座した。静かな朝の光が畳に差し込み、穏やかな空気が流れる。茶の間では、郷士が新聞紙を広げ、いつものように朝の時間を過ごしていた。湊は落ち着いた声で郷士に話しかけ、隣には頬をほのかに染めて恥じらう菜月の姿があった。二人の間に流れる信頼と愛は、義理の姉弟だった過去を超え、深い絆に変わっていた。朝食の茶碗を下げていた多摩さんは、不思議そうにその様子をちらりと眺め、何かを感じ取ったようだった。ゆきは静かに立ち尽くし、「とうとうこの日が来たのだ」と息を呑んだ。 「父さん、母さん、話したい事があるんだ」「なんだ、思い詰めた顔をして」「良いから座って」「なんだ」「すぐ、済むから」 郷士は、何がなんだか分からないと言った表情をして座敷で胡座をかいた。カコーン 鹿おどしが鳴り響き、郷士は首を傾げた。「もう一度、言ってくれ」朝の静かな座敷で、菜月とゆきはふと天井を仰ぎ、床の間に掛けられた掛け軸を眺めた。花器に生けられた竜胆の蕾が、ほのかに萎れていることに気づき、菜月は心の中で「萎れているなぁ」と思った。それでも、湊と郷士の穏やかなやり取りを、二人とも温かく見守った。湊はスーツ姿で正座し、落ち着いた声で郷士と語らう。「僕たち、結婚します」「僕、たちとは誰のことかな?」 湊は自分の鼻先と菜月を指差して無言で頷いた。菜月は照れくさそうに頬を赤らめ、正座したその膝に目線を落とした。「僕、たち」「うん、僕と菜月」 郷士は眉間に皺を寄せた。「お前たちはきょうだいなんだぞ、結婚出来る訳がないだろうが」「民法」「テレビがどうした」「民間放送じゃないよ、法律の民法だよ」「それがどうした」※民法734条1項ただし書き「ただし、養子と養方の傍系血族との間ではこの限りではない」「例外的に、連れ子同士の婚姻は認められるって書いてあった」「嘘ーーーん」

  • ゆりかごの中の愛憎   その一線

    秋の日暮れは早く、菜月は車内の助手席で、フロントガラスに映る赤いテールランプの川を言葉少なに眺めていた。街の喧騒が遠のき、静かな時間が流れる。ねぐらへ帰るカラスの群れが、橙から深い紺へと移ろう夕暮れの空を羽ばたき、遠くで金星がひそやかに瞬いている。菜月は金星を見上げ、静かに微笑んだ。夕暮れの空は、過去の傷を癒し、新たな始まりを祝福するように広がっていた。湊の隣で、菜月は大きく深呼吸し、生きる喜びを噛みしめた。未来は、すぐそこまで来ている。「すっかり遅くなっちゃったね」 「そうね」 「多摩さんが心配しているかもしれないね」 「そうね」 菜月の返事は心ここに在らずだ。(さっきまであんなにはしゃいでいたのに、疲れたのかな) すると菜月は湊の横顔を凝視しながら、堰を切ったようにその思いをぶち撒けた。「ねぇ湊」 「なに」 「私と湊、いつになったら一線を超えても良いと思う?」 「え、ちょっといきなりそんな事言われても」 赤信号で湊の足がブレーキペダルをそっと踏んだ。車が静かに止まり、まるで「これ以上進むな」と告げられているようで、菜月の心に微かな切なさが広がった。暗い車内に低いエンジン音が響き、メーターパネルの柔らかな光が湊の口元をほのかに照らす。「湊、このまま2人で何処か行っちゃう?」 「駄目だよ。ちゃんと父さんや母さんに結婚しますって言わなきゃ」 「良い子ぶっちゃって」 「菜月は、離婚した途端に悪い子になるの」 「だって」 菜月は頬を膨らませた。「僕だってずっと我慢しているんだから」 「それなら!」 「菜月、父さんと母さんにお願いしてからだよ」 「お父さんやお母さんにお願いして、『いいよ』って言われたらセックスするの!?」 信号機が青に切り替わったが、菜月の発言に驚いた湊の足は、ブレーキペダルに置かれたままだ。湊の、脇の下に汗が滲んだ。 パパーパッパー!  後続車のパッシングがルームミラーに反射し、湊は激しいクラクションの音で我に返りエンジンペダルを踏み込んだ。「な、菜月がそんな事言うなんて!」 「ビックリした?」 「うん、心臓がドキドキしてる」 「私もドキドキしてる」 「どうしたの、なにをそんなに焦ってるの」 菜月の細い指先が、暗がりで湊のカッターシャツの脇を握った。青の細いストライプが、その爪先でぎゅっと絞

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