ANMELDEN玲司はふいに笑った。だがその笑みには、言い尽くせないほどの苦さが滲んでいる。震える手でスーツのボタンを外し、勢いよくシャツをはだける。そこには――左脇腹を横切る、醜く盛り上がった大きな手術痕があった。まるで巨大なムカデのような傷跡。抜糸もまだ完全には終わっておらず、生々しい赤みを帯びている。「千歌……真人……見てくれ」玲司は二人へ手を伸ばした。「本当に腎臓を提供したんだ……全部俺が悪かった。これで少しは……償えになった?頼む……もう一度だけ機会をくれないか?俺を……許してくれないか?」健斗は怯えたように母親の胸へしがみついた。佑香は息子の目をそっと覆いながら、玲司の様子を見つめる。その異様な執着と狂気じみた表情に、思わず背筋が冷えた。「来週は目だ。俺は真人から目を奪った。だから今度は俺の目を返す」玲司はふらつきながら一歩前へ出た。表情は異様に歪んでいる。「これで許してくれるか?俺のそばに戻ってきてくれるのか?なあ、千歌、答えてくれ!」その瞬間――耐えきれなくなったのか、拓馬が拳を振り上げた。玲司の顔面にその拳がめり込み、体が勢いよく地面へと叩きつけられる。泥水が跳ね上がり、鼻血が一気に溢れ出した。だが玲司は痛みなど感じていないかのように、仰向けのまま笑い始めた。その笑い声が大きく、むなしく夜道へ響く。「……そうか、分かった」血を手の甲で拭いながら、玲司は力なく呟く。涙が頬を伝った。「あの日のお前の言葉は、俺を追い払うためだったんだな。お前たちは……もう二度と俺を許さない」「玲司」様々な思いを抱え、佑香がその名を呼んだ。健斗の目を覆っていた手を下ろし、まっすぐ彼を見つめる。その声は穏やかだが、揺るぎはなかった。「知ってた?私は昔、毎晩眠る前にこう考えていたの。どうしたら、あなたにも私たちが味わった苦しみを味わわせられるだろうって」玲司の瞳が大きく揺れる。「あなたには一生分からないでしょうね。あなたたちにいじめられていた私と健斗が、あの家でどれほど絶望していたのか。健斗が父親を欲しがっていた。だから私たちは、あなたを信じて、謝罪を受け入れた。今度こそ変わってくれると思った。なのに、その謝罪さえ、私たちを傷つけるための演技だった。あの時から決めたの。私たちはもう、二度とあなたを信じ
あの日、毅然とした態度で玲司を拒絶したものの、その後の半月、佑香はずっと気の休まらない日々を送っていた。健斗を幼稚園へ送り届けるたび、周囲に不審な人影がないか何度も確認する。仕事帰りに後ろから足音が聞こえれば、反射的に振り返った。夜中に悪夢で目を覚ますこともあった。玲司が健斗を奪いに来る夢だった。だが彼女の知らないところで、玲司は毎日のように少し離れた場所から二人を見守っていた。朝、佑香が家を出るときも。健斗を幼稚園へ送るときも。夜道を一人で帰るときも。玲司は黙ってその近くに立ち、ただひたすら二人の姿を見つめ続けていた。そんなある日、吹雪の夜だった。残業で帰りが遅くなり、バスも運休になってしまったため、佑香は雪風の中を歩いて帰宅していた。そのとき――背後から慌ただしい足音が近づいてくる。「来ないで!」佑香は勢いよく振り返り、防犯スプレーを構えた。玲司はその場で足を止めた。黒いコートには雪がびっしりと積もっている。その手には、まだ包装も解いていない新品の傘が握られていた。「俺はただ……傘を届けたかっただけなんだ」無理に笑みを作りながらそう言う。だが、自分を見る彼女の露骨な嫌悪の眼差しに、胸が締めつけられた。「それより……」玲司はためらいながら口を開く。「君のそばにいるあの男は?どうして君や真人にこんなに無関心なんだ?」佑香はスプレーの先を彼の目へ向けたまま、冷たく言い放った。「あなたには関係ない。今すぐ私から離れて。あなたの顔を見るだけで気分が悪いの」「しかし――」玲司は苦しそうに声を漏らした。引き留めようとしたものの、佑香は振り返ることなく歩き去っていく。彼は雪の中に立ち尽くし、その背中を見送った。揺れる瞳の奥で、様々な思惑が渦巻いた。そして長い沈黙の末、ようやく決心したようにもう一度だけ佑香の背中を見つめると、自分もその場を後にした。それからというもの、本当に玲司が彼女たちの前へ姿を現すことはなくなった。だが、家の前には時折、見覚えのない品が置かれるようになった。温かな朝食。健斗宛てのかわいらしいぬいぐるみ。けれど佑香は、それらを見つけるたび迷うことなくゴミ箱へ捨てた。そんなある日、何日目だったかも分からない頃、一通の差出人不明の封筒が届いた。中には、奈帆と俊太の写真が入ってい
午前三時。異国の小さな町には、静かに雪が降り続いていた。玲司は写真で見た白い木造の家の前に立ち尽くしていた。どれほど前からそこにいたのか、自分でも分からない。黒いコートには雪が厚く積もり、睫毛には霜が張りついている。指先は紫色に変わるほど冷え切っていたが、それでも彼は動かなかった。ただひたすら、二階の明かりが灯る窓を見つめ続けていた。その部屋では、佑香が健斗に寝る前の絵本を読んでいた。「ママ、拓馬パパはいつ帰ってくるの?」眠たそうに目をこすりながら、健斗が尋ねる。「拓馬パパは今、お仕事で遠くに行ってるの。あと少ししたら帰ってくるわよ」佑香はそう言って息子の額にそっと口づけた。部屋の灯りを消そうとして、何気なく窓の外へ目を向ける。――その瞬間。彼女の呼吸が止まった。雪の中に立つ人影。見間違えるはずがない。玲司だった。どうして彼がここに?自分たちは名前を変え、こんな遠い場所に引っ越してきたのに。どうやって見つけた?佑香の指先が強く握り締められる。忘れたはずの五年間、閉じ込めていた苦しい記憶が、一気に胸の奥から溢れ出した。体が小さく震える。「ママ……どうしたの?」健斗が眠たそうにして彼女を呼んだ。「何でもないよ。もう寝ましょう」震えを押し殺しながら窓を閉め、カーテンを引く。それでも気になって、隙間から外を覗いてしまう。玲司はまだそこにいた。肩に雪を積もらせたまま、まるで氷の彫像のように。その夜、佑香はほとんど眠れなかった。夜が明け始めた頃、彼女は健斗を起こさないよう静かに階段を下りた。玄関の前で長く立ち止まる。扉を開けるのが怖い。けれど二階では健斗が眠っている。母親として逃げるわけにはいかなかった。意を決してドアを開けると、吹き込んできた冷たい風に思わず身を震わせた。そして――やはり玲司はそこにいた。「千歌……」唇を紫色に染めた玲司が、掠れた声でその名を呼ぶ。目は真っ赤に充血していた。佑香は反射的に一歩後ずさる。「人違いよ」その声は冷え切っていた。玲司はよろめきながら近づき、抱き締めようと手を伸ばす。だが佑香は容赦なく彼を突き放した。玲司の膝が凍った石段にぶつかり、鈍い音を立てる。「今の私は伊藤佑香。千歌も真人も、もういない。あのクルーズで死んだの」
あの日以来、玲司は家に残されていた過去の映像を、来る日も来る日も見続けていた。千歌たちに何回も辛い思いをさせたことは分かっている。だが、ようやく真実を知り、償おうと思った時には――もう、その機会すら失われていた。彼は使用人たちに暇を出し、自分を家に閉じ込めた。三人で暮らした家。そして今ではほとんど残っていない、千歌の痕跡。そのすべてに囲まれながら、ただ時間をやり過ごしていた。玲司はこの時になって初めて思い知る。自分は、あまりにも千歌と真人に無関心だったのだと。信じたこともなければ、気にかけたこともない。与えたのは疑いと冷淡さばかりだった。映像の中で家事に追われる千歌の細い背中。そして、その傍らを無表情で通り過ぎる自分自身。それらを見るたび、胸が引き裂かれるように痛んだ。酒で感覚を麻痺させなければ、とても正気ではいられない。そうして絶望を押し込めながら、日々を生きていた。そんなある日、執事が恐る恐る扉を開けた。部屋には酒の臭いが充満し、玲司自身も何日も身なりを整えていない。「誰が入っていいと言った。出て行け!」低く吐き捨てる。だが執事は震える声で言った。「旦那様……奥様がまだ生きているかもしれません。行方についての手がかりが見つかりました!」その瞬間、玲司は勢いよく身を起こした。信じられないものを見るように執事を見つめる。「そんなはずがない……あの日、彼女たちの遺体を、俺は自分の目で見たんだ。まだ生きているわけがないだろう?」そう言いながらも、声は震えていた。体まで小刻みに揺れている。執事は続けた。「奥様は以前、山間部の子どもたちへの支援活動に寄付をされていました。昨日、その団体からお礼状が届いたのです。調べてみたところ、奥様が支援していたプロジェクトは今も継続しておりました。国内で使われていた口座は停止されていますが、海外の口座から定期的に寄付金が振り込まれていることが判明しました」その言葉を聞いた瞬間、玲司の目に、久しく失われていた光が宿った。彼は呆然と呟く。「本当なのか……?」そして次の瞬間には、何度も繰り返すように口にしていた。「やっぱりそうだ……千歌がそんな簡単に死ぬはずがない。事故に遭っても、腎臓を一つ失っても、生き延びてきた。きっと俺に失望して、姿を隠しただけなんだ…
国内――B市。奈帆は高級ブランドショップでバッグを選んでいた。新作のクロコダイルレザーバッグは七桁を超える価格だったが、彼女は値札を見ても眉ひとつ動かさず、「これ、もらうわ」と言って、会計しようとした。その横では俊太が彼女の袖を引っ張りながら、しつこく騒いでいた。「ママ!あのロボットが欲しい!昨日買ってくれるって言ったじゃん!」「はいはい、買うわよ。全部買ってあげるから」奈帆は苛立ちを隠しきれないまま適当に答え、無造作にカードを差し出した。玲司から渡された家族カード。それを眺めながら、今夜はどうやって玲司の機嫌をとり、新しい車を買ってもらおうかと考えていた。そのとき、スマホが鳴り響いた。画面に表示された玲司の名前を見て、奈帆の口元が自然と緩む。「もしもし、玲司?」甘く柔らかな声で電話に出る。「私、今俊太と――」だが、スマホの向こうから聞こえてきた声は、いつものような優しさや甘さが欠片もなかった。「今すぐ戻れ」氷のように冷え切った声だった。「どこにいようが、三十分以内に戻って来い。家で待ってる」奈帆の心臓が大きく沈む。どうして玲司がこんな態度を取るの?まさか――何か知られた?だがすぐに首を振る。ありえない。クルーズ船の防犯カメラ映像は、すでに手を回して消去させた。千歌と真人の遺体も発見された。自分の計画は完璧だ。あの日、自分が口にしたことも、やったことも、知っている人間は存在しないはず。「ママ?」俊太が不機嫌そうにスカートを引っ張る。「だから、あのおもちゃいつ買ってくれるの?」奈帆は答える余裕もなく、「あとで!」とだけ言い捨てると、俊太の手を掴み、そのまま足早にショッピングモールを後にした。車へ乗り込んでからも、鼓動は激しく鳴り続ける。窓の外の景色が勢いよく流れていく。ハンドルを握る手には力が入り、爪が革に食い込みそうだった。大丈夫。知られるはずがない。そうやって、彼女は何度も何度も自分に言い聞かせた。やがて桜井家へ到着する。玄関の扉を開いた奈帆は、その場で思わず足を止めた。いつもなら煌々と灯りがともる家が、今日は異様なほど暗い。家中に、一つとして明かりが点いていなかった。リビングの大きな窓の前に、背を向けたまま外を見つめる玲司が立っていた。その手にはタブレット端末が握
健斗が退院する日、拓馬は自ら車を運転して二人を迎えに来てくれた。病室の前に立つ彼は、いつもの白衣ではなく濃いグレーのトレンチコートを羽織り、手にはひまわりの形をした小さなリュックを提げている。「拓馬おじさん!」健斗は嬉しそうに駆け寄り、その脚にぎゅっと抱きついた。拓馬はしゃがんで目線を合わせると、優しく微笑む。「目はもう痛くないか?」健斗は素直に首を横に振り、目元の包帯を少しだけめくった。まだ赤みは残っているものの、回復は順調そうだった。拓馬は安心したようにその頬をそっとつつく。「じゃあこれからは毎週水曜日、おじさんが家に迎えに行って、一緒に検診へ行こうか」荷物を持って隣に立っていた佑香は遠慮がちに口を開いた。「……そこまでしてもらうのはさすがに申し訳ないです」「そんなことないよ」拓馬はそう言って彼女の荷物まで自然に受け取ると、柔らかな声で続けた。「ちょうど僕も同じ方向だから」もちろん、それが方便だということくらい佑香にも分かっていた。彼の家と病院は街の東側、そして佑香たちの家は西側にある。同じ方向になるはずがない。それでも彼女は断らなかった。拓馬が健斗を後部座席へ抱き上げ、シートベルトを丁寧に締める姿を見ながら、小さく微笑む。車は雪の残る静かな街を走り出した。健斗は窓に張り付き、道沿いに並ぶトナカイのオブジェを見つけるたびに楽しそうに数えている。その様子をバックミラー越しに見守っていた拓馬が、ふと佑香へ視線を向けた。「来週の水曜日は休みを取ってあるんだ。その頃には健斗の包帯も外せるはずだから。せっかくだし、みんなで遊園地へ行かないか?」佑香はわずかに眉を寄せた。拓馬が多忙なのは知っている。せっかくの休日なのに、子どもに付き合って遊園地へ行くとなれば、自分自身は休む時間もなくなってしまう。そんな彼女の表情を見て、拓馬はすぐに気づいたようだった。「僕のことなら心配しなくていいよ」ハンドルを握る指先で軽くリズムを刻みながら、穏やかに言う。「手術成功のお祝いだと思ってくれればいい」そして少し懐かしそうに笑った。「大学の頃、言っていただろう?将来子どもができたら、できるだけたくさん遊びに連れて行ってあげたいし、できれば毎週遊園地に行きたいって。だから、その願いを叶える手伝いをさせてほしい」佑