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二度目の人生、私はもう中隊長の夫に執着しない

二度目の人生、私はもう中隊長の夫に執着しない

By:  青いトマトCompleted
Language: Japanese
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人生をやり直せるなら、私は婚姻届に妹の名前を書くことにした。 今度こそ、陸野軒也(りくのけんや)の願いを叶えてあげよう。 この世界線では、彼より先に妹にウェディングドレスを着せ、婚約指輪を妹の薬指にはめてあげた。 二人が出会うきっかけとなる場面も、すべて私の手で整えていく。 彼が妹を連れて京市(けいし)へ行くと聞けば、私は何も言わずに南へ下り、深南大学(しんなんだいがく)に進学することを決めた。 なぜなら、前世で私は五十を過ぎてもなお、彼と息子は土下座までして私に離婚を求めてきたから。 全ては、彼と妹との最後の縁を成就させるためだった。 二度目の人生、私はもう恋愛に縛られたくない。自由に、空高く羽ばたきたいだけなのだ。

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Chapter 1

第1話

「名前、書き終わったら渡してくれ」

陸野軒也(りくのけんや)は苛立った様子で机をトントンと叩いた。

私は婚姻届をじっと見つめ、指先でざらつく紙の端をそっと撫でる。心はどこか遠くを漂っていた。

前世の私は、まるで聖なる命令書でも受け取るように、慎重に自分の名前を書き込んだ。それから嬉々として軒也を引っ張って、お祝いのお菓子を買いに行った。

でも、彼は私に怒鳴りつけた。理由は、生理中の相沢慧奈(あいざわ けいな)に黒糖生姜湯を作りに帰るのが急がしかったから。

私は適当に返事をする。「分かった、分かったよ」

ちらりと顔を上げると、彼は焦った顔で何度も腕時計を見ている。

今日の彼は白いシャツを着ていて、袖を肘までまくり上げ、すらりとした前腕が見えていた。

思い出す。慧奈はこの格好が一番好きだった。「こうしてると、清潔感があって素敵」と言っていたっけ。

「用事があるなら、先に行ってもいいよ」

私は胸の奥の苦さを必死に押し隠し、わざと軽い声を出す。「記入が終わったら、私が提出しておくから」

予想通り、彼はほっとした様子で、少しだけ口調も和らいだ。

「心配しなくていい。俺たちは結婚するんだから、責任は取る。

でも、もう二度と慧奈のことでヤキモチ焼いたりしないでくれ。周りに知られたら、慧奈の評判が悪くなる」

私は口をつぐんだ。前世では何度も説明したけれど、彼の目には私はただの嫉妬深くて心の狭い姉に映っていた。

優しくて弱い妹を許せない、そんな女。

彼はそれ以上何も言わず、足早に立ち去った。

私は大きく息を吸い込み、乱れた鼓動を必死で落ち着かせようとした。けれど、脳裏には前世の記憶が何度も何度も蘇る。

新婚初夜、彼は「病気の妹の世話をする」と言い残し、一晩中帰ってこなかった。軍隊への赴任も、慧奈だけ連れて行った。慧奈はまだ京市に行ったことがないからだと。

私たちの息子が生まれた日すら、彼は現れなかった。代わりに、離婚した慧奈の慰めに寄り添っていた。

そして死の間際、息子は枕元で何度も説得してきた。

「お母さん、もうお父さんと離婚して。おばさんには敵わないよ。

お父さんだって、ずっと我慢してお母さんと一緒にいたんだ。もう手放してあげてよ」

私は病床で、冷たい目をした夫を見つめた。彼は一言も発しなかった。

その静寂が、彼の答えだった。

私は唇を噛みしめ、血の味が広がるまで力を込めた。

もう、二度と同じ道は歩まない。

私はペンを取り、婚姻届の申請者欄に、ゆっくりとこう記入した。

相沢慧奈。

軒也、そんなに彼女が好きなら、思い通りにすればいい。

私は記入済みの婚姻届を窓口の人に渡し、結婚証明書を受け取ると、そのまま役所を後にした。

不思議と悲しくはなかった。むしろ、言い知れぬ爽快感が胸に広がっていった。

前世の私は、両親が公務中に亡くなった後、慧奈とともに陸野家に引き取られた。

慧奈は愛嬌も要領もよく、陸野家の両親に実の娘以上に可愛がられていた。

軒也の母は早くから、慧奈を軒也の嫁にと考えていた。

けれど、慧奈の「お姉さんと争いたくない」という一言で、軒也は私を選ぶことに、何の迷いもなかったのだ。
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第1話
「名前、書き終わったら渡してくれ」陸野軒也(りくのけんや)は苛立った様子で机をトントンと叩いた。私は婚姻届をじっと見つめ、指先でざらつく紙の端をそっと撫でる。心はどこか遠くを漂っていた。前世の私は、まるで聖なる命令書でも受け取るように、慎重に自分の名前を書き込んだ。それから嬉々として軒也を引っ張って、お祝いのお菓子を買いに行った。でも、彼は私に怒鳴りつけた。理由は、生理中の相沢慧奈(あいざわ けいな)に黒糖生姜湯を作りに帰るのが急がしかったから。私は適当に返事をする。「分かった、分かったよ」ちらりと顔を上げると、彼は焦った顔で何度も腕時計を見ている。今日の彼は白いシャツを着ていて、袖を肘までまくり上げ、すらりとした前腕が見えていた。思い出す。慧奈はこの格好が一番好きだった。「こうしてると、清潔感があって素敵」と言っていたっけ。「用事があるなら、先に行ってもいいよ」私は胸の奥の苦さを必死に押し隠し、わざと軽い声を出す。「記入が終わったら、私が提出しておくから」予想通り、彼はほっとした様子で、少しだけ口調も和らいだ。「心配しなくていい。俺たちは結婚するんだから、責任は取る。でも、もう二度と慧奈のことでヤキモチ焼いたりしないでくれ。周りに知られたら、慧奈の評判が悪くなる」私は口をつぐんだ。前世では何度も説明したけれど、彼の目には私はただの嫉妬深くて心の狭い姉に映っていた。優しくて弱い妹を許せない、そんな女。彼はそれ以上何も言わず、足早に立ち去った。私は大きく息を吸い込み、乱れた鼓動を必死で落ち着かせようとした。けれど、脳裏には前世の記憶が何度も何度も蘇る。新婚初夜、彼は「病気の妹の世話をする」と言い残し、一晩中帰ってこなかった。軍隊への赴任も、慧奈だけ連れて行った。慧奈はまだ京市に行ったことがないからだと。私たちの息子が生まれた日すら、彼は現れなかった。代わりに、離婚した慧奈の慰めに寄り添っていた。そして死の間際、息子は枕元で何度も説得してきた。「お母さん、もうお父さんと離婚して。おばさんには敵わないよ。お父さんだって、ずっと我慢してお母さんと一緒にいたんだ。もう手放してあげてよ」私は病床で、冷たい目をした夫を見つめた。彼は一言も発しなかった。その静寂が、彼の答えだった。私
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第2話
実際のところ、慧奈は軒也をキープしていただけだった。だって、あの頃の軒也なんて、ただの中隊長にすぎなかったから。もっといい相手が現れるのを待っていたのだ。私は学校まで足を運び、大学進学に必要な手続きや、生活費がどれくらいかかるのかなど、色々と確認した。その上でようやく安心して帰路についた。軒也の家族寮に戻ると、ドアを開けた瞬間、慧奈が甘えた声を出した。「軒也、お姉さんをほっといて私のところに来てくれて……お姉さん怒らないかな?」「大丈夫、いつだって彼女の相手はできるさ。でもお前は、生理のたびに辛そうだから、放っておけないんだよ」慧奈は嬉しそうに笑い、でもすぐにわざと寂しげな顔をした。「ねえ、軒也、お姉さんと結婚しても、今みたいに私に優しくしてくれる?」「もちろんさ」軒也はきっぱりと言った。「お前以外に誰を大事にするっていうんだ?」「もしお前のお姉さんが、お前に冷たくするようなことがあったら……俺は彼女と離婚するよ」私はギュッと拳を握りしめ、どうにかして胸の痛みを堪えた。人生をやり直しても、やっぱり、夫がこんなにも冷たくなるのを聞くと、心が痛むものだ。気持ちを整えて、何食わぬ顔で部屋に入った。しばらくして、軒也が慧奈の部屋から出てきた。顔には少し気まずそうな表情が浮かんでいる。「俺は……慧奈の具合が悪そうだったから、ちょっと様子を見てきただけだ」私はそっけなく「うん」とだけ返し、部屋へ戻ろうとした。前世では、こういう曖昧な関係に何度も腹を立てて喧嘩した。でも、今世ではもう、そんなことに時間も気力も使いたくない。「楓花(ふうか)」彼が私を呼び止めた。「ちょっと、家族寮のみんなに、結婚祝いのお菓子を配ろうか?」私は彼を驚いた目で見た。きっと、私が怒らずに静かにしているから、何か埋め合わせのつもりなのだろう。「別にいいよ、そんな形式だけのこと、必要ない」彼は一瞬きょとんとした。まさか私が断るとは思わなかったのだろう。「お姉さん、軒也が私のことばかり気にしてるから、怒っちゃったの?」慧奈が部屋から出てきて、いかにも傷ついた、無垢な顔をして言った。しかも彼女が着ているのは――私が結婚写真のためにわざわざ買ったドレスだった。それは、前世で半年も節約してようやく買った、大切な一着
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第3話
こんなにも優しげな軒也の姿を見るのは、もうずいぶん久しぶりだった。「結構よ、外で食べてきたから」「そんなはずないだろ?いつもお金にシビアだったじゃないか」その一言が、胸にチクリと刺さった。確かに、私は昔はお金を惜しんでいた。食費も生活費も切り詰めて、バイトで稼いだお金のほとんどを彼のために使って、色々買ってあげていた。でも、これから私は大学生になる。お金がかかることなんて山ほどあるし、一円だって無駄にはできない。私は彼を見上げて、落ち着いた声で言った。「そういえば、数日前に結婚用品を買うよう二万円渡したよね。あなた買ってないみたいだから、返してもらえる?」彼は一瞬動きを止めたが、すぐに気まずそうに言い訳した。「そのお金……慧奈のために靴を買ったんだ」私は思わず口をへの字に曲げた。本当にこれだもの、呆れてしまう。「もういい。用はないから、私は寝るね」「明日ちゃんと返すよ」彼は少しイラついた声で言った。「俺たち夫婦なのに、そこまで細かくする必要ある?」私は冷たく鼻で笑った。「じゃあ、私が苦労して貯めたお金で他の女に物を買ってあげても、文句の一つも言っちゃいけないわけ?」彼は自分が悪いのを分かっているはずなのに、まだ強がって「理不尽だな」とぼそっと呟いた。私はもう関わる気もなく、バタンと勢いよくドアを閉めた。数日後、私は家にあるガラクタをいくつか売り払った。前世では思い出が詰まった品々だったけど、今となっては安物のゴミにしか見えない。全部まとめて、安値で回収業者に売った。手に入ったのはほんのわずかなお金。午後も引き続き荷物整理をしていると、軒也がやってきた。手にはあの二万円を握りしめて、ぶっきらぼうに言う。「ほら、返すぞ」私は黙って受け取って、うなずいた。「ありがとう」彼は複雑そうな目で私を見て、それから荷物の山に目をやった。「慧奈を先に連れて、京市に行こうと思う。お前はもう荷造りしなくていい」私は手を止めずに、軽くうなずいた。彼は私の態度に戸惑ったのか、少し落ち着かない様子で言った。「最近……どうしたんだよ。まるで別人じゃないか」私は煩わしさに顔をしかめ、そっけなく答えた。波風を立てたくなかった。軒也は私を愛していない。でももし彼が、婚姻届に慧奈の名前が書
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第4話
「二人で行けば?私、明日用事があるの」軒也は眉をひそめて言った。「結婚写真より大事な用事なんてあるのか?先に写真撮ってて。買い物には俺が付き合うから」彼は強引な口調で、一切の拒否を許さない雰囲気を醸し出していた。慧奈は甘えるように言う。「ねえ、お姉さん、もしかして、私のせいで行きたくないわけじゃないよね?」これ以上揉めるのも面倒だったので、私は頷いて承諾した。朝早く、軒也が慧奈の部屋で、低い声で彼女を起こしているのが聞こえた。カレンダーの赤い数字が目に入る、あと四日。四日後には、この生活ともきっぱりおさらばできる。私はもう待ちくたびれてイライラし始めていた頃、やっと二人はのんびり部屋から出てきた。軒也はやけに親切に慧奈の顔を拭いてあげていた。昔の私、本当に馬鹿だった。ただ結婚すれば、彼も私にこんな風にしてくれると、無邪気に信じていたのだから。ぼんやりしていると、軒也が妙に照れくさそうに近寄ってきて、小さな指輪を手にして言った。「俺たち、正式な結婚式を行ってないじゃん。だから買ってきた」私は受け取らなかった。前世ではそんな指輪、そもそも無かった。慧奈が見るなり、口を尖らせて「わぁ、可愛い!私も欲しい!」と言った。私はあっさりと「じゃあ、あげるよ」と言った。途端に軒也の顔が真っ黒になった。「やめろよ、それは俺たちの結婚指輪だぞ!」慧奈は指輪を奪って自分の指にはめ、軒也に手を振ってみせる。「軒也、私似合う?」軒也は慧奈を見て、目に甘さを滲ませながら、馬鹿みたいに頷いた。そして、気まずそうに私の方をちらりと見て、小声で言う。「次は、次はちゃんとお前に買うから」私はどうでもいいという顔で頷いた。そんな約束、何度も聞いた。けれど、一度だって守られたことはない。写真館に着くと、まず慧奈が一人で撮影した。しかも、軒也とのツーショットもたっぷりと。いよいよ私と軒也の番。カメラマンが一度レンズを構えたが、すぐに困ったように言った。「すみません、フィルムがもう切れちゃって……」内心ガッツポーズしながらも、顔には何の感情も浮かべずに言う。「じゃあ、もういいよ」写真館を出ると、軒也がポケットから切符を一枚差し出してきた。四日後、京市行きの立ち席の切符だった。「お前を
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第5話
もしかしたら気づいていたのかもしれないし、そもそも全く気にしていなかったのかもしれない。私はかすかに笑みを浮かべた。その瞬間、心に残っていた最後の迷いも跡形もなく消えてしまった。なるほど、これが彼の言う「これからはお前を大事にするよ」ってやつなのか。運転手は私を病院まで送ってくれた。一通りの検査を受けた結果、幸いにも外傷と内臓の軽いずれだけで済んだ。ベッドに横たわる私は、体中が痛むのに、不思議と心は静かだった。夜も更けた頃、軒也が疲れきった顔で病室に入ってきた。私が目を覚ましているのを見て、彼の顔には一瞬だけ動揺が走った。「楓花、体の具合はどう?少しは楽になった?」私は彼を冷ややかに見つめ、何も言わなかった。軒也は手をもじもじさせながら、落ち着かない様子で言い訳を始めた。「慧奈がすごく取り乱してて、だからずっとそばにいてやらなきゃって思って……」私の視線に気圧されたのか、彼は言葉を止めた。「楓花、聞いてくれ。あの時は本当に急だったんだ。慧奈が近くにいたから、つい……」彼は言葉を選ぶように一度止まり、「お前が車にぶつかるなんて、思ってなかったんだ」と続けた。私は彼の言葉を遮る。「京市には、いつ出発するの?」彼はおずおずと答えた。「明日」「わかった。もう休みたいから、出てって」私は目を閉じ、明らかな追い出しの合図を送った。軒也は何か言いたげだったが、結局空気を読んで病室を出て行った。翌日、軒也の母がやって来た。保温ポットを手に、満面の笑みで「楓花、軒也から聞いたのよ、私がお世話するからって」と話しかけてくる。「体調はどう?少しは良くなった?」「だいぶ良くなりました。ありがとう、おかあさん」軒也の母は私にスープをよそいながら、ぺらぺらとしゃべり続けた。「軒也もね、ほんとにドジで。慧奈のお世話なんて、できるのかしら……」ふと、何かに気づいたように黙り込む。「おかあさん、実は軒也と結婚するのは慧奈なんです」軒也の母は呆然とした顔で、ぽかんと口を開けた。「な、何て?」「婚姻届、私が代わりに慧奈の名前で出しました」一瞬の沈黙のあと、彼女は信じられないといった表情から一転、満面の笑みに変わった。「楓花、なんて良い子なの!おかあさん、あなたが一番しっかりしてるって、
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第6話
深市(しんし)の空気は、どこか湿っぽくて、それでいてほんのりと温かい。深南大学の正門の前に立ちながら、現実感が少し薄れている自分に気づいた。このキャンパスを歩いていると、まるで生まれ変わったみたいな気がする。昼間は教室で真面目に授業を受けて、知識という養分を懸命に吸収する。夜は小さな食堂でアルバイト。お皿を運んで、皿洗いもして、腰も背中も痛くなるくらい働いて。だけど、その疲れが逆に心地よくて、初めて生きてるって実感できた。一ヶ月も過ぎると、こんな忙しくて充実した毎日に、少しずつ慣れてきた気がする。そんなある日、寮の下で軒也に会った。「楓花!お前、一体なんでこんなことしたんだ?なんで婚姻届に慧奈の名前を書いたんだ?なんで京市に行かなかった?!」彼の声には、怒りと困惑が渦巻いていた。私は冷たい目で彼を見返す。「他の女が頭から離れない夫なんて、要らないよ。気持ち悪いし、もううんざり!」彼は信じられないものを見るような目で私を見つめる。「お前、どうしてそんなこと言うんだ?前はそんなじゃなかっただろ?」私は顔を背け、胃の奥がむかむかするのを感じる。吐き気が波のように押し寄せてきた。もう、これ以上、彼の顔なんて一秒だって見たくなかった。「軒也、私は今、ちゃんと勉強して、新しい人生を始めたいだけ。最初からずっと、あんたが欲しかったのは慧奈でしょ?二人で幸せになってよ。もう私の前に現れないで!」彼は苛立たしげに髪をかき上げる。「何言ってるんだよ!俺は慧奈のことは妹だとしか思ってない!」私は冷笑を浮かべた。「妹と抱き合ったり、こっそりキスしたりする兄貴なんて、いるわけ?」前に一度、彼が寝てる慧奈にそっとキスしているのを見てしまった。あの時の優しい表情、たぶん一生忘れない。彼の顔に羞恥と怒りが浮かんだかと思うと、すぐに逆上したように叫ぶ。「ふざけるな!俺と慧奈は何もない!」「あなたの言う兄妹の情なんて、私からしたら、ほんとに気持ち悪い!だから、もう私を解放して、あなた自身も」彼は顔色を真っ青にして、でも何も言い返せない。私は思い出す。幼い頃、陸野家に引き取られたばかりの私は、いつも空腹を我慢していた。ご飯も満足に食べられなくて、夜中にこっそり庭で葉っぱを食べていたのを彼に見つかった。
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第7話
学長は私と軒也を順番に見比べ、少し沈黙してから、口を開いた。「陸野さん、あなたと相沢さんに法的な関係がないのであれば、退学手続きの申請は受け付けられません」その言葉を聞いて、私はようやく胸を撫で下ろした。軒也はまだ何か言いたげだったけれど、学長がそれを遮る。「陸野さん、他にご用がなければ、お引き取りください。こっちはまだ仕事がありますので」それからの日々も、軒也の影は私の周りから消えなかった。しつこくつきまとわれて、正直うんざりだし、勉強にも集中できなくて成績にも影響が出始めた。さらに厄介なことに、今度は慧奈まで現れたのだ。「軒也、お願いだから、家に帰って離婚しようよ!こんなの嫌だよ、お姉さんの旦那さんを奪いたくなんてない……私……私は悪い子だよ……」彼女は軒也の服の端をぎゅっと掴んで、しゃくりあげながら泣きじゃくる。軒也はそんな彼女を優しく抱きしめ、背中をぽんぽんと撫でながら慰めた。「慧奈、もう泣かないで。お前のせいじゃないんだ。さあ、帰ろう。俺が悪かった、お前をつらい目に遭わせてしまって……」慧奈は涙ながらに、今にも私の前にひざまずきそうな勢いだった。「お姉さん、ごめんなさい。軒也のこと、怒らないで。私たちのこと、きっと誤解なんだから」「跪かないでいいの。俺のせいで辛い思いをさせてごめんね。さあ、帰ろう」そう言いながらも、軒也は私に鋭い視線を投げかける。その視線には、まるで「無駄に騒いで面倒を起こす女」への非難が込められていた。周りには野次馬の学生たちがどんどん集まり、ひそひそと噂話が飛び交う。こんな茶番、もう見ていられない。私はくるりと背を向けて、その場を去った。好きに演じていれば?私はもう付き合いきれない。 やっぱり慧奈はやり手だった。その日のうちに軒也はもう現れなくなった。私は勉強に没頭し、数学部にも入部した。そこで出会ったのが、古島辰樹(こじま たつき)だ。背が高くて細身、黒縁メガネがよく似合う。笑うと太陽みたいに明るい。数学の腕は抜群で、よく私の勉強も見てくれる。そうしているうちに、私たちはすっかり親しくなった。やっと平穏な日々が戻ってきた、そう思い始めた頃だった。軒也からの手紙が、あきれるほどしつこく届き始めた。【楓花、まだ俺に怒ってる
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第8話
そもそも、彼らに育ててもらった恩がある。いくら私でも、そんなに冷たくはできない。何度も考えた末、私は切符を買って、大きな紙袋や手土産を抱えて山市に帰った。陸野家の門をくぐった瞬間、鋭い罵声が耳に飛び込んできた。「軒也、どういうつもりよ!言っとくけど、私のお腹にはあなたの子供がいるのよ!そんな扱いされる筋合いないわ!」私は呆然と立ち尽くした。見れば、慧奈が大きなお腹を抱えて、軒也に食ってかかっている。軒也は顔色を真っ青にしながら、反論することもできず、ただ小さな声で彼女をなだめていた。「慧奈、落ち着いてくれ。お医者さんが言ってたろ?今は感情を乱すと赤ちゃんによくないって……」「私はあのコートが欲しいの!今すぐ買ってきてよ!」「慧奈、今月の手当はもう使い切ったんだ。来月また買ってあげるから」軒也は慌てて慧奈を椅子に座らせる。「全部あんたが無能なのが悪いのよ。いまだに中隊長止まりなんて。まさかお姉さんにお金渡してるんじゃないでしょうね?」軒也の顔色がサッと変わる。「慧奈、そんなこと言うな。あいつとはもう終わってる」「終わった?私をバカにしてるの?あんた、こそこそ手紙送ってるの知ってるんだから!結局、あんたの心には私なんかいない。あの人しかいないのよ!」慧奈は泣きながら、軒也の胸を何度も叩いた。軒也は堪えきれず、「違うって言ってるだろ!」と苛立ちを隠せない。私は玄関に立ったまま、この茶番を眺めていた。ただただ滑稽で、可笑しくて仕方がなかった。前世では、彼は私に隠れて慧奈と連絡を取っていた。今生では、慧奈に隠れて私に手紙を送ってくる。結局のところ、彼は今あるもので満足できず、まだ持っていないものばかりを欲しがる、そんな薄っぺらい男だった。最初に私に気づいたのは、軒也の母だった。「楓花、帰ってきたのね!ねえ、慧奈をなだめてちょうだい。この子、最近ますます気が強くなってるの」手を取られ、声にはどこか媚びるような響きが混じっていた。私はスッと手を引き抜き、淡々と返す。「疲れてるので、部屋で休みます」軒也の母の顔が一瞬こわばったが、それ以上は何も言わず、また慧奈を低姿勢でなだめ始めた。私の記憶にある、あの偉そうな姑とはまるで別人だ。自分の部屋に戻ると、荷物の中から辰樹にもらったお正
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第9話
「もし本当に償いたいって思うなら、慧奈とちゃんと暮らしてあげて。もう、私には関わらないで。この方が、私たち姉妹のためでもあるから」彼の瞳は沈み、声にはどこか未練が滲んでいた。「でも、どうしても思ってしまうんだ。俺の妻になるべき人は、お前じゃないかって」もう我慢の限界だった。私は冷たく言い放つ。「軒也、もう帰って。そんなこと言うために来たんじゃないでしょ」彼はうなだれたまま立ち上がり、重たい足取りで私の部屋を出て行った。彼の背中を見送っても、私の心は何も動かなかった。前世でも今世でも、彼はずっと二人の女の間で揺れ続けて、全部を欲しがっていた。私は考えた。軒也と慧奈がここに住んでいるなら、私がいる意味なんてない。陸野家なんて、もともと私の家じゃないのだから。翌朝早く、荷物をまとめて、軒也の母の部屋のドアをノックした。一枚のカードを彼女の手にそっと押し込む。「おばさん、今までお世話になりました。このカードには、私がこれまで貯めてきたお金が入ってます。育ててくれた恩への、せめてものお礼です」彼女は一瞬驚いた顔をして、慌てて手を振る。「楓花、それはさすがに……」「どうか、受け取ってください」私は荷物を持ち直し、淡々と言った。「学校に用事があるので、これで失礼します」そう言うと、一度も振り返らずに、陸野家を後にした。未練なんて、ひとかけらもない。切符売り場は長蛇の列。やっと順番がきたと思ったら、深市行きの切符はもう売り切れだった。調べてみたら、次に行けるのはなんと明後日だ。思わず頭をかきむしる。これからどこに行こう?さすがに野宿は無理だ。途方に暮れていると、両手に大きな荷物を持った辰樹が、目の前に現れた。「楓花!」彼は嬉しそうに笑って、駆け寄ってきた。私も思わず笑顔になる。「辰樹、偶然だね。辰樹も山市の人なの?」「そうだよ。もしかして、今、行くところがないのか?」辰樹が心配そうに言う。「だったら、うちで年越ししない?」「えっ、でも、そんな……」「遠慮しないで。むしろ、来てくれたら嬉しいんだ」彼はにっこりしながら言った。「うちは俺とおばあちゃんだけでさ、家の中も静かだし。楓花が来てくれたら、きっと賑やかになるよ。それに、こんなお正月に一人でいるなんて、俺も心配でさ」彼は
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第10話
部屋は広くはないけれど、とても清潔で整っていた。ベッドに敷かれた布団からは、まるで太陽の光を浴びたような、ふんわりとした香りが漂っている。「まずは少し休んでて。年越しそば、もうすぐできるから」辰樹はスーツケースを下ろし、優しい声でそう言った。私はこくりとうなずき、ベッドの端に腰掛ける。窓の外では雪が静かに舞い落ちていて、思わず見入ってしまう。胸の奥に、今まで感じたことのないような穏やかさと安らぎが広がっていた。きっと、これが家ってものなんだろう。夜、私たちは食卓を囲み、年越しそばを頬張っていた。おばあちゃんは、ひたすら私の皿におかずを乗せてくれる。「楓花、これからもいつでも遊びにおいで。おばあちゃん、いつでも大歓迎よ」私は思わず笑顔になり、何度も頷いてしまった。胸の中が、ほんのりと温かい。食事が終わると、辰樹が近くの公園まで散歩に行こうと提案してくれた。冬の公園は人もまばら。たまに見かけるのは、寄り添って歩くカップルくらいで、その静けさがなんだか特別に思えた。私たちは湖のほとりを、ゆっくりと歩く。誰も何も言わないまま。雪がふんわりと降り積もり、まるで薄いヴェールのように私たちの肩にそっと乗ってきた。「ありがとう、辰樹」私が静かに口を開くと、彼は首を傾げて聞き返す。「何が?」「私を助けてくれて、こんなあたたかい場所をくれて……本当にありがとう」辰樹はにやりと笑って、「じゃあ、責任とって俺に嫁いでくれたらどう?」とからかってくる。私は一瞬ぽかんとしたけれど、すぐにぷいっと顔を背けてツンとする。「何言ってるのよ、バカ!」口ではそう言いながらも、心の中には小さな波紋が広がっていた。「じゃあ、どうやって俺に恩返しするつもり?俺、駅で遭難してた楓花を命がけで助けたヒーローだよ?」彼の大げさな言い方に思わず吹き出してしまう。わざと真顔を作って、「ヒーロー?どうせ恩をダシにして、なにか企んでるんでしょ?」彼はしばらく考え込むふりをしてから、真剣な顔で言った。「うーん……じゃあ、学校が始まるまでの間、毎日俺にご飯作って?」私は思わず呆れ顔でため息をつく。「それはちょっとね、私、料理下手なんだから」彼はいたずらっぽく笑った。「大丈夫、俺、好き嫌いないから。それにさ、たとえまずくても、
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