Short
豪華な結婚式のあと、私は新居の一時滞在者になった

豪華な結婚式のあと、私は新居の一時滞在者になった

作家:  本の虫ザック完了
言語: Japanese
goodnovel4goodnovel
10チャプター
6.3Kビュー
読む
本棚に追加

共有:  

報告
あらすじ
カタログ
コードをスキャンしてアプリで読む

概要

切ない恋

逆転

ひいき/自己中

クズ成敗

後悔

七夕の夜、牧野瑛斗(まきの えいと)は莫大な金を投じて、街じゅうの大型ビジョンに私・林柚葉(はやし ゆずは)の名前を煌々と浮かび上がらせた。 涙が止まらなかった。 私は彼と結婚するために、アイビーリーグ大学院から届いていた推薦入学のオファーを断った。 それが、今日、区役所で思いがけない事実を知るまでは。 窓口の職員は、気の毒そうな目を私に向けて言った。 「林さま、こちらの住民票を確認しますと、このマンションの所有者は白鳥音花(しらとり おとか)さま。また、ご主人さまの配偶者として届け出がなされているのも白鳥さまとなっております。 林さまは一時滞在者扱いとなります」 私は瑛斗の社長室のドアを押し開けた。彼は音花の薬指に、口づけているところだった。 「どういうことか説明して」 私の声に、彼は眉をひそめ、心底うるさそうな顔をした。 「音花は子供の頃に親を亡くしててな、人一倍さみしがりなんだよ。たかが不動産の名義と婚姻届だ。名義だけ貸してやって、安心させてるだけだ。 お前には誰もが羨む結婚式をやった。誰もが羨むような幸せを味わわせてやった。体面ってやつは全部与えてやったんだ。まだ足りないってのか」 音花は彼の胸に寄りかかり、勝ち誇ったように笑った。 「柚葉さん、そんな怒らないでくださいよ。私は形だけでいいんです。夜になれば、彼はちゃんとあなたのところに帰って、夫のつとめを果たしてるんでしょ?」 私は自分の指にある結婚指輪を見つめた。その輝きが、唐突に、耐えがたいほど目に痛かった。 指輪を抜き取り、静かに彼の社長机の上に置いた。 そのまま背を向けて部屋を出る。歩きながら、父にメッセージを打った。 短い、四文字のメッセージだ。 【家に帰る】

もっと見る

第1話

第1話

七夕の夜、牧野瑛斗(まきの えいと)は莫大な金を投じて、街じゅうの大型ビジョンに私・林柚葉(はやし ゆずは)の名前を煌々と浮かび上がらせた。

涙が止まらなかった。

私は彼と結婚するために、アイビーリーグ大学院から届いていた推薦入学のオファーを断った。

それが、今日、区役所で思いがけない事実を知るまでは。

窓口の職員は、気の毒そうな目を私に向けて言った。

「林さま、こちらの住民票を確認しますと、このマンションの所有者は白鳥音花(しらとり おとか)さま。また、ご主人さまの配偶者として届け出がなされているのも白鳥さまとなっております。

林さまは一時滞在者扱いとなります」

私は瑛斗の社長室のドアを押し開けた。彼は音花の薬指に、口づけているところだった。

「どういうことか説明して」

私の声に、彼は眉をひそめ、心底うるさそうな顔をした。

「音花は子供の頃に親を亡くしててな、人一倍さみしがりなんだよ。たかが不動産の名義と婚姻届だ。名義だけ貸してやって、安心させてるだけだ。

お前には誰もが羨む結婚式をやった。誰もが羨むような幸せを味わわせてやった。体面ってやつは全部与えてやったんだ。まだ足りないってのか」

音花は彼の胸に寄りかかり、勝ち誇ったように笑った。

「柚葉さん、そんな怒らないでくださいよ。私は形だけでいいんです。夜になれば、彼はちゃんとあなたのところに帰って、夫のつとめを果たしてるんでしょ?」

私は自分の指にある結婚指輪を見つめた。その輝きが、唐突に、耐えがたいほど目に痛かった。

指輪を抜き取り、静かに彼の社長机の上に置いた。

そのまま背を向けて部屋を出る。歩きながら、父にメッセージを打った。

短い、4文字のメッセージだ。

【家に帰る】

……

家に帰ると、マンション管理人がドアの前に立ち、気まずそうな声で言った。

「林さま、システム上、白鳥さまがあなたの長期入室権限の取消を申請されておりまして……こちらに継続してお住まいの場合は、あらためて一時滞在の登録が必要になります」

ドアの画面に表示された「指紋未登録」を見て、私は指を空中で止めた。

「一時滞在の登録」

「はい」

管理人は手にしたタブレットの管理システムの画面を開き、私の前に差し出した。

「こちらの物件の所有者は白鳥音花さまとなっております。規定により、所有者の配偶者または直系親族以外の方は、一時滞在者としてしかご登録いただけません」

タブレットの画面がまぶしくて、目が痛くなった。

所有者、白鳥音花。

配偶者、牧野瑛斗。

電子データはあまりにも明瞭で、言い訳の余地すらなかった。

私はゆっくりと手を戻し、声を絞り出した。

「わかりました。ありがとうございます」

管理人は気の毒そうにこちらを一瞥し、エレベーターに乗り込んだ。

廊下に静寂が戻った。人感センサーの照明だけが、かすかな電子音を立てている。

私はスマートフォンを取り出し、瑛斗に電話をかけた。

長いコールの末、ようやく応答があった。

背景はひどく静かで、書類をめくる紙の音だけが遠くに聞こえる。

「どうした」

瑛斗の声は落ち着いていて、いつもの余裕がにじんでいた。

「家に入れなくなった」

閉じたままの防犯ドアを前に、私は静かに言った。

受話口の向こうで一拍の間があった。

「音花が、知らない人が出入りするのを気にして、一度指紋認証の設定を整理したいって言い出してな。たぶん、うっかりお前の指紋まで消しちまったんだろう」

ため息が聞こえ、それから宥めるような口調になった。

「とりあえず暗証番号を使え。番号は変わってない、俺の誕生日のままだ。

柚葉、気にするな。俺がちゃんと片をつける」

私はまぶたを伏せ、つま先を見つめた。

「瑛斗。管理人に言われた。私はここの一時滞在者なんだって」

瑛斗は電話口でほんの少し黙り、それから、小さく笑った。

「柚葉、今日会社に怒鳴り込んできただけじゃ、まだ足りないのか。

説明しただろう。音花は小さい頃に孤児院で育ってな。自分の家ってものに、人よりずっと飢えているんだ。このマンションを彼女名義にしてやったのは、ただ安心させてやるためだ。

お前には街中が羨む結婚式をやってやった。お前が俺の妻だってことは、誰もが知っている。この家に住んでいるお前を、一時滞在者扱いする奴なんているか」

彼の中では、愛情と体面は私に、名分と財産は音花に、それで釣り合いが取れていると思っているらしかった。

「じゃあ婚姻届の受理は?」

私はスマートフォンを握りしめた。指先が白くなる。

「区役所のシステムが処理中だから、私たちの受理証明書はもう少し待たないともらえない。あなた、そう言い続けてきたわよね。

でも、システム上であなたの配偶者になっているのは、彼女のほうだ」

瑛斗の声が一段低くなった。

「柚葉、どうしたんだ。お前、前はそんな女じゃなかった。

俺が毎晩帰っているのは誰のところだ。七夕の夜、街じゅうの人々の前で結婚を誓った相手は誰だ?

紙切れ一枚で、お前に向ける気持ちが変わるもんか。証明書より、お前自身のほうがずっと大事だ。

この件はちゃんと片をつける。ただ少し時間がいるだけだ」

私は何も言わなくなった。

胃のあたりに、きりきりと痛みが走る。

「わかったな」

瑛斗は声をやわらげ、なだめるように言った。

「今夜は付き合いの予定がある。遅くなるが、あとでちゃんと帰る。あまり考えすぎるな。今晩、ゆっくり話そう。いいな」

電話が切れた。

受話口の無機質な電子音を聞きながら、彼の誕生日の番号を押す。

ピッ――ドアが開いた。

玄関には、昨日私が生けたばかりの百合がそのまま置かれている。

リビングのテーブルに、段ボール箱が積まれていた。

近づいて蓋を開けると、中には瑛斗が私に宛てて書いた誓約書と、私がドライフラワーにしたブーケが入っている。

昨日まで家のいちばん目立つ場所に飾っていたそれらが、今はすべて、この雑貨入れの箱の中だ。

私は主寝室へ向かい、いちばん下の引き出しを開ける。

その奥に、結婚証明書がしまってある。

結婚式の日、瑛斗が私に手渡して、「これは俺たちの愛の証だ」と言ったものだ。

取り出し、静かにそれを開く。

もっと見る
次へ
ダウンロード

最新チャプター

続きを読む

レビュー

ノンスケ
ノンスケ
命の恩人をそんなに簡単に間違えて、愛する妻と結婚式を最大にやる裏では、愛人と入籍して家の名義も与えて…本当に愛していたらそんな二重婚みたいなことしないだろう。自分のことしか考えないクズだったわ。
2026-07-17 20:19:59
4
0
松坂 美枝
松坂 美枝
主人公が優しすぎる ずっと支えてたのに気づかれずウソの結婚式だの家だの… 下手に隠さず私が助けてやったんだと堂々と言った方がいいのかな(笑) 何も求めずキレイに去って…クズ男マジアホだった
2026-07-17 10:29:41
5
0
10 チャプター
第1話
七夕の夜、牧野瑛斗(まきの えいと)は莫大な金を投じて、街じゅうの大型ビジョンに私・林柚葉(はやし ゆずは)の名前を煌々と浮かび上がらせた。涙が止まらなかった。私は彼と結婚するために、アイビーリーグ大学院から届いていた推薦入学のオファーを断った。それが、今日、区役所で思いがけない事実を知るまでは。窓口の職員は、気の毒そうな目を私に向けて言った。「林さま、こちらの住民票を確認しますと、このマンションの所有者は白鳥音花(しらとり おとか)さま。また、ご主人さまの配偶者として届け出がなされているのも白鳥さまとなっております。林さまは一時滞在者扱いとなります」私は瑛斗の社長室のドアを押し開けた。彼は音花の薬指に、口づけているところだった。「どういうことか説明して」私の声に、彼は眉をひそめ、心底うるさそうな顔をした。「音花は子供の頃に親を亡くしててな、人一倍さみしがりなんだよ。たかが不動産の名義と婚姻届だ。名義だけ貸してやって、安心させてるだけだ。お前には誰もが羨む結婚式をやった。誰もが羨むような幸せを味わわせてやった。体面ってやつは全部与えてやったんだ。まだ足りないってのか」音花は彼の胸に寄りかかり、勝ち誇ったように笑った。「柚葉さん、そんな怒らないでくださいよ。私は形だけでいいんです。夜になれば、彼はちゃんとあなたのところに帰って、夫のつとめを果たしてるんでしょ?」私は自分の指にある結婚指輪を見つめた。その輝きが、唐突に、耐えがたいほど目に痛かった。指輪を抜き取り、静かに彼の社長机の上に置いた。そのまま背を向けて部屋を出る。歩きながら、父にメッセージを打った。短い、4文字のメッセージだ。【家に帰る】……家に帰ると、マンション管理人がドアの前に立ち、気まずそうな声で言った。「林さま、システム上、白鳥さまがあなたの長期入室権限の取消を申請されておりまして……こちらに継続してお住まいの場合は、あらためて一時滞在の登録が必要になります」ドアの画面に表示された「指紋未登録」を見て、私は指を空中で止めた。「一時滞在の登録」「はい」管理人は手にしたタブレットの管理システムの画面を開き、私の前に差し出した。「こちらの物件の所有者は白鳥音花さまとなっております。規定により、所有者の配偶者
続きを読む
第2話
証明書の内側には私たちの名前が印刷されていたが、法的効力はなく、ただの記念品だ。私は爪の先で、証明書の表紙に貼られた見返しをそっと剥がした。一枚のツーショット写真が、はらりと落ちる。写真のなか、瑛斗は白いシャツを着てやわらかく微笑み、音花が彼の肩に寄りかかって目を細めて笑っている。私はその写真を長いこと見つめ、それから元どおりに見返しのあいだに挟み込んで引き出しに戻した。クローゼットを開け、スーツケースを取り出す。服を何着かたたんで静かに詰め、ファスナーを閉めたちょうどその時、チャイムが鳴った。玄関に向かい、ドアを開けると、音花が立っていた。トレンチコートを着て、背後にはスーツ姿の男が一人と、作業服を着た二人の業者が控えている。「柚葉さん、やっぱりいらしたんですね」音花はとても愛らしく微笑み、私の肩越しに部屋の奥へと視線を流した。「何の用?」私は入り口に立ったまま、彼女を通す気はない。音花の後ろにいたスーツの男が一歩前に出て、名刺を差し出した。「林さま、私は白鳥さまの顧問弁護士をしております。こちらの物件は白鳥さま個人の婚姻中に取得した財産にあたり、白鳥さまには現在、住居の改装および家具やインテリアの入れ替えを行う権利がございます。ご協力をお願いいたします」音花は小さくため息をつき、無邪気な目で私を見上げた。「柚葉さん、誤解しないでください。ただ、いまの内装って少し冷たい感じがするから、もう少しあたたかい色合いの家具に変えたいと思っただけなんです。だってここは、私と瑛斗の家ですから」彼女は「私と瑛斗の家」という部分だけ、ことさらはっきりと発音した。「柚葉さんが使っていたもの、私、嫌じゃないですよ。ただ主寝室だけ空けていただければいいので」私は彼女の顔を見つめた。急に、すべてがどうでもよくなった。「空けるまでもない」体を横にずらす。「私が出る」音花の目が一瞬輝き、彼女は業者に作業を始めるよう指図した。そのとき、エレベーターのドアが開き、瑛斗が大股で歩いてくる。眉間に深い皺を寄せていた。「音花、どうしてここに」彼は音花のそばに歩み寄り、問いかけるような口調で言った。音花はたちまち目を赤くして、彼の袖口をぎゅっとつかんだ。「瑛斗、ただ私たちの新しい家を見に来たかっただけ
続きを読む
第3話
3日後、牧野グループのチャリティパーティー。行くつもりはなかった。だが、瑛斗のアシスタントが開始4時間前からホテルの入り口に張り込み、スタイリストとともに、あのオートクチュールのドレスを持って私を足止めした。「林さま、本日のパーティーは重要な場です。どうか状況をご理解いただけますよう」慇懃な口調だったが、一歩も引く気はない。私はそのドレスを見つめた。結婚式の前、瑛斗がフィッティングに付き添ってくれたとき、彼は言った。「柚葉、このドレスはお前にしか似合わない。お前は誰かを羨む必要なんてないんだ」私はそのドレスに袖を通し、会場へ向かう車に乗り込んだ。ホテルに着くと、報道陣が左右にびっしりと並んでいる。瑛斗がレッドカーペットの先で待っていた。黒のスーツに身を包み、凛とした佇まいだった。私が車から降りるのを見るなり、早足で近づき、腰に腕を回した。「今夜は綺麗だ」彼は声を潜め、耳元でささやいた。「柚葉、今夜は堪えてくれ。俺の隣に立つお前こそ牧野夫人だ」私は何も言わず、彼にエスコートされるまま中へ進んだ。宴会場に足を踏み入れた途端、人混みがざわめいた。視線の先を追う。音花がシャンパンタワーのそばに立っていた。手にはジュースのグラス。彼女のまとうドレスは、私のそれとまったく同じものだった。ただウエストだけが少し手直しされていて、それがなおさら彼女を可憐に見せている。彼女が手を上げ、髪を整える仕草をした。薬指に光る結婚指輪が、シャンデリアの下で目を刺すようにきらめいた。まわりの招待客たちがひそひそと囁きはじめる。「どういうこと、お揃いのドレス?」「あれ白鳥秘書じゃない?指につけてるの、結婚指輪だよね」「結局、牧野社長が結婚したのってどっちなんだ」記者たちが数人、彼女を取り囲んだ。「白鳥さま、お揃いのドレスは偶然でしょうか?」「その指輪は、もうご結婚されたという意味ですか?」音花は怯えたように一歩後ずさり、瑛斗の方角をおずおずと見上げた。それから、マイクの前でか細い声を出す。「みなさん、誤解しないでください。私と瑛斗はもう入籍しています。ただ、柚葉さんは結婚式にこだわる方だから、瑛斗が彼女のためにあの結婚式をしてあげたんです」会場がどよめいた。すべてのレンズが一斉に私と瑛斗
続きを読む
第4話
わずかに眉を寄せた瑛斗の顔を、私は見つめていた。しっかり立て、と彼は言った。私が不倫相手扱いされているこの瞬間に、何があっても自分がなんとかすると口では言いながら、彼は何ひとつ動こうとしない。宴会場の空調はよく効いているのに、全身が冷えきっていくのを感じた。バッグの中でスマートフォンが震えている。見なくてもわかる。私に関する検索ワードはすでにトレンド入りしている。あの言葉が、私のいちばん弱い部分を直撃し、背筋を凍らせるようなコメントで埋め尽くされているはずだ。私は腰に回された瑛斗の手をほどき、一歩うしろに下がった。「牧野瑛斗」彼の目をまっすぐに見て、声を出した。それは小さな声だったけれど、静まり返った宴会場にくっきりと響いた。「今、この場でみんなの前で言って。林柚葉は不倫相手じゃないと。そうしたら私、あなたを最後にもう一度だけ信じる」周囲の記者がぴたりと静まり、すべてのマイクやICレコーダーが一斉にこちらへ近づけられる。瑛斗の顔色が変わった。彼は声を潜め、苛立ちを含んだ口調で言った。「柚葉、まず落ち着け。いまはそれを問題にする場じゃない。今夜が終わったら、すべてのことをちゃんと説明する。お前がここで口を開けば、事態がもっと収拾できなくなる」制止の言葉を無視して、私は頑なに彼を見つめ続けた。「あなた、一度も私と入籍してない。あの結婚式に法的な効力なんて何もなかった。それ、ここで認められる?」瑛斗は黙り込んだ。唇をきつく結び、視線が私と音花のあいだを迷う。彼には言えないのだ。ここで真実を明かせば、音花が他人の夫を奪ったと非難される。事実が公になれば、自分の評判が傷つく。彼の沈黙こそが、何より深く私を傷つけた。その様子を見て、音花が突然泣き声を上げた。彼女は瑛斗をぐいと押しのけ、私の前まで歩いてくる。そして、すべてのメディアが見ている前で、膝をついた。「柚葉さん、ごめんなさい」彼女は私のドレスの裾をつかみ、涙をこぼした。「柚葉さんが瑛斗を愛していること、知っていました。私が欲をかいて、名分なんて欲しがったのがいけなかったんです。明日にでも瑛斗と離婚して、牧野夫人の座を返します。だから、もうこれ以上彼を責めないでください」フラッシュが瞬く。記者たちのひそひそ声は、いつ
続きを読む
第5話
彼は音花を押しのけ、私の前に駆け寄ると、ガラスの破片が散らばる床に膝をつき、私を抱き上げようとした。その手が震えている。私は彼の恐怖に満ちた顔を見つめながら、視界がぼやけていくのを感じていた。「瑛斗……」極めてかすかな声で、私はその夜の最後の言葉を口にした。「痛い……」……病室の外の廊下は、照明が目に刺さるほど眩しかった。病床に横たわり、天井の白い蛍光灯を見つめ、モニターの電子音を聞いている。麻酔はまだ切れておらず、身体はふわふわと浮いているようだった。けれど、下腹部だけは、氷を当てられたような冷たさが異様なほどはっきりと残っている。ドアが押し開けられ、医師が入ってきた。瑛斗がすぐ後ろに続く。彼のスーツは埃まみれで、両手には乾ききった血の痕がこびりついていた。一夜にして10歳は老け込んだように見えた。「患者さんが目を覚まされました」医師はカルテをめくりながら、厳しい口調で言った。「ご家族はどうされているんですか。妊娠8週にもなって、気づかなかったんですか?搬送時にはすでに流産の兆候が出ていました。そこへ激しい衝撃が加わり……」医師は言葉を切り、ため息をついた。「申し訳ありません。お子さんは助かりませんでした」瑛斗の身体が揺れ、背中がへたりと丸まった。彼は医師を血走った目で凝視したまま、「妊娠……彼女が妊娠していた」と、掠れた声で繰り返した。医師は眉をひそめて彼を一瞥すると、それ以上は何も言わず、病室を出ていった。病室には私たち二人だけが残された。瑛斗はゆっくりと病床のそばまで歩み寄り、膝をついた。彼は私に触れるのを怖がっているようだった。ただベッドの縁に顔を埋め、肩を激しく震わせている。「柚葉……すまない」彼の涙がシーツに落ち、にじんだ染みを作る。「知らなかった。妊娠していたなんて、本当に知らなかったんだ。さっきはお前を選ばなかったんじゃない。ただ、まず音花を落ち着かせようとしただけで、メディアがお前を傷つけるのを恐れたんだ……こんなことになるなんて、思ってもみなかった……」彼は異様なほど取り乱し、後悔に打ちひしがれて泣いていた。私は彼を見つめていたが、心の中には何の波も立たなかった。悲しみもなく、怒りもなく、胸の痛みさえもなかった。ただ、
続きを読む
第6話
瑛斗は病室を出ると、喫煙室にこもった。煙草を一箱丸ごと吸いきった。今にもすべてを失いそうなパニックを、ニコチンで押さえつけようとしていた。アシスタントから電話が入る。声は焦りきっていた。「社長、パーティーの件はすでに炎上の勢いは抑えましたが、悪影響は深刻です。白鳥さまのほうは、ずっと泣いていて、怖い、会いたいとおっしゃっています」瑛斗は煙草を挟んだ指をきつく締めつけた。「マンションにいさせろ。どこにも出すな」彼は煙草をもみ消し、冷えきった声で言った。「宴会場の防犯カメラを調べろ。あの一角の映像を、すべて確認するんだ」30分後、防犯カメラの映像が彼のスマートフォンに届いた。画質は鮮明だった。音花が床に膝をつき、後ろへ倒れる瞬間、手首を隠すようにしながら、確かな力を込めて柚葉の膝を突き飛ばしている。瑛斗は画面を凝視したまま、足元から頭のてっぺんまで、一気に冷たいものが駆け上がるのを感じた。彼はずっと、音花は弱々しく痛々しい、安らぎを求めていたただけの女だと思っていた。だから彼女の小さな駆け引きを大目に見てきたし、埋め合わせのつもりで家と「妻」の肩書きまで与えた。けれど、これほど多くの視線の前で、ああいうやり方で柚葉を傷つけ、自分の子を傷つけるとは、考えもしなかった。彼は勢いよく立ち上がり、大股で柚葉の病室へ向かった。真実を彼女に伝えなければならない。彼女に償わなければならない。しかし病室のドアを押し開けたとき、中はもぬけの殻だった。ベッドはきれいに整えられ、誰もいなかったかのようだった。瑛斗は慌てふためき、通りかかった看護師をつかまえた。「この病室の患者はどこだ?」「林さまは転院のお手続きをされて、30分ほど前にお発ちになりました」看護師は彼の形相に驚いている。「どこへ転院した。誰が手続きを?」「存じ上げません。黒いスーツを着た数名の方がお迎えに来られて、手続きも非常に整っていました」瑛斗はすぐにアシスタントに命じ、病院入り口の防犯カメラを確認させた。県外ナンバーの高級車が、静かに病院の裏口に停まっている。数人の護衛らしき男たちが車椅子を囲み、柚葉を車へと乗せていく。そのナンバーを、瑛斗は知らなかったわけではない。南津市の林家の車だ。彼はふと、柚葉
続きを読む
第7話
瑛斗はその書類を受け取らなかった。雨に濡れた髪から、水が目に流れ込み、刺すように痛む。「俺は彼女の夫だ」彼は車内の弁護士を睨みつけ、掠れた声で、同じ言葉を繰り返した。「これは動かぬ事実だ」弁護士は淡々と彼を見返し、書類を守衛室の窓枠に置いた。「牧野さま。法律は、その事実を認めておりません。こちらは、双方の婚姻関係が存在しないことの確認を求める申立書です。それと同時に、結婚式における虚偽の誓約、ならびに第三者による加害行為を放置して柚葉さまに負わせた名誉毀損および身体的傷害について、法的責任を追及いたします」瑛斗はその場に凍りついた。法律は、その事実を認めておりません――その一言が、彼の最後の思い上がりを木端微塵に打ち砕いた。彼はかつて、一枚の紙切れに過ぎないと、法律上の妻という立場を渇望する柚葉を適当にあしらってきた。今、その一枚の紙が、二人のあいだに横たわる越えられない溝となった。「署名はしない」瑛斗は歯を食いしばり、目に血の気が滲んだ。「彼女に会わせろ」そのとき、一台のタクシーが少し離れた場所に停まった。音花が傘を差し、よろめきながら駆け寄ってくる。「瑛斗」彼女は瑛斗に縋りつき、悲しみに暮れて泣いた。「やっと見つけた。私を置いていかないで。本当に悪かったと思ってるの」彼女は病院の門のほうへ顔を向けると、声を張り上げ、わざと中に聞こえるように叫んだ。「柚葉さん、中にいるんでしょう?赤ちゃんがだめになったのは、私だって辛いんです。でも、その責任を全部瑛斗に押しつけるなんてひどいです!瑛斗が倒産しかけたとき、私が全財産を出して彼を救ったんです。今さらそんなに冷たくできるんですか?」瑛斗は眉をひそめ、苛立ちながら彼女を引き剥がそうとした。「もういい、帰れ」病院の門の内側、渡り廊下から、かすかな車椅子の車輪音が近づいてきた。私が病衣のまま車椅子に座っていた。執事が私のために傘を支え、鉄の門越しに、私は雨の中に立つ二人を静かに見つめていた。瑛斗は私を見つけるなり、すぐに音花を振りほどき、門に縋りついた。「柚葉、お前、大丈夫なのか」私は彼には応じず、無垢そのもののような音花の顔に視線を落とした。「あなたが彼を救ったって?」私はかすかに笑った。その
続きを読む
第8話
瑛斗はそれ以上、病院の門の前で食い下がったりはしなかった。彼は夜通し車を飛ばして会社に戻り、猛然と資料室に駆け込んだ。5年前、会社が最も苦しかった時期の書類を、すべて引っ張り出す。そしてついに、いちばん奥の金庫のなかから、あの匿名で届けられた投資保証書類の原本を見つけ出した。紙はすでに黄ばみかけている。最後のページをめくり、彼の視線は、右下の余白に走り書きされた一行に釘付けになった。【リスク管理可能、融資を推奨する】筆跡は端正で、それでいて見覚えのある、負けん気の強さが滲んでいた。柚葉の字だ。瑛斗の手が激しく震えはじめた。彼はさらに、あのとき母親の入院費の領収書の控えを引っ張り出した。支払者署名の欄には、たったひとつの走り書きのイニシャルが残されているだけだったが、その書き出しの癖は、どう見ても柚葉のものだった。彼はふいに、5年前の冬のことを思い出した。あらゆる場所で門前払いを食らい、完全に行き詰まっていた自分。柚葉が、ぷつりと三日間姿を消した。そして再び現れたとき、彼女は高熱にうなされ、顔は紙のように白かったのに、ただ道に迷っていただけだと笑った。その直後、匿名の資金が振り込まれ、保証書類が届いた。そして音花が、彼が最も弱っているときに、おずおずと「気にしないで」と声をかけてきた。彼は音花こそが、唯一の命の恩人だと思い込んできた。本当に自分を窮地から救い出した人間が、自分のために信託資産を担保にして、推薦入学の枠を捨て、危うく家族との縁まで切られかけたことも、何ひとつ知らずに。瑛斗は書類棚を拳で思い切り殴りつけた。指の関節から血が滲む。彼はどこまでも滑稽な道化だった。偽物に恩を返すために、自らの手で、最も愛する者を絶望の淵へ追い詰めたのだ。音花は、いつのまにかオフィスに忍び込んでいた。床に散乱した書類を目にした瞬間、彼女の顔はさっと青ざめ、すぐさま瑛斗に駆け寄って彼の脚に縋りついた。「瑛斗、話を聞いて。私は本当にあなたを愛しているの。柚葉さんは、ずっと前から真実を知っていたのに、わざと言わなかった。あなたに罪悪感を抱かせたかったのよ」瑛斗は見下ろした。かつて彼が、保護欲をかき立てられる可哀想な顔だと思ってきたその顔を。今はただ、吐き気がするだけだった。彼は音
続きを読む
第9話
林家の客間には、煌々と灯りがともっていた。瑛斗は全身ずぶ濡れのままカーペットの上に立ち、足もとに水が滴り落ちて染みを作っている。柚葉の父は上座の椅子に腰かけ、熱い茶を手にしたまま、まぶた一つ動かさなかった。「牧野グループの株式の30パーセント。それから、あの新居の所有権を名義変更します」瑛斗はしゃがれた声でそう言い、胸元から署名済みの書類を何枚か取り出してローテーブルに置いた。「すぐに公式に謝罪し、柚葉が不倫相手などではないと明らかにします。音花とは手続きを済ませ、できるだけ早く柚葉と婚姻届を提出します」彼は柚葉の父を見つめた。その口調には、ほとんど卑屈と言っていい懇願の色が滲んでいた。「林会長、柚葉が許してくれるなら、俺の持つすべてを差し出します。彼女がもう一度振り向いてくれる、ただ一度の機会と引き換えに」柚葉の父は茶碗を置いた。かちり、と硬質な音が響く。彼は瑛斗を見据えた。その目には嘲りと侮蔑がありありと浮かんでいた。「君はまだ、娘に足りないのは君の持っているものだと思っているのか」柚葉の父は立ち上がり、瑛斗の前まで歩いた。「柚葉が昔抵当に入れた信託基金は、牧野グループの半分を買い取って余りある額だ。娘が欲しかったのは、最初から金でもなければ、君が施してやるという名分でもない。一片の曇りもない、ただ一人への偏愛だ。残念だが、君には与えられなかった」階段から、かすかな足音が降りてきた。私が肩にショールを羽織り、ゆっくりと階下へ下りていく。瑛斗が弾かれたように顔を上げ、その瞳に狂喜が走った。「柚葉」彼は前に出ようとしたが、護衛に行く手を阻まれた。私はローテーブルまで歩き、それらの譲渡書類には一瞥もくれなかった。ポケットから一冊の冊子を取り出し、書類の上に投げ置く。七夕の日、彼が私に渡した、あの結婚証明書だ。「瑛斗、これは返す」私は彼を見つめた。その目はひどく静かだった。「婚姻届の差し出しもいらない。謝罪もいらない。私、あなたをいらない」瑛斗の目の奥が一瞬で灰色に抜け落ち、生気が消え失せた。彼はその証書を見つめ、唇を震わせながら、一言も発することができなかった。彼はようやく悟ったのだ。一度壊れたものは、二度と元には戻らないのだと。……一週
続きを読む
第10話
気がつけば、もう立冬だった。南津市の風はすでに冷たさを帯びている。私は書斎のデスクに座り、パソコンの画面に映った一通のメールを見つめていた。差出人は、アイビーリーグの大学院。大学院の合格通知と、全額給付の奨学金の知らせだった。私は「承諾」をクリックした。パソコンを閉じ、深く息を吸い込む。肺のなかを空気がすみずみまで通り抜けていくようで、胸の奥がすっと軽くなった。半月後、私はかつて自分を縛りつけたあの街へ、最後のビザの手続きをするために戻った。車が中心街の広場を通りかかったとき、運転手が不意にスピードを落とした。「柚葉さま、外をご覧になって」窓の外に目を向ける。広場の大型ビジョンが、白い光を放っていた。半年前の七夕、瑛斗はあの場所で、街じゅうの大型ビジョンに私の名前を映し出し、偽りの誓いを立てた。今、スクリーンにはプロポーズの言葉はない。黒地に白抜きで、ただ一行の大きな文字が浮かんでいる。【林柚葉は一度も不倫相手などではなかった。私、牧野瑛斗が彼女に償いきれない傷を負わせた】署名は、瑛斗の直筆サインだった。まわりの歩行者たちが足を止めて写真を撮り、口々に囁き合っている。私は車に座ったまま、しばらくそれを静かに眺めていた。心には、感動もなければ憎しみもない。ただ、自分とは無関係のニュースを見ているだけだった。「行ってください」私は視線を戻し、運転手に声をかけた。空港へ向かう途中、私は宅配便の営業所に立ち寄った。あのとき目障りでならなかった結婚指輪と、あの証書をまとめて梱包し、牧野グループの社長室宛てに送る。差出人の名は書かず、余計な言葉も添えなかった。封筒のなかには、たった一枚の付箋だけを忍ばせてある。【どうか、二度と道を踏み外さないでください。でも、それももう私には関係のないこと】午後三時、空港のターミナル。私は搭乗券を手に、保安検査場へ歩いていく。背後に広がる大ホールから、切迫した足音と、誰かの叫ぶ声がかすかに届いてきた。「柚葉」その声はしゃがれ、絶望の色が滲み、深い悔恨に震えている。私は振り返らなかった。係員が私の身分証明を確認し、微笑みながらパスポートを手渡してくれる。「よいご旅行を」「ありがとう」私はキャリーケースを引
続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status