All Chapters of クズ旦那と別れた私は愛を見つけた: Chapter 1 - Chapter 10

21 Chapters

第1話

桜井玲司(さくらい れいじ)が自分を愛することはない――その現実をようやく受け入れた桜井千歌(さくらい ちか)は、離婚届を提出し、息子の真人(まさと)を連れて桜井家を去った。ところが、これまで冷え切っていた玲司の態度が、その日を境に一変する。毎日のように車で待ち伏せし、復縁してほしいと頭を下げる。仕事の合間はすべて真人との時間にあて、誕生日でもないのに贈り物を用意し、親子を喜ばせようとした。さらには二人を守ろうとして犯人に刃物で刺され、生死の境をさまようほどの重傷まで負った。息子の「パパを許してほしい」という願いもあり、千歌は少しずつ心を開いていく。そしてついに、復縁を受け入れた。だが、復縁の手続きを終えた帰り道、千歌と真人は、大きな交通事故に巻き込まれた。十数時間に及ぶ緊急手術の末、千歌は腎臓を一つ失い、真人は両目の光を奪われた。そして事故の翌日。病院の廊下を歩いていた千歌は、真人の手を引いたまま医師の控室の前を通りかかる。半開きの扉の向こうから、彼女はとある秘密を聞いてしまった。「桜井社長が計画した交通事故、本当に完璧だったな。警察もまったく不審に思っていないらしい」「でしょうね。聞いた話じゃ、幼馴染の日暮奈帆(ひぐれ なほ)さんとその息子さんが交通事故に遭って、一人は腎臓移植が必要になり、もう一人は角膜移植が必要になったとか。でも適合したのが千歌さん親子だけだったそうだよ。だから桜井社長はわざわざ復縁を迫ったんだろうな。再婚して家族になれれば、本人の同意がなくても手続きができる。いやあ、そこまでして日暮さんを助けたいなんて、本当に彼女が大切なんだな」「千歌さんたちも気の毒だよ。自分たちが利用されたことも知らないままなんだから。今、桜井社長が304号室で日暮さんに付き添ってることさえ知らないでしょうね」千歌の全身から血の気が引いた。足元が揺らぐ。耳に入った言葉を、脳が理解することを拒んでいる。あの事故が――玲司の仕組んだものだと?復縁を求めてきたのも、愛情ではなく目的を果たすためだったのか。壁に手をつきながら、千歌はふらつく足を必死に前へ運んだ。やがて医者たちが言っていた304号室の前に辿り着く。扉はわずかに開いていた。その隙間から、聞き覚えのある声が流れてくる。「玲司、千歌さんたち
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第2話

病室へ戻ると、千歌はすぐにスマホを取り出した。そして、ある専門業者へ電話をかける。依頼したのは――自分と真人の偽装死工作だ。「ご希望の日程は?」担当者に尋ねられ、千歌はカレンダーを開く。視線が止まったのは、真人の誕生日。「20日後の、4月19日でお願いします」昨夜、玲司は約束していた。今年は真人の五歳の誕生日を盛大に祝おう、と。だったらその日を選ぼう。誰もが祝福する誕生日パーティーで、自分と真人はこの世から消える。すべての手配を終える頃には、千歌もようやく冷静さを取り戻していた。それから数日間、玲司は一度も姿を見せなかった。代わりに秘書が病院へやって来て、こう伝えた。玲司が国内外の眼科医を探し回り、真人の視力を回復させる方法がないか調べている、と。だが千歌も真人も知っていた。それもまた、真っ赤な嘘だ。なぜなら、彼は一歩たりとも、奈帆の病室から離れたことがなかったのだから。退院の日、手続きを終えた千歌たちを迎えに来たのは、意外にも玲司本人だった。彼は花束とおもちゃのレーシングカーを抱えている。退院祝いだと言って差し出してきた。二人は喜んで受け取ってくれると玲司は思っていたが、千歌も真人も淡々と断った。「私は花粉症だから、こういうお花は苦手なの」千歌がそう言うと、続いて真人も小さな声で言った。「ぼく、もう見えないから……レーシングカーはいらない」玲司の手が宙で止まり、わずかに表情が固まる。「……すまない。配慮が足りなかった。すぐに別の物を用意させるよ。欲しいものはないか?アクセサリーはどうだ?変形ロボットは?ブランド物の新作バッグとか、チョコレートとか……」帰宅する車の中でも、玲司は次々と贈り物を挙げ続けた。必死に埋め合わせをしようとしているように見える。けれど千歌はわかっていた。彼が挙げた物はどれも自分や真人の好みではない。奈帆と彼女の息子、俊太(しゅんた)が好きなものばかりだ。奈帆はいつもSNSにそれらを載せていたから。玲司と結婚して五年も経ったのに、彼は自分や息子の好みさえ知らない。それでも良き夫、良き父を演じようとしている。これ以上彼の演技に付き合っていられず、千歌は口を開いた。「私たちは何もいらない。言いたいことがあるなら、そのまま話して」玲司は少し驚いたようだった。数秒の沈黙
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第3話

真人を寝かしつけたあと、千歌は静かに部屋を出た。医師から処方された漢方薬を煎じるため、階下のキッチンへ向かおうとした、その時だった。突然――額に硬いものが当たった。「っ……!」鈍い痛みに思わず息を呑む。触れてみると、額に大きなこぶができていた。顔を上げてみたら、二階の吹き抜けから俊太が身を乗り出していた。ガラスのコップ、オルゴール、おもちゃの車など、次々と物が投げ落とされる。避ける間もなく、それらが肩や腕に当たり、全身に痛みが走った。千歌は顔をしかめ、頭を庇いながらしゃがみ込む。「何をしてるの?」そう聞くと、俊太は顎を上げて得意げに笑った。まるで悪びれる様子もない。「遊んでるだけだよ。おばさんバカなの?避ければいいのに。ケガしたって知らねえよ」あまりの言葉に千歌は耳を疑った。怒りを抑えながら答える。「お母さんから、人に物を投げちゃいけないって教わらなかったの?」俊太は反論しようとしたが、背後から近づく足音に気付いたのか、突然ぽろぽろと涙を流し始めた。そしてそのまま玲司の胸へ飛び込む。「玲司おじさん……!ぼく、遊んでる時ちょっと間違って当てちゃっただけなのに、千歌おばさんに怒られたの……」その一言で、玲司の顔色が変わった。「俊太は遊んでるだけだ。子ども相手に本気で怒る必要がないだろ?」玲司の言葉を聞いて、千歌は思わず笑いそうになった。血が滲む額を抑えながら言う。「これだけ傷だらけにされているのに、私が悪いっていうの?」玲司はようやく彼女の身体へ目を向けた。無数の打撲痕が目に入り、眉をひそめる。態度が少し柔らかくなったものの、やはり俊太を庇った。「俊太に悪気はない。たいしたケガじゃないだろう。絆創膏を貼れば済む話だ。もう騒ぐな」言い終えると、玲司は俊太の涙を拭い、そのまま部屋へ連れて行った。扉が閉まるのを見届けながら、千歌は奥歯を噛み締めた。拳を強く握り、爪が掌へ食い込む。胸の奥で渦巻く怒りと悔しさを何度も押し殺し、深呼吸を繰り返した。ようやく気持ちを落ち着けると、薬を持ってキッチンへ向かう。午後いっぱい、千歌は火の前から離れなかった。薬が煮上がり、器に移した時だった。ドンッ――!家中に響く大きな音が聞こえ、続いて子どもの泣き声が聞こえてくる。嫌な予感がして、千歌は器を置き、
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第4話

玲司の冷え切った声を聞いた瞬間、千歌の心は奈落へ突き落とされた。彼女は真人を抱きしめるように胸へ引き寄せる。その目の前で、執事が鞭を手に取り、容赦なく振り下ろそうとする。「やめて!」反射的に身体が動いた。千歌は真人を庇うように覆いかぶさり、その一撃を背中で受け止める。鋭い風切り音が部屋中に響く。激痛が全身を貫く。それでも退くことはできない。鞭が振り下ろされるたびに服は裂け、肌に赤黒い傷が刻まれていく。一本、また一本と増えていく傷痕は、見るも痛々しかった。千歌は唇を噛み締めた。口の中に鉄の味が広がり、喉の奥から苦しげな呻きが漏れる。血が滴り落ちていき、意識も次第に遠のいていった。そして最後の一撃が終わった時、張り詰めていた糸が切れたように、千歌はその場へ崩れ落ちた。意識が闇に沈む直前、最後に見えたのは――俊太を抱き上げ、奈帆の手を引きながら去っていく玲司の背中だった。……どれほど眠っていたのだろう。目を開けると、視界いっぱいに病院の白い天井が広がっていた。意識を失う前の出来事が一気によみがえる。千歌は飛び起きるように身体を起こし、傍にいた看護師の腕を掴んだ。「息子は?真人はどこですか?無事なんですよね?」看護師は慌てて彼女を落ち着かせた。「お子さんは大丈夫ですよ。疲れが溜まっていたみたいで、まだ眠っています。それより、あなたの傷のほうが心配です。無理をせず、横になっていてください」その言葉を聞き、千歌はようやく息を吐いた。まだ身体中が痛むが、それでも真人の病室へ向かう。ベッドに近づくと、眠ったままの真人が小さく呟いた。「……ママ」夢の中でも母親を探している真人に、胸が締め付けられた。千歌は真人の小さな手を握りしめ、掠れた声が漏れる。「ごめんね、真人。ママが守ってあげられなかったから……こんな目に遭わせてしまった。でも約束する。もう二度と誰にもあなたを傷つけさせない。必ずここから連れ出すから」その時、病室のドアが開き、玲司が入ってきた。最後の言葉だけ聞こえたのか、眉をひそめる。「連れ出す?また離婚するつもりか?真人は目が見えないんだぞ。それに彼はまだ幼い。少しは子どものことを考えて、落ち着いて行動してくれないか」あまりにも当然のような口ぶりだった。千歌の胸に怒りが込み上げる。真人
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第5話

玲司の命令を聞くや否や、ボディーガードの男たちが一斉に動いた。千歌の腕を乱暴に掴み上げ、そのまま壁へ押しつける。千歌は必死に顔を上げる。悔しさと悲しみで滲んだ目を玲司へ向け、声を振り絞った。「違う!俊太くんが真人を傷つけた!私がいない間に、点滴の針で真人の手を何度も刺して……!お願いだから見て!真人の手を見れば――」パシンと、乾いた音が千歌の言葉を遮った。男の平手が千歌の頬を打ち据えたのだ。頬は瞬く間に腫れ上がり、切れた唇の端から血が滲んだ。だが、それで終わりではない。容赦のない平手打ちが左の頬にも当たる。焼けつくような痛みが頬から頭へ広がり、容赦なく神経を掻き乱した。ようやく男の手が離れた頃には、千歌の視界はぐらぐらと揺れていた。立っていることもできず、そのまま床へ崩れ落ちる。痛みのせいで、呼吸をするだけで苦しい。それでも彼女は這うように真人のもとへ向かった。騒ぎに怯えきった真人は、声を上げて泣いている。千歌は震える手で息子の指を握った。「大丈夫……」掠れた声が漏れる。「怖がらないで……ママがいるから、絶対守るから……」玲司は、その光景をただ冷ややかに見下ろしているだけだった。そして奈帆へ視線を向けた瞬間、表情は驚くほど柔らかくなる。玲司は奈帆の涙を指先で拭い、まだ泣きじゃくる俊太を抱き上げ、優しく宥めた。「もう大丈夫だ。俺がいる。誰にも嫌な思いはさせないから」奈帆は玲司の腕にそっと手を添える。そして千歌を見下ろしながら、わざと悲しげな表情を浮かべた。「私たちなら少しくらい嫌な思いをしても構わないのよ。でも真人くんが本当に可哀想。ただでさえ目が見えなくなってしまったのに、千歌さんがちゃんと導いてあげないなんて……これから、あの子がもっと苦しむことになるだけだわ。私も母親だから、彼のことが本当に心配なの」そして玲司へ視線を向けた。「あなたはお父さんなんだから、きちんと教えてあげるべきよ。親の言動は子どもにそのまま伝わるものだから」奈帆の言葉を聞いて、玲司の目つきが鋭くなった。ここ数日の出来事を思い返したのだろう。そして、彼は真人を抱きしめたまま離そうとしない千歌を見つめ、冷たく言い放った。「奈帆の言う通りだ。お前みたいな母親のもとにいたら、真人は駄目になる。母親としての役目を果たせないなら、しばらく真人
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第6話

時間が無情に過ぎていった。泣き続けたせいで、千歌の喉は焼けるように痛み、やがて声すら出なくなった。意識もぼんやりとかすみ、全身を重い倦怠感が覆っていく。涙はとっくに枯れ果てていた。今すぐここから逃げ出したい。真人がどうしているのか知りたい。その思いだけが胸を締めつけるのに、千歌は光の差し込まない地下室に閉じ込められたまま、ただ苦しみに耐えることしかできなかった。どれほど時間が経ったのだろう。不意に聞こえた足音に、千歌ははっと目を開けた。地下室の扉が開き、執事が姿を現す。ようやく希望が見えた千歌は駆け寄った。「真人は?」掠れた声が怯えと心配で震える。「あの子は無事なの?怪我はしてない?誰かにいじめられたり、私を探して泣いていたりしてない……?」矢継ぎ早の問いかけに、執事は言葉を失ったように視線を伏せる。やつれきった彼女の姿を見て、胸を痛めているのが伝わってきた。しばらくためらったあと、彼はようやく重い口を開く。「奥様……旦那様はお忙しくて、坊ちゃんのことはほとんど奈帆様が面倒を見ています。奈帆様自身は表向き問題のあることはしておりません。ただ……俊太様がたびたび坊ちゃんをからかい、その度が過ぎているようでして……食事の際にわざと熱いものを触らせて火傷を負わせたり、家の中で足を引っかけて転ばせたり……夜にはベランダへ閉じ込められ、一晩中寒さに晒されたこともありました」真人がずっと苦しめられていたと聞くと、千歌の心が引き裂かれそうだった。彼女はふらつく身体を無理やり起こしたが、執事に止められる。「奥様、落ち着いてください。実は、他にお伝えしたいことがあって参りました。今日は幼稚園の遠足の日でした。奈帆様は俊太様を連れて出かけたのですが、坊ちゃんも無理やり同行させられました。私どもは止めたんですが、聞く耳を持たれなくて……それで、奈帆様は三十分ほど前に戻られました。しかし、坊ちゃんの姿が見当たらないのです。私どもが尋ねても、はっきりしたことをおっしゃらなくて……万が一のことがあってはいけないと思い、ご報告に参りました」その言葉は、千歌にとって青天の霹靂だった。身体が大きく震える。ただでさえ青白かった顔から、完全に血の気が失せた。次の瞬間には、彼女は地下室を飛び出していた。一刻も早く真人を探さなければ。
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第7話

真人の震える声を聞いた瞬間、千歌の胸は締めつけられるように痛んだ。やっとの思いで見つけた息子を強く抱きしめ、溢れる涙を止められなかった。「もう少しだからね、真人。ママ、すぐにあなたを連れて行くから。誰にも見つからない場所へ行って、もう二度と、誰にも傷つけさせないから」真人を落ち着かせたあと、千歌は息子を背負うように抱き上げ、山道を歩き始めた。下山するだけで三時間近くかかった。靴擦れで足には無数の水ぶくれができ、草木に擦れた腕や脚は傷だらけ。額の傷も乾いた血で固まり、顔色は青白い。それでも千歌は倒れなかった。真人だけは守る。その一心だけが、限界を超えた身体を支えていた。ようやく家へ辿り着き、扉を押し開ける。しかし目に飛び込んできたのは、夕食を囲む玲司と奈帆たちだった。玲司は自らステーキを切り、味を整えて奈帆の皿へ取り分けている。俊太が好き嫌いをすると、ネギやピーマンなどを丁寧に取り除きながら根気よく食べさせていた。そして、奈帆たちが食べかけの菓子を差し出せば、それすら嫌な顔ひとつせず口に運び、笑顔を見せる。疲れ切り、お腹も空いた千歌は、家族のような三人を遠くから見つめた。胸の中にはもう怒りすらない。ただ冷え切った静寂だけが広がっていた。彼女は何も言わず、そのまま真人を連れて部屋へ戻ろうとする。だが背後から玲司の冷たい声が飛んできた。「待て。真人には近づくなと言ったはずだ。勝手に連れ出したうえに、その姿は何だ?」その言葉を聞いた瞬間、千歌の中で積み重なっていた感情が堰を切った。ずっと押し殺してきた怒りと悲しみが、一気に噴き出す。「真人がどうしてこんな姿になったのか、本当に分からないの?この子が傷だらけなのは私のせいだっていうの?目が見えないのに、俊太くんにいじめられて、そのせいで何度も火傷して、転んでた。どうしてあなたは見て見ぬふりをしたの?今日だって、真人は山の崖のそばに一人で置き去りにされていたのよ!私が探しに行かなかったら、この子は今ごろ生きていなかったかもしれない!何も知らないくせに、どうして私だけを責めるの?」悲鳴にも似た訴えに、玲司は思わず言葉を失った。その視線が真人へ向く。確かに身体には新しい傷がいくつも増えていた。玲司が何か言おうとしたその時、奈帆は困ったような顔で口を開いた。「玲司
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第8話

すべての準備を終えた頃には、真人の誕生日が訪れていた。千歌はその日、いつもよりずっと早く目を覚ました。鏡の前に座り、丁寧にメイクを施す。そして真人には用意しておいた新しい服を着せ、キッチンに立って朝ごはんを作った。真人は嬉しそうにそれを平らげると、自分から千歌の手を握った。「ママ。今日ここを出たら、もう二度と帰ってこなくてもいいよね?」千歌は微笑み、息子の手を握り返した。そして二人で並んで家を後にする。「そうよ」千歌の声には未練など欠片もない。「これからは新しいおうちで暮らすの。ママは、ずっと真人のそばにいるから」今回の誕生日パーティーは、大型クルーズ船を貸し切って開かれることになっている。船に乗り込むと、潮の香りを含んだ風が二人の髪を優しく揺らす。千歌は果てしなく広がる青い海を見つめた。真人がまだ目が見えていた頃、海が大好きだった。浜辺で貝殻を拾い、砂遊びをし、波と追いかけっこをする。そんな同年代の子どもたちを見ては、父親と遊ぶ姿を羨ましそうに眺めていた。それでも真人は一度も駄々をこねなかった。むしろ寂しそうな顔をする千歌を励ましてくれた。「みんなにはパパがいるけど、ぼくには世界一のママがいる。だからぼくのほうが百倍幸せだよ!」あの幼い声が耳の奥によみがえり、千歌の瞳がわずかに揺れた。だが感傷に浸る暇はない。彼女は真人を抱き寄せ、会場へと足を向けた。宴会場にはすでに多くの招待客が集まっていた。玲司の招待とあれば、欠席する者などほとんどいない。華やかな笑い声とグラスの触れ合う音が響く中、千歌たちの姿を見つけた客たちは形式的に会釈をするだけで、誰も積極的に話しかけてこなかった。玲司から愛されていない妻と息子。それはこの界隈では誰もが知る公然の秘密だった。千歌もそれを理解している。彼らは真人の誕生日を祝いに来たわけではない。玲司との縁を繋ぐため、その顔を立てるために集まっただけだ。だからこそ、向けられる無関心にも冷たい視線にも、何も感じなかった。時間だけが静かに過ぎていく。窓の外は徐々に暗くなり、船内の照明が煌めき始めた。だが主催であるはずの玲司は、一向に姿を見せない。会場には次第に苛立った空気が漂い始めた。何人もの客が千歌のもとへやって来る。「桜井社長はまだですか?」と尋ねる。「仕事が立て
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第9話

物音を聞いた真人は、何が起きたのかすぐに察したようだった。小さな手でぎゅっと母の手を握り締める。そして首を横に振った。「いらない」幼いながらも、はっきりとした声だった。「そのプレゼント、ぼくはいらない。もう、みんなと一緒に誕生日を祝うこともないから」その言葉に、玲司は胸の奥に奇妙な違和感を覚えた。何かがおかしい。そう感じたものの、その意味を問いただす前に――俊太が再び騒ぎを起こした。手にしていたケーキを掴み、そのまま千歌と真人へ投げつけたのだ。その後も、俊太は楽しそうに笑いながら会場を駆け回った。飾られていた誕生日写真を引き剥がし、花を倒し、シャンパンタワーにまで手を伸ばす。ガラスの割れる音が響き、会場はたちまち散乱した。俊太は悪びれる様子もなく、むしろ両手を高く上げて叫んだ。「玲司おじさん!ママ!ここすっごく広いよ!かくれんぼしようよ!先にぼくを見つけた人の勝ちね!」奈帆は叱るどころか笑顔を浮かべた。そして玲司の腕を取り、息子の遊びに付き合ってあげた。玲司もまた、俊太の無邪気な姿を微笑ましそうに見つめていた。その光景に、千歌の胸の奥で怒りが静かに燃え上がる。何か言おうとした、その時だった。スマホが小さく震えた。画面を開く。届いていたのは、偽装死の工作をしてくれる業者からのメッセージだった。【ご依頼の二体の遺体はすでに海へ流しました。あとはお子様と海へ飛び込んでいただければ、こちらのスタッフがお迎えし、安全な場所へお送りいたします】その一文を読んだ瞬間、千歌はようやく胸の重石が少しだけ外れるのを感じた。彼女はティッシュを取り出し、真人の服についたクリームを丁寧に拭き取る。そして何事もなかったかのように息子の手を握って、宴会場を出た。案の定だった。奈帆はずっと千歌の動きを気にしていたらしい。二人が出て行くのを見るなり、俊太へ目配せをする。――玲司が宴会場から出ないよう足止めするように、と。そして彼女は、静かに千歌たちの後を追った。背後から近づいてくる足音を聞きながら、千歌は真人を連れてデッキの手すりまで歩いた。そこで立ち止まり、振り返る。奈帆を見つめながら、千歌は薄く笑った。「何をしに来たんですか?また誰もいないところで、私たちを陥れるつもりですか?」奈帆は鼻で笑った。もう取り繕う気す
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第10話

デッキの手すり際に立つ奈帆は、胸が激しく上下していた。体の両側に置かれた手が言うことを聞かず、震え続けている。海風に巻き上げられた巻き髪は乱れ、怒りと恐怖で化粧も崩れかけている。彼女は慌てて周囲を見回した。――誰も見ていない。それを確認してようやく息をつき、髪を整えながら無理やり平静を装う。頭上では防犯カメラの赤いランプが小さく点滅していたが、奈帆はそれに気づかなかった。というより、気づく余裕などなかったのだろう。宴会場へ戻ると、玲司はまだ俊太と遊んでいた。「ママ、どこ行ってたの?」俊太が嬉しそうに駆け寄ってくる。「ちょっと外を見てきただけよ」奈帆は息子を抱き寄せながら、なるべく穏やかに微笑んだ。「玲司おじさんと楽しく遊べた?」「うん!帰ったら船の模型も買ってくれるって!ママ、下りたら一緒に買いに行こうよ!」無邪気にはしゃぐ母子の姿を見ているうちに、玲司の脳裏にふと千歌の顔が浮かんだ。そういえば――千歌と真人の姿を、しばらく見ていない。その事実に気づいた瞬間、玲司はわずかに眉をひそめた。「社長、どうかなさいましたか?」秘書が声をかける。「いや……」玲司は眉をひそめ、周囲を見回した。だが、見慣れた親子の姿はどこにもない。「千歌は?」「奥様でしたら、先ほど坊ちゃんを連れて外の空気を吸いに行かれました。探しましょうか?」「いや、いい」玲司は手を振った。「せっかくあいつらのための誕生日パーティーなのに、どこをほっつき歩いているんだ?本当に常識がないな」そう言ったあと、彼は眉を寄せた。何か引っかかるものを覚えたのか、しばらく考え込む。そして結局、「いや、やっぱり探してこい」と命じた。しかし、船内を一通り探しても、千歌と真人は見つからなかった。「奈帆」玲司が近づいてくる。「さっき外に出ていただろう。千歌たちを見なかったか?」一瞬だけ、奈帆の心臓が大きく跳ねた。だがすぐに、いつもの柔らかな笑顔を浮かべる。「見てないわ。お手洗いにでも行ったんじゃない?それより玲司、今日買ってくれるって言ってた新作バッグ、入荷したって連絡が来たの。船を降りたら一緒に見に行かない?」玲司はどこか胸騒ぎを覚えながらも、その正体は掴めない。彼は奈帆を見つめ、微笑みながら頷いた。奈帆に腕を抱かれたまま、二人はケー
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