LOGINとくに緒莉のことになると、伊藤はどうにも引っかかる。まるで何かを知っている人間のように感じられるのだ。幼いころから、彼女の表情にはどこか年齢にそぐわない違和感があった。考えも妙に深く、大人でもそうそうできないようなことを平然とやってのける。そのせいで伊藤はずっと不思議に思っていたが、その気持ちは胸の奥にしまい込んでいた。すべての支度を整えたあと、伊藤は美月と緒莉が出ていくのを見送った。今回の安東家への「討伐」が、正しい判断であることを願うばかりだ。二小姐が家にいないと、どうにも落ち着かない――そんな気持ちもある。だが結局、自分はただの管家にすぎない。言い過ぎれば煙たがられるだけだ。伊藤はひとつため息をつき、黙って部屋へ戻り、別の仕事に取りかかった。その様子を、緒莉はバックミラー越しに見ていた。猫背の背中を見つめながら、唇の端をわずかに持ち上げる。気づかれた?おもしろい、と心の中で呟き、ますます興味がわく。美月は、急に緒莉の機嫌が良くなったのに気づき、不思議そうに尋ねた。「どうしたの、緒莉?嬉しそうね」緒莉はすぐに表情を引っ込め、母に答える。「お母さんが自分の首を絞めるような相手と一緒にいなくて済むって考えたら、つい......」そう言いながら、自分の喉元にそっと触れ、心配そうに目を伏せる。「でも正直、私もう自分の声が嫌になってきたの。お母さんたちもきっとそう思ってるんでしょ......私だって好きでこうなったわけじゃないのに」美月は胸を痛め、緒莉をそっと抱きしめた。「これは緒莉のせいじゃないのよ。緒莉が私にしてくれたこと、ずっと見てきたもの。安心しなさい。必ずあんな連中を倒して見せるわ。嫁がせたりなんて絶対にしないから」緒莉はようやく肩の力を抜き、美月に寄りかかった。安心しきった笑みを浮かべ、尊敬のまなざしで母を見つめる。「お母さんって本当にすごいよ。そばにいてくれるだけで心強い。もしお母さんがいなかったら、私これからどう生きていけばいいのか......」「ばかね」美月は軽く頭を撫でただけで、それ以上は何も言わなかった。自分がいつまでもそばにいられるわけではない――それは分かっている。自分の立場のこともあるし、あの女が今どうしているのかも分からない。
いざというとき安東家がしらばっくれたらどうするのか。そう考えると、やはり万全の準備をしておくべきだ。今回は、とにかく向こうの態度をきっちり正させないといけない。自分の娘たちが、こんな理不尽をただで受けるなんて絶対に許せない。とくに紗雪は、病院のベッドにあんなに長く寝かされていた。失った時間を、いったい誰が償うのか。それに会社へ与えた損失もある。一つ一つ挙げれば、どれも人聞きの悪い話ばかりだ。だからこそ美月は、安東家と縁を切る決心を強めている。この縁談だけは、絶対に認めない。緒莉が嫁いだところで、損をするのは目に見えている。今になってようやくはっきり分かった。安東家というのは、人を骨ごと噛み砕くような一家だ。一度入り込んだら、生きて出られるかどうかも怪しい。そんなところへ娘を送り込むなんて、あり得ない話だ。緒莉は少し不安そうに言った。「お母さん、本当にうまく片付けられるの?」そのかすれた声を耳にして、美月の胸は締め付けられる。ちゃんとした娘がたった海外に行っただけで、何を経験させられたというのか。あんなに澄んだ声だったのに、今はこんなに枯れてしまっている。美月はそっと目を閉じ、最後に緒莉の手を取り、軽く叩きながら少し柔らかい口調で言った。「大丈夫よ。お母さんを信じなさい。二人のために、必ずけじめはつけるわ。このままじゃ絶対に気が済まないから」緒莉はうなずき、涙をにじませながら美月を見つめた。「ありがとう、お母さん......でも安東家、素直に謝るのかな」やはり心配は残っているようだった。何といっても、これまで何年も付き合いのある相手なのだ。そう簡単に切れるものではない。それに、美月は強気な性格ではあるが、自分にとって何が得かはよく分かっているし、会社にとって何が正しいかも理解している。だからこそ緒莉は不安になるのだ。もし孝寛が何か条件を提示してきて、美月の気持ちが揺らいだらどうするのか。今回は、辰琉を確実に牢屋に叩き込まなければならない。そうすれば二度と巻き返される心配もない。そうなれば、彼らの間で起こったことは永久に闇に葬れる。どれだけ時間が経とうと、誰にも知られずに済む。そうすれば、自分は美月の中で「従順な娘」のままでいられる。
心咲は思いがけない抜擢に、むしろ嬉しさのほうが勝っていた。彼女は何度も初芽に深く頭を下げ、「必ず全力でやり遂げます」と繰り返した。石橋の件がなければ、このポジションが自分に回ってくることなんて絶対になかった――そのことも十分理解している。「ご安心ください。細かいところまできっちり管理します!わからないことがあったら、すぐにご相談しますから!」初芽は薄く笑って、それ以上は何も言わなかった。今この立場は、彼らにとってかなり魅力的なポジションだ。ここに座るかで、国内での発言力すら変わってくる。それを心咲に任せた以上、多少敬意を示される程度は当然だし、初芽自身も受け止める覚悟はできていた。一通りの引き継ぎを済ませると、初芽は伊吹とともにスタジオを後にした。今の彼女にとって、ここはもう見るだけで頭痛の種だ。この場所に居続ければ、石橋の一件がどうしても頭をよぎる。まるで影のようにまとわりつき、振り払っても離れない感覚。そんな生活はもうごめんだ――そう思うと、一刻も早く離れたくなる。車の助手席に乗り、ハンドルを握る伊吹の横顔を見つめていると、不思議と胸の奥が落ち着いていく。危ない目にあっても、頼れる男はちゃんといる――そう思わされる瞬間だった。これまでの自分は、考えが狭すぎたのかもしれない。今にして思えば、男という存在は、時に一番の足場になる。ひとりで意地を張りすぎるのも考えものだ。視線に気づいた伊吹は、どこか得意げに口をひらいた。「どうした?ずっと俺のこと見てるけど。俺の顔に何かついてる?」初芽は笑って首を振る。「伊吹の横顔を見てると、なんだか安心するの」こんなにも素直に胸の内を言葉にしたのは初めてだった。自分が「不安を感じやすい人間」だという自覚はずっとあったのに、まさか口に出せる日が来るとは、本人ですら思っていなかった。伊吹の満足そうな気配は、隣にいても伝わってくる。彼は前を見据えながら車を進めつつ、視線の端だけ初芽に向けていた。そっと彼女の手を握り、指先で撫でるように触れる。「今日はごめんな。これからは絶対に誰にも手出しさせないから」初芽は笑みだけ返して、言葉は飲み込んだ。男の言葉なんて、真に受けすぎたら負けるだけ――そういう現実は骨身に染み
彼は初芽の腰に手を添えながら言った。「もういいだろ。あいつに構ってる時間が無駄だ。早く片付けよう。このあと海外に行く準備もしなきゃいけないんだし、ああいう道化は警察にでもくれてやればいいよ」初芽は小さく頷き、否定も肯定もしない表情を浮かべた。正直、伊吹の言うことには全面的に同意だった。この社員は、これまで使い勝手が良かったとはいえ、所詮は雇われにすぎない。人間、一生同じ職場に留まるわけでもないし、いつかは離れていく。そのくらいの道理は、初芽もよくわかっていた。だからこそ、最初から「失わないこと」を期待したこともない。きちんと終わればそれで十分――彼女はそういう人間だ。「警察を呼んで。もう話す価値もないわ」初芽の言葉を受けて、伊吹はすぐに顔なじみの警官へ連絡を入れた。これ以上時間を取られるのは無駄だ。石橋のような取るに足らない人間に、労力を割く理由などどこにもない。石橋はまだ逃げ道を探していたが、見ていられなくなった社員たちがすでに彼の口をテープで塞いでいた。ついでに容赦なく蹴りも入れる。「ほんと鬱陶しいわ。何を偉そうに理屈こねてんだか」「だよな、完全にクズじゃん!」一人が蹴れば、次の一人も蹴る。そんな光景を見ても、初芽は何も言わなかった。心の中では分かっている。彼らは正義感というより、今後の「管理者の椅子」に目を向けているだけ。初芽が海外へ行けば、この国内スタジオは空になる。けれど固定の顧客もいるし、運営さえうまくやれば十分に価値はある。上を目指す気持ち自体は嫌いではない。欲しいものがあるなら、正攻法で取りに来ればいい。陰湿な手を使わずに。たとえ卑怯なやり方で手に入れたとしても、生涯誰にもバレずに隠し通せる保証なんてあるわけがない。そんなことを思いながら、初芽はふっと笑った。やがて警察が到着し、状況を簡潔に説明すると、そのまま石橋は連行された。罪状は「つきまとい行為・ハラスメント」。さらに初芽は業界内にも彼の名を回した。これで彼を採用するスタジオは一つもなくなる。経験があろうがなかろうが、一度こういう問題を起こした時点で記録は消えない。その瞬間、石橋のキャリアは自分の軽率さで完全に終わった。その後、初芽は石橋に次ぐ能力を持ち
「自分の過ちを分かってるって言ってたよね」初芽ははっきりと言い放った。「だったら警察に通報しましょう。起きたことの細かいところまで、全部私が説明する。それと、業界にもあなたの所業をきっちり伝えるつもり。もうこの業界じゃ完全に干されるわ。たとえ刑務所から出られても、もう同じ仕事には就けないと思いなさい」その言葉を聞いた途端、周囲から拍手と歓声が上がった。こういう人間には、こうするのが一番だとみんな思っている。「小関社長を支持するよ!」「こんな目に遭ったのも、ある意味運が悪かったとしか言えないよな」「ていうか、あいつがどうやって管理職に座ってたのかが謎。ぶっちゃけ私の方がまだマシだと思うんだけど」「人付き合い下手なくせに、仕事の腕前も並以下でしょうが」「信じらんないよ。小関社長が選んだ人間だから、信用してたのに」「情けを注いだ相手なのにな、残念」周囲の声を耳にして、石橋はむしろ驚いていた。自分は同僚たちとうまくやれていると思い込んでいたのだ。みんな、表向きは自分を丁重に扱っていた。余計なことも言わず、敬意を払った態度で「石橋さん」と呼んでくれていた。それはただ、初芽が石橋を重用していたからにすぎない。彼女が目をかけているから、他の連中もそれに合わせていただけだった。初芽の社内での立場は絶対的だった。彼女が好意的に接している人間には、他の社員も逆らわない。その現実を真正面から突きつけられた瞬間、石橋の胸に虚しさが込み上げた。長年必死にしがみついてきたものが、何の意味もなかったのだと気づかされる。周囲から見れば、自分は取るに足らない存在で、好かれてもいなかった。そう思うと、情けなさが込み上げてきた。石橋は胸を指しながら初芽に言う。「こんなに長く尽くしてきたのに、こんなことで俺を捨てるつもりですか......?俺があなたにとって、本当にどうでもいい存在なんですか?」まだどこかに希望があるのだ。以前の情を盾に、少しくらいは許してもらえるんじゃないかと期待している。そうすれば刑務所行きも免れ、仕事場にも残れる。それが一番いい落としどころだと本気で考えているのだろう。一瞥しただけで、石橋の腹の内などお見通しだった。初芽は呆れを通り越して、少し笑いそうになる。
もし今日、初芽が有能な立場にいる人間ではなく、ただの普通の女性だったなら、この屈辱は声も出せずに飲み込むしかなかっただろう。骨を砕いてでも、自分の腹の中に押し込むしかなかったはずだ。だからこそ、彼女は重々理解している。――絶対に、この男を見逃してはいけないと。初芽は一歩、また一歩と石橋の方へ歩み寄る。石橋も、自分がもう逃げられないと悟っていた。周囲には人だかりができて道を塞ぎ、さらに近くには腕っぷしの強い男までいる。この二点だけで、自分に逃げ場などないことくらいは、頭でははっきりわかっていた。石橋は転がるように起き上がると、四つん這いのまま初芽の足元までにじり寄り、ズボンの裾を掴んだ。声はしゃくりあげ、震え、涙声と恐怖が入り混じっている。「初芽......いや、小関社長、本当にすみませんでした!許してください、本当に反省してるんです......!」「初芽」と口にした瞬間、伊吹が即座に蹴りを入れた。その呼び方に、さっきは少し手加減しすぎたかと内心で舌打ちする。こんな厚顔無恥な男には、もっと徹底的に叩き込むべきだった、と。周囲の誰ひとりとして、石橋に同情する者はいない。道を選んだのは自分、恨むなら己だけだ。そもそも最初から初芽に近づかなければ、彼は今も石橋さんとして地位を守れていた。何事も起きず、むしろ昇進だって夢ではなかったはずだ。初芽は以前からはっきり言っていた。きちんと働いてくれれば、昇給など問題ではないと。さらにその後は、努力次第で会社の株を持つ道すら匂わせていた。だが今となっては、すべて水の泡だ。人の人生に「巻き戻し」はない。初芽はズボンの裾にすがりつく石橋を軽く蹴り離し、首を振った。声は澄んでいて揺らぎがない。「もうそんなことしなくていいよ、石橋。私がまだその名前で呼んでいるのは、これまで本気で仲間だと思っていたからよ。まさか、そんなにも早く正体を晒すとは思ってなかったけど」石橋は再び這いつくばって近づき、額を床につけて土下座を始める。「本当に申し訳ございません!もうわかりました、自分の過ちを理解しました!もう小関社長のしたいことに口出ししません!どうか俺をゆるしてください!」最後には、自分の頬を平手で叩き始める始末だった。皆にはも







