ある人物が紗雪に耳打ちするように言った。このプロジェクトがうまくいけば、今後の提携についても上層部が前向きに検討してくれるかもしれないと。その言葉を聞いて、紗雪の瞳がぱっと輝きを放った。「山下さん、それって本当ですか?」相手は自信満々にうなずき、紗雪の実力を十分に認めている様子だった。「チャンスは、準備のできている人間にしか訪れないものさ。もし他の人間だったら、こんなこと絶対に言わないよ」その一言で、紗雪はすぐに彼の意図を察した。このプロジェクトがどれほど重要か、わかっているな?それは明らかにそう言っているのだった。紗雪は頷いた。「分かりました。このプロジェクト、絶対に手放しません」周囲の人々も紗雪の能力を高く評価しており、それ以上は特に口を挟まなかった。彼女のキャリアはまさに順風満帆だった。しかし陰で様子を窺っていた緒莉は、それを黙って見ているような人間ではない。彼女の頭をよぎったのは、以前ロビーの入り口で紗雪を呼び止めていた加津也の姿だった。あの男、使えるかも。緒莉は唇の端をわずかに吊り上げた。「紗雪......あんたの親愛なる元カレが、あんたのビジネスがこんなに順調なことを知ったら......また舞い戻ってくるかしら?」「ふふ、だって以前はあんなにラブラブだったじゃない。私はただ、元サヤに戻る手助けをしてあげるだけよ。感謝はいらないわ」そう独り言のように呟きながら、緒莉は加津也の連絡先を引っ張り出した。そして、なんの迷いもなく電話をかけた。その頃、加津也はというと、西山父に監禁されるように家に閉じ込められていた。先日の警察沙汰が西山家の株価にまで影響したせいで、西山父は激怒し、息子を外に出させなかったのだ。初芽はというと、加津也が外に持っていたマンションにまだ滞在しており、二人はもっぱら携帯で連絡を取り合っていた。だが西山父は初芽のことを全く認めていなかった。家柄も背景もない女が、西山家にもたらす利益など皆無。そんな女は加津也にはふさわしくない。初芽もそれは承知していたが、どうしようもなかった。口では加津也に「離れたくない」と甘えながら、裏では新しい成金を探していたのだった。そんな中、緒莉からの着信がスマホに表示された。意外に思いつつも、加津
紗雪が無礼だと、美月も一瞬で感じ取った。美月は緒莉をなだめるように言った。「気にしなくていいのよ。あの子にはあの子なりの考えがあるの」その言葉を聞いて、紗雪は思わず目を白黒させそうになった。もう何も説明する気にもならなかった。どうせ緒莉とは目指すものも目的も全然違うのだから。「会長、私は椎名グループの管理者たちをお見送りしてきます」紗雪はそう言って美月に一礼した。顔に特別な感情の起伏はなく、緒莉を見る視線も、まるで騒がしいだけの道化を見ているかのようだった。「椎名グループ」という名前を耳にした途端、美月の表情がまた少し和らいだ。「いってらっしゃい。二川グループのことは気にしなくていい、自分の役割だけきちんと果たせばそれで十分」その一言で、緒莉はすぐに悟った。母が言外に自分を責めているのだと。ゆっくりと拳を握りしめる。やっぱり、何もしなければこの家に自分の居場所なんてない。紗雪にとって、美月の言葉は想定内だった。ただ静かに頷き、それ以上何も言わずにその場を去った。二人の会話に巻き込まれる気は毛頭なかったし、そんなことに時間を使うのも無駄だと思っていた。紗雪が立ち去った後、美月はようやく緒莉に口を開いた。「あなたが紗雪に不満を持っていることは、分かっているわ......」「お母さん、私はそんなこと......」緒莉は目を見開き、慌てて否定しようとした。だが、美月は手を軽く振り、穏やかな口調で言った。「取り繕わなくていいわ。私の言いたいことは分かってるでしょう?あなたの考えてること、私にはちゃんとわかってるから」その言葉に、緒莉は何も言えなくなった。見透かされていたとして、だから何?今の会社で、自分は何の得もしていない。ならば、すべてを母の目の前にさらけ出してやればいい。一体誰のせいでこうなっているのかを、知らせてやる。緒莉は震える声で尋ねた。「お母さん......」「私たちはどちらもお母さんの娘でしょ?お母さんは本当に平等に見てくれてるの?」美月は一瞬、瞳孔がすっと縮まり、驚いたような目で緒莉を見た。「自分が何を言ってるのか、分かってるの?」「分かってるよ、お母さん。私は今、とても冷静よ」緒莉は、まるですべてを捨てたような覚悟を帯びていた。美月
大勢の称賛を浴びる中、美月の笑顔は片時も消えることがなかった。紗雪が椎名グループの人々から褒められることは、彼女にとっても大きな誇りだった。なにしろ自分の娘であり、それはすなわち自分の教育と育て方が良かったという証でもある。そう思えば思うほど、美月は一つ一つの称賛に丁寧に返していった。「まあ、ありがとうございます」「まだ若い子ですから、これからもっと経験を積ませないと」「いえいえ、そんなに良く言っていただけるような子では......」「ええ、やっぱり本人にやる気があるからこそですよ。野心もあるし、そうじゃなければ、いくら周りが後押ししても前には進めませんから」美月の返答には一切の被りがなく、どれも紗雪への称賛に応じるための言葉だった。すべては、将来のために、二川家をさらに大きくするための土台作りだった。その場には緒莉も会社に顔を出しており、傍らでこの光景を無言で見つめていた。だが、手に持ったワニ皮のバッグを握り締める手には、徐々に力が込められていた。もしネイルをしたばかりでなければ、爪が折れていたかもしれない。奥歯を強く噛み締めながら、緒莉はその様子を鋭く見つめ続けていた。どうして紗雪ばかりが、皆の注目と愛情を受けられるの?母親の関心さえ、彼女にばかり向いている。じゃあ、自分は?同じく母親の娘であるはずなのに、この差は何?母はなぜ、自分に健康な身体を与えてくれなかったのか。そんなことなら、最初から子どもなんか産まなきゃよかったのに......美月は緒莉の内心の動揺には気づかず、称賛の嵐にすっかり心を奪われていた。緒莉にも一応は褒め言葉が飛んできたが、それはどこか形式的なものだった。「この子が長女さんですか?」「大きくなったですね。時が経つのは早い」「こんなに綺麗に成長するなんて、見てるだけで嬉しくなりますよ」美月はにこやかに頷きながら、「二人とも私の自慢の娘たちです」と答えた。その場の皆は、美月は本当に幸せ者だ、娘二人とも親孝行だと口を揃えていた。美月は笑みを浮かべたまま、それ以上は何も言わなかった。なぜなら、緒莉については容姿を褒められただけで、これ以上話を広げる材料がなかったのだ。緒莉にはその美月の様子が手に取るようにわかった。母は明らかに自分
先ほどまで少し陰っていた表情が、紗雪を見た瞬間、ぱっと晴れやかに変わった。よく見ると、男の口元にはうっすらと微笑が浮かんでいるのが分かる。京弥はベッドの傍らに立ち、女性の穏やかな横顔を見つめながら、心の奥に温かな感情が広がるのを感じていた。「さっちゃん、俺から離れないで......」彼は手を伸ばし、彼女の耳元にかかる乱れた髪をそっと耳にかける。その可憐な顔立ちが、はっきりと露わになる。そして、男の瞳の奥には、彼女への想いがじわりと浮かび上がっていく。その瞬間、二人はしっかりと寄り添い合っていた......翌朝。紗雪はゆっくりと瞳を開け、伸びをしながらのんびりと身体を起こした。右腕を伸ばしかけたところで、何かにぶつかる感覚がした。不思議に思って顔を向けると、目の前には、完璧なイケメンフェイスが急接近してきていて、思わず心臓が跳ねた。京弥は目を開けていないものの、正確に彼女の右手を掴み、それを唇に近づけてキスを落とす。「おはよう」低くてセクシーな声を耳にした紗雪は、ようやく状況を理解する。勢いよく京弥を押しのけ、怯んだように目を見開いた。「いつ来たの!?」京弥はどこか満ち足りたような目をしながら答える。「もちろん昨夜だよ」彼女を抱いて眠ったその一晩は、とても安らかな時間だった。おかげで今日の気分も、すこぶる良い。紗雪は自分の服に視線を落とし、それが昨夜のままの寝間着であることを確認して、ようやくほっと息をついた。その様子を見た京弥の目に、ふっと悪戯っぽい光が宿る。「なにを気にしてるの?もう夫婦なんだし、仮に何かあったとしても、全然おかしくないんだよ?」紗雪はしばらく言い返す言葉が見つからず、悔しそうに右手を引っ込めた。「もう、ふざけないでよ!また調子に乗って......仕事行くから!」京弥はやれやれといった様子で言った。「はいはい、いってらっしゃい」紗雪は素早くベッドを降りて服を着替える。それは、耳の裏がほんのり赤くなっているのを隠すためでもあった。京弥の顔、何度見ても、やっぱり心が揺れてしまう。まさに彼女の好みにど真ん中。好きにならない方が無理というものだ。紗雪は大きく息を吸い込み、気持ちを整えてから会社へと向かった。会社に着いた
京弥は低く問いかけた。「それで、紗雪は?」「俺が来たときは、彼女が出ていくのは見てない。もう一度よく考えて、彼女どこに行ったのか思い出せ」清那は小声でぼやいた。「......兄さんがここにいるからだよ。だから紗雪は出てくるわけないでしょ」その一言に、京弥の表情がさらに沈んだ。「俺を避けてるのか?」清那は目を逸らした。「分かんないよ。それはあなたたちの問題だし、自分で聞いてよ」そう言い捨てて、清那はそのまま立ち去ろうとした。今回は京弥もそれ以上引き止めることはなかった。ただ一言、警告を残す。「また紗雪をこういう場所に連れてきたら......次からは容赦しない」清那の背中がビクリと震え、心の中では泣きそうになっていた。誰が誰を連れてきたって?自分のせいじゃないのに......ただの付き添いだったのに、なんで怒られなきゃいけないの。そう思うと、清那は本当に落ち込んだ。でも、「親友第一」の精神で、彼女は文句を飲み込み、「もう二度と紗雪を連れてこない」と心の中で誓った。それを聞いてようやく京弥は満足げに頷き、清那を見送った。彼女が去った後、匠が控えめに声をかける。「社長、これからどうしましょう?奥様を探しに行きますか?」ここまで時間が経っていて、果たして紗雪を見つけられるかどうかも分からない。それに、どこへ行ったのかも見当がつかない。京弥はゆっくりと首を振った。「いい。後にしよう」どうせ紗雪が出て行ったとしても、行き先なんてたかが知れてる。きっと家に帰っただけだ。行く場所なんて、他にはない。長い時間の中で、京弥はもうそれを理解していた。そして、紗雪もまた、まさにその通りの行動をとった。もともと清那と軽く一杯飲もうと出てきただけだった。まさかあの子が酔った勢いで京弥にメッセージを送るとは思ってもいなかった。最初は止めようとした。でも、清那の手が早すぎた。気づいたときにはすでに送信済みで、しかも取り消そうとして間違えて削除を押してしまった。その瞬間、紗雪の心はすっかり冷え切った。彼女は静かに席を立ち、その場を離れる決意をした。清那は呆気に取られた。まさか紗雪がこんなに薄情な子だったとは。だが、紗雪の説明は筋が通っていた。京弥は彼女の従
清那はメッセージを送った後、親切にも位置情報まで添付して送った。その頃、京弥は匠と仕事の話をしていたが、スマホに届いたメッセージを見て瞳孔が一瞬縮み、机の上に置いていた拳がわずかに握りしめられた。またあの二人、バーに行ってるのか?あのとき、男たちに囲まれていた二人の光景は、今でも鮮明に思い出せる。まさかまた行くなんて、まるで懲りてないじゃないか。京弥の表情がどんどん険しくなるのを見て、匠はすぐに察した。スマホの内容は、やはり奥様に関することだ。そうでもなければ、京弥がこんなに感情を露わにするわけがない。「社長......奥様のことでしょうか......」匠は恐る恐る口を開いた。地雷を踏みたくない気持ちが見え見えだ。「車を用意しろ」京弥は椅子から立ち上がると、すぐさま清那から送られてきた住所に向かった。今回は、ほんの一瞬も無駄にできないとばかりに、急いで出発した。頭の中には、前回バーで男たちが向けてきたあの視線がこびりついて離れなかった。思い出すたび、顔色がますます険しくなる。どうしてあの二人は、あれほどのことがあってもまだ懲りないのか?一度行っただけでなく、また行くなんて。京弥の胸の奥には、どうしようもない苛立ちが溜まっていた。バーに到着したとき、紗雪の姿はなかった。いたのは、ミニスカート姿で頬を赤く染めた清那。どう見ても、酔いが回っていた。京弥は無言で歩み寄り、全身から怒気を放っていた。清那は、京弥が来たことにも気づかず、そもそも紗雪がいついなくなったのかも分かっていないようだった。彼女が酒を飲み続けている姿を見て、京弥の怒りは頂点に達した。「清那、紗雪はどこだ?」低く鋭い声が響いたが、最初は清那も反応できなかった。頭の中はまだぼんやりしていた。「紗雪......?」清那はあたりを見渡した。目はうるんで曇っていた。「さっきまでここにいたのに......どこ行ったんだろ......」そう言いながら、清那は真剣な表情で紗雪を探し始めた。次第に京弥から離れ、店の出口のほうへと歩いていった。この様子を見て、京弥もすぐに察した。視線を鋭くし、匠に目配せして清那を捕まえるよう指示を出した。実は、京弥が口を開いた瞬間、清那は一気に酔いが冷めていた。彼女の態度は、ただ酔
清那は来た人が紗雪だとわかった瞬間、ついに表情が崩れた。「紗雪、やっと来てくれた!会いたかったよ~!」そう言って、スタッズ付きの服を着た清那は紗雪に飛びつこうとした。その様子を見て、紗雪は顔色を変えて後ずさった。「清那、ちょっと落ち着いて!何するの」彼女は明らかに嫌そうな顔で清那の動きに警戒した。紗雪の真剣な表情を見て、清那もさすがにふざけるのをやめ、真顔で言った。「わかったわかった、冗談はやめるから。紗雪ってほんと冗談通じないよね」清那はまだ何か言いたげだったが、紗雪は清那が酔う前に、本題を切り出した。「今日呼び出したのは、ただ飲みたかっただけじゃないの」紗雪は京弥に関することを聞きたかった。自分一人で調べても何も出てこないなら、周囲の人から探るのが手っ取り早い。もしかすると、有力な情報が手に入るかもしれない。清那はちょっと興ざめした顔をしたが、笑いながら応じた。「いいよ、質問しても」その言葉に、紗雪は胸をなでおろした。やっぱり、頼りになるのは親友だけだ。紗雪は一気に言いたいことを口にした。「清那の従兄の京弥さんって、実家はどんな会社をやってるの?」それを口にした瞬間、紗雪の心に引っかかっていたものが少し落ち着いた。少なくとも、何もしないよりはずっといい。清那はその質問を聞いた途端、少し冷静さを取り戻し、真剣な表情で紗雪を見た。紗雪の表情もかなり真面目だった。清那は眉間を揉みながら、どう答えるべきか悩んだ。何度も迷った末、やっぱりどう言えばいいか分からなかった。「さっちゃん、これは......どう言えばいいか......」紗雪はその言葉に少し混乱した。「どういう意味?話せないことなの?」清那は気まずそうに笑いながら言った。「私と京弥兄さんって、遠い親戚みたいなものでさ、正直、詳しいことまでは知らないのよ」「それに、紗雪も知ってるでしょ?私、あの人怖い。だから自分から聞くなんて、絶対無理」その説明を聞いて、紗雪は納得した。「そっか......無理に聞いてごめんね」紗雪のその言葉に、清那はほっと息をついた。彼女は立ち上がり、グラスを手に紗雪の隣へ。「せっかくバーに来たんだから、そんな暗い顔しないでよ!復讐劇でも始めるつもり?今日は、酔いつぶれ
「うん、絶対に時間通り行くから!」電話を切った清那は、そのままベッドから勢いよく起き上がり、簡単に身支度を整えて夜の外出に備えた。久しぶりの外出となれば、もちろんショッピングもしないと気が済まない。一方、紗雪が去った後、京弥は再びオフィスに戻った。しかし椅子に座るなり、顔色を一変させて口を開いた。「会社の連中は一体何をしてるんだ?紗雪がグループに来たのに、なぜ誰も俺に報告しなかった」匠は額の汗をぬぐいながら、内心でドキドキしつつ応じた。「社長、私が調べてまいります。一体どういう経緯だったのか......」「徹底的に調べろ。一つ残らずな」「かしこまりました」京弥は手を振って、匠に早く行動に移るよう合図をした。今日の件は、幸い匠がそばにいてくれて助かった。でなければ、本当に取り繕えなかっただろう。紗雪が何の前触れもなく上がってきたということは、すでに何かに気づいているという証拠だ。でなければ、あんな行動には出ない。そう思うと、京弥は少し不安になった。このままでは、彼の正体がバレるのも時間の問題だ。いつまでも受け身でいるわけにもいかない。いっそ、正直に話してしまうべきか?京弥は眉間を指で押さえながら、ますます募る不安を感じていた。このままでは、精神的に限界が来そうだった。ずっと紗雪の前でごまかしてばかりというのも、もはや限界に近い。ほどなくして、調査結果が出た。紗雪は正面からではなく、裏口から入っていたのだ。しかも、その間、監視カメラを意識して避けていた様子もあった。その報告を聞いた京弥は、思わず笑いそうになった。さすが自分が見込んだ女、やはり発想が違う。しかも実行力まで備えている。そう思うと、彼女にはまだまだ自分の知らない一面があるのではないかと、逆に興味が湧いてきた。......「紗雪、準備できたよー。今どこにいるの?」清那はバーのカウンター前の椅子に座っていた。パンク風の服を着こなし、濃いスモーキーメイクを施し、ミニスカートからは大胆に脚を見せていた。その姿は奔放かつ自由で、心からリラックスしている様子だった。バーの中にいる客たちは、彼女に注目しっぱなしだった。彼女に恋人がいるのか気になって仕方がないようだ。しかし清那は、そんな視線にも
匠もその点に気づいたのか、すぐに真剣な表情になった。京弥は少し不満げに言った。「何の話?俺はここに仕事しに来てるだけだよ」紗雪は眉をぴくりと上げた。「......どういう意味?まさか、私が勘違いしたって言いたいの?」京弥は真面目な顔でコクリと頷いた。「ああ。これは誤解だよ」この開き直りとも言える態度に、紗雪はまったく歯が立たなかった。「じゃあ、どうしていつもここにいるのよ?」ずっと気になっていた疑問が、ついに彼女の口から飛び出した。心の中に溜まり続けた違和感は、放っておくといずれ噴き出す火山のようにどうにもならなくなる。京弥は横にいた匠をチラリと見た。視線の奥には「察しろ」という無言のプレッシャーが込められていた。「実は、ここの責任者とちょっとした調整をしていて。俺の主な担当者が彼なんだ」その言葉を受けた匠は、すぐに空気を読んで口を開いた。「ええ、そうなんです。この方は私のクライアントでして、処理すべきことがいろいろあって頻繁に来ていただいてるんです」「最近はプロジェクトの進行が大詰めで、ほとんど泊まり込みで作業してる状態です。だから帰る暇もなくて......どうかご理解いただければと」その言葉に、紗雪は何も返せなくなった。一方で京弥は、背後でこっそりと親指を立てていた。まさか肝心な時に匠がここまで頼りになるとは思っていなかったのだ。このやり取りには彼自身も矛盾を感じず、言われるまま信じてしまうほど自然だった。当然、紗雪が気づくはずもない。何より、ふたりの顔には誠意が溢れていて、彼女には嘘を見抜く隙もなかった。紗雪は渋々ながらも納得した様子で言った。「......そう。じゃあ、私はこれで」そう言って踵を返し、会議室のほうへと向かっていった。せっかく来たのだから、手ぶらで帰るわけにはいかない。プロジェクト担当者と話をしておこう。そうでなければ、今日ここへ来た意味がない。一方で、京弥は今回のようにうまく誤魔化せても、回数が増えれば必ず綻びが出る。ここまで何度も偶然出会っているのに、彼女が疑わないほうが不自然だ。紗雪の心は、もやもやしたままだった。京弥、一体何を隠してるの?もう結婚したのに。どうしてもっと正直になれないの?まさか......まさか、人