美月は、やっぱり自分のことを一番好いているのではないか?緒莉には、それが単なる思い違いなのか本心なのか、よくわからなかった。けれど、ふとした瞬間に感じるあの「優先されている」ような感覚——それが嘘とは思えなかった。だが、それを考えていても仕方がない。今一番優先すべきなのは、辰琉に早く次の手を打たせることだ。なにせ、あの伊藤はとにかく頑固で真っ直ぐな男だ。実際の状況を自分の目で確認しない限り、絶対に引き下がらない。そう思った緒莉は、すぐさま辰琉にメッセージを送った。【急いで。お母さんはもう紗雪の昏睡を知ってる。もし病院を移されたら、後で手を出すのが難しくなる】このメッセージを見て、辰琉は服を着る手をさらに早めた。とにかく病院へ急がなければならない。あらかじめ医者と口裏を合わせて、紗雪の転院を阻止する必要がある。辰琉は急いで病院へ向かい、なんとか伊藤より先に到着した。彼が病院のロビーに入ると、ちょうどその直後、伊藤が姿を現した。辰琉はすぐに伊藤の姿を確認し、目つきを鋭くしながら外科主任のオフィスへとまっすぐ向かった。紗雪が入院している病室の情報を事前に掴んでいた彼は、迷うことなく足を進める。だが、伊藤は違った。彼は病院の名前以外、詳細な情報は何も知らずに来ていた。すべてを一から探り出さなければならない。その分、辰琉は圧倒的に有利だった。彼はすでに主任のオフィスに到着し、ドアをノックして入室した。医師は彼の顔を見て驚いた。何しろ、彼はお偉いさんの息子、面識はある。「安東様、どうされたんですか?」辰琉は余計な前置きもなく、すぐに用件を口にした。「あとで紗雪の家族が来たら、彼女の病状を正直に伝えてくれ」「それと、彼女の病状は大したことない、ただの疲労で目が覚めないだけ、と、そう説明しろ。絶対に、転院の話は出させるな」「えっ......どうしてそんな......」主任は言われた内容に困惑した様子だった。たしかに、症状を正直に伝えるのは当然だ。それは医者としての信念でもあるし、職業倫理にも関わることだ。だが、「ただの疲労」という説明には納得がいかなかった。確か、この患者は胃腸炎で昨晩運ばれてきたはず......それが今になっても意識が戻っていない
美月は微笑んで言った。「わかったわ。本当にいい子ね」緒莉は美月を軽く抱きしめてから、二階へと上がっていった。彼女の姿が完全に階段の上へと消えたのを見届けてから、伊藤は堪えきれず尋ねた。「奥様、どうして先ほど緒莉様に、紗雪様が病院で昏睡状態にあることをお伝えにならなかったのですか?」美月は伊藤の前で、まるですべての重荷を下ろしたように、ふっと溜息をついた。「知る人間が一人増えたところで、何の意味もない」美月の表情には、どこか言いようのない迷いが浮かんでいた。「それに......たとえ緒莉が知ったとしても、何も変わらないわ。今は何よりもまず、紗雪がなぜ昏睡状態になったのか、その原因を見つけることのほうが大事よ」伊藤は一瞬考え、たしかにそれも一理あると思い直した。緒莉が知ったところで、何の助けにもならないどころか、かえって余計な心配を増やすだけだろう。それなら、最初から知らせない方がいい。「わかりました。奥様、もし何かございましたら、何でもご命令ください」美月は軽くうなずいた。「中央病院へ行って、紗雪にもう一度全身検査をお願いしてきて。今の状態が、いったいどうしてなのかをはっきりさせておきたい」「かしこまりました。すぐに行ってまいります」伊藤はすぐに車を出し、病院へ向かった。しかし美月の顔から不安の色は消えず、手のひらにはじわりと汗がにじんでいた。自分は、もしかして紗雪にプレッシャーをかけすぎたのではないか?あの子は、昔から本当にしっかりしていて、この間の病気のときも、家の中のことも会社のことも、何もかもを支えてくれていた。けれど彼女は、まだ二十代の若い女の子にすぎないのだ。そのことを思うと、美月は自然と手のひらに力が入り、胸の奥には言いようのない罪悪感が湧いてきた。きっと、自分はあの子を縛りすぎたのだ。これからは、もっと自由に過ごさせてやらなければ。今回目を覚ましたら、今度こそ......会社に縛らず、もっと彼女自身の人生を歩ませてやらなければ。自分の人生は、会社に捧げてしまった。愛されない相手と結婚し、二川家のために、人生を犠牲にしてきた。そう考えると、自然と夫のことが頭に浮かび、美月の手は無意識にぎゅっと握り締められた。あの男さえいなければ、自分はこんな人
しかし、美月にはもうそれらに構う余力すら残っていなかった。彼女はもともと、紗雪が一人で外にいても大丈夫だろうと思っていた。まさか、ほんの数日で病院に運ばれることになるなんて。美月の心には、いまだにその事実を受け入れきれない動揺が残っていた。今、目の前で笑顔を浮かべる緒莉に対して、何をどう返せばいいのかさえ分からなかった。そんな視線にじっと見つめられて、緒莉の心に不安がよぎった。どうしてずっとこっちを見てる?もしかして、何かバレた?いや、そんなはずはない。自分の行動はすべて秘密裏に進めていたし、誰にも知られるようなことはしていない。自分が口を割らない限りは。そう思った瞬間、緒莉の態度には少し余裕が戻った。堂々とした様子で美月に話しかける。「お母さん、ただいま。ずっとリビングに座ってどうするの」「さっきも話しかけたのに、全然聞いてなかったじゃない。何考えてるの?」その声に、美月はようやく我に返った。「......ええ。ごめんね。会社のこと考えてた」まるでさっきまでぼんやりしていたのが嘘のように、美月は無理に笑顔を作って応じた。それを見ていた伊藤は、内心で強い不安を感じていた。何しろ、あの紗雪様は彼がずっと見守って育ててきた子なのだ。今その子が病院で意識もなく眠っているなんて......あの知らせを聞いた時は、彼も崩れそうだった。だが、美月は最初に少しぼんやりしただけで、その後は何も言わなかった。伊藤には美月の心の内は分からなかったが、彼にとって紗雪はもう自分の孫のような存在だった。何年もこの家に仕えてきた執事として、彼の中で紗雪は「ただの主人の娘」ではなかった。彼は今でも心配してる。それでも、自分はただの使用人に過ぎない。何も変えることはできないのだ。伊藤は悔しさを飲み込みながら、何も言わないことを選んだ。たとえ何かを訴えたところで、自分の声はきっと届かないと分かっていたから。緒莉は、そんな様子の美月を見ながら、心の中で確信した。きっと、もう何か知ってる。でも、言いたくないだけ。そう確信した緒莉は、意図的に話題を紗雪へと向けた。「お母さん、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」「会社には妹がいるじゃない。あの子は優秀だから、全部うまくやって
こんな緒莉を、どうして好きにならずにいられるだろうか?辰琉は緒莉を離したくなくて、ぎゅっと抱きしめたまま、二人はベッドの上で静かにぬくもりを交わしていた。緒莉は最初こそ嬉しそうにしていたが、次第にその表情から笑みが消えていった。「もういいってば、いつまで抱きついてるのよ。やることまだ残ってるでしょ!」その後は、緒莉の心も少しずつ冷めてきた。辰琉って人は、まあ全体的には悪くないんだけど......ちょっと頭が残念。ひとたび「あのこと」に夢中になると、脳内はそれでいっぱいになってしまうのだ。肝心な「ちゃんとしたこと」には、まるで気が回らない。まるで、辰琉にとってはベッドでのことのほうが、現実の問題よりも重要みたいだ。そう思っただけで、緒莉はなんだか苛立ってきた。辰琉はようやく気まずそうに彼女を放し、「わかったわかった。だって好きすぎて離したくなかったんだもん、しょうがないだろ?」と弁解した。「見てみなよ、相手が他の女だったら、俺、こんなことしないからさ」そんな言葉に緒莉もまんざらではない様子だったが、すぐに気持ちを切り替えた。「はいはい、甘い言葉はもういいから。今は病院の件が最優先なの、絶対に忘れないで」そう言って、彼女はまた服を着始めた。辰琉はのんびりベッドに横たわっていたが、緒莉が着替え終わってから、ようやく重い腰を上げて服を着だした。彼からすると、緒莉はちょっと神経質すぎると思っていた。そもそも紗雪はもう倒れてるし、あのチャラついた男なんて何もできやしない。そう考えていたが、緒莉の表情はますます険しくなっていた。「ねえ......辰琉が『チャラ男』って呼んでるあの男、なんか雰囲気おかしくない?」うまく説明できないが、他の人間ではこんな感覚はなかった。でもあの京弥は、あまりにも「普通じゃない」のだ。緒莉がそんなふうに不安げに言うのを見て、辰琉は内心バカにしたように笑った。「考えすぎだよ、緒莉」彼は緒莉の動きを急かしながら言った。「自分で自分を怖がらせてるだけだって。きっと最近疲れてるから、そんなふうに思っちゃうだけだよ」その言葉を聞いて、緒莉も心の中にあった疑念を抑えることにした。「言う通りかもね」緒莉はすっかりいつもの気丈な顔に戻り、明るい声で言った。
「紗雪。俺のさっちゃん......本当に、ごめん......」京弥は紗雪の手を取って額に当て、目元からぽたりと一滴の涙を落とした。その涙は、そっと彼女の手のひらに落ちた。だが残念ながら、今の紗雪は薬の影響で意識を失っており、深い眠りに囚われたままだった。二人は静かにその場で寄り添い、これからのことなど一切考えず、ただ互いの存在を感じていた。誰にも邪魔されたくない、ただこの穏やかな時間の中で一緒にいたかった。秘書が戻ってきたとき、彼が目にしたのは、京弥が紗雪の手を握り、そのまま彼女にもたれかかって休んでいる姿だった。一晩中眠れずに過ごした彼にとって、こうして紗雪の顔を見られただけでも、ようやく安堵できたのだ。だからこそ、今の彼は穏やかに、そして安心した表情で、紗雪のそばに体を預けていた。それを見た秘書の吉岡は、結局病室には入らなかった。彼は空気の読めない男ではない。こんなにも温かな時間を、邪魔するなんてできるはずがなかった。そのまま彼は、外で静かに待つことにした。一方、紗雪のそばに京弥がいることで、彼自身もぐっすりと眠ることができた。昨日からずっと気を張り詰めていた彼にとって、これがようやく訪れた、心から安らげる眠りだった。......緒莉は辰琉の腕の中で目を覚まし、顔を上げて彼を見ると、すぐに体を起こしてこう言った。「今、何時?」「どうしたんだ?」辰琉は不満そうに、緒莉の体から手を離しながら言った。「そんなに急いで」「私、出てくる時にお母さんに『辰琉に会いに行く』って言ってきたの。でも今、紗雪はまだ意識が戻ってないでしょ?あの人のところに、何か情報が入ってるかもしれないの......」そう言いながら緒莉は服を着始めた。辰琉もその言葉に一気に目が覚めた。「たしかに......俺も病院の方、対応しないといけないな」「病院」その二文字を聞いた瞬間、緒莉の手が止まった。服を途中まで着かけたまま、彼女はふと振り返り、真剣な表情で辰琉の頬にそっと手を伸ばした。「辰琉、一度放った矢は、もう引き返せないの。私が行動をした以上、最後までやり遂げるしかない」「この計画のこと、誰にも話してないの。辰琉だけが知ってる。だからこそ、秘密を守ってくれるだけじゃなくて、最後までちゃ
そうすれば、紗雪からの電話を聞き逃すこともなかったのだろうか?まったく......二人とも狂ってる!伊澄は目をぎゅっと閉じ、仕方なく急いで荷物をまとめに戻ることにした。京弥は、もうあれだけハッキリ言ったのだ。ここまで来てなお理解できないようなら、それは本当に空気の読めない女ということになる。京弥が再び病室に戻ると、日向が哀しげな表情で紗雪のベッドのそばに立っていた。そしてその手が、彼女の頬に触れようとしたそのとき、京弥の平手打ちが飛んだ。次の瞬間、拳が日向の顔面に振り下ろされる。「お前、何をする」日向は鼻で笑って言い返す。「どうした?守ることもできなかった女を、他人が世話するのも許さないのか?」「今すぐ出て行け!」京弥は全身から威圧感を放ち、鋭い声で言った。「忘れるなよ。お前たちはただのビジネスパートナー。そして俺は、彼女の夫、法的にも名実ともに」「お前は......」京弥の視線は軽蔑に満ちて、日向を上から下まで一瞥した。「せいぜい、日陰者の愛人ってとこだろ」「愛人」——その言葉が日向の胸を鋭く突き刺した。彼は紗雪の頬に目をやると、未練と悔しさを湛えたまま、ついに背を向けた。京弥の言う通り、今の自分の立場はあまりにも不自然で、そして場違いだった。「君がちゃんと紗雪を大切にできるなら......男としてしっかり向き合えるというのなら、ちゃんと行動でそれを示せ」京弥は苛立たしげに返した。「当然だ。これは俺の問題。そしてもう二度と、紗雪にこんな思いはさせない」「......今回が最初で最後だ」その言葉の語尾には、これまでとは違う重みがにじんでいた。それは日向に向けた言葉であると同時に、彼自身への誓いでもあった。絶対に、二度とこんなことは起こさせない。これからは、片時も紗雪のそばを離れない。絶対に。日向は最後にもう一度だけ、深く紗雪を見つめた。そして、大きく息を吸い込み——本当に彼女を手放す決心をした。「言ったこと、ちゃんと守れよ」それだけ言い残し、日向は病室を出て行った。日向が出て行ったのを確認してから、隅の方に隠れていた秘書はようやく安堵の息をついた。本当に怖すぎた。あの二人の間に流れる空気は、自分のような人間が入り込め