LOGIN緒莉は気丈に言った。「お母さん、心配しないで。私は大丈夫だよ。もし辰琉を見つけられないなら......それでもいいの」美月はすぐに不満げに眉をひそめた。「ダメよ!まだ始まったばかりじゃない。なんで諦めるの?」緒莉はうつむき、ほんの一瞬で目が赤く染まる。再び顔を上げたとき、瞳には涙が溢れそうに光っていた。「お母さん、私だって諦めたわけじゃないの。声をこんなふうにした相手よ。私、もう疲れたの。これ以上あの人と何も話したくない。もし見つけられないなら、もういい。この数年の情分だったと思って、今後は二度と会わないだけでいいでしょ......」涙を散らす娘を見て、美月の胸も締めつけられる。彼女は一歩近づいて緒莉を抱きしめ、背中を優しく叩きながら慰めた。「泣かないの。緒莉がどう決めても、お母さんはずっとあなたの味方よ」言葉数は多くない人だが、美月の愛情は揺るぎない。「追うのをやめるって言うなら、手を引くわ。あなたが望むなら、お母さんは何だってするよ」その言葉に、緒莉はさらに胸がいっぱいになる。母をぎゅっと抱きしめ返し、涙声で言った。「お母さん......ありがとう。お母さんの気持ち、よくわかった。これからは何を決めるにしても、ちゃんと相談するから」「緒莉はいい子ね」美月は静かに目を細めた。この部屋には、穏やかな温かさが満ちていた。......一方、辰琉の状況はまるで対照的だった。ずっと背後にぴったり張りついてくる影を見ながら、彼の顔色は土のように暗い。最初は「形だけの追跡だろう」と思っていた。だが、途中で明らかに雰囲気が変わった。追っていた者たちは突然指示を受けたように散開し、緊張感が消え失せたのだ。それを見て、辰琉も足を止める。胸を締めつけていた焦りは、冷たい疑念に変わる。――本当に追う気がなくなった?それとも、別の指示で、ゆっくり確実に自分を追い詰めるつもりか?陰りを帯びた瞳が、鋭く光る。今、彼には信じられる人間などいない。この世で頼れるのは自分だけ。その思いを深く刻みつけながら、「真白を連れて、この街から消える」と決めた。奥歯を噛みしめ、車を借りて郊外へ向かう。......その頃、美月のもとにはすでに連絡が届いていた。
これから先、安東家の道はますます順調になるだろう。二川家という脅威さえなくなれば、彼に怖れるものなど何ひとつない。グループも、ただただ上り調子になるはずだ。だが、孝寛は「上には上がいる」という道理を見落としていた。二川家の脅威は消えたとしても、まだ椎名グループが待ち構えている。今回彼が敵に回したのは美月だけではない。身内を守る男――その存在も忘れてはならない。......その頃、辰琉は小さな宿に身を潜めていた。今の彼は多くの人間に追われており、うかつに姿を見せることすらできない。捕まれば終わり――そのことは本人が一番よくわかっていた。だが、頭に浮かぶ場所がひとつある。真白のために用意していた別荘だ。郊外にあり、人の気配も少ない。時折、食事を運ぶ使用人が訪れるだけ。その使用人は長年雇っており、信用できる人物だ。そこだけは、辰琉も自信を持てる場所だった。しかし今の問題は、どうやって郊外まで行くのかだ。考えれば考えるほど、頭が痛くなる。途方に暮れていたそのとき、宿へ向かってくる一団が目に入った。最初は気にも留めなかったが、彼らの話し方を聞くうち、胸に嫌な予感が走る。――自分を探しに来た。直感がそう告げた。辰琉は目を細め、派手ではない彼らの顔ぶれを観察する。知った顔はひとつもない。つまり、父が差し向けた者ではない。――父は自分を差し出したのだ。彼らは警察か、美月の手の者に違いない。胸の奥が一気に冷えた。まさか、自分が安東家の御曹司からこんな惨めな姿に堕ちるとは。――緒莉......全部そいつのせいだ。いつかまた立ち上がれるなら、絶対に許さない。......二川家。緒莉は寝室の中をそわそわと歩き回っていた。まさか、あの男が狂っていなかったとは。どうりであの目つき......ずっと何かがおかしかった。胸の奥がぞわりとしたあの感覚は、間違っていなかった。真実はいつもどこかに痕跡を残す。手が震え、彼女はぎゅっと拳を握る。――もう怯えちゃダメ。帰りの車の中で、美月は彼女の汗をかいた手に気づき、問いただしてきた。なぜそんなに緊張しているのか、と。彼女は安東家で使ったのと同じ理由を口にした。「怖かったから」
孝寛の性格は決して温厚ではなかったが、執事に対してはずっと惜しみなく待遇してきた。給料も待遇も一度も削られたことはない。けれど今の孝寛は、どこか変わってしまったように執事には見えた。そう思う理由は一つ。すべて、美月に追い詰められたせいだと。誰だって、ここまで圧力をかけられれば、心が軋むだろう。美月は緒莉に視線を向けた。その瞳に宿る怯え──それだけで胸が痛む。娘がまだ恐怖に囚われているのだと、そう思った。だって、首を絞められた相手なのだ。娘は弱い女性だ。腹に何か悪意を抱くはずがない。まして、あんな男に対してなら、恐怖するのが当然。「処置は任せるというなら、こちらも遠慮なく動くわ」美月は冷静に言い放つ。「見つけたら、安東家には戻さず、そのまま警察に引き渡す」厳しい声音。しかし孝寛はむしろ嬉しそうだった。「もちろんです!そのまま連れて行ってください。うちでもう面倒を見るつもりはありません。あんな役立たず、置いても邪魔ですし。何より、緒莉さんを傷つけたのは事実。我々に非があります。必ず償いますとも」その満足げな笑み。美月は鼻で笑いそうになる。彼女は金を愛している。だが、子より金を選ぶような人間ではない。いくら財産があっても、継ぐ者がいなければ、最後は他人のものになる。そんなこと、彼女はよく理解していた。だというのに──孝寛はなぜここまで息子を切り捨てられる?「本当に、それでいいのね?」美月が問う。孝寛は力強く頷いた。「もちろんです。迷いはありません。狂ったふりまでして我々を欺いたんだ。その責任は自分で負うべきです。そもそも、悪いのはあいつです」その断言に、美月も言葉を失った。ここまで決めている親を、外野がどうこう言っても意味はない。自分の子ではない。親が切り捨てると決めたのなら、それが答え。「分かったわ。では」そう言って美月が踵を返す。しかし孝寛が慌てて追いすがった。「あの、二川会長!二川グループとの協力は......」美月は振り向かずに言い放つ。「過去の契約は切らない。でも、今後はないわ」それだけ告げ、緒莉とともに去っていく。孝寛がどれだけ利己的か、見切っていた。これで完全に縁は切れた。
美月は娘の様子に違和感を覚えたが、ここは外。娘の顔を潰すわけにはいかない。娘のために来たのに、逆に問い詰められるなんて、そんな構図は許せない。「うちの娘を問いただす権利が、あなたにあるとでも?」美月の声は冷ややかで、どこか嘲笑を含んでいた。「そもそも逃がしたのはそっちでしょ。それに、辰琉はうちの娘にあれだけの傷を与えたのよ。今、捕まえられなかったことに娘が動揺するのは、当然じゃない?」その言葉に、執事と孝寛は視線を交わした。どこか妙な違和感は残るが、言っていること自体は筋が通っている。反論の余地はない。孝寛は慌てて頭を下げる。「おっしゃる通りです、二川会長。私が軽率でした。深く考えずに申し訳ありません。ただ、今の状況では、どう動いていいのか......」苦笑しながら続ける。「正直に言いますと、この数日ずっと探しているんですが......あの不肖の息子、私のカードまで持って逃げましてね。本当に素早い逃げ足で」緒莉は無意識に手を握りしめる。「本当に、何の手がかりもないの?」「ええ、まったく」孝寛は苦笑まじりに言い、そしてふと表情を変えた。「......ちょっと余計なことを言うかもしれませんが......緒莉さん、うちの息子は一時はあなたの婚約者だったんですよね。それなのに......そこまでして彼を刑務所に送ろうと?」言葉を区切るごとに、重く沈む空気。その響きが、緒莉の胸にじわりと沈んでいく。けれど、彼女は顔色を変えずに返す。「余計な話だと分かってるなら、言わなくてもいいんじゃない?お母さんが言った通りよ。私の声の今の状態は全部彼のせい。もう彼に情なんてないから」小娘に正面から斬られた形で、孝寛の顔にも不快が滲んだ。だが、飲み込むしかない。ゆっくりと体を起こし、言う。「分かりました。そうおっしゃるなら、私も言うことはありません。息子に未練がないなら、安心しました。情が残っていると厄介ですから」緒莉は鼻で笑い、冷ややかに目を細めた。「安心して。こんな仕打ちを受けて、まだ未練があるなんて......私、そこまでマゾじゃないわ」その言葉に返す間もなく、美月が苛立ったように遮る。「もういいでしょう。今日は感情論を語り合いに来たわけじゃないわ。そちら
まるで、これから何か良くないことが起こると告げられているような感覚だった。緒莉は、以前、辰琉が拘置所で自分を見た時のあの目つきを思い出した。あの視線だけが、彼が本当は狂っていないのではないか、そんな疑念を植え付けた。けれど、その後で警察側も検査をして、精神に問題があると診断が出た。そうでなければ、判決が今まで引き延ばされるはずもない。それなのに、今になって緒莉は疑い始めていた。──まさか、警察側に何か問題があった?美月は興味深そうに「ふうん」と短く声を漏らす。「それで?一体何の話?隠さずに言えばいいじゃない」口元にわずかな笑みを浮かべたまま、美月は言葉を続けた。「安心なさい、私は物分かりがいい方よ。こんなことで誰かに八つ当たりするなんてしない。もし口に出しにくい事情でもあるなら、それはそれで理解するつもりだから。だから、余計な心配はいらないわ」執事は不安げに孝寛を見た。そして、孝寛が小さく頷いたのを確認した瞬間、思い切って吐き出した。「実は、うちのわかさ......いえ、辰琉は、元々......狂ってなんかいませんでした」その言葉が落ちた瞬間、緒莉は椅子から跳ね上がるように立ち上がり、叫んだ。「それ、本当!?」顔には恐怖が走り、どこか正気を欠いたような表情さえ浮かぶ。そのあまりにも過剰な反応に、周囲は息を呑んだ。なぜ、彼が正気だと分かった途端、ここまで動揺するのか?美月も目を細め、小声で娘に問いかける。「緒莉......どうしたの?」その声でようやく我に返った緒莉は、周囲から向けられる視線の異様さに気付く。自分でも分かるほど取り乱していた。「いえ。ただ、思いもしなかったから......あなたたちにとっては良い話じゃないの?」乾いた笑いが漏れ、それはどこか無理に取り繕っているようだった。孝寛も同じように笑い、「はい、もちろん良い知らせです」と、無理やり明るさを保つように言った。「ただあいつは、もう逃げ出しました」今度こそ、緒莉の全身から血の気が引いた。「どうして......どうしてちゃんと見張ってくれなかったの!?分かってるでしょ、彼は代償を払わなきゃいけないのよ!」その顔は怒りというより、恐怖で歪んでいた。その場にいる全員が違和感を覚えた。
それ以外に望むものはない。いま最優先なのは娘のために復讐を果たすこと。辰琉が元凶である以上、ほかの人間に怒りをぶつける必要はなかった。だが、孝寛の態度にはさすがに腹が立った。「それで、どうするつもりなの?」美月は横目でにらみつける。後ろにはずらりとボディーガードが並び、その圧に孝寛の膝がわずかに震えた。彼は慌てて首を振る。「もちろん、辰琉をお渡しします。罪を犯した以上、その代償を払うのは当然です」美月は冷たく鼻を鳴らした。「言うだけなら簡単ね。その本人はどこ?まさか今日が三日目だって、忘れたとは言わないでしょうね?」孝寛は額の汗をぬぐい、気まずい笑みを浮かべた。「忘れるわけが......ただ、その......」そこから先が続かない。自分で口にするのも馬鹿げている。まして、もともと自分に不信感を持っている美月に対してなど。「言いたいことがあるならはっきり言いなさい。なにグズグズしてる」美月の声は鋭かった。「時間を無駄にしないで。安東家に費やした時間だけでももう十分すぎるわ」美月は「時は金なり」だと信じている。安東家に奪われた時間を回収するのに、どれだけかかるのか。二川ほどの規模の会社なら、利益は「分単位」で積み上がる。だから貧しい者はより貧しく、富める者はより富む。求める基準も、使う時間の価値も、最初から違うのだ。それでも孝寛は頭をかく。「その......あまりに荒唐無稽な話なので、信じてもらえないかと......」美月は眉をひそめた。「私が信じないと思うなら、私がここに立ってる意味は何?遊びに来たとでも?」彼女はそのままソファに腰を下ろし、腕を組んで見上げる。「安心しなさい。あなたに構うほど暇じゃないわ。商売人ならわかるでしょ、時間は金よ」孝寛はこくこくとうなずく。もちろん、その理屈は理解している。だが今回の件は、理解の問題ではない。言葉にすれば馬鹿げすぎているのだ。見かねた執事が口を開いた。「二川会長、旦那様が申し上げないのは、言いたくないからではございません。本当に、どう説明したらいいか......私どもも事実と思えぬほどで......」執事まで言いにくそうにすると、美月の好奇心が少し刺激された。――そこまで言う