紗雪なんて大したことない。いくら警戒していたって、結局は自分に簡単に気を失わされたじゃないか。所詮は負け犬にすぎない。そう思うと、緒莉の胸に不安はなくなった。どうせまだ切っていない切り札が一つある。それは彼女の最後の手札。本当に追い詰められるまでは使うつもりはなかった。だが、無理やり彼女を追い込もうとしてるなら、もう容赦しない。誰であろうと、結果は同じだ。行く手を阻む者は、一人ずつ排除するだけ。幼い頃から、彼女はその理屈をよく理解していた。欲しいものは、自分の手で掴み取らなければならない。そうして初めて、確かに自分のものだと実感できる。だから今も、多くのことを自分の力で勝ち取ろうとしている。常識外れでない限り、自分の手に余ることでない限り、あの人に頼るつもりはなかった。切り札を軽々しく晒してしまったら、それはもう切り札ではない。そのことを、緒莉は誰よりもよく分かっていた。彼女の胸には不審が渦巻いていたが、今は「敵は暗に潜み、こちらは表に立たされている」状況。不用意に動くのは危険だ。まずは辰琉が電話をかけ終えて戻ってくるのを待つべきだろう。そうして彼は半信半疑のまま外に出て電話をかけに行った。だが警官は後を追うことなく、悠々と拘留室に残っていた。緒莉はその様子を見て、心の中の疑念をさらに募らせた。しかし、声には出さず、成り行きを静観することにした。時には、先に動くより待つほうがいい。警官はスマホを渡したが、手錠は外さなかった。外には同僚も控えている。だからこそ、安心してここに座っていられるのだ。どうせすぐに戻ってくる。上司の言葉からしても、この電話が成功する可能性はない。ならば、かけさせても問題はない。緒莉はそんな警官を観察しながら、試しに口を開こうとした。そのとき、外から突然、大きな声が響いてきた。「どういうことだ!俺は父さんの息子だぞ!見捨てるなんて......!」辰琉の荒々しい声が、拘留室にまで響き渡った。静まり返った室内では、その声が一字一句、はっきりと聞き取れる。だが安東父には、それに構っている余裕はなかった。最近の安東グループの混乱は、彼を完全に追い詰めていた。どうも一社だけでなく、複数の勢力から一斉に
「紗雪様をいじめた連中は、一人残らず見逃しはしない」そう口にした伊藤の瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。先ほどまでの態度とは、まるで別人のようだった。同じ頃、警察署でも事態はぎくしゃくしていた。辰琉は尊大な態度で電話をかけようとしていた。だが警官の表情は終始冷静で、大きな変化は見られない。辰琉はその様子を見て、妙に引っかかるものを覚えた。つい先ほどまで、この警官は彼に対してこんな態度ではなかったはずだ。まるで一本電話を受けただけで、別人のように変わってしまったかのようだった。「言っておくが、俺は冗談言ってない。本当に電話をかけるんだぞ」辰琉は再び脅すように言い放ち、警官を見下すような表情を浮かべた。まるでその電話を一本かければ、目の前の警官を即座に抹殺できるとでもいうように。警官は呆れたように彼を見つめ、最後に溜め息をついた。「かけていいと言ったんだ、騙す必要なんてないだろう」その言葉に、辰琉は口を開きかけた。だが結局、何も言い返せなかった。相手がここまで許可しているのに、なお食い下がるのはかえって不自然だ。むしろ、この状況で渋り続ければ、周囲に怪しまれるだろう。警官が繰り返し「かけていい」と言っているのに、なぜまだごねる必要があるのか――そう考えると、辰琉は覚悟を決め、余計な言葉を飲み込んだ。「いいだろう。かけろと言ったのはお前だからな、後悔するなよ」警官は仕方なさそうに頷いた。だが心の中では首をかしげていた。いったいこの男はどういうつもりなのか。こちらがかけていいと言っているのに、なぜ信じようとしない?そもそもスマホは今、彼の手元にある。本当にかけたいなら、とっくに番号を押しているはずだ。それを延々と渋る意味が分からない。この男の思考回路は理解できない――警官はそう感じていた。署に来てからというもの、終始わめき散らしていたかと思えば、いざスマホを渡すと、今度はぐずぐずと動かない。そんな姿に苛立ちを覚えたが、上からの指示もある。仕方なく黙って従うことにした。手のかかる厄介者を相手にしているだけだと自分に言い聞かせながら。一方、緒莉はそのやり取りを観察していた。彼女の目には、警官の変化がどうにも不自然に映った。少し前までは
しかし具体的に何が起こったのか、彼女自身にもはっきりとは言えなかった。ただ、心の奥底では強い予感のようなものがあった。伊藤は美月の不安げな表情を見つめ、唇を固く結んだまま、結局何も言わなかった。この時ばかりは、美月自身が気づかなければならないことだと分かっていた。他人がどれだけ言葉を尽くしたところで、結局は本人が腑に落ちることの方が大事だったからだ。それに、伊藤も理解していた。今の美月に必要なのは慰めではなく、冷静さだと。自分で考え抜き、理解してこそ、より遠くまで進んでいける。伊藤は美月に軽く声を掛け、そのまま部屋を後にした。長居はしなかった。やがて部屋には美月ひとりだけが残された。彼女は床に並んだ整然とした荷物を見つめ、呆然とした。なぜこんなことになってしまったのか、心の中では理解できずにいた。ほんの少し前までは、すべてが順調で、何ひとつ壊れてはいなかったはずなのに。二人の娘もそうだった。彼女の描いた道筋に沿って歩んでいた。確かに、紗雪は多少その方向から外れたかもしれない。それでも、大きく逸れることはなかった。会社に入ったあとも、紗雪の活躍は目を見張るほどで、それは誰もが認めるところだった。その姿に美月は心から喜び、自分は良い娘を授かったのだと感じていた。もう一人の娘は体が弱いものの、母の前ではいつも穏やかで聡明だった。外に連れて行けば、誰からも褒められ、母親としての顔も立った。あの日々は確かに幸福だった。その均衡を破る者は、誰ひとりいなかった。だが今、美月は迷いの中にいた。紗雪が入院してからというもの、まるで何もかもが変わってしまったようで、理解が追いつかない。不意を突かれたように、心が揺さぶられていた。数々の出来事を経るうちに、美月はますます迷いを深めていった。一体これはどういうことなのだろうか――......部屋を出た伊藤は、すぐに美月の決断を実行に移した。密かに探偵を雇い、鳴り城中央病院を徹底的に調べさせた。特に、紗雪に関わったあの医師については念入りに。何があったのか、真実を知りたいと思ったのだ。本来なら見過ごすこともできたかもしれない。だが、京弥の言葉を耳にして以来、もう黙ってはいられない。大切な紗雪様が、そん
まるで、物事は本来こうなるべきだったかのようにすら思えた。結局のところ、彼女はこれまでずっと緒莉に対して色眼鏡で見てきた。その美しい幻想が打ち砕かれ、薄い紙一枚のような真実が突き破られた。受け入れられないのも、無理はない。紗雪はそう思うと、それ以上は何も言わなかった。美月の方からしばらく音沙汰がなかったので、そのまま電話を切った。どうせこれ以上引き延ばしても意味はない。ただ受話器を握ったまま沈黙しているだけなら、無駄に時間を浪費するだけだった。電話が切れた画面を見つめながら、美月はいつまでも心を落ち着けられなかった。暗くなり、最後には消え落ちていく画面に映った自分の顔は、信じられないほど打ちひしがれていた。そこには、いつもの自信と華やかさはどこにもなかった。代わりに、目には深い疲労と年輪のような翳りが浮かんでいた。彼女はふと我に返った。いつから自分はこんなふうになってしまったのだろう。すべてが思い描いた通りに進むことはなく、むしろ道を外れていくばかり。そう考えると、美月は胸の奥に痛みを覚えた。もともと、物事が自分の手から離れていくのが嫌で仕方がなかった。今はなおさらだ。しかし、どうやって掌握すればいいのか、ますます分からなくなっていた。すでに多くのことが、自分の手の届かないところへ行ってしまっている。その事実に思い至ると、心は迷いに包まれた。けれど、どうすればいいのかは分からない。ただ、一歩一歩進み、自分の心に従うしかない。無理にどうこうしようとしても解決できることではない。人生も、そして伴侶も同じだ。これまでの出来事を経て、美月も理解した。今一番大切なのは、真相をはっきりさせることだ。この件が本当に緒莉と辰琉に関わっているのかどうか。もしそうなら、決して二人を許さない。紗雪は自分の娘だ。娘に手をかけるなんて、まるで自分を死んだ者扱いしているようなものだ。美月の顔に一瞬浮かんだ陰りを見て、伊藤は思わず身震いした。奥様は、もうこれ以上我慢なさらないおつもりなのだろうか。さきほど紗雪の体験談を聞いただけで、自分ですら恐ろしくなった。辰琉という男が、どうして紗雪様にそんなことをできるのか。これまでは、紗雪の体調が悪く、奇病を患っている
美月の心は冷たい氷の底に沈んだような気がした。自分も彼らの共犯者の一人だとは、まったく思っていなかった。自分は、緒莉の数言であの電話をかけさせ、さらに京弥に電話を取らせるよう強く頼んだ。そのことを考えると、美月の頭の中も少しだけ冷静になった。緒莉はそんな人じゃないはずだ。「この件、何か誤解があるんじゃないの?」いつの間にか、美月の京弥への語気が明らかに変わっていた。今では、少し卑屈で慎重な感じすらある。美月がどんなに強くても、この事実を受け入れることはできなかった。自分の娘を危うく傷つけてしまうところだったなんて。紗雪はこの瞬間、美月の心情を理解することができた。だが今は、まだ話すべきではない。緒莉と辰琉という二人の顔を見て、後で騙されないために、はっきりと物事を理解することが必要だと感じていた。京弥はそれが滑稽だと感じた。こんな時になっても、美月はまだ緒莉をかばっている。「もし誤解だと思うなら、鳴り城の中央病院に調査を依頼すればいい」京弥は目を暗くして言った。「そこには、俺たちが知りたい答えがあるはずです。薬剤の分析結果を後でメールに送りますから」京弥の行動は、いつも迅速で決断力がある。こう言った後、彼は紗雪にスマホを渡した。彼が言うべきことはすでに言い終わった。美月の反論を聞いて、京弥は少し心が冷めた。理解できなかった。自分の娘に何故そんなに偏愛するのか?間違っていたら、間違っていると認めればいいじゃないか。証拠はすべて揃っている。それすら認めようとしない美月は本当におかしい。緒莉への感情が深すぎる。この人、見て見ぬふりをしている。紗雪はスマホを持ちながら、最初の感情の揺れが消えていった。特に、京弥が話したことを聞いた後、緒莉と辰琉への処罰が軽すぎると感じた。彼女は二人が一点ずつ泥沼に陥る様子を見たかった。彼らが高みだと思っていた場所から、地面に落ちるところを見たかった。「全部事実よ、母さん」紗雪の声は平淡で、喜びも悲しみも感じない。「他に何かないなら、もう切るよ」彼女は、美月に時間を与えて心を落ち着けさせるべきだと思っていた。こんなに重い事実を一度に投げかけられたら、誰でも耐えられないだろう。まして、その相手が
犯人に隙を与えそうになったじゃないか。紗雪は仕方なく清那を軽くなだめた。「落ち着いて、大丈夫だから。ほら、私はちゃんとここに座って、あなたと話してるじゃない」清那は冷たく鼻を鳴らし、心の中でまだ不満を感じていた。「それは紗雪の運が良かっただけでしょ!もし紗雪の意志が弱かったら、その変な薬が体内に入ったら......紗雪は今昏睡状態に陥ってたかもしれないんだよ!」その言葉を聞いて、紗雪の顔から笑みが消えた。反論する言葉も見つからなかった。清那が言っていることは正しい。もし自分が抵抗していなかったら、その結果は明白だ。それに、もしもう少し遅く目を覚ましたらどうなっていたのか......そんなことを考えると、紗雪は寒気を感じ、後のことを考える勇気が出なかった。京弥は清那の文句を穏やかな表情で待っていた。彼は、清那が文句を言い終わった後で、多くのことを説明する必要がないと信じていた。日向が先ほど白い目を向けたことに、彼は気づかなかった。もし見ても、気にしなかっただろう。日向はただ嫉妬しているだけで、それ以外に言うべきことはなかった。どれだけ嫉妬しても無駄だ。日向がどんなに感情的になっても、彼は今、紗雪の合法的な夫であり、その事実は変わらない。彼ら二人は同じ戸籍に載っているのだ。日向は、自分の感情が少し行き過ぎていることを認識していたが、あのことを知ってしまった以上、どうしても怒りを抑えられなかった。これこそ、京弥の責任だ。紗雪を一人病室に放置していたのだから!最初は二人を追い出せと言っていたくせに!その後どうなったのか?そのことを考えると、日向は京弥の行動が滑稽に思えてきた。まだ何も言う前に、美月の声が電話越しに聞こえてきた。「それで、その薬は昏睡状態を引き起こすものだったの?」美月がこの言葉を言うのに、どれほどの力を使ったか、誰にもわからない。彼女は、辰琉がそんなことをするなんて思いもしなかったのだ。一体、どうしてそんなことを?紗雪は彼女の娘ではないのに!一人で外でこんなに苦しんでいたなんて、彼女は全く知らなかった......京弥はためらうことなく言った。「そうです。俺は自分を弁解しているわけではありません」この言葉を聞いて、皆が京弥