LOGIN紗雪は内心少し驚き、吉岡をちらりと見た。向こうも彼女と同じ顔をしていた。どうやら二人とも考えていたことは同じだったらしい。紗雪は軽く咳払いし、気まずさを誤魔化す。「その......契約書、もう少しちゃんと確認しなくて大丈夫ですか?」その声には、迷いが滲んでいた。吉岡にも分かるほどだ。何しろ、敦がこんなにあっさりしているなんて聞いたことがない。吉岡は心の中でぼそっと文句を言う。――おかしい......ネットの評判と全然違うなんて。この爽快感、どうしても腑に落ちない。敦は気まずそうに後頭部を掻いた。自分でもやりすぎている気はする。でも他にどう振る舞えばいいのか分からない。「大丈夫です。御社の人柄は信じてますから。問題ありません。早速契約の日程を決めましょうか」豪快に言い放ち、二川グループを信頼していると示す。紗雪はなおも疑わしく感じていた。こんなにスムーズにいくわけがない、と。だが吉岡は浮かれていた。相手がここまで話を進めてくれるなら、どれだけ楽か。「柿本社長こういう感じなら、むしろ助かるじゃないですか?」小声で囁く。紗雪はまだ落ち着かない。「本当にそんな簡単にいく?」罠でもあるのではと不安だ。何しろ、加津也でさえ長く接触しても落とせなかった案件なのだ。「きっと大丈夫ですよ」吉岡は手を振る。「何といっても業界じゃ名前が通ってる人ですし、こんな小事で評判を落とすなんてしませんって」その言葉に紗雪も納得する。それなら、と柔らかく微笑み、「ありがとうございます、柿本社長。まずは食事を。契約日程は後ほど秘書からご連絡します」「そうですね、そうしましょう」敦もすぐ乗ってくる。紗雪が承諾したと分かり、大きな荷が下りたようだった。これで、あの「大物」からの指示を果たせた。紗雪には知る由もないが、敦の背中は冷汗でびっしょり。まるで水から上げたばかりの人間のようだった。だがこれでひと息つける。その日の食事は互いに満足いくものとなり、案件も問題なくまとまった。紗雪と吉岡が去ってようやく、敦は深いため息をつく。額の汗を拭うふりをして、スマホを取り出しメッセージを送った。【契約日程は後ほど二川さんから届きます。これで任務完了です
二人とも、相手はきっと扱いづらい人物だと覚悟していた。ところが次の瞬間、敦が立ち上がり、熱っぽい声で言った。「お二人が二川の方ですね?」それから紗雪のほうへ顔を向け、さらにへつらうような笑みを浮かべる。「そしてこちらが二川紗雪さんでしょう?噂以上ですね。本当に若くしてご活躍だ」紗雪は眉をわずかに上げた。敦の反応は、正直言って予想外だった。「私も柿本社長には興味があったのですが、今日お会いして、噂とは少し違うと感じました」彼女は相手の言葉に合わせて淡々と言う。白くきめ細やかな顔には、穏やかな微笑が浮かんでいた。ここまで歓迎されると、紗雪のほうも敦に対して興味が濃くなる。敦も、自分がいつもと違う態度を取っていることは分かっている。だが、紗雪の含みのある言葉など気づかないふりをし、二人を熱心に席へと促した。紗雪と吉岡は一瞬目を合わせ、遠慮なく腰を下ろす。相手が何らかの理由でこんなに親しげなら、こちらもその流れに乗るだけだ。ビジネスの場では、利用できるものは利用する――それだけのこと。二人が席につくと、店員がタイミングよく料理を運び始めた。来る前に注文は済ませてある。紗雪は躊躇なく切り出した。「本日お会いできて光栄です。目的はお分かりだと思いますので、ハッキリ行きましょう」敦の笑顔が少し引きつる。だが辛抱強く返す。「もちろんです。こうしてお会いした時点で、私の中ではもう答えが出ています」紗雪は眉をわずかに上げ、感心したように言った。「さすが柿本社長。決断が早いですね」そう言いながら吉岡に目配せすると、吉岡はすぐに理解し、鞄から書類を取り出した。恭しく差し出しながら言う。「こちらが弊社の誠意です。どうぞご確認ください」敦は少々驚いた様子だ。まさかいきなり書類を出してくるとは。普通なら、もう少し駆け引きの時間があるものだ。「二川さんは爽快ですね」敦は乾いた笑いを漏らす。「お互い時間は貴重ですから」紗雪は微笑む。「まずは契約書をご覧ください」吉岡が続ける。「こちらも十分誠意を見せるつもりなので、何かあれば相談しながら調整できます」敦は一度口を開きかけたが、すぐに思い直し、いつもの媚びた笑顔に戻った。「御社とご一緒できるなら
「その担当者の名前は?」京弥は、表情を崩さずに問いかけた。最近、椎名の方でも入札する案件があると聞いた。まさか同じ案件?紗雪は箸を持つ手をぴたりと止め、少し驚いたように彼を見た。どうしてこんなに彼女のプロジェクトに興味を?今まで気付かなかっただけで、こんな人だった?「京弥は......本当にただの好奇心?」目を細め、探るように問いかける。京弥は一瞬固まり、すぐに柔らかい笑みを作った。「少しでも近づきたいから。俺は、紗雪の相談相手でいたいんだ」その言葉に、紗雪は一瞬言葉をなくす。――自分が考えすぎた?「名前は柿本敦」「柿本敦」と聞いた瞬間、京弥の箸が中途半端な位置で止まる。どこかで聞いた覚えがある、その名前。「どうした?その人知ってるの?」不思議そうに首をかしげる紗雪。京弥は目線をそらし、さりげなく彼女のお皿に料理を置いた。「いや、名前だけ聞いたことがある。あの人、ちょっと悪い噂があるだろ」「その話、京弥も?」紗雪は驚いたように目を見開く。京弥は淡々と頷く。「ああ。結構騒ぎになってたし、業界じゃ有名だよ」「なのにあんなに偉そうにしてる......後ろ盾でもあるかな」「まあ、そんなところ」鼻を触り、少し気まずそうに目をそらす。――確かに変な噂はあった。だが実力もあるし、双方納得なら、わざわざ口を出す必要もないと思っていた。でも、紗雪が欲しいと言うなら......この案件、必ず取らせる。彼は紗雪の頭をそっと撫でる。「大丈夫。明日はきっとうまくいくさ」「そうだといいけど」紗雪の言葉には不安がにじむ。京弥は何も返さず、代わりに意味深な笑みを浮かべた。*翌日。紗雪は秘書の吉岡を連れ、「酔仙」へ向かった。ここは味も良く、プライバシーも守られる。ビジネスの席としては最適な場所だ。到着すると、すでに敦が待っていた。紗雪は吉岡と目を合わせ、首をかしげる。噂では横柄で、人を待たせるタイプだと聞いていたのに、なぜ今日は先に来ている?予想外の展開に、胸の奥がざわつく。吉岡も戸惑ったように頭をかく。「もしかして、噂と違う人なんじゃ......?」その言葉に、紗雪も特に疑うことなく頷く。確かに、実際に会ったこと
彼はふと視線を落とし、「もう少しだけ我慢だ」と胸の内で呟いた。洗面所の扉が閉まる音を聞き、仕方なく再びキッチンへ戻り、やりかけの料理を仕上げる。普段、時間さえあれば自分で料理をする。自分の手で作るご飯には、どこか安心できる温度があるからだ。まして、紗雪が自分の作った料理を嬉しそうに食べてくれる姿を見ると、胸の奥がじんわり満たされる。そういう瞬間こそ、彼が彼女の身体も心も満たしている――そう実感できる。そして、彼女の中に自分という存在を「当たり前」にしていく。紗雪が洗面所から出てきたとき、食卓には皿が整然と並び、料理がきれいに盛り付けられていた。京弥はエプロンを外し、すでに彼女の分のご飯までよそっている。「どうぞ召し上がれ」紗雪は彼の隣に腰を下ろす。あの一ヶ月を経てからというもの、京弥の彼女への気配りは、まるで息をするように自然で徹底していた。何をするにも視界の中に置きたがり、そばにいなければ落ち着かない――そんな様子。最初は戸惑ったものの、今では分かっている。彼が欲しがっているのはただ一つ、安心感だ。なら、与えればいい。ほんの些細なことで、二人が満たされるなら、それで十分だ。彼が忙しなく動き、皿を整え、さりげなく気遣ってくれる姿を見ていると、胸の奥が満たされていく。「そういえば、明日取引先に会うって言ってたけど、新しい案件?」京弥が尋ねる。「いつから私の会社のことに興味持つようになったの?」紗雪は少し驚いた表情を浮かべる。京弥は笑う。「会社のことに興味があるんじゃない。君のことだからこそ興味があるの。紗雪の話なら、なんだって聞きたいから」その言葉に、紗雪の耳がほんのり赤く染まる。まるで開眼したかのように甘い言葉を口にする彼に、思わず視線をそらす。「その案件、本当は前から京弥に話そうと思ってたの」少し疲れた顔を見せながら続ける。「南の土地の件。あれ、私が倒れてたときに加津也が話を進めちゃったの。だから入るのは時間と手間がかかる。簡単にはいかないわ」京弥はすぐに理解する。「つまり、その担当者に会いに行くってこと?」紗雪は頷き、少し不安げな表情になる。「うまくいくかはわからない。その人はもともと加津也と約束してたんだからね。で
「明日は取引先に会いに行くから、今日は先に帰って準備しようと思って」紗雪はバッグを京弥に渡す。彼は自然な動作で受け取り、そのまま掛けた。まるでずっとこうしてきたかのように自然だ。紗雪は小さな鼻をふんわり動かしながら、思わず呟く。「何作ったの?すっごくいい匂いする」京弥はくすっと笑って言う。「全部、紗雪の好きなものだよ。前に食べたいって言ってただろ?今日は特に用事もなかったから、全部作ってみた」その言葉に、紗雪の胸の奥がぽっと温かくなる。「私が適当に言ったことまで覚えてるの?」「当たり前だよ。好きだから」その一言に、紗雪はぽかんと固まる。彼の端正な横顔を見つめながら、驚きが胸に満ちる。こんなにストレートな言葉を聞くのは、ほとんど初めてだ。以前の京弥なら、言いたいことを胸にしまいこむ男だった。「どうして今日はそんな......」最後まで言わずとも、京弥は理解していた。薄く唇を上げて笑う。「君がベッドで一ヶ月動けなかったあの時間で、ようやく分かったんだ。俺にとって一番大事なのは何なのか。不安に過ごすくらいなら、今を大事にして、伝えたいことはちゃんと伝えた方がいい」その言葉を聞き、紗雪も深く頷く。あれほどの時間を経たからこそ、互いに近づき、心も願いも成熟し、以前よりずっと深く相手を想うようになった。紗雪はそっと腕を回し、京弥の引き締まった腰を抱く。頼れる体温と力強さに、胸の奥がしっかりと落ち着く。「あとどれくらい?」ほんのり鼻にかかった声。そんな彼女の声音に、京弥は珍しく胸を高鳴らせる。「すぐだよ。あとスープ作るだけ」「そっか。じゃあ早くね、待ってるから」腰から手を離し、洗面所へ行こうとした瞬間、細い腰がぐっと抱き寄せられる。京弥が顔を傾け、長い間渇望していた唇をしっかりと捕まえた。紗雪の大きな瞳が、驚きにわずかに開く。胸を押してみるものの、抵抗の余地など与えられない。彼はさらに深く、甘さを求めるように唇を寄せる。仕方なく、紗雪もその流れに身を任せる。――どうせ、自分だって嫌いじゃないのだから。息が苦しくなる頃、ようやく京弥は彼女を離した。紗雪は頬を少し膨らませながら睨む。「もう、ほら。ご飯冷めちゃうでしょ」「冷めた
吉岡の眼の奥にも興奮が宿っていた。彼は分かっていた。紗雪についていけば、絶対に損はしないと。こんなに長い間ついてきて、得たものも誰の目にも明らかだ。何より、彼は紗雪から本当に「学ぶもの」があった。吉岡はずっと、手にした富よりも、そこで得た知識や経験の方が価値があると思っている。紗雪は片付けを終えると、立ち止まることなくそのまま去った。家に戻ると、見慣れたマンションを前にして、胸の奥から言いようのない感慨が湧き上がる。最初にここへ住むことになった時は、母親の強引な後押しがあったからだ。京弥との関係も、最初は互いに必要があってのこと。この家では色々なことが起こった。その中でも、伊澄という存在は一番大きい。ぶつかり、恨みもした。それでも、紗雪は確かに愛していたのだ。あの頃、一番憎んでいた相手は、紛れもなく京弥だった。相手にはすでに好きな人がいるのに、どうして自分に近づいたのか。しかも、自分には好きな人はいないけど、家族に押されたからだとまで言って。そのあと自分に全部ばれるくらいなら、よほど気まずいはずだ。そんなこと、京弥が考えないなんて、ありえない。あの時の自分は、彼のことを心底嫌悪していたし、憎んでもいた。そこへ伊澄の存在まで絡んで、全部が腹立たしく見えていた。けれど、病院のベッドで一ヶ月を過ごした後、紗雪は気づいた。京弥は本気で自分を好きだったのだと。そうじゃなければ、一番に駆けつけるはずがない。全ては、思い返せばきちんと「ヒント」が残っていた。少しでも鈍くなければ、気付けたことだ。紗雪は思わず笑ってしまう。精巧な顔に浮かぶのは、どこか苦笑と、そして胸の奥のしみじみとした思い。どうしてあの時分からなかったのだろう。京弥はずっと自分を好いてくれていたのに、遠回りばかりして、何度もすれ違って。そうでなければ、今頃二人はきっと幸せに暮らしていたはずだ。でも、結果は悪くなかった。紗雪は別荘へ足を踏み入れながら、京弥の「好きな人」についての答えを胸に抱く。その人は、おそらくは自分だ。昔はそんな可能性、全く考えたこともなかった。でも思い返してみると、自分が「好きな人」の話をするたび、京弥の視線はいつも自分に向いていた。これだけ揃っていて、







