Masuk「海の瞳」を持つ者は、他国に幸せをもたらす――。 シーブルーム王国の伝説として語られる「海の瞳」を持つ王女マリッサは、ニ十歳でグリージア王国の王太子ハロルドの元へ嫁いだ。 しかしハロルドは冷淡な態度を取り、マリッサの方を見ることさえない。どうやら彼には好きな人がいるようだ。 それでも結婚は国同士の契約、簡単に縁を切るわけにはいかない。 「だから私たち、このまま結婚を続けましょう?」 「そうだな。だが君に好きな人ができたのなら、離縁を申し出ても構わない」 こうして二人の関係は“夫婦”から、“契約で結ばれた秘密の共有者”に変化した。 それなのにマリッサが言い出した「離縁」をハロルドが渋るのは、どうしてなの?
Lihat lebih banyak春の陽ざしが射しこむ孤児院の庭では、子どもたちが歌の練習をしていた。 窓辺からその光景を見守っていたエリナはふと昔を思い出す。「懐かしいな」 ぽつりと呟いていたところで、ひっそりと扉を叩く音がした。「ねえ、エリナ先生」「どうしたの?」 手にした書類を机に置いて立ち上がると、少年はもじもじとした様子をしながら言う。「あのね。さっき授業で習ったことがあって……ううん、それはいいや。とにかく僕、大きくなったら人の役に立ちたいなって思ったんだよ。……どうしたらいい?」 あまりに真っ直ぐな問いに、エリナは思わず吹き出してしまった。 少年の顔がみるみる曇ったので慌てて両手を振る。「あ、ごめんなさい、違うのよ。ただ、なんだか昔を思い出しちゃって」「昔?」「そう。――私もね、あなたと同じ十歳のときに、マリッサ様にまったく同じことを聞いたのよ」 少年の目が丸く見開かれた。「マリッサ様って、王妃様だよね?」「ええ。私がマリッサ様にその話をしたときは、まだ王太子妃でいらしたけど……」 遠い国から嫁いできた王太子妃、マリッサ。 彼女を陰で笑う者がいたのだとエリナが知ったのはずっとあと、大人になってからのことだった。 それでも彼女は、自分や自分の仲間たちの前で一度たりとも弱音を吐かなかった。 いつだって穏やかな笑顔を絶やさず、誰に対しても分け隔てなく優しく接し、明るく周囲を照らす人だった。 ――今となっては、あのマリッサを笑う人がいたなんて、誰も想像できないだろう。 そう思って微笑むエリナに向け、少年が興味深そうに首をかしげる。「王妃様は先生に、なんて言ったの?」「ああ、そうね。……王妃様はね、こう仰ったの。『困っている人がいたら助けてあげて、悲しんでいる人がいたら寄り添ってあげて。それが自然にできるようになれたら、人の役に立つ人にきっとなれるわ』って」 そのときエリナは「これからたくさん勉強して、小さい子のお世話もたくさんしてあげる!」とマリッサに答えた。 彼女に宣言した通りに努力を続け、おかげで今のエリナは国の官吏にまでなれている。「マリッサ様はとても優しくて、聡明で……何より、人の可能性を信じておられるわ。あの方のおかげで、この国も孤児院もどれほど救われたことかしら」 エリナがまだ子どもだったころ。 孤児院の財源は寄付が頼りで
その夜の出来事は、マリッサが後から思い返しても不思議だった。 寝台の中にいる自分の体は、今までとはまるで別物になってしまったようだった。 どこもかしこも燃えるように熱いし、頭は痺れたようにぼうっとする。 かと思うと強く引き戻されたけれど、そういうときには大抵思いもかけない声が漏れるのが、とても恥ずかしかった。 それが愛らしいとハロルドに言われたけれど、きっと優しい嘘だろうとさえ思ったくらいだ。 気がつくと夜は更け行き、朝が近くにすらなっていた。 マリッサとハロルドはそのまま互いのぬくもりに包まれ、満ち足りた気持ちで目を閉じた。 朝の光が届いても目覚めず、気がついたのは寝室に声が響いてからだ。「おはようございます、妃殿下」 慌てて身を起こしたマリッサの横にはハロルドがいる。侍女たちはそんな光景を想像すらしていなかったのだろう、寝室に入った途端、着替えや洗面器、水の入った壺を派手に取り落とした。「し、し、失礼しました!」 寝室から出て行こうとした彼女たちが、水びたしの床で滑って悲鳴をあげ、ほかの侍女が何事かと駆けつけてまた大わらわとなる。 肩まで引き上げた毛布の中でその光景をハロルドと二人で見るのは、恥ずかしさも申し訳なさもあったが、なんだか嬉しくもあった。 少し時間をおいて、マリッサたちも侍女も落ち着いてからは、改めて互いの使用人たちを呼び寄せて仕度を済ませた。 朝食をとるのはマリッサの部屋だ。 温かく香ばしい匂いが満ちる中、マリッサとハロルドは向かい合って椅子に座った。 こんな穏やかで満ち足りた時間を過ごせるとは思わなかった、と思いながらマリッサは、何度もハロルドと顔を見あわせて笑った。 朝食のあと、二人はその日の予定をすべて断って、マリッサの部屋で過ごした。 それは半年という空白を取り戻していくような時間だったと思う。 ソファに並んで座って多くのことを語って、手を取り合ってバルコニーへ出て。 青い空を見上げながら風に髪をなびかせていると、どこからか微かに楽の音が届く。 どこかの部屋で貴人が楽器を奏でているのだろう。 「……そういえば孤児院の子どもたちはいつも、“歌を歌って”って言うの」 ハロルドが小さく首を傾げた。 彼に微笑んでから表情を引き締め、マリッサは市街のある方へ顔を向ける。「あの子たちは『楽器を弾いて
最初に思ったことは「クレアの青と同じ色だ」ということ。 だけど、その奥にあるものはまるで違った。 クレアの瞳に宿っていたのは柔らかな慈しみだったが、マリッサの瞳は違う。もっと強く、確かに輝く光があった。 この光を手放してしまうと思うと胸が焼けるように痛む。 ただ、その光が、少しずつ潤みはじめた。 最初のうち、ハロルドは自分が涙ぐんでいるのかと思った。 しかしよく見ると違う。涙ぐんでいるのはハロルドではなく、マリッサだ。「ハロルド、ちゃんと聞いていた?」「もちろんだ……だから私たちの離縁の旨を皆に伝えて……いや、明らかにすることで、あー……」 ハロルドが言い淀んだのはマリッサの表情が変化したせいだ。彼女は軽く目を伏せて、あきれ半分、慈しみ半分の笑みを見せる。「あのね。私は、“表向きは夫婦”という契約を、解除したいと言ったの。分かる?」「分かっている。私たちは、離縁をするわけだから――」「ちっとも分かってないわ」 マリッサは瞳を上げ、ふう、と息を吐いた。「表向きだけじゃなく“裏でも”、きちんとあなたと夫婦でいたいっていう意味で言ったのよ」 自分は今、とんでもなく間の抜けた顔をしているに違いない。ハロルドはぼんやりとそう思う。「あなたも言ったでしょう? 『君に好きな人が出来たのなら、心のままに動くといい』って」「ああ……」 それは結婚していくらも経たない夜、彼女に向けて放った言葉だ。夜を共にできない、と。 その後も形式だけの結婚を続けようと提案したマリッサに同意しつつ、心のどこかで彼女を縛る資格はないと思っていた。にもかかわらず、彼女がディーンと親しげにしている姿を見て胸の奥が焼かれた。ありえない愚かさだ。「あのとき離縁するとは言ったけど、契約は破棄されてなかったわ。だから私は心のままに動いたのだけど……どうかしら」 上目遣いに尋ねて来る彼女がとても愛らしい。 おろおろとしながらハロルドは言葉を探す。「だが……ラガディは? ディーンのことは? そ、そうだ、それに私は、『夜の教育』にクレアを望むような愚かな人物で……」「あなたがこれからも夫婦でいてくれるなら、私はラガディには行かない。ディーンのことは誤解よ。……クレアのことは……」 少し言葉は途切れ、続く。「あなたたちは、清いままだったんでしょう?」 ハロルドは思わ
「マリッサ。話を聞いてほしい」 ハロルドは呼びかけたけれど、彼女は窓の外に顔を向けたきりで返事もなかった。ただし聞こえている証拠に肩がわずかに震えた。それを見て取ってハロルドは話を続ける。「私は昔、クレアに恋をした。いつか彼女を私の妻にしたいと思っていた。しかし現実は私の思う通りにいかなかった。君も知っている通り、彼女は兄の妻になった。嫉妬に狂った私は、彼女を奪おうとしたんだ」 あのときのハロルドはまさしく狂っていたのだと思う。「グリージア王家には『夜の教育』という慣習がある」 ハロルドはかいつまんで『夜の教育』の話をする。 マリッサは静かに聞いていたので、もしかするともう知っているのかもしれない。「私はそれが許される年齢になったとき、相手にクレアを望んだ。『夜の教育』に選ばれた相手は絶対に拒めないと分かっていたからだ。これで私は、確実にクレアを自分のものにできると思った。……だけど私は何も得ることができなかった。ただ、クレアを傷つけ、ロジャーに憎しみを植え、自分の思いを汚しただけだった……」 ハロルドが一度口をつぐむと、窓辺からは静かな声がした。「どうしていま、私にそんな話をするの?」「そうだな……」 深く息を吐き、ハロルドは続ける。 確かにこんな話をされてもマリッサは困るだけだろう。だが、ハロルドはマリッサに伝えるべきことがある。「この話をしなければ、言えないことがあったんだ」「どんなこと?」「私は、君の瞳の色に、クレアを見ていた」 これは『マリッサをクレアの影として見ていた』ことを明かす話だ。 どれほど失礼なことをしていたのかハロルドにも分かっている。 だがもし、黙ったまま別れてしまえば、彼女はいつまでも「ハロルドが自分を見なかった理由」を探し続けてしまう。そして優しい彼女はきっと「自分に問題があった」と思ってしまうだろう。それだけはさせたくない。「クレアは私にとって、罪そのものになってしまった。君の瞳を見るたびに彼女の瞳を思い出し、同時にあの夜の愚かさも思い出した。……卑怯な私は罪から目をそらそうとした。君の顔を見られなかったのはそのせいだ」 マリッサは何も言わない。 果たして彼女は何を思っているのだろう。「私は最初から最後までずっと身勝手だった。けれど君は、最初から最後まで、優しく、誠実だった。君には何の非もな
ディーンの口からクレアの名を聞いたとき、マリッサの喉の奥では「やはり」という言葉が出かけて止まった。 なんとなく想像はしていたのだ。 宮廷に姿を見せないクレア。ハロルドとロジャーの激しい口論。そして、クレアの名を呼びながらうなされるハロルド。 断片的に知っていたことが、ひとつの像となって結びついただけ。だから衝撃は受けたけれど、思うほどではなかった。「王太子殿下は子どもの頃からずっと、クレア様を慕っていたんです」 しかしディーンは殊更にゆっくりと話を続ける。「その気持ちはクレア様がロジャー様の妻になっても変わりませんでした。だから王太子殿下はクレア様を望みました。国王陛下もそれ
勉強会の翌日、ディーンは王太子妃マリッサの部屋へ向かっていた。 薄い曇り空の下、王宮の回廊には湿った空気が漂っている。 実はディーンはハロルドの召使いの一人に小金を握らせ、王太子の周辺で何か動きがあったら知らせてくれと頼んであった。 その召使いが昨夜、こっそり連絡を寄こした。曰く、「王太子妃が王太子の執務室へ訪れたあと、何も言わずに走り去った」というものだ。 ディーンはほくそ笑んだ。 おそらくハロルドは庭園で見たディーンとマリッサの姿に衝撃を受け、マリッサに「ラガディへ行け」と言い出したのに違いない。(私の出番だな) マリッサの部屋の前に立つと、扉の向こうから微かに侍女たちの
自室に戻ったマリッサを見て、出迎えの侍女たちは驚きの声を上げた。「王太子妃殿下、どうなさったんですか!」 しかしマリッサは彼女たちに構うことなく寝室へ飛び込み、鍵をかける。 侍女たちが口々にマリッサを呼びながら扉を叩くけれど、マリッサは叫ぶように「一人にして!」と返すのが精一杯だった。 そのまま寝台へ走り、身を投げ出し、声を限りに泣き崩れる。 ハロルドから離縁を言われて悲しかったのはある。 ディーンとのことを言われて悔しかったのもある。 自分がやってきたことがすべて無駄であり、何もかも空しくなってしまったというのもあるような気もする。 とにかく「離縁しよう」との言葉が心の中
歩み去るハロルドの背を見つめ、ディーンはゆっくりと唇に笑みを浮かべる。(種を撒いたぞ) 勉強会の広間を出たハロルドが庭園に行くのを見たディーンは先回りしていつもの東屋へ向かった。もしもマリッサがいれば幸運だと思ったが、本当に彼女がいたとは。 しかも彼女と会っている場面をハロルドに見せることまで出来た。ここまで上手くいくとはなんという幸運だろうと、神に感謝すらしたくなる。 ディーンは昔から人の心の動きを読むのが得意だった。 王宮での宴や集まりで、誰が誰を好み、誰が誰を敵視しているのか。言葉にされない空気を読み、それぞれの感情の動きを記憶しながら生きてきた。 すべてはいずれ王位を望