「海の瞳」を持つ者は、他国に幸せをもたらす――。 シーブルーム王国の伝説として語られる「海の瞳」を持つ王女マリッサは、ニ十歳でグリージア王国の王太子ハロルドの元へ嫁いだ。 しかしハロルドは冷淡な態度を取り、マリッサの方を見ることさえない。どうやら彼には好きな人がいるようだ。 それでも結婚は国同士の契約、簡単に縁を切るわけにはいかない。 「だから私たち、このまま結婚を続けましょう?」 「そうだな。だが君に好きな人ができたのなら、離縁を申し出ても構わない」 こうして二人の関係は“夫婦”から、“契約で結ばれた秘密の共有者”に変化した。 それなのにマリッサが言い出した「離縁」をハロルドが渋るのは、どうしてなの?
View More寝室の窓には夕闇がすっかり降りている。
それは試練の合図のように思える。今日は特に。カーテンをそっと開き、向こうに星々を眺めながらマリッサはきゅっと唇を噛む。
時間がもう少し進めば夜空の星々が冴え冴えとした輝きを増す。
その頃に、この扉は密やかに叩かれるだろう。 現れるのはグリージア王国の王太子、マリッサの夫、ハロルド。彼がこの寝室に来るときはたいてい、昼間と変わらぬ服装だった。
夜着姿でないのは、彼が最初からマリッサと「夜を共にしない」と決めていたからだ。 それでもマリッサは「もしかしたら」という気持ちが捨てきれなかった。考えてみれば滑稽な話だ。
マリッサはグリージアに嫁いできてすぐ、ハロルドと一つの契約を交わしたのに。 それはこの結婚を続けるのは、あくまで国と国のつながりを考えるためだけのものだということ。王太子ハロルドには好きな人がいた。
だから彼はマリッサに指一本触れることなく、「君に好きな人が出来たのなら、心のままに動くといい、離縁を申し出ても構わない」とまで言ったのだ。その通りにして半年以上が過ぎた。
だが、もう無理だった。 どこまで行ってもマリッサはこの国にとって、もちろんハロルドにとっても、「あの女性の影」でしかなかった。それを思い知ってしまったから。だから今宵はいつもの習慣をやめた。
浴室で身を清めはしたが、いつもと違って香油は使わなかった。 夜着を整えることもせず、今も身につけているのは昼と同じドレス。 それはまるで、ハロルドが毎夜現れる時の姿をそのままなぞるかのようだった。「あなたが昼の姿のままなら、わたしも昼の姿のままでいい」
冷ややかに輝く星を見ながらマリッサはそう呟く。
やがて、約束の時刻が訪れる。
静寂を破る密やかなノックが響き、小さな音がして扉が開かれる。 姿を見せたのは予想通りの人物、ハロルド。その顔は、依然として彼女の方へ向けられぬままではある。 ただ、下げられた視線は、はっきりとドレスの裾をとらえているのだろう。わずかに間を置いて、低い声が響いた。
「……マリッサ? どうかしたのか? その姿は……?」
いつもの無表情はかすかに揺らぎ、戸惑いの色を帯びていた。
声にも狼狽がにじんでいる。マリッサは静かに顔を上げた。
銀の髪が揺れ、青い瞳が炎に照らされる。 ハロルドの問いには答えることなく、マリッサは言い切る。「……あなたの望み通り、離縁します」
返事の代わりに、小さく息をのむ音が聞こえた。
ディーンの口からクレアの名を聞いたとき、マリッサの喉の奥では「やはり」という言葉が出かけて止まった。 なんとなく想像はしていたのだ。 宮廷に姿を見せないクレア。ハロルドとロジャーの激しい口論。そして、クレアの名を呼びながらうなされるハロルド。 断片的に知っていたことが、ひとつの像となって結びついただけ。だから衝撃は受けたけれど、思うほどではなかった。「王太子殿下は子どもの頃からずっと、クレア様を慕っていたんです」 しかしディーンは殊更にゆっくりと話を続ける。「その気持ちはクレア様がロジャー様の妻になっても変わりませんでした。だから王太子殿下はクレア様を望みました。国王陛下もそれを認め、クレア様が王太子殿下の寝室に侍ることになったのです。ハロルド殿下はよりによって、兄の妻を初の女性として選んだ……」 ディーンの瞳がふと探るような色を帯びた気がする。「……しかもそれは真っ先に妃殿下へ言うべきことだったはず。それをきっと隠したままだった。そうですね? 我が従弟殿はいつもそうだ。大事なことを言わない。最も近くにいらっしゃる妃殿下にさえ黙っているなど、そんな酷いことがあっていいのでしょうか」 悔しげなディーンの言葉が終わると同時に、部屋の中の空気がひどく重くなった気がする。 けれど、目の前の彼が言うほどには「酷い」と思っていない自分に、マリッサは気づいた。 言葉はときに真実を遠ざけることがある。 相手を思うからこそ語らないことだってある。 そんな優しさだってこの世にはあるのではないだろうか。 ハロルドが黙っていたのは、マリッサを軽んじたからではない。 だから時が来たらきっと話してくれたはず。 きっとそうだと信じたい。 それが自分の本心なのだとマリッサは気がついた。「……お辛いでしょう、妃殿下。けれど、あなたが悲しむことはありません。殿下はあなたを軽んじた。その罪は、いつか必ず彼自身に返るはずです」 ディーンは相変わらず優しい言葉をかけてくる。 だが、マリッサの心には少しも響かない。(……どういうこと?) 自問し、マリッサは思い返す。 これまで自分が向けられてきた“優しさ”とはどういうものだったか。 茶会で「見事な銀の髪ですわね。私たちの国ではちょっと浮いてしまうかもしれませんけれど、大丈夫かしら? ああ、とても王太子妃殿下の
勉強会の翌日、ディーンは王太子妃マリッサの部屋へ向かっていた。 薄い曇り空の下、王宮の回廊には湿った空気が漂っている。 実はディーンはハロルドの召使いの一人に小金を握らせ、王太子の周辺で何か動きがあったら知らせてくれと頼んであった。 その召使いが昨夜、こっそり連絡を寄こした。曰く、「王太子妃が王太子の執務室へ訪れたあと、何も言わずに走り去った」というものだ。 ディーンはほくそ笑んだ。 おそらくハロルドは庭園で見たディーンとマリッサの姿に衝撃を受け、マリッサに「ラガディへ行け」と言い出したのに違いない。(私の出番だな) マリッサの部屋の前に立つと、扉の向こうから微かに侍女たちの声が聞こえる。 一呼吸おいてから控えめに扉を叩き、顔を見せた侍女に名を名乗り、続いて告げる。「王太子妃殿下に言葉をお伝えしたく参りました」「どのような内容でしょうか?」 客人に慣れているようで、侍女は驚きも戸惑いもなく淡々と尋ねてくる。そこに聞こえたのがマリッサの声だ。「通して差し上げて」「でも、妃殿下」「いいのよ」「……では、どうぞ」 部屋の中は昼の明るい光に満たされている。薄い紫色のドレスをまとったマリッサは、中央の椅子から立ち上がるところだった。「こんにちは、ディーン。私の部屋に来るのは初めてね」「はい。なんだか新鮮な気持ちがいたします」「本当ね」 マリッサの微笑はいつものように穏やかだ。 けれど、ディーンは内心で眉をひそめた。 ――何かが違う。 昨日までと比べてほんの少しではあるが、自分へ向ける感情が薄れているように思えるのだ。まさか行動に違和感を持たれてしまったのだろうか。(……いや、そんなはずはない。きっと彼女が疲れているせいだ) そう自分に言い聞かせ、ディーンは静かに歩み寄る。「妃殿下、突然の訪問をお許しください。少し胸が騒いで……」 そこで区切って独り言のように呟く。「いえ。ただ私が、お顔を拝見したかっただけです。少し、噂を耳にしたものですから」「……噂。どのような?」 彼女の問いには答えず、ディーンはそっと膝をついた。 いつもの笑みを消し、真剣な眼差しでマリッサを見上げる。「王太子妃殿下。人々はあなたの美しさや、聡明さ、そして遠い海の国から嫁いでこられたというお立場といった、表面ばかりを口にして誉めそやします。
自室に戻ったマリッサを見て、出迎えの侍女たちは驚きの声を上げた。「王太子妃殿下、どうなさったんですか!」 しかしマリッサは彼女たちに構うことなく寝室へ飛び込み、鍵をかける。 侍女たちが口々にマリッサを呼びながら扉を叩くけれど、マリッサは叫ぶように「一人にして!」と返すのが精一杯だった。 そのまま寝台へ走り、身を投げ出し、声を限りに泣き崩れる。 ハロルドから離縁を言われて悲しかったのはある。 ディーンとのことを言われて悔しかったのもある。 自分がやってきたことがすべて無駄であり、何もかも空しくなってしまったというのもあるような気もする。 とにかく「離縁しよう」との言葉が心の中で何度もよみがえり、泣けてしまって仕方がなかった。 ――やがて、涙も枯れるころ。 のろのろと顔を上げると、辺りはもうすっかり暗くなっていた。 侍女たちはマリッサの望み通りそっとしておいてくれたようだ。 王太子の執務室へ一緒に行ったジュリアが軽く状況の説明はしただろうが、彼女自身も詳細を知っているわけではない。質問を浴びせられながら困った表情を浮かべるジュリアの姿が見えるような気がした。 それでも侍女たちは無理に鍵を開け、寝室へ入ってくるようなことはしなかったのだ。 今になって、自分の身勝手さと我が儘ぶりが申し訳なくなる。 そのまましばらく寝台に座り込み、喉の奥がからからに乾いていることに気づいたのは、どれほど時間が経ってからだろう。 水でも飲もうと思い立ち、マリッサはふらりと寝台を離れ、重い足取りで部屋の扉へ向かった。 扉の向こうは昼の居室だ。 侍女たちはこの部屋の明かりを落とし、もう控室に下がってしまっているだろうと思った。 しかし居室は光に溢れ、侍女たちは静かに控えていた。 誰も声を上げない。ただ、マリッサの姿を見た途端、彼女たちは静かに微笑んだ。部屋に張り詰めた空気がほどけたような気がする。「……ごめんなさい、驚かせてしまったわね」 掠れた声でマリッサが言うと、侍女の一人がそっと近づいてきた。「お座りになりますか、殿下?」「ええ」 マリッサが椅子に掛けると、侍女たちが動き出した。幾らも待たずに机にはカップが置かれる。湯気は少ない。きっとわざとぬるくしてくれたのだ。「ありがとう」 一口含むと、柔らかな甘さが口に広がる。 その味に誘われ
勉強会に参加するというディーンと別れたあとも、マリッサは東屋でまた考えに沈んでいた。 慌ただしく侍女のジュリアが慌ただしく駆けてきたのは、池を渡る風がずいぶん涼しくなり、夕の訪れを告げる頃だ、 彼女から告げられた内容にマリッサは息をのむ。 ――ハロルドからの呼び出し。 マリッサは今までハロルドから呼び出されたことなどない。 ジュリアもそれを知っているから、こんなにも顔色を無くしているのだろう。 いったい、何の用なのか。 花見の宴の後に会うのだという事実からも考えると、どうしても内容は一つの方向へ向かってしまう。「シーブルームの王女よ。もしもまだグリージアの王太子と心を通わせておられぬのなら、我が国へ来ないか。幸いなことに私には複数の息子がいる。中の誰かがかならずあなたを幸せにするだろう」 ラガディの王が言ったこの話と、きっと無関係ではない。 そう思うだけで胸が重くなるけれど、いずれは決める必要のあった話だ。(ハロルドの意見は、意見として聞く。その上で私の意見も言えばいいのよ) 自分の意見。 それはこの国をまだ離れたくないということ。 慈善事業の国営化を意思半ばで放り出したくない。 それに何より、寂しく一人で佇むハロルドをそのままにしたくない。 彼がクレアのことを想っているのは知っている。 でもマリッサは『花見の宴』で彼と歌ったあのときに彼と気持ちが通じ合った気がした、あれが幻なのだとはどうしても思えなかった。「どうなさいますか、妃殿下……」 ジュリアからそっと声を掛けられてマリッサは心を決める。「行くわ」 池の水面が陽光を反射してきらめく。その輝きを裾に映しながらマリッサは立ち上がる。 庭園を渡る風の音を、石の廊下を打つ靴音を聞きながら進み、ついにマリッサは重厚な扉の前に立った。 侍女が来訪を告げ、中からの答えが戻る。「あなたは待っていて」「ですが」 不安そうに見つめるジュリアに微笑み、マリッサは一人で扉をくぐった。 夕暮れのせまる庭園はだいぶ明るさも落ちていたと思う。しかし外はまだ明るかったのだと、ハロルドの執務室に入ったマリッサは思い知った。 ようやく慣れた目に映ったのは壁際の書架だ。まるで王妃の部屋のようにたくさんの本がずらりと並んでいる。 次に部屋の奥に机を認めた。書類は整然と積まれている。まるで
歩み去るハロルドの背を見つめ、ディーンはゆっくりと唇に笑みを浮かべる。(種を撒いたぞ) 勉強会の広間を出たハロルドが庭園に行くのを見たディーンは先回りしていつもの東屋へ向かった。もしもマリッサがいれば幸運だと思ったが、本当に彼女がいたとは。 しかも彼女と会っている場面をハロルドに見せることまで出来た。ここまで上手くいくとはなんという幸運だろうと、神に感謝すらしたくなる。 ディーンは昔から人の心の動きを読むのが得意だった。 王宮での宴や集まりで、誰が誰を好み、誰が誰を敵視しているのか。言葉にされない空気を読み、それぞれの感情の動きを記憶しながら生きてきた。 すべてはいずれ王位を望むためだ。 実を言えばディーンにも王位継承権がある。 それは母が王の妹であり、現国王の甥という立場のおかげだった。 現国王には二人の息子がいる。 ロジャーとハロルドという、八歳違いの兄弟。 兄のロジャーは母の出自の関係で王太子にはなれなかった。 王太子になったのは、弟のハロルドの方だ。 冷たいと評されることの多いハロルドは、国内の人気がさほどに高いわけではない。 ならばハロルドに付け入る隙を見つけ、王太子に相応しくないと世間が断じれば、次期王位は自分の元に転がり込んでくるのではないか。 そう考えたディーンは、近くにいるときはもちろん、遠くからでも、ハロルドのことを観察し続けていた。 そのおかげでディーンは、まだ子どもだったハロルドがクレアに向けていた視線に気づくことができた。 華やかな舞踏会で、楽の音の響く宴の席で、鮮やかな花の咲く庭園で。 誰かと話をしていたとしても、ふとしたはずみにハロルドの視線は違うほうへ向けられる。 その先にいたのはいつもクレアだった。 彼女を見つめる際に熱を帯びる視線を、ディーンは最初のうち「子どもの淡い憧れ」かと思っていた。 だが年を重ねても、ハロルドの視線は変わらない。それどころか逆に熱が上がっているかのようにさえ見えた。それで確信を得た。(……なるほど。我が従弟殿は、あの方に心を寄せているのだな) もちろんディーンはクレアが誰と結ばれるのか分かっていた。 クレアがいつも見つめる先にいたのは同じ人物だったからだ。 むしろあれほどクレアばかりを見ているハロルドが、どうしてその事実に気づかないのか。正直に言えばとて
朝の出来事があまりに衝撃的で、一人で考えながら歩いているうちにマリッサは庭園の東屋まで来てしまっていた。 午後の庭園は柔らかな陽光に包まれている。 輝く池の水面をぼんやりと眺めていると、不意に背後から軽やかな声が響いた。「これは、妃殿下。奇遇ですね」 振り返ると、ディーンが立っていた。 日差しを背に受けて金の髪がやわらかく光り、いつものように人懐っこい笑みを浮かべている。「まさか妃殿下がおられるとは思いませんでした。久しぶりにお会い出来て、思わぬ宝物をいただいた気分ですよ」 冗談めかして言うディーンの声は朗らかだ。 思えば、ディーンとこうして言葉を交わすのは久しぶりだった。『花見の宴』の前には歌の練習に明け暮れていたし、宴の後はラガディからの申し出で心が落ち着かなかったせいもある。「そうね。ここへもしばらくは来なかったから。……今日は少し考えごとをしていて……気がついたらここに来ていたのよ」「考えごと、ですか。春の午後は、つい物思いに誘われますからね。私にとっては退屈な日ですけれど」 そう言う彼の手には珍しく本が握られている。「読書をしているの?」「ああ、これは、勉強会で使っている本です。今は退屈な勉強会の休憩中なんですよ」「勉強会があったのね……」「ええ。小規模なものなのであまり遅くはならない予定みたいですが、それでも朝から夕方まではかかりそうです」 勉強会は貴公子たちが集まって行われるものだ。 ならばあのとき既にハロルドは部屋にいなかったということになる。 少しばかり肩透かしをくらったような、安堵したような。 複雑な気分のせいでマリッサの笑顔は強張るが、「伯父上――国王陛下の前では大真面目を装ってますけど、実は私は大の勉強嫌いでしてね」 自然な笑顔を浮かべるディーンは追求してこない。今のマリッサにはそれがありがたい。 おかげで次の言葉を発するときにはなんとか口元を緩めることができた。「あなたが勉強嫌いだと思わなかったわ。むしろ勉強好きのように思えるもの」「そう感じていただけたなら成功ですね。本当はただマジメを演じているだけなんですよ。私は器用ですから、演じることが得意で」 言ってディーンは持っていた本を掲げ、ウィンクをしてみせる。「おかげで勉強会では覚えた本の内容を適当に繰り返すだけで褒めてもらえます。楽な
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