Mag-log in「紗雪さんがどうしてこんなところに?」「珍しいお越しだな。この個室まで一気に格が上がった感じだ」そんな言葉が飛び交う中、紗雪の笑みは少しだけ薄れた。清那がすぐに庇うように言い返す。「ちょっと、どういうつもり?今日は気分転換に来ただけなんだから、変なこと言わないで」彼女はそもそも、紗雪をリラックスさせるためにここへ連れてきたのだ。こんな烏合の衆と群れるつもりはない。清那は元から思ったことをそのまま口にする性格だった。紗雪はそんな清那の袖をそっと引いた。――相手は清那の知り合いでもあるし、あまり角を立てるのも良くない。自分は構わなくても、清那がこの界隈で活動している以上、余計な揉め事は避けたほうがいい。「いいの。みんなが私のことを気にしてくれてるだけだから」そう言って紗雪は穏やかに微笑んだ。「確かに、私は二川家の娘です。他に質問は?」そのあまりにあっけらかんとした言い方に、場の空気が一瞬止まった。あそこまで率直な反応を見せる人間なんて、彼らも初めて見た。あからさまに敵意を見せたのに、相手が全く動じない。これ以上しつこくすれば、かえって自分たちがみっともなくなる。「まあまあ、いいじゃないか。二川家の紗雪さんが一緒に遊んでくれるなら、大歓迎だよ」そう口を開いたのは根岸怜王(ねぎし れお)という男だった。真っ赤に染めた髪に、口元には煙草。一目で分かるような不良の風体だった。紗雪がちらりと見ただけで、だらしない印象を受ける。怜王がそう言うと、他の連中もそれ以上は何も言わず、愛想笑いを浮かべるだけだった。どうせ同じ業界の人間だ。それに、紗雪のような美人が現れたのだから、みんな興味津々でもあった。一方、周囲の女性たちは露骨に嫉妬の目を向けていた。――こんなに綺麗で、しかもここに出入りしてるなんて......どうせ裏があるに決まってる。清純ぶってるけど、どうせ同じ。清那はそんな視線をまるで気にしなかった。彼女がこの連中とつるむようになったのも、怜王の存在が大きい。この世界では、どこか解放感を感じることができた。だから一緒にいる時間も増えていったのだ。清那は今でも覚えている。あの日、失恋で気分が沈み、ひとりクラブで酔いつぶれていたとき、偶然このグループに出
吉岡がそんなにも自分を信頼してくれているのを見て、紗雪の胸の奥にじんとした感動が広がった。「ありがとう。その信頼を裏切らないよう、頑張るよ」そう言って、紗雪は素直に打ち明けた。「実は、デザインスタジオを立ち上げて、不動産デザインの仕事をしたいと思ってるけど......そのアシスタントの席は、空けておくから」それを聞いた吉岡は、ようやく心から安心した。やはり、紗雪は絶対に挫けるような人じゃない。二川グループを離れたとしても、彼女に手を差し伸べる会社はいくらでもある。二川グループなんて、彼女にとってはただの踏み台に過ぎないのだ。だから今回、紗雪が辞めると言ったときも、吉岡は引き止めなかった。オフィスに戻るとすぐに、退職届を書き上げ、人事部に提出した。退職届を見た人事担当は、思わず目を丸くした。「本気にいいんですか?」なにしろ、今ちょうど会長代理の席が空いているのだ。吉岡は長年紗雪の下で働いてきた人間で、その実力も社内で認められている。昇進の最有力候補だった彼が、こんな時に辞職するなんて......「頭でも打ったのか?」と、誰もがそう思った。だが吉岡は真剣な表情でうなずいた。「もう決めましたので。どうか受理してください」人事担当は口を開き、何とか説得しようとしたが、彼の揺るがない視線を見て、言葉を飲み込んだ。「......私の一存では決められませんね。会長に確認してもらわないと」吉岡は少し驚いた顔をした。「私はただの社員ですよ。会長にまで会わなきゃいけないんですか?」「ええ。元紗雪さん所属の社員の去就は、すべて会長の承認が必要です」仕方なく、吉岡はため息をつき、退職届を引き取った。「分かりました。お願いします」その丁寧な態度に、人事担当もそれ以上は言わなかった。さっきの発言も、実際のところは方便に過ぎない。彼が思い直すきっかけになれば――そう思ってのことだった。二川グループにとって、吉岡のような有能な人材を失うのは大きな痛手だ。人事担当は深く息をつきながら、心の中で呟いた。「厄介事を増やしてすみません。でも、これも会社のためなんです」吉岡は自分の席に戻り、退職届を見つめながら頭を抱えた。面倒なことになったと、今さら思い始める。紗雪の言葉を
社員たちは、怒りをあらわにして出ていった緒莉を見送りながら、首をかしげた。「どうしたんだ、一体?」「出て行くのはいいけど、あんなに怒った顔して......」ざわざわと小声の噂が飛び交う。「何があったんだ?」「詳しくは知らないけど、さっき株主総会が終わったばかりだろ?今の会社の状況がどうなってるのか、まだはっきり掴めてないんだ」「でもな、内部の話によると、紗雪さんが辞めたらしいぞ」その言葉に、周囲が一斉に息をのんだ。「えっ、紗雪さんが?どういうこと?」もし紗雪が辞めるなら、自分たちはどうすればいい?彼女のもとで動いている部門は多く、さまざまな案件がすべて紗雪に関わっていた。そんな人物が急にいなくなったら、現場は大混乱だ。焦りの色が社員たちの間に広がる。その噂を耳にした吉岡も、唇を引き結び、眼鏡を押し上げた。そして、心の中でひとつの決意を固めた。彼はすぐにロビーへと向かい、紗雪の姿を探した。やがて別のエレベーター口から出てくる彼女を見つけ、慌てて駆け寄る。紗雪は吉岡の姿を見て、少し驚いたように目を瞬かせた。「どうしたの?」今は勤務時間のはずだが。吉岡は息を整え、真剣な表情で言った。「紗雪様、本当に辞められるんですか?」「ええ」紗雪は彼を見つめ、静かに答えた。「もう決めたことよ。吉岡が何を言っても変わらないからね」その言葉に、吉岡は慌てて手を振った。「違うんです、止めようなんて思ってません」だが紗雪は淡々と口を挟む。「もう会長代理じゃないんだから、『様』はもういいでしょ?」吉岡は首を振った。「いえ、私の中では、紗雪様は紗雪様です」少し照れくさそうに頭を掻きながら続けた。「私はずっと考えてたんです。紗雪様の決意を止められないなら、いっそ一緒にやっていこうって」紗雪は思わず目を見開いた。「一緒に?本気で?私、今はどこの会社にも所属してないのよ?」その現実を、吉岡も理解していた。それでも、彼はまっすぐな眼差しで言う。「本気です。私はずっと紗雪様のもとで働いてきて、たくさんのことを学びました。だから、私もついていきます。今の私があるのは、全部紗雪様のおかげですから」紗雪は一瞬、胸の奥が温かくなった。だがすぐに首を横に振る。
「会社の状況は緒莉もわかるでしょう?今は経営陣がしっかり支えないといけない時期なの。お母さんがどれだけの重圧を抱えているかも、緒莉なら理解しているはずよ」美月は立ち上がり、穏やかに語り始めた。緒莉は一瞬、母の言いたいことがつかめなかった。そこで気遣うように言葉を返した。「お母さんがいつも私のことを気にかけてるのはわかるよ。どれほど大変かも、ちゃんとわかってるつもりでいる」彼女は母の背後に回り、肩を揉みながら柔らかく続けた。「だから、お母さん。もし私にできることがあるなら、遠慮なく言って。私、力になれるように全力を尽くすよ」美月の心はその言葉で少し和らいだ。彼女は緒莉の手の甲を軽く叩き、静かに言った。「緒莉も、お母さんのことを気遣えるようになったのね。本当にいい子だね。もし身体のことがなければ、とっくに会社のことを任せていたのに」その言葉を聞いた瞬間、緒莉の身体がわずかに震えた。――母は、かつて彼女に会社を任せることを考えていたのだ。今、紗雪がいなくなった以上、本来なら自分がその位置に立つはず。だが今このタイミングで口に出すのは、あまりに焦っているように見える。彼女は何気ないふうを装いながら言った。「でも、紗雪が会社を離れて、そのポジションが空いたよね。適任の人を見つけたの?」緒莉は、母の思考をそちらに向けたかった。自分から言い出すつもりはない。母の口から出るなら、それはまったく違う意味を持つ。「そうね......実は私も、そのことでは頭を悩ませていたの」美月は娘の意図を察した。だが、誰に任せるかについてはまだ決めかねていた。緒莉の処理能力は、決して優秀とは言い難い。紗雪と比べれば、なおさら劣る。けれども、今は他にふさわしい人材がいないのも事実だ。美月は緒莉を見つめ、真剣な顔で尋ねた。「緒莉は、そのポジションをやってみたいの?」緒莉が口を開きかけた時、母はそれを遮るように言った。「でもその立場......今のあなたには少し荷が重いわ。病気のことも考えたら、もっと負担の少ない仕事を任せた方がいいと思うの。今日はもうこのくらいにしましょう。あとはゆっくり休みなさい。今後のことは、また相談するから」美月は軽く手を振り、退室を促した。緒莉は母の背後で、静
なぜだろう。胸の奥がぽっかりと空いたように、どうしようもない虚しさが広がっていた。そのとき、大株主の一人が我慢できずに立ち上がり、美月の鼻先を指さして怒鳴った。「まったく愚かだ!あんな大事な人材を手放すとは。これから先、二川がどこまでやっていけるか、見せてもらおうか」美月はその視線を冷たく返し、鋭い声音で言い放った。「私の知らないうちに、この二川家の会社が『高木家』のものになったのかしら?」その一言で、罵声を上げた男・高木は顔を真っ赤にし、胸を押さえた。頭上のカツラがぐらりと揺れる。美月は立ち上がり、きっぱりと言った。「これで本日の会議は締めくくりましょう。紗雪は今後、会長代理の職を辞する。そのポジションは空席になるわ。今後は、実力のある者が上に立つことになるでしょう」その言葉に、会議室の空気が一気にざわめいた。つまり――自分たちの息のかかった人間をその席に押し込むチャンスができた、ということだ。思惑を巡らせる株主たちの目が、次々と光を帯びる。美月はその反応を見て、心の中で冷笑した。何を考えているか、手に取るように分かる。老獪な連中ばかり、誰が誰を騙せるものか。「行きましょう、緒莉。もうこれ以上、ここにいる必要はないわ」美月がそう促すと、緒莉はうなずき、母の後ろに続いた。だが胸の中では、不満が渦巻いていた。紗雪が会社を辞めるなら、株なんて一銭も渡すべきじゃない。あの女、よくもあんな図々しい顔で「権利」を主張できるものだ。笑わせる。とはいえ、今さら何を言っても仕方ない。母の決断に逆らうつもりもなかった。結局、娘である自分は「家のため」に動くしかないのだ――そんな理屈は頭では理解していた。だが緒莉の心の奥では、もっと単純な欲が燃えていた。「自分が、どれだけ得をするか」、それだけ。その野心は、もはや隠しきれないほどに滲み出ていた。けれど美月は、そんな娘の内心に気づくこともなく、静かに自室へ戻った。机の上には、紗雪が置いていった退職届。美月はそれを見つめ、胸の奥にぽつりとした寂しさが広がった。歩み寄り、手に取る。視線の奥には、かすかな悲しみが滲んでいた。椅子に腰を下ろすと、全身の力が抜けていく。かつての覇気はどこへやら、その姿はまるで十
彼女に属する株は、一分たりとも減らしてはいけない。ましてや、緒莉なんかに渡すなんて論外だ。その言葉を聞いた美月は、すっと背筋を伸ばした。「そんな言い方をするなら、今日ここにいる株主たちの前で、はっきり言わせてもらうわ。あなたに約束していた株のうち、半分は取り消す」紗雪は一瞬も迷わずに答えた。「構いませんよ」その即答に、美月は目を細めた。まさかこんなにあっさり承諾するとは思ってもみなかった。何か裏があるのでは――そんな疑念が頭をよぎる。緒莉もまた、驚いた表情を浮かべていた。まさか紗雪が、ここまであっさり引き下がるとは。だが、その二人の様子を見て、紗雪は何を考えているか察していた。実際のところ、彼女は本当に興味がなかった。自分に属する分だけあれば、それで十分だった。残りの処理は美月の問題であり、もはや自分には関係ない。「どう思われても構いません。私は自分の分だけもらえればそれでいいです。会社のことには、もう一切関わりません」その言葉には、明確な意味が込められていた。――これから何が起きても、自分には一切の責任がない。場にいた誰もが賢い人間だ。その意図はすぐに理解された。美月もまた、執着するような人間ではなかった。ここまで話が進んでしまえば、もう引き止める理由もない。美月は周囲を見回しながら言った。「皆さん、今のを聞いたでしょう。これは紗雪本人の決断よ。母親の私でも、もう干渉はできません。子どもは大きくなれば、自分の考えを持つもの。私は約束どおり、相応の株を分配するだけ」そして言葉を続けた。「皆さんの利益も、減ることはないわ。相応の人間を見つけて、紗雪のポジションを補うことくらいはできるから」その言葉を聞いて、緒莉の胸にほんの少し安堵が広がった。母がそう言うのなら、自分が損をすることはない。紗雪の代わりに新しい人を立てるというなら、むしろ自分がその位置につけばいい。――チャンスが巡ってきた。緒莉はそれを悟った。紗雪は静かにうなずき、まっすぐ美月を見た。「ありがとうございます、会長――いえ、お母さん。ここまでしてもらえたこと、本当に感謝しています」それから他の取締役たちを見回し、しっかりとした口調で言った。「株主の皆さんも、ご安心くださ