ドールマリア

ドールマリア

last updateLast Updated : 2025-11-27
By:  わかOngoing
Language: Japanese
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【ヒューマンドール】それは、人智を超えた技術が生み出した、魂を宿す“心のない人形”だった。  ヒューマンドールとは、人間と【主君契約】を結ぶことで初めて魂を得る存在。 契約を交わした者は“主人”となり、人形を思いのままに扱うことができるという。  忠実な従者として働かせるのもよし。  孤独を埋める恋人として、あるいは夫婦として共に生きるのもよし。  ストレスをぶつけるはけ口にすることすら可能だ。  子を成すことはできないが、性欲を満たすことはできる。  ――もう一度言おう。ドールには、心がない。  これは、そんな世界に生まれた一つの命の物語。  いいえーー二つの命の物語。

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Chapter 1

一話

脳腫瘍と診断された後、白石紗季(しらいし さき)は二つの事実を知ることになった。

一つは黒川隼人(くろかわ はやと)との婚姻届が偽物だったこと。もう一つは実の息子――黒川陽向(くろかわ ひなた)もその事実を知っており、他人を母親として望んでいたこと。

この時紗季は自分の家族を捨て、全てを彼らに捧げた七年間が、まるで茶番だったことを悟った。

そこで紗季は三つのことを実行し、この薄情な父子の前から完全に姿を消すことにした。

一つ目は、一ヶ月前に予約していた結婚七周年記念のキャンドルディナーをキャンセルし、陽向の幼稚園のクラスLINEグループと、父子の健康のために入っていた数十の健康関連のグループから退会すること。

二つ目は、医師からストレステストを受け、特効薬を処方してもらい、海外まで移動できる体調を確保すること。

三つ目は、七年間連絡を絶っていた兄の白石隆之(しらいし たかゆき)に電話をかけ、遠くへ嫁いだことを後悔して、帰りたいと告げること。

――

「紗季さん、がん細胞が脳神経を圧迫しています。早急な決断が必要です」

消毒液の匂いが漂う病院の廊下で、医師の言葉が今も紗季の耳に響いていた。

全身を震わせながら、しわくちゃになった検査結果の用紙を握りしめた。

最近頭痛や嘔吐に悩まされ、時々鼻血も出ていた。

寝不足による単なる体調不良だと思っていたのに、検査結果は恐ろしい事実を突きつけてきた。

医師は治療方針を選択する必要があると言った。

手術をして五十パーセントの生存確率に賭けるか。

それとも保守的な治療を選び、投薬と化学療法で髪の毛は抜け落ちるが、あと数年の命を繋ぐか。

紗季はその五十パーセントという確率に賭けることが怖かった。

幼い頃から注射さえ怖がっていた彼女にとって、冷たい手術台の上で生死を分ける選択をすることは想像もできないほど怖かった。

しかし手術をしなければ、脳の腫瘍は大きくなり、苦しみながら死んでいくという残酷な現実が待っている。

紗季は目を閉じ、隼人のことを考えた。

彼女は隼人と結婚してもう七年になる。彼女は彼を愛していて、まだ長い間一緒に生活したいと思っている。

そして何より、二人は頭がよく、優秀な息子――陽向を一緒に育てている。

人生で最も大切な二人のことを考えると、勇気が湧いてきた。

彼女は立ち上がり、医師の診察室のドアを開けた。

「先生、決心しました。開頭手術の予約をお願いします」

医師は厳かな表情で言った。

「五十パーセントの確率です。怖くないのですか?」

紗季は微笑んだ。「怖くありません。夫と子供が私の側にいてくれると信じています。二人がいれば、何も怖くありません」

医師はゆっくり頷いた。

「分かりました。一ヶ月後の手術を予約しておきます」

紗季は病院を出て、急いで帰宅した。夫と子供の慰めと支えが欲しかった。

家政婦は隼人が会社に行ったと告げた。

紗季は急いで黒川グループへ向かい、社長室の前まで来た。

中に入る前に、男性の声が聞こえてきた。

「隼人、紗季にお前が美琴を秘書にしたことを知られたら、怒るんじゃないか?」

紗季は凍りつき、ドアの隙間から隼人の親友――青山翔太(あおやま しょうた)の姿をはっきりと見た。

美琴?

美琴!

この名前は彼女にとってあまりにも馴染みがあった。隼人が十年もの間、心の奥底に秘めていた初恋の人だった。

机に向かって座る隼人は目を伏せ、袖をまくり上げた。黒いシャツの襟元は少し開いていて、どこか冷たい既婚者の雰囲気を醸し出していた。

彼はいらだって言った。

「会社のことに口を出すな」

翔太は首をすくめ、苦い顔をした。

「まあね、俺はこの何年もお前の面子を立てて、紗季のことを奥さんって呼んできたけど、周りの人はみんな、お前たちが偽装結婚だって知ってるよ。それに婚姻届は俺が偽造したんだ。ハハハハ!」

これを聞いた紗季は、顔が真っ白になり、その場で凍りついた。

彼女は......何を聞いたのだろう?

隼人との結婚は......偽装だったの?

隼人はオフィスのドアに背を向けて座り、ドアの外に人が立っていることに全く気付いていなかった。

翔太は好奇心に駆られて尋ねた。

「隼人、なんで黙ってるの?今美琴が戻ってきたんだから、早く紗季と別れればいいじゃん?当時紗季がしつこく迫って、お前が酔っ払ってた時に誘惑して妊娠したから、子供の戸籍のために仕方なく偽装結婚したんだろ。その結果、美琴が傷ついて出て行って、今やっと戻ってきたわけだし」

紗季は息を飲んだ。

激しい頭痛が襲ってきて、紗季は口を押さえ、必死に吐き気をこらえた。

あの夜、バーに翔太も確かにいたはずなのに!

自分は隼人にお酒を勧めてなどいなかったのに、隼人はビジネスライバルに薬を盛られていた。翔太はそれを分かっていたはずだ。

自ら「解毒剤」になろうとして、隼人とホテルへ行ったのだ。

なぜすべての責任を自分一人に押し付けるのか?

翔太は軽く笑い、からかうような口調で言った。

「お前はいつ美琴と結婚するつもりだ?当時彼女は重い心臓病にかかって、お前の足手纏いになるのを恐れて去った。紗季にその隙を突かれたんだろう?美琴はもともとお前の妻になるはずだったのに!」

隼人は鋭い視線で翔太を見つめた。

その目は氷のように冷たく、警告が伝わってくる。

「俺と紗季には陽向がいるんだ......」

紗季は全身を激しく震わせ、立っているのがやっとだった。

彼女は彼らの会話に吐き気を催した。聞き続けられなくなり、そのままトイレに駆け込んだ。

そのため隼人が言いかけていた言葉を聞き逃してしまった。

紗季は洗面所で激しく嘔吐した。

残酷な真実に吐き気を催したのか、脳腫瘍による生理反応なのか分からなかった。

女性社員が入ってきて驚き、急いでティッシュを差し出した。

紗季は目を赤くしてティッシュを受け取り、泣くよりも醜い笑顔を作って言った。

「ありがとうございます......隼人には私が来たことを言わないでください」

彼女は振り返り、よろめく足取りで会社を出て、まるで生ける屍のように街をさまよった。頭の中では、隼人との初めての出会いが思い返されていた。

7年前、彼女は海外でも有名なデザイナーで、兄――隆之のジュエリー会社で重要なポジションを担っていた。その頃、隼人とは何の接点もなかった。

ある出張の際、紗季がホテルを出たところで突然スカートが裂けてしまったのだ。

彼女が露出してしまいそうになり、ひどく恥ずかしく慌てていた時、隼人が高級車から降りてきて、彼女の前に歩み寄り、スーツの上着を差し出した。

「腰に巻いてください」

適切な援助が、見知らぬ環境での彼女の窮地と不安を一瞬で解消した。

彼女は顔を上げると、かっこいい顔に一目惚れした。

それ以来紗季は彼のことが忘れられず、隆之を通じてコネを作り、あらゆる手段を尽くして隼人との仕事上の接点を作り、積極的に追いかけた。

隼人の心の中に忘れられない初恋相手がいることを知りながらも、彼女は決して諦めなかった。

その後、酒の席で偶然会ったことがきっかけとなって二人は親しくなった。紗季が妊娠したことで、自然な流れで結婚することになったのだ。

紗季は新婚初夜のことを覚えていた。彼女は隼人に尋ねた。

「私は責任を取れとは言わなかったのに、なぜ私と結婚してくれたの?」

いつも冷淡な隼人が、初めてあんなに真剣に彼女を見つめ、ゆっくりと答えた。

「お前に、そして俺たちの子供に、家族を与えたいんだ」

この一言のために、紗季はこの結婚に全てを捧げた。彼女は隆之の強い反対を押し切って自身のキャリアを捨て、国内に留まり、妻として母として全力を尽くした。

しかし今、彼女が全てを捧げた結婚は最初から最後まで偽りだったのだ!

隼人は最初から彼女を本当の妻とは見ていなかった!この7年間、彼の心には別の女性がいて、彼女とは夫婦のふりをしていただけだった!

紗季の心はまるで血を流すように痛んだ。最初から最後まで完全な笑い物だったことを痛感した。

彼女は決心した。

一ヶ月後、もし手術が成功して生き延びたら陽向を連れて出て行こう。

隼人は陽向のことを遠慮する必要はない。好きな人と結婚すればいい!

子供のことを考えると、紗季に少し力が戻ってきたような気がした。

彼女は家に駆け戻り、階段の入り口まで来たところで、陽向が執事――森下玲(もりした れい)と話しているのが聞こえた。

「パパとママの婚姻届が授与されてないって、ママが知ったらどうなると思う?」

陽向の幼い声が聞こえてきた。

紗季は目を見開き、その場に立ち尽くした。

玲は優しく笑って答えた。

「仕方がないですよ、坊ちゃま。ご主人様は奥様のことをお好きではないですからね、それはご存知でしょう」

陽向は子供らしく鼻を鳴らした。

「実は僕もママのこと、あんまり好きじゃないんだ。僕は美琴さんの方が好き!すっごく優しいんだよ。ママが僕をパパの会社に連れて行くたびに、美琴さんはいっぱいおいしいものとか、面白いものをくれるんだ。ママみたいに、お菓子を食べ過ぎちゃダメだとか、勉強しなさいとか言わないし。うるさくないんだよ!美琴さんがパパと結婚できたらいいのにな!」

紗季は掌を強く握りしめたが、気を失いそうになった。

育てた実の子供までもが、隼人と同じように、彼女にこれほど冷たく無情だとは予想していなかった。

紗季は過去の「母子の愛」「夫婦の睦まじさ」という温かな情景を思い出したが、今となってはそれが全て夢だったと感じた。

これは甘美に見えて、実は恐ろしい悪夢だった。

当時、隆之が結婚のことに強く反対したのは、彼女が苦労することを心配してのことだった。彼女は隆之の言葉に耳を傾けるべきだったのだ。

もし隆之が隼人のしたことと陽向の態度を知ったら、きっと怒り狂って刃物を持って殺しに来るだろう。

紗季は胸の痛みで目を瞬かせ、黙って階段を降りた。

彼女は夫と子供のために死を恐れずに、手術台に横たわることを決意したが、今ではその支えとなっていた希望も完全に粉々に砕けてしまった。

彼女はリビングに来て、電話をかけた。

「お兄ちゃん、隼人と離婚したい。家に帰ってもいいかな?」
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一話
ヒューマンドール。 それは――命を宿した人形。 そして、主人の命令ならどんなことでも従う、不思議な存在。 だが、ヒューマンドールには心がない。 最初はただの人形。動く気配すらない球体関節人形にすぎなかった。 しかし、ある技術者の手によって、それは人間と見分けがつかないほどの存在へと進化を遂げる。 見た目は周囲の人間とほとんど変わらない。 ただ一つの違い【主君契約】を結ばなければ、決して動かないということ。 【主君契約】とは、ヒューマンドールと人間のあいだで交わされる特別な契約。 契約を果たした者は“主人”となり、ドールを自らの意のままに扱うことができる。 使い道は人それぞれだ。 忠実な従者として仕えさせるもよし。 寂しさを紛らわすため、恋人や伴侶として暮らすもよし。 あるいは、怒りやストレスのはけ口として暴力を振るう者もいる。 繁殖はできないが、欲を満たすための行為も可能だった。 もう一度言おう――ドールには、心がない。 これは、そんな世界に生まれたひとつの命の物語。 ……いいえ。 二つの命の物語。 ◻︎◻︎◻︎◻︎ 《痛い……やめて……なんで僕だけが、こんな目に遭わなきゃいけないんだ……。僕が何をしたっていうの……!》 彼の髪は薄黒く、少し癖があるせいか、ところどころ重力に逆らって跳ねている。 背は高くも低くもなく、体型もごく平均的。いい意味でも、悪い意味でも“普通”だった。 白い肌に覇気のない目。どこか頼りなく映るその姿は、彼をいじめの標的にするには十分だったのだろう。 制服は泥で汚れ、袖口や裾は擦れてほつれている。まるで「抵抗する気力なんて残っていない」と語っているかのように。 暗くて狭い部屋。 湿気を帯びた空気が肌にまとわりつく。 部屋の中央には、今にも崩れそうな木製の机が四台。 それらは向かい合わせにくっつけられ、ひとつの島のように並んでいた。 椅子も同じく古びた木製で、座るたびにギシギシと悲鳴を上げる。 「おいボンクラ、そこさっさと片せ」「まーだ終わってねぇのか、この役立たずが」 罵声を浴びせ続けるのは彼の同僚四人。 彼らもまた、あちこち破れた服を身にまとい、顔や手は煤で黒く汚れていた。 洗っていない髪は皮脂でべったりと光り
last updateLast Updated : 2025-11-14
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二話
二話 黒いタンクトップの上から、色あせたオーバーオールを着ている。 薄紫の髪は少し汚れており、毛先が肩にかかるほどの長さだ。 わずかに波打つその髪の奥、顔には奇妙な仮面、不気味なほど静かな“ピエロの面”があった。 背丈は低く、頭のてっぺんが彼の肩に届くかどうかというほど。 その仮面は、まるで二つの感情を押しつぶしたかのような造形をしていた。 左半分は泣いているようで、目の下には黒い涙の模様が流れている。 右半分は、狂気を孕んだ笑みを浮かべていた。 鼻や眉の凹凸は妙にリアルで、まるで人間の皮膚を模したかのように生々しい。 見た者の心に、じわりと恐怖が染み込んでくる、そんなデザインだった。 「信じてきてくれたんだねぇ、ありがとう。君、ヒューマンドールが欲しいんだよねぇ?」 声の主は子供、なのだろうか。 ぱっと見はそう見える。だが、その雰囲気は年齢という言葉では説明できなかった。 とりあえず、彼はその存在を『ピエロ』と呼ぶことにした。 ピエロはゆっくりと歩みを進め、彼の目の前まで近づく。 《小さいのに、何故か大きく見える……錯覚なのかな。いや、正直、怖い》 ピエロは下から覗き込むようにして、彼の顔を見上げた。 ランプの淡い光が仮面に影を落とし、その面がまるで生き物のように見える。 「あ、あの……生きた人形って、本当にいるんですか?」 「いるよぉ。ほら、あそこ」 ピエロが細い指で右端を指し示す。 そこにはメイド服を着た女の子が立っていた。 「あの子が……どうかしたんですか?」 《何を言ってるんだ……ただのメイドにしか見えない》 メイドの少女は、両手でほうきを握り、床を静かに掃いている。 塵を集める仕草は機械的で、どこか人間味が欠けていた。 「あの子はねぇ、僕が創った人形なんだぁ。もう十年はここで働いてるよぉ。可愛いでしょ?キャロルっていうんだぁ。君もキャロルって呼んであげてねぇ」 仮面の下で、ピエロはニヤリと笑う。 まるで、自分の子供を紹介する親のように。 「う、うん。キャロルちゃん、ね。……ところで、そのキャロルちゃんって、本当に“人形”なの?」 彼は疑念を押し隠しながら、ピエロの瞳、いや、仮面の奥にある“何か”を見つめて問いかけた。 「そうだよぉ、そうともさ。
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三話
三話 ピエロ、彼女は涙を拭うと、何も言わず奥の部屋へと消えていった。 扉が閉まる音だけが静かに響き、その後、彼女が出てくることはなかった。 彼は胸の奥に何か引っかかるものを感じながらも、一度ここを離れることに決め、来た道をゆっくりと戻っていった。 ◻︎◻︎◻︎◻︎ 彼女と出会ってから十日ほどが過ぎた。 あの日、何も言わず彼の前から去った理由はいまだに分かっていない。 諦めかけていたが、それでも彼女の創り出すあの人形たちの姿は、彼の心をわずかに揺さぶり続けていた。 《もっと、動いているところを見てみたい》 そんな想いが、日に日に大きくなっていく。 ふと、一瞬だけ過去が時が止まったように感じた。 彼女はいま何をしているのだろう。まだ、あの場所にいるのだろうか。 そんな不安とも焦がれともつかない感情が、唐突に胸を締めつける。 徐にポケットへ手を入れたとき、紙のような触り心地の物に指が触れた。 何かを思い出すように取り出し、四つ折りになった紙を広げる。 隅に小さく〈命の宿り木〉と書かれた文字が目に入った。 「あっ……ピエロさんの……」 紙にはたった一行のメッセージが記されていた。 その一言を見た瞬間、彼の胸が早鐘を打った。 ――新しい人形、見に来てよ。 それだけだ。 それだけなのに、その瞬間に彼は決めた。 再び、あの場所へ向かうことを。 彼の胸の内では、心配やら嬉しさやらがぐるぐると渦巻き、互いにぶつかり合っていた。 心配が嬉しさに勝ちそうになり、嬉しさがまたそれを押し返し、混ざり合ってはせめぎ合う。 けれど最終的に――嬉しさが勝った。 きっと、最初から彼に渡すつもりだったのだろう。 だが渡すタイミングを逃し、気づかれないよう、そっと彼のポケットへ忍ばせたに違いない。 「……すぐに行こう」 《まだ終わっちゃいなかった》 彼は拳をぎゅっと握りしめ、空を仰ぐ。 胸の奥で膨らんでいた不安はいつの間にか温かい安心に変わっていた。 仕事中だったが、彼は衝動のまま作業場から駆け出した。 後ろから同僚が慌てて追いかけてきたが、若い彼の足には追いつけず、その影はあっという間に遠ざかっていく。 ◻︎◻︎◻︎◻︎ そして彼は再び〈命の宿り木〉へ戻ってきた。
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四話
 彼はハッと我に返った。 そして考える――なぜ、この子は自分をお人形さんと呼んだのだろう、と。「う、ううん。僕は人間だけど……」「そうなのね……ごめんなさい」「ん? いや、いいよ。気にしないで」 人形は、シュンと肩を落として俯いた。 その仕草は、まるで本当に感情があるかのようだ。 命を宿したばかりのはずなのに……彼は思わず首を傾げた。 その人形の名はマリア。 周囲の量産前の木製人形とは違い、ひときわ人間に近い佇まいをしている。「私はマリア」「……」「マリアっていうの」「えっ、あ……うん、マリアちゃんね!」 マリアの自己紹介はどこかぎこちなく、それでいて愛らしい。 ついさっきまで魂の欠片もなかった存在が、今こうして言葉を話し、人のように動いている。 彼はその奇跡を前に、どう受け止めていいか分からないようだった。「いやいやぁ……これは素晴らしいよぉ。まさか本当に成功するとは思わなかったけどねぇ。君の前で成功するなんて、これはもう紛れもない奇跡だよ」 ミヤは満面の笑みでそう言い、続けて軽く手を上げる。「ちなみに僕の名前はミヤだよぉ」「え今!?びっくりした……。確かに君の名前聞いてなかったけど……ところで、その奇跡っていうのは?」 急に話題が飛び、彼は完全に置いていかれた。 ミヤを見ると、彼女は目を閉じ、顔を天に向け、笑いながら涙をこぼしていた。「こんなにも突然……夢が叶うなんてねぇ」 彼はぽかんと口を開けて固まる。 奇跡、夢、自分には縁のない、あまりにも大きすぎる言葉。 どう理解すればいいのか分からず、ただ戸惑うしかなかった。 そんな彼の表情を見て、ミヤは静かに息を整えた。 「このマリアはねぇ、二番目に最高傑作なのだよぉ。二番目なのに最高だってねぇ。あははは、あはははは、げほっげほっ」「……」 ミヤは度を越した興奮で、まるで長く漂っていた雲が一気に晴れていくように表情を輝かせた。 その挙句、笑いすぎてむせてしまう。 それほどまでに、この出来事は彼女にとっての最高というものなのだろう。 だが、彼にとってその姿は恐怖と冷めた感情を同時に呼び起こすものだった。「おいおい君ぃ、そんなに引くとこじゃないよねぇ」「いや、普通に怖かったよ。ね、マリアちゃん?」「……?」 マリアはこてん、と小さく首を傾げ、二人
last updateLast Updated : 2025-11-14
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五話
 三人の共同生活が始まり、いつの間にか一ヶ月が経っていた。 彼はその日も、いつも通り二人より先に目を覚ました。「ん〜……」 横になったまま大きく両腕を伸ばし、背中を反らすと、小さく息を吐く。 寝起きのぼんやりした頭のまま、ベッドから静かに起き上がろうとした時、足に掛け布団が絡まり床へと落ちてしまった。「あっ……」 拾い上げようと手を伸ばした瞬間、彼は気づいた。 自分のベッドの上に妙な膨らみがあることに。《まさか……》 心の中で嫌な予感を抱えつつ、そっと布団をめくる。「やっぱり……か!?」 抑えたつもりの声が漏れ出る。 布団の下にいたのは、裸で眠るミヤだった。 彼は一瞬だけ、思わず美しいと感じてしまう。 華奢な肩、細い腰へとなだらかに続く柔らかなライン。 そして臀部は風船のようにふんわりと膨らんでいる。 ――見てはいけない、と咄嗟に目を逸らす。「いっやぁ〜ん」 ミヤは寝ぼけた声で言うと、シュッと腕を伸ばし、彼から布団を奪い取った。 そのままくるりと身体に巻きつけ、恥部を最低限隠す。「目のやりどころに困るよ!!」「えっちぃ」 言い方がいやらしい、にやりと、わざとらしく意地悪な笑顔を向けてくる。「そ、そんなつもりじゃないし!」「やっぱり君ぃ、男の子なんだねっ!ほれっ」 ほれっと同時に、ミヤはマリアの掛け布団までめくる。「マリアちゃん!?」 そこには下着姿で眠るマリアがいた。 どうやら上着だけ脱がされていたらしい。「これ絶対ミヤの仕業だよね……ミヤに言われたんだろ、マリアちゃん!」「……?」 その反応に困惑していると、横でミヤがクスクスと笑っている。 マリアはゆっくり上半身を起こし、まったく恥じらう気配がない。寝起きで表情もぼんやりしている。「ママママ、マリアちゃん!服!服着て!!」「ん?」 マリアが首を傾げると、ミヤの笑い声がさらに大きくなる。「お願いだから服を着て!」「はい、わかりました」 マリアはこくりと頷き、のろのろと服を探し始めた。  そう言うとマリアはすっと立ち上がり、ベッド横の椅子にきれいに畳んで置いてあった服を手に取った。 赤みがかった茶色のスカート。その裾からは真っ白なフリルがふんわり覗く。 上には、やや茶の混じった白いブラウス。その上から落ち着いた茶色のベストを重ね、首元
last updateLast Updated : 2025-11-16
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六話
 通貨名また通貨価値は以下の通り。 1メル 1ドルン=100メル 1グラド=30ドルン 1ザルク=30グラド 一般な成人労働者の給料月額1グラド(3000メルン)前後。 ◻︎◻︎◻︎◻︎「このペンダント、マリアちゃんにすごく似合ってると思う。目の色と似てる――」 マリアはほんのり頬を赤らめた。 店員のおばさんは、ペンダントを小さな紙袋に入れ、彼へ手渡しながら微笑む。「あらお兄さん、プレゼントかい?」 ペンダントを差し出すと同時に、店員のおばさんは気さくに話しかけてきた。「え……っと、はい。彼女に……」 普段ほとんど人と話さない彼は、視線を落としながら答える。目が不安げに左右へ揺れていた。「まぁ、彼女さんに。ふふふ……すごく似合ってるわよ!お買い上げありがとうね。1グラド8ドルンになるよ」《貰ったお給料は2グラドと5ドルンだから……1グラド8ドルンか、ちょっと高いけど、マリアちゃんの喜ぶ顔の方が見たいし即決かな》 覚悟を決めたように、彼は優しく、どこか照れたような笑みを浮かべる。 挙動不審ではあったが、無事にペンダントを受け取った。 店を後にし、二人は噴水広場へと向かう。「マリアちゃん、こっちに来て」 噴水の縁に腰を下ろした彼は、人ひとり分空けて座るマリアを手招きした。 マリアは素直に頷き、静かに彼の隣へと歩み寄る。「マリアちゃん、首、ちょっとだけ見せて」「……?」 マリアは言われるまま、胸の前で手を揃え、少し前に身を傾けて首を出した。 彼は袋から買ったばかりのペンダントを取り出し、チェーンをそっと広げる。そして、マリアの後ろへ手を回し、迷いのない動作で留め具を閉じた。「ありがとうございます……」 彼女の頬は薄赤い染が浮かんだまま、ますます色づいていく。 マリアは胸元に揺れるペンダントをそっと左手に持ち上げ、右手の人差し指で宝石の縁を撫でた。触れた瞬間、小さく息をのむ。「きれい……」 こぼれ落ちるようなマリアのつぶやく姿は、儚きほどにただただ綺麗だった。 だが彼の耳には、はっきりと届いていた。「……うん。綺麗だね」 慣れない感情に胸をくすぐられ、彼は言葉を拾い損ねるように間を空けてしまう。 マリアは陽の光にペンダントをかざしたり、噴水の水に映る青色と見比べたり、ただそれだけで嬉しさを全身で語っていた
last updateLast Updated : 2025-11-17
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七話
「やばいやばい、こんな時間になっちゃった」 ――16:25。 夕暮れ時、腕時計を見た彼は、マリアと二人で走り|命の宿り木《家》へ帰った。 ◻︎◻︎◻︎◻︎ 一枚目の扉を開けた瞬間、やけに家の中が静かだった。「いつもなら『おかえりぃ』って来るのにね」「はい……なんだか寂しいです」 二人は顔を見合わせる。 奥へ進むにつれ、空気はひんやりと重くなっていく。 彼はその違和感に気づきながらも、マリアを不安にさせないよう、冗談っぽく呟く。「仕事に疲れて、奥にでも篭ったのかな?」 人形で埋まった一部屋目を通り抜け、二枚目……リビングにつながる扉に手をかける。 取っ手が、妙に冷たかった。「ミヤ……、てぇ……、」 扉を開くと、食卓の上にミヤが頭を伏せ、動かずにいた。その姿を見て、強張った肩がふと緩む。《……寝てたんだ》 寝室から薄いブランケットを持ってきて、そっと肩にかける。 ミヤの肩に触れた時、体温が少しだけ冷えているように感じたが、気のせいだと自分に言い聞かせた。 ただ冷えているだけだと。 そうして彼はエプロンをつけ、マリアと視線を合わせる。 「また寝ちゃったんだね。マリアちゃん、今日は何食べたいー?」「シチューというお料理を食べてみたいです。この前ミヤが言っていました。白くトロッとしたものに、ホクホクのお野菜が浸かっていると……」 グッと親指を立てると、手馴れた動作でシチューを作り始める。  具材が煮え始め、コトコトと鍋が心地よい音を立てる。 その音だけが、やけに大きく響いた。 まるで、他の何かが音を吸っているように。「そろそろかな〜」 ――カンカン、カン。 ルーを鍋へ入れようとした時、ふと視線がミヤに引かれた。「ミヤー、そろそろご飯できるよー!」 十分届くほど、大きくはっきり呼んだ。 呼んだのに――、 返事がない。 ミヤの肩は、呼吸に合わせた揺れすら見せなかった。 さっきまでは、寝ていると思えたのに、今見るとその静けさは、まるで|止まっている《・・・・・・》ように見えた。「ミヤ……? マリアちゃん、ミヤ起こしてきてくれる?」 彼は鍋の前に立ったまま、マリアをそっと促した。 自分の手が、ルー持つ指先が、震えていることに気づかれないように。 マリアがミヤに近づく。 リビングの床が、一歩ごとに小さく
last updateLast Updated : 2025-11-19
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八話
 医師が、部屋から出てくる。「命に別状はないよ。だが、あまり無理をさせないほうがいい。……|ミヤ《彼女》は、ちと命を削りすぎだ」 その声音は落ち着いているのに、表情はどこか深刻だった。 二人は馬鹿ではない。そのわずかな陰りを察し、不穏な空気に胸が締め付けられる。「……っ、ミヤを助けていただいて……ありがとうございます……」「ありがとうございます……」 不安や恐怖、緊張で張りつめていた糸がぷつりと切れたように、堪えていた涙が一気にあふれた。 涙が枯れてしまうのではないかと思うほど、彼は声を忘れて泣き続けた。「彼女はしばらくここで入院させるから、着替えとか、必要なものを用意してきてほしいの」 命を取り留めるという大きな仕事を成し遂げたというのに、医師は淡々としていた。 たが、その冷静さが逆に彼らを安心させた。「は、はい……、わか……ヒッ……りました」 泣き止んだはずなのに、胸の奥に残ったしゃっくりだけが小刻みに彼を揺らし続けていた。 彼はすぐに立ち上がり、薄暗い病院の廊下を出口へ向かって歩き出す。 数歩進んだところで、思わず振り返った。「ありがとうございます!」 その声には、強い決意が感じられた。 マリアはミヤの付き添いで、病室に残ることとなった。  ◻︎◻︎◻︎◻︎ 彼は家にたどり着くと、真っ先にミヤの部屋へ向かい、服や日用品を大きめの旅行鞄に丁寧に詰めていった。「着替え用の服に、パジャマ……し、下着もちゃんと入れないとな……」 誰もいない部屋で、彼は一人頬を赤くし、羞恥をごまかすように顔を腕に埋めた。《あとは、歯磨きセットと……あれ、いつも手に持ってた手帳が無い》 彼は部屋中を探し回った。  あの手帳は、きっとミヤの大切なものだ。 何よりも、いつも肌身離さず持っていたのだから。 何度も何度も心の中で繰り返しながら。  キッチン、寝室、作業部屋、探しに探し続け――。「……あとはここか」 扉を開けた先には、木材や糸など、ミヤが仕事で使う材料を詰め込んだ保管棚がいくつも並んでいた。 薄く木の匂いが漂い、彼女が手先で作り出してきた温もりがそこに残っている。 この材料庫の広さは、リビングをもう半分程広くしたくらいだ。棚の段数も多く、いくつかは天井近くまで積み上がっている。 ここを全部探すとなると、相当な時間
last updateLast Updated : 2025-11-22
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九話
 扉の先には――。  もう一つの部屋が、ひっそりと息を潜めていた。  広さ的には寝室とほぼ同じのようだ。 薄暗い空間に、微かな木の匂いと、長い時間封じられていたような冷たい空気が漂う。 部屋の端にはベッドと机。配置は、彼らが普段使っている寝室とほとんど同じ。 だが、違和感はひと目で理解できた。 お揃いのものが、二つずつ置かれている。 一つは、大人用のもの。 そして、もう一つはまるで子ども用のように小さく作られた、同じデザインのもの。 靴も。 手袋も。 マフラーも。 服も。 すべて大人用と子供用が対になって並べられている。 机の上の古いランプの横には、同じデザインの小さなランプ。 ベッドの上には、大きな枕と、小さな枕。これも全く同じ。「なんだよ、これ……」 つい、声が漏れる。 部屋の隅には蜘蛛の巣が張りつき、誰にも触れられずに長い時間放置されていたことを物語っていた。 床には薄く積もった埃が、足跡をつけるたびにふわりと舞い上がる。 ベッドのシーツもくすんでいる。きっと何年も人が横になっていないのだろう。 まるでこの空間だけ、時間が止まったまま取り残されているかのようだ。 誰かが帰ってくるのを待っているように――。 そんな不思議な気配が、壁にも家具にも薄く染み付いている。 壁にかかった小さな額縁には、ミニチュアの服を着た小さな人形が飾られていた。 それは、ミヤが作る人形たちよりもずっと古い造りで、どこか寂しげにこちらを見つめているように見えた。  ふと視線を上げると、その人形の背後の壁に、薄い傷のような線がいくつも刻まれていることに気づいた。 爪で引っかいたような、あるいは小さな手で何度も触れられたような跡。 理由のわからない生々しさが、背筋を冷たく撫でていく。 彼の胸の奥がぞわっとする。 ミヤは、ここで何をしていたのか。 そして、誰のための部屋なのか。 疑問が静かに、彼の心を追い詰めていく。 何度も、何度も胸の奥から「やめろ」と声が響く。 こんな事をしてはいけないと分かっている。 踏み込んではいけない領域……触れてはならないミヤという女性の内側に手を伸ばしていると、誰より自分が理解している。 それでも、彼は足を止められなかった――。 ゆっくりと部屋の中を歩き回り、罪を重ねるように視線を這
last updateLast Updated : 2025-11-24
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十話
 ーー街病院・特別療養室。「お人形ちゃん、少しミヤちゃんと話したいから、隣の部屋で待っててくれる?」「はい……わかりました」 マリアはすっと立ち上がる。 名残惜しそうに一度だけ振り返り、部屋を出ていった。 ゆっくりと扉が閉まると、足音が遠ざかり、やがて音はなくなる。 医師はベッド脇の椅子に腰を下ろし、幼い子の頭を撫でるかのように、ミヤの髪に手を添えた。「まったく……無理しすぎよ。チサばあちゃんもよく言ってたわ、『あの子はね、気づかないうちに心と体を削ってしまう子だ』って。」 メリダは、チサばあちゃんの喋りを真似するように口を動かすと、ミヤはゆっくりと目を開けた。 一粒の涙が頬を伝い、シーツの上へ静かに落ちた。「チサ……懐かしい名前。本当に、よくしてもらったなぁ……」「チサばあちゃんも、あなたのことをよく話してたわ」「そっか……」 ミヤは小さく微笑み、遠い日の記憶に浸る。「……早速今後の話なんだけど、いいかしら?」 医師は唇を引き結び、深く息を吸った。 まるで誰かの最期を告げる前のように、言葉を探しながら悲痛な表情を浮かべる。 そしてミヤは静かに頷いた。 「ミヤ、このままじゃ持たないわよ。あなたの病名は……空殻病《くうかくびょう》随分と昔だけど、ミヤのお人形ちゃんがかかった病と同じものよ、覚えてる?」 ◻︎◻︎◻︎◻︎  空殻病――それは、精神・魂・記憶のどこかが器から抜け落ちるように失われていく特殊な病。 重症化すると魂だけが離れるような症状が起きる。 そしてふとした事で記憶が蘇ることもある。 ◻︎◻︎◻︎◻︎ 医師は皮膚に爪が食い込むほど、力強く拳を握った。「……うん。でも、あの子らを守らなきゃいけないんだよ、僕は」 優しく儚い瞳。 ミヤの思いは、意識せずとも表情や瞳に現れる。「あ、ミヤ、そういえば昨日患者さんが気になる事言ってて――」  ◻︎◻︎◻︎◻︎ 陽の光が差し込む角部屋の病室で、ベッドの端で杖をつき座るお爺さんの姿があった。 外に植った木の枝に、小鳥の夫婦が身を寄せ合っている。お爺さんは、仲睦まじい小鳥の夫婦をボーッと眺めていると、部屋の扉がガッと開き医師が入ってくる。「トウゲンさんおはよう」「ねーーちゃん、ねーちゃんや」 それは、特別室医療室……ではなく一般の患者が入院する病室
last updateLast Updated : 2025-11-27
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