LOGIN【ヒューマンドール】それは、人智を超えた技術が生み出した、魂を宿す“心のない人形”だった。 ヒューマンドールとは、人間と【主君契約】を結ぶことで初めて魂を得る存在。 契約を交わした者は“主人”となり、人形を思いのままに扱うことができるという。 忠実な従者として働かせるのもよし。 孤独を埋める恋人として、あるいは夫婦として共に生きるのもよし。 ストレスをぶつけるはけ口にすることすら可能だ。 子を成すことはできないが、性欲を満たすことはできる。 ――もう一度言おう。ドールには、心がない。 これは、そんな世界に生まれた一つの命の物語。 いいえーー二つの命の物語。
View Moreヒューマンドール。
それは――命を宿した人形。 そして、主人の命令ならどんなことでも従う、不思議な存在。だが、ヒューマンドールには心がない。
最初はただの人形。動く気配すらない球体関節人形にすぎなかった。
しかし、ある技術者の手によって、それは人間と見分けがつかないほどの存在へと進化を遂げる。 見た目は周囲の人間とほとんど変わらない。 ただ一つの違い【主君契約】を結ばなければ、決して動かないということ。【主君契約】とは、ヒューマンドールと人間のあいだで交わされる特別な契約。
契約を果たした者は“主人”となり、ドールを自らの意のままに扱うことができる。 使い道は人それぞれだ。忠実な従者として仕えさせるもよし。
寂しさを紛らわすため、恋人や伴侶として暮らすもよし。 あるいは、怒りやストレスのはけ口として暴力を振るう者もいる。 繁殖はできないが、欲を満たすための行為も可能だった。もう一度言おう――ドールには、心がない。
これは、そんな世界に生まれたひとつの命の物語。
……いいえ。 二つの命の物語。◻︎◻︎◻︎◻︎
《痛い……やめて……なんで僕だけが、こんな目に遭わなきゃいけないんだ……。僕が何をしたっていうの……!》
彼の髪は薄黒く、少し癖があるせいか、ところどころ重力に逆らって跳ねている。
背は高くも低くもなく、体型もごく平均的。いい意味でも、悪い意味でも“普通”だった。白い肌に覇気のない目。どこか頼りなく映るその姿は、彼をいじめの標的にするには十分だったのだろう。
制服は泥で汚れ、袖口や裾は擦れてほつれている。まるで「抵抗する気力なんて残っていない」と語っているかのように。暗くて狭い部屋。
湿気を帯びた空気が肌にまとわりつく。部屋の中央には、今にも崩れそうな木製の机が四台。
それらは向かい合わせにくっつけられ、ひとつの島のように並んでいた。 椅子も同じく古びた木製で、座るたびにギシギシと悲鳴を上げる。「おいボンクラ、そこさっさと片せ」「まーだ終わってねぇのか、この役立たずが」
罵声を浴びせ続けるのは彼の同僚四人。
彼らもまた、あちこち破れた服を身にまとい、顔や手は煤で黒く汚れていた。 洗っていない髪は皮脂でべったりと光り、異臭すら漂う。――そして、そんな連中から毎日いじめを受け、それをただ、黙って耐えるしかなかった。
なぜやり返さないのか。
なぜ、ただ耐えるのか。理由は、明確だ。
辞めてしまえば金がなくなる。 食べ物も買えなくなる。 ……そして、いずれは死ぬ。だから彼は、どれだけ理不尽でも耐えるしかなかった。
そう思えば思うほど、心は削られ、息をすることさえ苦痛になっていく。「もう……嫌だ……」
そんな生き甲斐のない日々を送るある朝。
通勤の途中、ふと目に留まった一枚のポスターが彼の足を止めた。「ヒューマンドール……?」
◻︎◻︎◻︎◻︎
ヒューマンドール製作所〈命の宿り木〉。
『僕の創る生きたドールが、あなたの心に空いた穴を埋めてくれることでしょう。
信じたあなたの“幸せ”を保証いたします。――では。』 ◻︎◻︎◻︎◻︎ひび割れたコンクリートの壁。
そこに、剥がれかけながらもしつこく張り付いている。『ヒューマンドール製作所〈命の宿り木〉』
その言葉に、彼は知らず知らずのうちに惹き込まれていく。
「……行く、か」
半信半疑のまま、それでもほんの少しの希望を胸に、彼は〈|命の宿り木《そこ》〉へ向かった。
◻︎◻︎◻︎◻︎
「ここで……ヒューマンドールが創られてるのか……」
看板もなければ、案内もない。
木造の建物は周囲のコンクリート壁と不釣り合いに古びていて、ひび割れた外壁がやけに目につく。 一見すれば、まるで廃墟だ。彼はゆっくりと扉に手をかける。
錆びついた金具がギギィと鳴り、乾いた音が湿った空気の中でいやに響いた。中へ足を踏み入れると、床の奥に小さな物置用の扉が見えた。
その中央に小さく、けれどはっきりと、文字が刻まれている。――ここだよ。
と、それだけ。
その短い言葉を見て、彼はほんの少しだけ安堵した。
だが、胸の奥に巣食う不気味な気配が、じわりと恐怖を植え付けていく。全身がこわばるが、それでも彼は勇気を振り絞り、ゆっくりと扉を開けた。
中には地下へと続く階段。
壁には|蝋燭《ろうそく》が等間隔に並んでいるものの、光は弱く、辺りはほとんど闇に沈んでいた。彼は壁に手を添え、蝋燭の灯だけを頼りに、ひと段ずつ降りていく。
足音が湿った空気に吸い込まれ、どこか遠くで反響した。「……あ、開けてる」
やがて、階段の先に開けた空間が現れた。
降り切るとそこには広場になっていた。 灯りが届くのはほんの数メートル先までで、奥のほうは闇に溶けて見えない。――だが、彼の視線を釘付けにしたのは、別のものだった。
「デ……デカすぎるだろ……」
そこにあったのは、巨大な扉。
縦に並べた彼が十人は入りそうなほどの高さだ。言葉を失ったまま、彼はそっと手を伸ばす。
両手に力を込め、押し開こうとするが――「あっ……開か、ないっ!」
押しても、びくともしない。
冷たい金属の感触だけが、彼の掌に重く残ったしばらく押しては休み、また押して。
そんなことを何度か繰り返していたときだった。彼は気づかなかった。
巨大な扉の右下に、もうひとつ小さな扉があることに。――カチリ。
金属音を立てて、その小さな扉がゆっくりと開いた。「……そういうことね」
肩から力が抜け、疲労がどっと押し寄せる。
ため息をひとつ落としながら、彼はその扉の奥を見つめた。そこには、奥へとまっすぐ伸びる長い通路。
両脇には、人ほどの大きさの人形たちが整然と並んでいた。 首を傾げ、女の子座りをし、手をだらりと下げている。 まるで、糸を切られたマリオネットのように。「すごい……なんて数だ……」
一体ずつ数えるのを諦めるほど、圧倒的な数の人形。
顎のあたりから、口角へかけ線が走り、関節は精巧に作られている。《まさに“人形”って感じだな……。でも、もし本当に動くのなら……その動力源は、どこに?》
そんな疑問が彼の頭を占めていた。
考えながらも、足は止まらない。 両脇を無数の人形に挟まれながら、彼は慎重に進む。「って、この通路……どこまで続いてるんだ――」
「ワッ!」 「うわっ!?に、人形が……動いた!?」突然、通路の端に並んでいた一体が横から飛び出してきた。
彼は悲鳴を上げ、腰を抜かして尻もちをつく。「あははっ、いいリアクションだねぇ!待ってたよ? いや、待ちくたびれたくらいかなぁ。君って臆病なんだねぇ、うんうん。ようこそ、《命の宿り木》へ」
その声は、奇妙に明るく、どこか人間らしかった。
彼はごくりと唾を飲み込む。
「ここが……」
――この出会いが、彼の瞳に、わずかながら“希望”の光を灯すことになる。
彼はハッと我に返った。 そして考える――なぜ、この子は自分をお人形さんと呼んだのだろう、と。「う、ううん。僕は人間だけど……」「そうなのね……ごめんなさい」「ん? いや、いいよ。気にしないで」 人形は、シュンと肩を落として俯いた。 その仕草は、まるで本当に感情があるかのようだ。 命を宿したばかりのはずなのに……彼は思わず首を傾げた。 その人形の名はマリア。 周囲の量産前の木製人形とは違い、ひときわ人間に近い佇まいをしている。「私はマリア」「……」「マリアっていうの」「えっ、あ……うん、マリアちゃんね!」 マリアの自己紹介はどこかぎこちなく、それでいて愛らしい。 ついさっきまで魂の欠片もなかった存在が、今こうして言葉を話し、人のように動いている。 彼はその奇跡を前に、どう受け止めていいか分からないようだった。「いやいやぁ……これは素晴らしいよぉ。まさか本当に成功するとは思わなかったけどねぇ。君の前で成功するなんて、これはもう紛れもない奇跡だよ」 ミヤは満面の笑みでそう言い、続けて軽く手を上げる。「ちなみに僕の名前はミヤだよぉ」「え今!?びっくりした……。確かに君の名前聞いてなかったけど……ところで、その奇跡っていうのは?」 急に話題が飛び、彼は完全に置いていかれた。 ミヤを見ると、彼女は目を閉じ、顔を天に向け、笑いながら涙をこぼしていた。「こんなにも突然……夢が叶うなんてねぇ」 彼はぽかんと口を開けて固まる。 奇跡、夢、自分には縁のない、あまりにも大きすぎる言葉。 どう理解すればいいのか分からず、ただ戸惑うしかなかった。 そんな彼の表情を見て、ミヤは静かに息を整えた。 「このマリアはねぇ、二番目に最高傑作なのだよぉ。二番目なのに最高だってねぇ。あははは、あはははは、げほっげほっ」「……」 ミヤは度を越した興奮で、まるで長く漂っていた雲が一気に晴れていくように表情を輝かせた。 その挙句、笑いすぎてむせてしまう。 それほどまでに、この出来事は彼女にとっての最高というものなのだろう。 だが、彼にとってその姿は恐怖と冷めた感情を同時に呼び起こすものだった。「おいおい君ぃ、そんなに引くとこじゃないよねぇ」「いや、普通に怖かったよ。ね、マリアちゃん?」「……?」 マリアはこてん、と小さく首を傾げ、二人
三話 |ピエロ《彼女》は涙を拭うと、何も言わず奥の部屋へと消えていった。 扉が閉まる音だけが静かに響き、その後、彼女が出てくることはなかった。 彼は胸の奥に何か引っかかるものを感じながらも、一度ここを離れることに決め、来た道をゆっくりと戻っていった。 ◻︎◻︎◻︎◻︎ 彼女と出会ってから十日ほどが過ぎた。 あの日、何も言わず彼の前から去った理由はいまだに分かっていない。 諦めかけていたが、それでも彼女の創り出すあの人形たちの姿は、彼の心をわずかに揺さぶり続けていた。《もっと、動いているところを見てみたい》 そんな想いが、日に日に大きくなっていく。 ふと、一瞬だけ過去が時が止まったように感じた。 彼女はいま何をしているのだろう。まだ、あの場所にいるのだろうか。 そんな不安とも焦がれともつかない感情が、唐突に胸を締めつける。 徐《おもむろ》にポケットへ手を入れたとき、紙のような触り心地の物に指が触れた。 何かを思い出すように取り出し、四つ折りになった紙を広げる。 隅に小さく〈命の宿り木〉と書かれた文字が目に入った。「あっ……|ピエロ《あのひと》の……」 紙にはたった一行のメッセージが記されていた。 その一言を見た瞬間、彼の胸が早鐘を打った。 ――新しい人形、見に来てよ。 それだけだ。 それだけなのに、その瞬間に彼は決めた。 再び、あの場所へ向かうことを。 彼の胸の内では、心配やら嬉しさやらがぐるぐると渦巻き、互いにぶつかり合っていた。 心配が嬉しさに勝ちそうになり、嬉しさがまたそれを押し返し、混ざり合ってはせめぎ合う。 けれど最終的に――嬉しさが勝った。 きっと、最初から彼に渡すつもりだったのだろう。 だが渡すタイミングを逃し、気づかれないよう、そっと彼のポケットへ忍ばせたに違いない。「……すぐに行こう」《まだ終わっちゃいなかった》 彼は拳をぎゅっと握りしめ、空を仰ぐ。 胸の奥で膨らんでいた不安はいつの間にか温かい安心に変わっていた。 仕事中だったが、彼は衝動のまま作業場から駆け出した。 後ろから同僚が慌てて追いかけてきたが、若い彼の足には追いつけず、その影はあっという間に遠ざかっていく。 ◻︎◻︎◻︎◻︎ そして彼は再び|命の宿り木《ここ》へ戻ってきた。 あの日見た、天井を突くような巨大な扉の
二話 黒いタンクトップの上から、色あせたオーバーオールを着ている。 薄紫の髪は少し汚れており、毛先が肩にかかるほどの長さだ。 わずかに波打つその髪の奥、顔には奇妙な仮面、不気味なほど静かな“ピエロの面”があった。 背丈は低く、頭のてっぺんが彼の肩に届くかどうかというほど。 その仮面は、まるで二つの感情を押しつぶしたかのような造形をしていた。 左半分は泣いているようで、目の下には黒い涙の模様が流れている。 右半分は、狂気を孕んだ笑みを浮かべていた。 鼻や眉の凹凸は妙にリアルで、まるで人間の皮膚を模したかのように生々しい。 見た者の心に、じわりと恐怖が染み込んでくる、そんなデザインだった。「信じてきてくれたんだねぇ、ありがとう。君、ヒューマンドールが欲しいんだよねぇ?」 声の主は子供、なのだろうか。 ぱっと見はそう見える。だが、その雰囲気は年齢という言葉では説明できなかった。 とりあえず、彼はその存在を『ピエロ』と呼ぶことにした。 ピエロはゆっくりと歩みを進め、彼の目の前まで近づく。 《小さいのに、何故か大きく見える……錯覚なのかな。いや、正直、怖い》 ピエロは下から覗き込むようにして、彼の顔を見上げた。 ランプの淡い光が仮面に影を落とし、その面がまるで生き物のように見える。「あ、あの……生きた人形って、本当にいるんですか?」「いるよぉ。ほら、あそこ」 ピエロが細い指で右端を指し示す。 そこにはメイド服を着た女の子が立っていた。「あの子が……どうかしたんですか?」《何を言ってるんだ……ただのメイドにしか見えない》 メイドの少女は、両手でほうきを握り、床を静かに掃いている。 塵を集める仕草は機械的で、どこか人間味が欠けていた。「あの子はねぇ、僕が創った人形なんだぁ。もう十年はここで働いてるよぉ。可愛いでしょ?キャロルっていうんだぁ。君もキャロルって呼んであげてねぇ」 仮面の下で、ピエロはニヤリと笑う。 まるで、自分の子供を紹介する親のように。「う、うん。キャロルちゃん、ね。……ところで、そのキャロルちゃんって、本当に“人形”なの?」 彼は疑念を押し隠しながら、ピエロの瞳、いや、仮面の奥にある“何か”を見つめて問いかけた。「そうだよぉ、そうともさ。あのキャロルちゃんこそが、僕の創り出した.生きた人形ヒューマ
ヒューマンドール。 それは――命を宿した人形。 そして、主人の命令ならどんなことでも従う、不思議な存在。 だが、ヒューマンドールには心がない。 最初はただの人形。動く気配すらない球体関節人形にすぎなかった。 しかし、ある技術者の手によって、それは人間と見分けがつかないほどの存在へと進化を遂げる。 見た目は周囲の人間とほとんど変わらない。 ただ一つの違い【主君契約】を結ばなければ、決して動かないということ。 【主君契約】とは、ヒューマンドールと人間のあいだで交わされる特別な契約。 契約を果たした者は“主人”となり、ドールを自らの意のままに扱うことができる。 使い道は人それぞれだ。 忠実な従者として仕えさせるもよし。 寂しさを紛らわすため、恋人や伴侶として暮らすもよし。 あるいは、怒りやストレスのはけ口として暴力を振るう者もいる。 繁殖はできないが、欲を満たすための行為も可能だった。 もう一度言おう――ドールには、心がない。 これは、そんな世界に生まれたひとつの命の物語。 ……いいえ。 二つの命の物語。 ◻︎◻︎◻︎◻︎ 《痛い……やめて……なんで僕だけが、こんな目に遭わなきゃいけないんだ……。僕が何をしたっていうの……!》 彼の髪は薄黒く、少し癖があるせいか、ところどころ重力に逆らって跳ねている。 背は高くも低くもなく、体型もごく平均的。いい意味でも、悪い意味でも“普通”だった。 白い肌に覇気のない目。どこか頼りなく映るその姿は、彼をいじめの標的にするには十分だったのだろう。 制服は泥で汚れ、袖口や裾は擦れてほつれている。まるで「抵抗する気力なんて残っていない」と語っているかのように。 暗くて狭い部屋。 湿気を帯びた空気が肌にまとわりつく。 部屋の中央には、今にも崩れそうな木製の机が四台。 それらは向かい合わせにくっつけられ、ひとつの島のように並んでいた。 椅子も同じく古びた木製で、座るたびにギシギシと悲鳴を上げる。「おいボンクラ、そこさっさと片せ」「まーだ終わってねぇのか、この役立たずが」 罵声を浴びせ続けるのは彼の同僚四人。 彼らもまた、あちこち破れた服を身にまとい、顔や手は煤で黒く汚れていた。 洗っていない髪は皮脂でべったりと光り、異臭すら漂う。 ――そして、そんな連中から毎日いじめを受け、
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