まずは彩花の痩せ細った首を片手で締めようとしている。自分のこれまでの二十九年間の人生の全てを賭けて育てようと覚悟して生んだ娘であるはずなのに、今は使い終えた段ボールを潰すかのように押さえつけている。彩花は口から涎を垂らしながらヘラヘラし、苦しそうにジタバタしていた。ひっくり返ったカナブンじみた動きだ。大輔は由樹の身辺調査をしている時に見た、家族思いの顔を思い出した。自宅への緩い坂道を彩花と一緒に手を繋いで歌いながら歩いている姿。家族三人で食べるために、重たい食材を商店街で買う姿。仕事から帰って来た隆広を玄関の外まで迎えに出る姿。彼女の顔には希望が溢れていた。だが今はそれが微塵もない。希望を与えれば由樹は正気に戻るのではないか。「由樹さん」一か八かに出た。大輔はこのまま見過ごすなんてできなかった。「隆広さんは生きている。散策中の老夫婦に埋められているところを発見されたんだ。今は病院に搬送されている。まだ生きている。だから、ここは耐えてください。ご家族三人で、元の生活を取り戻すんですよ。目を覚ましてください」成子の顔の色がますます白くなった。白が過ぎて水色っぽくなっていた。由樹はこちらを見ている。声は出ていないが、本当かと問うている目をしている。彼女の目を見て無言で頷く。由樹は彩花の首から手を外した。代わりにまな板の上に置いてあったノコギリを手に取った。「うわああ、うぐぐぐ、がああ、いやあああ」支離滅裂な叫び声を上げてノコギリを振り回した。壁はプチプチと段ボールで覆われていたが、それらがノコギリの刃に触れて破れ、穴が開き、ボロボロになっていく。 「テメエ、適当なことを言っているんじゃねえぞ」男が大輔の顔を何度も殴った。殴られると脳が揺れて視界に映るもの全てが液化したように見えた。「明美さん、由樹さんを止めなさい」成子の命令直後に明美の絶叫が聞こえた。どこかノコギリで切られたのだろうか。殴られてよく見えない。大輔はずっと殴られっぱなしだった。顔がべコベコになりそうだ。「待って。由樹さん落ち着きなさい」成子の言葉にも由樹は応じない。男は疲れたのか殴る手を止めた。洗面所の状況を確認した。由樹はノコギリを手に持ったまま、もう片方の腕で彩花を抱えて洗面所から
この浴室に閉じ込められて何日経ったのかも分からない。一日一度くらいのペースで冷たい食パンが一枚食べさせられる。腕を縛られているので、明美が手で千切って口の中に入れてくれる。排泄はトイレでさせてくれない。小便も大便もその場で垂れ流しだ。たまに明美がシャワーで流してくれるが、パンツに排泄物が染み込み臭いは取れない。気が狂いそうだ。糞尿の臭いが充満する中でパンを食べる日常が苦痛だった。大便を塗ったパンを食べさせられているような感覚に近い。帰ってアンジェラの元に戻る未来のみ考えて正気を保つようにした。たまに浴槽の蓋が開けられて彩花が出て来る日もあった。仕事が入ったからだと成子は言う。仕事とはどうせ身売りだろう。由樹とも顔を合わせる時もある。浴室の丁度すぐ外の洗面所で成子に正座をさせられている時だ。「娘が大金を稼げるのに、お前と来たら二千円ぽっきりか。彩花ちゃんはエライから、お母さんを教育してあげなさい」成子から彩花は何か細長い肌色の物体を手渡されていた。目を凝らして見るとディルドだった。女児にそんな物を持たせるなんて異常だが、成子には関係のないことだろう。何度か使ったことがあるようで、彩花はディルドを母親である由樹の口の中に突っ込んだ。何度も喉を衝くと、由樹はうえっっと言いながら黄色い胃液を口から溢した。「あーあ、それ飲みなよ」成子に言われて由樹は自分が吐いた液体を吸って飲み始めた。そんな日常が続いた。だが五歳児の彩花の精神状態はすぐに壊れることになった。仕事の時や由樹を拷問する時以外は、基本的に浴槽の中に閉じ込められているのだが、独り言を発するようになった。「ぼく、しまじろう。とりっぴー、あそぼ。いいよ、しまじろう。何しよっか」延々と一人で会話を行っている。現実から逃避して大好きなしまじろうの世界に行こうとしているのかもしれない。彩花が壊れ始めてから数日後、遂に浴槽から意味を成さない大絶叫が聞こえた。「うるせえ」成子が浴室の中に入って来た。彼女は浴槽の蓋を外して彩花の体を取り出した。思わず目を背けた。彩花がもう原型を留めないくらいに肉体が崩れていたように見えた。成子が浴室の外にある洗面所に出ると、由樹を呼んだ。彩花は洗面所の床に寝転がされた。彼女がどういう状態
「パチンコ屋に行くように言われたのよ。私とアンジェラさんと清江さんが。でも、アンジェラさんは貴方に由樹さんを探らせるから、パチンコ屋に行かなくて済んだのよ。だから私と清江さんだけ、あんな目に遭って。もう思い出したくもない」パチンコ屋に行って酷い目に遭ったということはただ遊んで来たわけではないだろう。パチンコ屋では、パチンコ売春を行っている女性がいることを知っている。実際に浮気調査をしていると奥さんがそういった商売に手を出していることがある。明美は売春を強要されたと言っているのか。気持ち悪いオッサンとは彼女を買った男のことだろう。もう一つ気になることがあった。アンジェラは売春することなく、代わりに大輔という探偵の知り合いがいると明かして由樹を探らせたと言う。アンジェラが柴崎由樹という人物を調査するように依頼して来た時のことを思い出した。あの時、既に成子の毒牙にかかっていたのか。だから明るさに翳りがあったのだろう。由樹は元々この犯罪に前向きではないことも分かった。この殺人に積極的な人物など成子以外にいるのだろうか。「パチンコ屋で売春をさせられたのですね。もしかして、それは成子から言われたのですか」「成子さんのことを呼び捨てにするな」硬くて強烈な一喝が飛んで来た。成子に心酔しているように見える。どうしてなのか。「成子さんから言われてパチンコ屋に行ったのでしょう。どうしてあの人のことを慕うのですか」「私には仕事がなかった。夫も失って一人になった。ヒッ。ふえぇ。だから。だから、私に仕事をくれた。うわぁ、だから、だから成子さんのことを悪く言うなあ。成子さんは優しい方なのだからあ」自分に言い聞かせているかのような喋り方だった。途中から泣き出してしまい、情緒が滅茶苦茶だった。「今でも、成子さんと初めて会った時のことを思い出すと、幸せな気分になれるの」明美は渋谷で初めて成子に会った日を喋り出した。星乃珈琲から出て由樹と清江とアンジェラが先に帰ると、焼肉に行こうと誘われたようだ。店に到着すると二人は向かい合って喋った。「明美さんのこと見ていたら、何だか私が辛くなっちゃって。同情とは違うの。何て言えば良いのかな。明美さんがマスクと帽子を取った時、昔の私を思い出しちゃってね
「明美さん。あんま私を怒らせないで下さい。貴方にお仕置きをしなければいけなくなるのですよ」明美は勢い良く顔を上げた。顔を覆う皮膚が突っ張り、顎や頬骨が痙攣して泡を吹き始めた。「電気だけは、電気だけは勘弁して下さいぃ」彼女は口角から唾を垂らしながら成子に懇願した。電気の痛みと恐怖を植え付けられている様子だ。恐怖によって完全に成子の言いなりに成り下がっている。「だったら今すぐそいつに電気を流してやるのです。貴方の身を守るにはそれしか方法がないのですよ」長期間このような関係性にいると、成子の下僕のように行動する彼女自身が本来の自分だったと錯覚するはずだ。元の生活を忘れるほどここの部屋にいるのか、元の生活が忘れたいほど悲惨だったのか。ただ、いずれにしても現在の彼女こそ悲惨そのものだ。明美は成子の従順な奴隷でしかない。「明美さん、やっちゃいなさい」下腹部が取れるほどの激痛が走った。竿の部分を百八十度ねじられて強く引っ張られたまま、尿道に鋭い針を刺し込まれたような痛みだ。「自分が犯した間違いを認めなさい。貴方は五歳の彩花ちゃんの体を弄んだ男だということを」必死で首を横に振った。そんなことをしていない。恐らくボイスレコーダーで録音でもされているに違いない。下手なことを言えば、成子に弱みを握られる。再び電気が流れる。破裂音のような叫び声が喉から出て来た。喉仏が爆発するかと思った。うるせえとデブの眼鏡男に怒鳴られて口に雑巾のような臭い布が突っ込まれた。「大輔さん、アンジェラさんを呼び戻して下さい。彼女は人を殺したのです。ねえ明美さん。ほらっ。だからここで匿ってあげないと駄目なんです。アンジェラさんをここに呼び戻せるのは、大輔さんしかいません」「人を殺した犯罪者は貴方でしょう」「ひゃははは、私は一切手を出していませんのよ。浩司さんを殺したのは明美さんと清江さん、清江さんをバラバラにしたのは由樹さんとアンジェラさんと明美さん。私は人の命を奪うようなことをしていないの。だからアンジェラさんをここで保護してあげようと言っているのよ」明美は浴室の隅で体育座りをして小さくなって震えている。「いいですか、大輔さん。貴方はアンジェラさんをここに連れ戻すことで、再び殺人に手を染めさせることになる
※人工的な白い光が自分の顔を照らしていることに気付いた。大輔は自分がどうなっているのかを確認しようとした。体が自由に動かせない。視界もぼやけて周りの様子を見ることもできない。落ち着こうと一旦、目を瞑った。自分がどういう体勢になっているのかを感覚で察した。背中に固い床が当たっている。どこかの部屋の床で寝かされているようだ。手のひらを動かして、床の感触を確かめた。浅い溝がある。タイル張りの床だ。もう一度目を開ける。白い光が目に入る。白いのは光だけでなく、壁や天井も白系で統一されていた。風呂場だということにようやく気が付いた。どこかの家の風呂場に寝かされていた。体を起こそうとしたが動けない。布が胴と腕に巻かれていた。足首にも布が巻かれていた。二つの布は風呂場内にある手すりに繋がれており、この部屋から出られないようになっていた。布が外れないか暴れるもビクともしない。「お兄さん、起きたの?」どこかで聞いたことのある幼気な声が傍から聞こえた。周囲を見たが、誰もいなかった。確かに浴室内から聞こえていたはずだが、人の姿が見えない。「ここだよ」再び声が聞こえた。今度は声の出どころが分かった。蓋がしてある浴槽の中から聞こえている。声の主は姿を見なくても分かる。由樹の娘の彩花だ。「彩花ちゃんだよね?」「ㇱッ」どうしたのかと思っていると、いきなり浴室の扉が開いた。見知らぬ黒縁眼鏡をかけたデブの男が浴室の中に入って大輔の顔に踵落としを決めた。鼻筋に当たり、口の中に鉄味の温い液体が入って来た。「目を覚ましましたか、大輔さん」男の背後から一人の女が浴室に入って来た。顔が大きくて中年太りをした女だ。顔には雪が積もったのかと思えるほどファンデーションを厚く塗っている。唇には似合わないワインレッドのルージュを塗っていた。目の前に現れた女が自分をここに連れて来たのだとすぐに分かった。赤い細縁の眼鏡をかけていたからだ。女は片耳のみにワイヤレスイヤホンを付けていた。耳が悪いようだ。「誰だ」一応吠えはしたが、全く威圧感を与えられていないだろう。布で縛られて床に寝そべっている男はどんなに惨めに見えるだろうか。「どうも、高松成子と言います。大輔さん、貴方とんでもないことをしちゃいま
「彩花ちゅわんの顔がぁ、柔らかくって気ん持ちいい。どう?オジサンのものは。気持ちいいかい?」「嫌だあ、嫌だあ」「よし彩花ちゃん、上に着ているお洋服脱いでみよっか。嫌じゃないの。じゃあ、オジサンが脱がせてあげようねぇ。へっへっへ。バンザイしてみて。おお。ペロッ。うーん、脇汗が美味しい」「やめで、もう、やめでえ」「嫌ですよお。もう一度ペロ。こっち側もペロペロペロ」「ママ助けでえ」「ママなんていないよ。ここにはオジサンしかいないのだ。お顔を見せてね。可愛いなぁ。沢山チューしちゃお。今日はオジサンのチュー三昧だお」「うええ、うええ。気持ち悪い」「そんなこと言っちゃダメよ。今度はオジサンのヨダレを召し上がれ」「んごお、んごお。おええ。おっ、おっ、おええ、びぃやああああ、死ぬ死にたい」「今度は彩花ちゃんの頂戴」「ヤダッ。ヤダヤダヤダヤダヤダ」「嫌じゃない。ホラ、オジサンのベロの上に。ベーって出せば良いんだお」「べー」「うんっ。うーっん。もぎゅ。もぎゅ。美味い。美味すぎる。ご褒美に抱き締めてあげる。ムギュウ。ギューギュー」「おえっ、臭い、死にたい、死にたいよ」「臭いなんて言わないの。オジサンもっと臭い時あるんだから。昨日今日とお風呂入ってないだけ。前は四日も入らなかった時が普通なんだからね」「何で」「面倒臭いじゃん、だって」「嫌だあ」「そんなこと言うなら、彩花ちゃんに洗ってもらおうかな。名案だ。こりゃあ名案だぞっ。アインシュタインも嫉妬するくらいの名案だあ」聞いていられなかった。あまりの気色悪さにイヤホンを外そうと思った途端、雪崩が起きたのかと思えるほどの轟音が聞こえた。物が倒れたり壊れたりする音が重なって激しい音になったようだ。断末魔の叫び声が響く。叫び声を上げている人物とは別の者たちから泣き声や悲鳴が上がっている。しばらくの間、けたたましい様子になってから、ゴンという音の後に、イッテエという男の声が聞こえた。男が殴られたのか。男を殴る者など一人しか考えられない。由樹だ。娘の彩花が陵辱されている瞬間を見続けて我慢できるはずがない。叫び声を上げていた人物も由樹だろう。廊下に由樹たちが出て来るので