LOGINまたしばらくの沈黙のあと、正広が「あー、えーっと……」とゴニョゴニョ言い出す。煮え切らない態度にイライラした頃、ようやく――
「萌さんと結婚させてください」
正広の口から言葉が出た。
言えたじゃないの。
やればできるじゃん。……なんて、褒めてる場合じゃない。
褒めるとか、そういうことではない。声は小さめで語尾は少しばかり震えている。男らしさのかけらもない挨拶に、うちの両親の眉間にシワが寄った。どう反応していいのか、わからないといった様子だ。
私も、自分が今、何をしているんだろうという気持ちになってくる。
父は眉をひそめ、母は微妙な笑顔で「そうなのねぇ」と曖昧に返す。
なんともいえない重苦しい空気が、ずううんと肩にのしかかるようだ。会話が続かない。両親も、困り果てたのだろう。当たり障りのないことを正広に質問し始める。
「お仕事はどんな感じなの?」
「貯金はしてる?」 「家族構成は?」正広は、自分からは話さないくせに、話しかけられれば息を吹き返したかのように、饒舌に答えた。さながら仕事中のような、丁寧な言葉と笑顔。
……ちゃんと社交性あるじゃん。
こんなところでほっと胸を撫で下ろす私は、きっと正常な判断ができないくらいに、正広の態度に耐性がついていたのだろう。
この人に期待してはダメだ。どうにか上手くやらないと。そんなことを考えつつも、頭の片隅で警鐘を鳴らしていた。
モヤモヤした気持ちを抱えたまま、それでも何かが劇的に変わるわけでもなく、毎日は淡々と過ぎていく。前々から計画していた結婚指輪を買いに、正広と式場へ向かった。結婚雑誌に載っていたおしゃれな指輪たち。このお店もいいな、こっちのデザインも見てみたいな。デザインも豊富で、宝石が散りばめられているもの、シンプルなもの、彫りのあるもの。目移りしてしまうくらいどれも素敵で、胸が躍る。結婚指輪なんて一生ものだから、じっくり選びたい。この先の未来を想像しながら、あーでもない、こーでもないって笑いながらお店を巡りたい。そんなふうに、胸をときめかせていたのに――そんなときめきは、ただの妄想であり、残念ながら幻想に終わった。現実はというと、式場の中に併設された指定のお店でしか買えないという決まりがあったのだ。夢見ていた指輪選びは、選択肢すら与えられずに終わったのだ。私の気持ちはどんどん沈んでいく。 もう、落胆だ。 しかも、正広は私の落ち込みなどまったく気にもとめない。 それがさらに落胆だ。キラキラした未来が、式場のルールひとつで、あっさりと曇っていく。また胸のモヤモヤが、溜まっていく。指輪のショーケースには、ピカピカの指輪がいくつか並んでいる。本当だったら、これを見るだけでわくわくするはずだった。だけど今の私はまったくわくわくしない。ただ、ため息が出るだけだ。
それにしても……。 江藤くんの突拍子もない発言に、私は思わず吹き出す。「もー、何それ」 「だから、ドラマみたいに結婚式場の扉をバーンと開けて、花嫁を拐うっていう演出。俺が辻野さんを奪いに行く」その光景を想像して、また笑いがこみ上げる。江藤くんが真剣な顔をして言うものだから、余計におかしい。「あはは、それいいね。でも江藤くん、ドラマの見すぎだよー」 「やってみたいと思って」 「そんなこと、普通思う?」 「いいアイデアだと思ったんだけど」江藤くんが、うーんと首を傾げるので、二人で顔を見合わせて、ふふっと笑い合う。いつもそうなんだ。江藤くんは、こういう冗談で笑わせてくれる。嫌な気持ちを、ふっと吹き飛ばしてくれる。 江藤くんのそんな優しさが、たまらなく嬉しい。笑いながらも、何だか胸が詰まって、私は少しだけ涙ぐんでしまった。視界が滲んで、ごまかすように慌てて下を向く。俯いた私の背中を、江藤くんはポンポンと控えめに撫でてくれた。その手がとても温かくて、優しいぬくもりが心に染みていく。江藤くんったら、優しすぎて胸がぎゅっとなるよ。余計に顔が上げられないじゃない。そんな私を、江藤くんは急かしたり責めたりすることなく、ただ静かに隣にいてくれた。 江藤くんの存在感と安心感はとても大きくて、そして心地良い。すごく偉大な人だと思った。
確かに、正広は自己中だ。思い当たる節なんて、数えきれないほどある。そのせいで、何度「もうっ!」と心の中で怒ったことか。それでも、結婚しようと思ったのは、正広を好きだから。……本当に? 本当に、好きなのかな?実は、ただ甘い言葉に惑わされただけなんじゃないだろうか。好きだよって言われて、キスされて、優い言葉に絆されて。それだけで、心が揺れてしまっただけなんじゃないか。考えれば考えるほど、自信がなくなっていく。 心が、簡単に揺らいでしまう。 その揺らぎが、良いものなのか悪いものなのか、判断ができない。いつの間にか、視線も俯きがちになっていた。グラスの表面についた水滴が、つーっとテーブルに落ちていくのを目で追う。「あのさ……」 「うん?」 「俺が結婚式に乗り込んで、ちょっと待ったーって奪いに行ってあげようか?」 「へ?」一瞬言われた意味が分からなかった。だけど顔を上げると、江藤くんがじっとこちらでを見ている。その真っ直ぐな瞳に、吸い込まれそうになった。江藤くんの言葉が、冗談なのか本気なのか、判断できなかった。でも、心臓がドクンと跳ねる。ドキドキと鼓動が早くなる。何だろう、この感覚。 停滞していた何かが動き出すような、そんな感覚に、ざわりと体が震えた。
「何かさ、わからなくなってきちゃったんだよね」 「結婚が?」 「うん。これでいいのかどうなのか。はっきり言って、彼氏、頼りないし、ツッコミ所が多すぎるんだ」冗談めかして笑い飛ばそうと思ったのに、気づいたら私の口は止まらなくなっていた。正広のこと、両親への挨拶のこと、長男だから実家をもらうと言われたときの衝撃、そして――なにより結婚という言葉に縛られて、身動きが取れなくなっている自分のこと。江藤くんは、黙って聞いてくれていた。うなずきも、相槌も、絶妙なタイミングで。その優しく聞き役に回ってくれる行為が、とんでもなく心地よくて、私の口は止まらず、思いの丈をしゃべり倒してしまったのだ。こんなプライベートなことを、そんな赤裸々に話すなんて、本当はするべきじゃないのかもしれない。でも、愚痴らずにはいられなかった。 このモヤモヤを、誰かに聞いてほしかった。 ずっとずっと、一人で抱えていたのだ。「ごめん、長々と愚痴って」はあーと息を吐く。ずっと喋っていたから喉はカラカラだ。おかわりのビールをグビグビ飲むと、江藤くんが真剣な顔でこちらを見ていた。「辻野さんさ、そんな男と結婚して大丈夫? 彼には失礼だけど、かなり自己中っぽいよ。辻野さんが苦労するのが目に見えるんだけど。辻野さん、本当にその男のこと、好きなの?」 「え……?」――本当に、好きかどうか。江藤くんの言葉に、私は言葉が出てこなかった。正広のことを好き、だったはず。 でも、今の私はどうなんだろうか?言われて初めて、私はその問いを自分に向けてみる。ずっと誤魔化していた自分の気持ち。避けていた本当の気持ち。 心の奥が揺れ動かされる。
そんな気持ちをごまかすように、ビールを一気飲みする。胸のモヤモヤは、少しも解消される気配がない。「何だろう? マリッジブルーかな?」そう言うと、江藤くんはグラスを傾けながら、ふーんと軽く相槌を打った。「そういうもの?」その言葉に、私は曖昧に笑うことしかできない。だって、自分でもよくわからないのだ。マリッジブルーで片付けていいものなのか、そんな言葉でごまかしているだけなのか。ただ、どうにもこうにも、心が晴れないのは確かだった。江藤くんが自分のお通しの中から、生麩の田楽をひとつ取り出して、私のお皿にちょこんとのせた。「……え?」驚いて江藤くんを見る。江藤くんは何でもないように「それ、好きでしょ」と笑う。以前も江藤くんとこの店に来たことがあった。その時にも生麩が出て、私が「美味しい! おかわりしたい!」とテンション高く騒いでいた。それを、覚えていてくれたんだ。そのことに気づいた瞬間、胸がぎゅと締めつけられる。それは、苦しいものではなくて、嬉しい感覚。生麩の田楽を見つめながら、私は思わず笑顔になった。江藤くんったら、本当に優しいんだから。 さりげなく譲ってくれるその行為に、心がふわっと軽くなる感じがする。江藤くんの優しさが、今の私には何よりも心に沁みた。
久しぶりに江藤くんから誘いがあって、仕事終わりに駅前の居酒屋へ向かった。たまにだけど、こうして一緒にご飯を食べて帰ることがある。気を遣わなくていい相手って、こういう人のことを言うんだろうな。店内はほどよく賑やかで、隣の席からは笑い声が聞こえる。運ばれてきたお通しをちびちびつつきながら、私はぼそりと呟いた。「私さ、結婚することになった」 「えっ。マジか!」江藤くんは、箸を止めて目を丸くした。 驚いたあと、すぐに「おめでとう」と言ってニコッと笑ってくれた。その声は、いつも通りの優しさに包まれていて、胸がぎゅっと詰まる。「それにしてはあんまり嬉しそうじゃないね?」 「そう、かな?」首を傾げながら答えたけれど、実際その通りだった。胸のモヤモヤがひどい。結婚の報告って、もっとドキドキしたり、キラキラしたりするものだと思っていた。でも、今の私はそんな気持ちにはなれない。――全然、嬉しくない。むしろ、心の奥がどんよりと重たい。江藤くんという他人に結婚の報告をしたことで、ようやくその重さに気づいた気がした。グラスの中の氷が溶けて、カランと音を立てる。その音がやけに虚しく感じられる。『飲み会は自由に行っていいのよ。そういう日は正広、うちでご飯食べさせるから』正広のお母さんの言葉が不意に思い出される。結婚したら、例えばこういう日、正広は実家に帰って母親の作ったご飯を食べるんだ。それを思うと、また胸の奥にモヤッとした感情が生まれた。







