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江藤くんは、出張先に着ていったスーツ姿のままだった。 夕暮れどきの光りに照らされて、ネイビーの生地がわずかに光を返している。その姿がいつもより大人の男性に見えて、思わず見惚れてしまった。 「どうかした?」 「え? ええっと、江藤くんスーツのままなの? それでディズニー行くの?」 「ああ、これ? 急いで来たから着替える暇なかったんだよ。でもまあ、いいじゃん。ディズニーならなんでもありでしょ? なんならこの格好のまま、耳付けてもいいよ」 そう言って、頭の上で手を開いて、ミッキーの耳の真似をする。 普段見慣れない、きちんとしたスーツ姿に惚れ惚れしていたのに、そのジェスチャーで一気に笑いが込み上げた。 「ぷっ……」 思わず吹き出してしまう。 こういうギャップがまた、江藤くんの魅力なんだよなぁ。 そう思った瞬間、また彼に惹かれている自分に気づく。 意識したら、勝手に熱を持ち出した頬。 焦って、とっさに両手で隠した。 江藤くんは、そんな私を見て、ニヤリと笑う。 「なんか、照れてる?」 「いや、照れてません」 ツンと返したけれど、実際のところ照れている。 スーツ姿の彼と、耳付きの彼。 どちらも、私の心をくすぐる存在に間違いない。 これでときめかないなんて、ありえない。 むしろ、ときめきしかないじゃない
江藤くんは出張先の成田市から、私は会社のある横浜市から、それぞれ電車に揺られて、舞浜駅を目指す。普段のデートは、どちらかの家に迎えに行くことが多い。だから、待ち合わせをすること自体が新鮮で、初めてみたいな気持ちになった。電車に揺られながら、目的地に近づくにつれて、私の胸は高鳴っていく。ドキドキが止まらなくなっていく。こんな風に旅行に行くのは、初めてのことだから。なんだか、すごく嬉しい。すごく恋人感がある。気持ちが高まる……!舞浜駅に着くと、すでに江藤くんが待っていた。遠くからでもわかってしまう、彼のシルエット、佇まい。嬉しくなって、すぐに駆け寄る。すぐに気づいてくれた江藤くんは、ふっと目尻を落とした。「おー、ちゃんと一人で来れて偉いね」そう言って、頭を撫でられる。子供扱いされてるような感じなのに、何故か嬉しい私。だけどそれを悟られたくなくて、「大人なので」と、ツンと反論する。そんな私を見て、江藤くんは朗らかに笑った。つられて私も笑顔になる。こんな些細なことでも、嬉しくなっちゃうなんて、私ったらテンション上がりすぎだろうか。駅のざわめきの中で、ふたりだけの空気が流れる。それが妙に優しくて心地良くて、心があたたかくなった。
その日は、突然やってきたのだった。「俺、金曜日出張なんだけど、辻野さん定時で上がれる?」 「うん、今、仕事落ち着いてるし、大丈夫だと思う」 「じゃあさ、舞浜駅で落ち合おう」 「……どういうこと?」江藤くんの言っている意味が、さっぱりわからなくて、私は首を傾げながら疑問の声を上げる。「なんと、直帰を獲得しました!」 「……はい?」胸の前でピースサインをした江藤くんは、得意げにニッと笑ってみせた。どうやら江藤くんは、例のトラブル対応で取引先に出張に行くことが決まったようだ。そして、その出張日は金曜日。終わり次第、直帰したいという希望を課長に直談判して、見事に獲得できた模様。先日、仕事中に二人で妄想したディズニー旅行を、この機会に本当に実行すると言うのだ。 ただし、二人揃って月曜を休暇にするわけにはいかないので、一泊のみの弾丸旅行だけれど。それを聞いた瞬間、私の頭の中は大騒ぎになった。えー! 本当に? 本当に旅行に行くの? めっちゃ楽しみだし、わくわくするー!胸が躍るとは、こういうことなのだろうか。 夢みたいな話が、現実になろうとしている。 急にドキドキが止まらなくなってきた。金曜の夜、舞浜駅。 その先に待っているのは、きっと魔法みたいな時間に違いない。 想像をしただけで、嬉しくてニヤけてしまう。そんなはやる気持ちを抱えながら、金曜日まで機嫌よく過ごした。 日に日に高まる鼓動は、抑えられる気がしない。
「よし、とりあえず旅行でもするか」 「はいはい、仕事してくださいねー」 冗談で仕事を放棄し出した江藤くんを、私も冗談で軽くあしらう。 私は残りの配布物を配りながら、今のやり取りが嬉しくてたまらなくなっていた。 自分の席に戻ってから、モニターの隙間をぬってこっそり江藤くんを覗き見る。さっきまでふざけていたのに、あっという間に仕事モードの渋い顔に戻っている。そんな顔を眺めながら、先ほどのやり取りを頭の中で思い出しながら反芻する。 本当に、江藤くんと一緒に旅行したら楽しいだろうなと思う。 江藤くんといると、話が絶えない。たとえ沈黙があったとしても、それは全然嫌じゃない。むしろ、空気感が心地いい。そういうのって、何かいい。安心できるし、ここにいていいんだなって、思わせてくれるから。 だからこそ余計に、江藤くんと旅行したらどんなに楽しいだろうかと想像するのだ。 ディズニーランドなんて、何年も行っていない。 もし二人で行けたら、どんな風にはしゃぐのだろう。 江藤くんはミッキーのカチューシャ、付けてくれるのかな? そんな光景を妄想して、ひとり微笑んだ。 パソコンのモニターに映る自分の顔が、にやけているのがわかる。 いかんいかん、気を引き締めねば。 でも、そんな妄想ができることも、何だか嬉しかったりするのだ。
ふと、江藤くんが真顔になった。 さっきまで軽口を叩いていたのに、急に表情が変わったものだから、思わず首を傾げてしまう。「どうせ行くならさ、直帰にしてディズニー行って、翌日は東京観光で浅草とか回ったりして帰ってきたいね。当然、その翌日は休暇ね」あまりに真剣な声で言うものだから、思わず吹き出してしまった。「それいいなー。そんなんだったら私も行きたいよ。でも、絶対課長の許可下りないよね」 「辻野さん、頼み込んできて」 「いやいや、無理だし」二人でクスクス笑い合う。 仕事中だというのに、こんなふうに空気を軽くしてくれるのが、江藤くんらしい。そういえば―― 仕事中の江藤くんも、プライベートの江藤くんも、驚くほど変わらない。 誰に対しても同じ調子で、気取らず、裏表がない。 そう思うと、胸の奥がじんわり温かくなる。 都合よく解釈しているだけかもしれないけれど、それでも、彼の言葉や仕草の端々ににじむ優しさに触れるたび、安心してしまうのだ。特別なことなんて何もない。 ただ、いつも通り勤務中の、いつも通りの会話。江藤くんと交わす何気ない会話が、こんなにも心を和ませてくれるなんて、少し前の自分なら想像もしなかった。二人で笑い合うその瞬間、彼の存在が、ほんの少しだけ愛おしく見えた。
珍しく、仕事中の江藤くんが渋い顔をして考え込んでいた。 私は社内配布物を配り歩きながら、彼のデスクの前で足を止める。「どうかした?」声をかけると、江藤くんは腕組みをして、椅子ごとこちらを向いた。「取引先の会社がシステムに繋がらないって言うんだけど、調べても異常が見当たらなくてさ。あと考えられるとしたら向こうの機器の問題なんだけど。それはどうやったら調べられる?」突然のなぞなぞのような質問に、私は「うーん」と考える。「その会社に出向くとか?」 「だよね。この会社、成田市なんだよね」 「成田かぁ~」うちの会社は横浜市にある。 取引先の会社は、千葉県成田市。 そこまで遠くはないけれど、近い距離でもない。江藤くんは少しだけ眉をひそめたまま、「日帰りで行けるかな」とぼそりと呟いた。「出張?」 「現地行ったほうがいいかなーって」 「行くならお土産よろしくね」 「お土産ねぇ。成田のお土産って何だろう?」 「さあ、わかんない。でもいいなー。仕事とはいえ、出張ってなんか憧れる。私の業務じゃ、出張なんてないもの」 「そんないいものでもないけどね。トラブったら帰れないから」 「そういうもの?」 「そういうものなんだよ」江藤くんと顔を見合わせて、ふふっと笑い合う。 仕事中なのに、少しだけ二人の空気が流れた気がして、嬉しくなってしまった。