息をのんで、ムカデがちらりと見えた暗がりへと歩みを進める。しかし……そこにはもう何の姿もなかった。「ふぅ……」 その事実に、内心少し安堵する。さっきはその片鱗を見ただけで、その……正直ゾッとしてしまった。たんなる魔物とはまた違った嫌悪感、本能からくる原始的な恐怖……。その姿にある種の馴染みがある故に、経験を伴った嫌な感じが全身を這いまわるのだ。「デカい虫って……結構、怖いですね……正直……」「ほら、だから言ったろう? こういうダンジョンはこれだから……面倒なんだ。ボクも……あいにく少し苦手でね……」 鹿間さんもさっきの遭遇に辟易した様子で苦笑いする。その視線は本来は見たくもないであろう魔物の姿を探して、辺りを注意深く観察していた。「でも……さっきのムカデ、俺たちを見て逃げましたよね? 道中もさっきのデカいの以外まだ何にも会ってませんし……こうやってずっと隠れててくれるなら、それはそれでありがたいんじゃないですかね?」 思えば、現実での虫もそうだ。基本的に奴らはどこかに身を潜めて生きている。だから、多くの場合俺ら自身がその領域に立ち入らなければ会うこともそんなにないのだ。「そうだね……確かに、虫の姿をとった魔物は姿を隠していることが多い。でもね、水瀬君……勘違いしちゃいけないのは……それは彼らが臆病だからそうしているわけではないってことだ」 鹿間さんは俺の言葉に頷きつつも「飽くまで警戒を怠るべきではない」と念を押してくる。「虫って言うのは……ダンジョンの内外に関わらず、システマチックというか……ある意味機械的な生き物なんだよ。思考する……というよりは、あらゆる状況の変化に……その設計通りの反応をするんだ。そして、その設計という点において……ダンジョン外の虫とは大きく異なる部分が一つある。それは生き延びるための選択肢として逃げ隠れるのではなく……異物であるクリーナーを排除することを選んでいることだ。だから……ボクらがこのまま何事もなくボスフロアや出口にたどり着くことはありえない。彼らはボクたちをじっと見ている。振動で、匂いで……じっくり様子を窺って……仕留めるタイミングを待っているんだ」「う……」 鹿間さんの言葉に、今やその気配も感じられないあのムカデのことを思い出して鳥肌が立つ。それに……当然のことだが、このダンジョン内に居
ゲートのぐにゃぐにゃした光を抜けると、眩暈に近い感覚とともにダンジョンの内部に降り立った。久しぶりのこの感覚に多少ふらつく。けれども体はこの感覚を覚えていたようでそれ以上のことはなかった。 やや俺が先行していたためか、数秒遅れて空間の亀裂のような光から鹿間さんが吐き出される。その光は鹿間さんをここに届けるなり消えてしまった。「おっと……そうそう、ダンジョンってのはこうだったね……」 俺以上にブランクのある鹿間さんは額を押さえて壁に手をつく。もちろん初めてダンジョンに立ち入る人ほどではないが、少し平衡感覚が戻るのに時間を要しそうだった。「いや……すまないね……情けないところを見せちゃって……」「いえ、仕方ないことですから……」 鹿間さんが立ち直るまでの間、軽く言葉を交わしながら辺りの様子を窺う。今回のダンジョンは洞窟だった。 薄暗く伸びていくまるで巨大な生物の内臓の中のようなでこぼこした岩肌の道。空気はひんやりとしていて、どこからか水の滴る音が響いていた。そして少しだけ、ほんの少しだけ……独特の生臭さのようなものが鼻の奥を刺激してきていた。「……なんだか、ちょっと気持ち悪いところですね……」 こうしてただなかに立って眺めている分には、普通に地球上にある洞窟となんら変わりないのだが……なんだか全身を何かが這うような嫌な気配を感じるのだ。すっかり落ち着いたと見える鹿間さんも、俺の言葉を首肯する。「そうだね……。確かに……なんだか嫌な存在感だ。D級ゲートだから……まあ問題は起こらないだろうけど……」「D級……」 「ああ、そっか……水瀬君は一応D級は初めてってことになるのか……まあ今更だけどね……」 研修で潜ったダンジョンは全てE級、七日目のあの意味不明なダンジョンは例外として……ちゃんとしたD級以上のダンジョンに潜ったことがないのだ。ただまあ……確かに今更って感じもある……それもこれも、全部あの七日目のせいだ。 俺の中に明確に「あれよりはひどくないだろう」という指標が出来上がっている。あの絶望を通って来たからこそ、初めてのD級ダンジョンにおいても特別な緊張は無かった。「それはそうと……水瀬君、はい……これ」「え? あ……これは……」 鹿間さんが手渡してきたのは俺の顔写真、名前、そして分かりやすく大きく太い字体で書か
これからクリーナーとして活動していくにあたって必要なものを買い集めるなど諸々の準備をしていた時、鹿間さんから連絡が来た。『あ、もしもし? 夜遅くにごめんね。色々と手続きも済んで水瀬君のカード……ブランクカードじゃなくて正式なクリーナーとしてのカードが出来上がったから、明日渡したいんだと思うんだけど……いいかな?』「あ、本当ですか……!?」 時刻は夜10時ほど。そこまで遅い時刻というわけではない。むしろ……こういう知らせがいち早く聞けるのは嬉しかった。 あの”テスト”を経て数日、鹿間さんの口から直接合格は貰っていたが、今までは実感が伴わなくて、疑う必要など微塵もないというのに「あの日に起こったことは本当だったのだろうか?」という不安さえ湧き出してしまっていたのだ。始まっているはずなのに何も始まらない焦燥感、この数日間は本当に落ち着きなく過ごしていた。 鹿間さんが続ける。『で……まあ別に明日でなくても構わないのだけど、そのカードを渡すときに……そのままその脚でボクと一緒にダンジョンに潜ってほしいんだ』「え……鹿間さん、とですか?」『いや、ね……結局水瀬君のスキルについて、まだ何も明らかになっていないから……それがどういうものなのかっていうのを検証してみたいんだ』「え、でも俺って……」 通常スキルに覚醒した場合、インベントリのステータスから分かるようになっている。そして俺は……あの七日間の内に覚醒しなかったのだ。それは今でも変わらず、インベントリのスキル欄には何も現れていない……はず、なのだが……。『確かに……水瀬君のステータスにはスキルの表示が無い。あの日の”テスト”で水瀬君がボクに勝てたのも、持っていた武器のステータス補正によるものだ。そして……君も分かっていると思うけど、その武器が問題なんだ。いったいどこからどうやって来たのかさっぱり分からない』「はい……」 ここまでは事実の確認。俺も知っている内容の繰り返しだ。そしてここからは……。『それを考えると……やっぱり一番自然なのはスキルの発現だろうと、協会の方でも判断したんだ。インベントリはダンジョンという現象そのものを技術として落とし込んだ産物だから、こうして使っているボクら自身もまだ分かっていないところが多い。あくまで”こういう風に使える”っていう部分を”そういう風に使っ
「あ……」 歩さんの案内で夏山さんの部屋にやってくると、すぐにここが夏山さんの部屋なんだなってわかった。この部屋だけまだ片付けの手が入っていないから、まるで今さっきまでそこで夏山さんが過ごしていたかのようにいろいろなものが残っている。中でもやっぱり目立つのが……。「へへ、すみませんね……散らかってて」 歩さんは部屋の状態に恥ずかしそうに笑う。しかし、この風景に記憶が刺激されたのかその瞳はうっすら潤んでいた。「すごい……夏山さんらしい部屋だね……」「ええ、ほんとに……」 いったいどこでこんなものを買いそろえたというのか、壁には皐月 無垢が不愛想ながら一応カメラ目線をしているポスターが貼られ、棚に並べられた写真立てには雑誌から切り抜いたと見えるこれまた皐月 無垢の写真が飾られていた。シーツや掛布団の乱れも直していないらしく、ややぐちゃっとなったそこには枕元のところに皐月 無垢を模したぬいぐるみが置かれていた。この皐月 無垢グッズの数々、あの皐月自身はいったいどれほどまで把握しているのだろう? でも、そんなオタク丸出しな光景に「ああ、そういえば夏山さんってこういう人だったや」と俺も懐かしくなる。部屋の中のどこか埃っぽいような匂いが、普遍的な懐かしさを演出していた。 歩さんは、空の段ボールを手にそれらの収納に取り掛かる。「姉さん、本当にこの皐月って人が好きで……前、本人に会えたんだってすごい喜んでたんです」「ふふっ、ほんと……。俺も最初はびっくりしましたよ。最初はこう、いかにも普通の人って感じだったのに……皐月が出てくるなりいきなり早口になって……」「あはは、水瀬さんの前でもそうだったんですね……」 夏山さんしか共通点のない俺たち。しかしそれでも、思い出話に花を咲かせながら部屋の片づけを推し進めた。時には見つかったアルバムを広げて、歩さんの口から俺の知らない夏山さんの話を聞いたり、逆にダンジョン内での出来事と関連する品が出てきたら俺がそれにまつわる思い出について語ったり、片付けとしては無駄の多い……しかし充実した時間を過ごした。 もうこの世に居ない人なのに、その存在がまた……俺の中で膨れ上がっていく。誤解を招く表現になるかもしれないけれど……やっぱり、彼女は俺の中で大切な人だったんだと再確認させられた。 気がつけば、俺と歩くん
「あ……水瀬さん、ですね」 開かれた扉から現れるのは……当たり前だけれど、歩さんだった。夏山さんと同じ栗色の髪、どこかあどけなさを感じさせる丸い瞳。俺よりだいぶ身長の低い少年は、既視感のある雰囲気を身に纏って微笑んだ。「あっと……君が……?」「はい、歩です。夏山 歩。さぁ、どうぞ……中にいらしてください」 メッセージで感じたときのように生真面目な感じの丁寧な言葉遣い。しかし、実際にこう対面してみると……その声の柔らかさからだろうか、そんなに堅苦しい感じはしなかった。背格好からして、高校生……いや、もう少し落ち着いた雰囲気があるから二十手前くらいだろう。 歩さんに案内されて、玄関に立ち入る。案内されて……とは言ったが、特に変わった作りでもないので一見しただけで大体どこにどういう部屋があるのかは推測できてしまう。そしてその推測通り……俺はリビングルームと思われる場所に通された。「少し待っててください……。あんまり大したものは無いですけど……お茶くらいなら出せますから……」「あ……すいません。おかまいなく……」 俺をリビング中央にあるテーブルを囲う椅子の一つに座らせると、歩さんはそう言って台所へ消えていく。俺が座っているのも含めて、椅子は全てで四つ。四人家族……と見ていいだろう。しかしそれにしては……。「……」 あんまり人の家に上がり込んで色々観察するべきではないのだろうが、なんだか玄関先の雰囲気と比べるといささか生活感を欠いているように思われた。なんというか、妙に片付いている。整理整頓が行き届いているというのとも少し違って、単純に物が少なすぎるように見えた。それこそ四人家族のリビングとなればテレビくらい置いてあるものだろうが、そうしたものは見られない。あるのはテーブルと、椅子と……あとは窓際のカーテンくらいだった。 その生活感の無さのせいか、他人の家に居る時のあの独特の座りの悪さというか、落ち着かなさが無い。まるでビジネスホテルの一室で過ごすのと遜色ないくらいに我が物顔で、歩さんが戻るのを待つ。 どこから戸……おそらく冷蔵庫の扉が開く音がして、すぐに閉じる音がする。そうして少し急いだ足音が近づいてくると、二リットルペットボトルと紙コップを二つ持ってきた歩さんの姿が見えた。テーブルの上にペットボトルとコップを置くと
結局、威勢よく注文してみたものの……そんなに飲むことはなかった。自分が想像以上に酒に弱かったとか、そういう話でもなく……ただどうしてもそういう気分になれなかったのだ。たぶん……俺はここに来て酔う予定だったのだけど、来店していくらか時間が経った今でも意識は明晰で冷え切ったままだった。「なんだかな……」 きっとこんな情けない姿を夏山さんたちに見られたら笑われてしまうだろう。彼女たちがあの日、どんな気持ちで散っていったのか分からないけれど……きっと俺のこの門出を祝福してくれるだろう。みんななら。「ああ……だから、違くて……こうじゃないんだよ……」 祝いの席じゃないか、と自分で自分の心に語り掛ける。これは別に、そう思い込もうとしているとか、そういう自己暗示の類いじゃない。俺はあの日を懐かしむんじゃなくて、あの日々を背に前へと進んでいくのだから。「……」 意を決して……と言うのは少し大げさだけど、一息にグラスをあおる。喉で弾ける炭酸と沁みるようなアルコールが口内を焼く。やっぱり俺には、特別お酒をおいしいと感じる味覚は備わっていなかった。「ふぅ……」 息継ぎのようにグラスをテーブルにおいて一息つく。丁度その時だった、メッセージを送信したきり卓上にほっぽり出していた携帯が通知に震えたのは。「あ、と……姉さんかな……?」 帰りにこの店に寄ることは既に鹿間さんの車内に居たときに知らせてはいたけど、姉さんのことだからそれでも心配して連絡を寄こしてきたのかもしれない。いつも世話になっているし、姉さんに迷惑はかけられないのですぐさま携帯を手に取る。しかし、通知のバナーに表示されていたその名前を見て、絶句する。そこに表示されていたのは夏山さんのメッセージアプリでのアカウント名である「にゃつやま」だった。「え……?」 心のどこかが軋む。空間から切り離されて俺だけの時間が止まったように、何も考えられなくなる。一体どういうことなのか、それが判明する前に……そもそもそんな疑問が頭の中に生まれる前に俺は通知のバナーをタップして届いたメッセージを開いていた。『いきなり申し訳ありません』『あなたが水瀬さん、ですか?』 メッセージが届いていたのは、あのグループチャット。そこに夏山さんの名前とアイコンで、しかし夏山さん本人とは到底思えないカタい言