ある日世界に突如として異次元への「ゲート」が現れた。その扉の向こうに広がるのは「ダンジョン」と呼ばれる異質な世界。ダンジョンという現象の出現に伴い、ダンジョンを攻略し、その消失を生業とする「ダンジョンクリーナー」たちが現れた。いまいち社会に溶け込めずどこか疎外感を抱いていた主人公「水瀬 優」は苦悩の末、ダンジョンクリーナーを目指すことになる。超常の力が交錯するダンジョン。そこを生き抜く人々の物語であり、これは……彼の神話だ。
View Moreある日、世界各地に「ゲート」が現れた。
ゲートといっても扉のような姿をしているわけではない。
言うなれば、空間に空いた穴。
ある種の空間の歪み。
そういった現象だ。
ゲートの向こう側にはまるでアニメやゲームのような、いわゆるファンタジーという言葉でくくられるような空間が生成されていた。
その空間はリアルタイムで成長し、変容し、やがて実体化する。
ゲートが出現した場所の周囲がそのままゲート内の空間に置き換わってしまうのだ。
そうなれば当然、魑魅魍魎とでもいうべき魔物たちが解き放たれてしまう。
後にその異空間は「ダンジョン」と呼称されるようになった。
初めにゲートが現れたのは東京という大都市のど真ん中。
突如現れた謎のゲートは人々の注目を集めたが、ダンジョンの実体化が起きてしまってからそれどころではなくなった。
瞬く間に都市中に魔物があふれ、何人も死んだ。
そしてその後……何者かの手によって実体化したダンジョンは東京ごと消滅させられた。
その事件から数十年と時は進み、ダンジョンに立ち入った者が特別な力に目覚めることがあると明らかになる。
そこからは、ある種の新時代の到来である。
ダンジョンがあるのが当たり前の時代、そしてそれを攻略する者たちの時代。
そんな特別な力に目覚めた攻略者たちを人々はこう呼ぶ。
「ダンジョンクリーナー」と。
そしてまた、今ここに新たなダンジョンクリーナーが生まれようとしていた。
◇◇◇
いつからこうだっただろう?
もしかしたら初めからこういう運命だったのかもしれない。
俺の名前は水瀬 優。
どこにでもいる普通の学生……少し前まではそうだった。
しかし、その身分も失った。
今の俺は何者でもない。
漠然と、どうにかなると思ってきた。
なるようになると、そういう風に考えていた。
現に今までどうにかなって来たし、最終的には大団円のオチが待っていると思っていた。
そしてその結果、無残にも社会から振り落とされた。
職もなければ愛想もない。
社会に居場所がないと、まるで自分が人間でないみたいだった。
今の俺には何も無い。
かといってそんな空虚な人生に自ら別れを告げる度胸もない。
「もう……」
カーテンを閉め切った部屋で一人頭を抱える。
「もう、おしまいだぁ……」
俺の心境を知ってか知らずか、窓の外からは電線の上を跳ねるスズメの鳴き声が聞こえてきた。
「ぬわあああああ……!!」
そうして哀叫しながらアスファルトの上をのたうつミミズのように自室の床を転がっていると、部屋の扉がノックされるのを聞く。
コンコン、と軽快なリズムで二回。
ノックは二回ではマナー違反だ、と結実することのなかった努力の足跡が無意味に頭の中に浮かぶ。
無論自室の扉をたたいてくるのは家族なので、そこにマナーもくそもない。
「優くん、いる~……? 一応ご飯できたんだけどぉ……」
「はい、います。ゴミ人間はここにいます! ウゥッ……」
「……あちゃ~、いまそういう時間かぁ……。じゃあ……まぁ、お姉ちゃん先食べてるね」
結局、ドアが開かれることなく足音は遠ざかっていく。
いまのは姉さんだ。
人間の失敗作みたいな俺と違って基本的に何でもできて、人当たりもよくて俺にだって優しいし、おまけに美人だし……。
とにかく、完璧とは言わずとも真っ当にできた人間だ。
どういう仕事をしているかとかは実は詳しく知らないのだが、姉さんのおかげで姉弟二人暮らしでも何ら不自由することは無かった。
「本当に……」
それに比べて俺はいったいどうしたんだか。
何を間違ったわけでもないのに、こうしてくすぶっている。
いや、もしかしたら間違うのが怖くて何もしてこなかったのかもしれない。
ただずっと、真っ当に生きているつもりで足踏みをしていただけなのかもしれない。
「……よっと」
何はともあれ、一日中のたうっているつもりもないので立ち上がる。
せっかく姉さんが作ってくれた料理なのだから、冷ましてしまってはもったいない。
それにどうせ姉さんのことだ、先に食べているとは言いつつも俺を待っているだろう。
だから服だけ着替えて、急いで部屋を出た。
リビングに向かうと、案の定姉さんは待っていた。
二人用の小さめのテーブルに頬杖をついて、ニュース番組のコーナーの一つである動物たちの映像集みたいなのを眺めている。
そこそこ大きめのテレビ画面には仰向けのまま笹の葉をむさぼる自堕落の究極系みたいなパンダが映っていた。
「この子、かわいいね。優くんみたい」
「ウッ……それは……すみ、ません……」
「あっ、いや違くて! そういう意味じゃないからもー!」
慌てて姉さんが俺の言葉を否定する。
どうやら俺のことを食っちゃ寝するだけの怠惰なパンダと言いたいわけではないようだ。
いや、さすがにそうでないということはもちろん分かっていたが。
「うそうそ、冗談だから。姉さんがそう焦ることでもないって」
「……でも優くん自虐で普通に傷つく人だし……」
「それは……まぁそう……」
姉さんの言葉に苦笑いしながら椅子に座る。
テーブルに並べられているのは簡素ながら手の込んだ朝食だ。
わかめの味噌汁から暖かい湯気が上っている。
姉さんは俺が座ったのを見て満足げに頷いてから、やっと箸を持ち上げた。
「いただきます」
そういう姉さんに合わせて俺も朝食に手を合わせる。
感覚としてはどっちかというと食材にというか姉さんに手を合わせてる気分だ。
それが済むと、姉さんはすぐにテレビのリモコンを手に取る。
お行儀よく食事を始めたからと言って、別に最後までそうというわけでもないのだ。
少なくともウチでは。
姉さんはいつもテレビを見ながらご飯を食べるし、俺もその姉さんに時折目をやりながら食事をしている。
チャンネルが何度も切り替えられ、中途半端に途切れた音声が連続する。
時々何か興味のある言葉に惹かれたのかリモコンを操作する手が止まるけれど、結局また別の番組に変えていた。
今日はなかなか見たい番組が決まらないようだ。
『本日は全国的に……』
『……を記念して……が……』
『旧首都の消滅。あれから……』
様々なニュース番組が告げる日常。
日々をちゃんとした一人の人間として生きている人たちに向けられた言葉。
そのどれもが今や俺には関係がない。
「姉さん……たぶんもうチャンネル一周したよ……」
「ん~……あんまり面白いのやってないなぁ……」
「まぁ、朝だし。こんなもんでしょ」
味噌汁を一口すすって、姉さんに言う。
姉さんはつまらなそうな顔をして、諦めたようにリモコンを置いた。
結局、最初に見ていたニュース番組で固定される。
その番組では動物のコーナーなどもう終わっていて、今は違う話題が中心になっていた。
それは……。
『……史上最年少のB級クリーナーが、ここ日本で誕生しました! なんと14歳でB級に昇格ということで、今多くの注目が彼女に集まっています!』
アナウンサーのはきはきした声。
それが告げるのは、ダンジョンクリーナーについての話だった。
ダンジョンクリーナー。
スキルさえ目覚めれば誰でもなれて、この番組で紹介されている少女のように若くして成功を収める可能性だって秘めている。
死と隣り合わせだけれど。
そんななか、この少女は若々しい才能を携えてB級に昇格したのだ。
スキル覚醒さえすれば、C級まではわりと行けるらしい。
ところがB級はそうはいかない。
B級の壁、なんて言葉が生まれるほどだ。
「へぇ、14歳……無垢ちゃんだって。すごい子もいるんだね~」
「……でも、本来子どもにこんなことさせるべきじゃないだろ。まぁ、俺が言えたことじゃないけど……」
俺の言葉に姉さんが一瞬目を丸くする。
そして少ししたら柔らかく微笑んだ。
「……ふふ、そうだよね。確かに! 優くんは優しいね」
「ウッ……」
「え、ちょっと! ほめてるのに何でそうなるのさ~!」
姉さんのまっすぐすぎる笑顔は、場合によっては悪口以上に効くのだった。
優しい人間ならこんなところで立ち止まってないよ。
しかしあの歳でB級か……。
となると収入は……。
少し考えて、そしてすぐにやめる。
あまりにも自分がみじめに思えてきたからだ。
才能さえあれば億万長者も夢じゃない。
ダンジョン内で手に入る物質は基本的に高値が付くし、高難易度のダンジョンを攻略すればそれだけで大儲けだ。
なんとも夢のある話だが……俺とは住む世界が違過ぎる。
もう目に見えているのだ。
きっと俺はC級どころかスキル覚醒すらしない。
そんな才能、あるわけない。
そうだ。
この現状もなるべくしてなったんだ。
俺ははなから失敗作で、何の才能もなく、空っぽで……。
「あーもう!! すぐそういう顔する!!」
突然、ぐわんぐわん視界が揺れる。
何かと思えば、姉さんが俺の頭をわしわし乱雑に撫でていた。
そうやって髪の毛をぐちゃぐちゃにして、テレビを消す。
「ふぅ……まったく。あの手の話は今の優くんには毒だったかもね」
「…………」
姉さんの言葉に何も言えなくなる。
ひどくみじめで、言葉が出なかった。
「そりゃさ、受けたところことごとくお祈りメールで、おまけにバイトもクビになったら誰だって落ち込むよ!」
「ウッ……」
「今はそれ禁止!」
ぺちんと、姉さんの指先が額をたたく。
「……けどね、優くんは優くんのペースでいいの。焦らないで。急がないで。お姉ちゃんは、ずっと優くんのそばにいるから! だからさ、大丈夫。大丈夫だよ。ね?」
まるで子どもを慰めるような表情で、姉さんは俺の顔を覗き込む。
それに俺は、黙って頷くほかなかった。
姉さんは優しい。
でも、だからこそ今のままではいけないと、強くそう思うのだ。
自分に言い聞かせる。
お前が最後に本気になったのはいつだ?
そう問いかければ、いやでも自分のどうしようもなさが見えてくる。
結局そう、本当に俺は今まで足踏みをしていただけなのだ。
前に進もうとしなかった。
姉さんの優しさに甘えて。
いつだってそう、自分に何も無いかもしれないということを知るのを恐れて、本気になれなかった。
壁にぶつかる前に「ここは自分に向いていない」と背を向けてきた。
だけど、流石にそろそろ姉さんの優しさに応えなければならない。
人として、成し得なければならない最低ラインだ。
それほどに俺は姉さんに守られ、救われてきた。
だから、今できることをしなければならない。
そしてそれは……。
「姉さん、とんでもないこと言っていい?」
住む世界が違う?
どうせそんな才能などない?
本当に……?
確かめもせず何を言っているんだ、俺は!
「なぁに? 優くん?」
姉さんが首をかしげる。
「俺……俺さ……」
言え!
臆するな、退路を塞げ!
いい加減人間になれ!
「俺、ダンジョンクリーナー……試してみる」
宝くじよりはまだ現実的な確率だろう、たぶん。
テレビの14歳に感化されてなんて馬鹿みたいだけど、頭から可能性を否定して賽を振らないのはもっと馬鹿だ。
姉さんは俺の言葉に不安そうな表情を浮かべる。
しかし決して首を横には降らなかった。
「うん、分かった。あんまり危ないことは……だけど、優くんが決めたならお姉ちゃんも手伝う。応援してるからね!」
俺の肩に手を置いて、姉さんは深く頷く。
そして数秒後、体の力をフッと抜いた。
そして笑う。
「へへ、ご飯冷めちゃったね」
「あ、ごめ……」
申し訳ないのと、なんだか小恥ずかしいような気持ちで頭をかく。
もちろんそれで気がまぎれるようなことはなかった。
そしてそんな俺の顔を、姉さんは穏やかな表情でじっと見つめる。
「え、っと……姉さん?」
「ふふ……優くんは優しいね」
「え……え? なんで?」
「なんでも」
なんだか分からないけれど、そうやって姉さんがくすりと笑うのが無性に嬉しかった。
「それで……ここからいったい、どうするのですか?」 逃げに逃げてたどり着いた教室。出口のゲートがある教室。そこに先生の声が響き渡る。「はぁはぁ……これ、は……」 呼吸を整えながら、教室の後ろの戸……本来ゲートが開いているはずのそこを見る。そこに入った時のようなゲートの光は無く、ただ開きっぱなしになった戸の向こうの廊下が見えるだけだった。「ゲートが……閉じてる……」 皐月も……この状況を意外とは思っていないようだけれど、悔しそうに眉間にしわを寄せる。そうして教室の中で足を止めていると、開かれていた戸が全てひとりでに閉まった。「さぁ、どうします? 見せてくださいよ。証明してください……あなた方があなた方の言動に見合う能力を持っていると……。それとも……」 音もなく……教室の中心に先生が現れる。姿を現すや否や、先生の呼び名に似つかわしくない行儀の悪さで机の上に足を組んで腰かけた。「……それとも、もう手も足も出ませんか……?」「こいつ……最初からこうなるのが分かってて……。本当悪趣味……」「なんとでも言ってください。どの道もう……あなたたちの運命は決まっています。安心してください、二人とも……命を失うことはありませんから。これはわたしのあなたたちに対する最後の誠意であり、その悲しき定めへの同情でもあります」 皐月の言葉に先生は相変わらず分かるような分からないようなことを言って答える。そういう部分も含めて……皐月の「悪趣味」という言葉には全面的に同意だった。 現れた先生は、既に皐月があの時つけたはずの傷が無い。皐月が「あの程度の傷では先生の生命に影響はない」とは言っていたが、まさか痕跡を残さずに完全にふさがっているとは思わなかったために思わず言葉に詰まった。「さて……まずは一つ……あなたのことを確認させていただきましょう。結局どのように目覚めたのかは明らかでないですからね。あなたがどのように起源への郷愁に抗ったのか、今後の参考にさせていただきましょう」「んなっ……!?」 俺がこの期に及んで無防備すぎたのもあるかもしれないが、先生はクイと人差し指を動かすだけで俺の体をその眼前まで引き寄せる。先生は俺の体を眺めながら「別にわざわざわたしから出向く必要も本来は無いのですよ」とつまらなそうに語った。「くっそ、放せ! いや、放せ……であ
意識が海から抜け出すと、視界が暗転する。代わりに先ほどまでは感じなかった体にかかる重みを感じた。地球の重力を肌に感じて、自分が現実に戻ってきたのだと悟る。もう目覚めているのだから……あとは目を開けるだけだった。 浅く呼吸しながら、ゆっくりと目を開く。視界に映るのは……あの神秘的な砂浜じゃなく、しっかり俺の認識する現実と地続きなあの体育館だ。 音を立てないように体を起こすと、対峙している皐月と先生が見える。どことなく一触即発の雰囲気を漂わせながらも、何か言葉を交わしているようで戦闘中という感じでもなさそうだった。 俺が起き上がったのに気づいたのか、皐月の瞳がほんの一瞬だけこちらに向く。たぶん意識的に見たというわけじゃなくて、視界の中で動くものがあったから半ば自動的に反応するようにこちらを見たのだろう。そして、その一瞬の瞳の揺らぎを先生も見逃さず、ゆっくりとこちらに振り向いた。「ん……? あら……?」 俺が立ち上がっているのを見ると、存外驚いたようでその目を丸くする。というか……なんだか、俺が眠りに落ちる前とは先生の雰囲気が微妙に違う気がする。なんというか……あのただ神秘的なだけの鏡のような瞳でなく、意思とか、感情とか……そう言ったものの色が浮かび上がった瞳だ。言うなれば……何があったかは知らないが、化けの皮がはがれた、というやつかもしれない。「……ふむ、こちらの方には……眠りから目覚めてくるほどの意志力のようなものは見て取れませんでしたが……わたしの目も鈍ったのでしょうか? どちらにしても……」 まだかろうじて笑みを保っていた先生の顔面から……表情がスッと消える。その瞳には軽蔑にも似た嫌悪感がありありと浮かんでいた。「どちらにしても、少し面白くないですね……。それにあなた……あなたには、正直客人としての価値も感じません。ふぅ……今すぐここから出ていくことをお勧めしますよ。ここは……あなたの来るべき場所でなかった……」「俺が出ていくのを黙って見守っててくれるのか? だったら遠慮なく帰らせてもらうけど……」「ふふ、ええ……もちろん、帰っていただいて構いませんよ。ただ、ここについての記憶は置いて行ってもらいます。ちょっとしたつじつま合わせをすれば……あなたが再びここを訪れることもないでしょう」「ああー……なるほど……」 ぶっ
「姉……さん……?」 眩しい夕日の滲む中、姉さんが俺に笑いかける。波打ち際に立つ姉さんのかかとを打ち寄せる波が濡らしていた。「優くん……おいで……。……くん……」 姉さんが俺を呼ぶ。なぜか二度目に呼んだ名前は……複数の音が重なっているように聞こえて、言葉が不明瞭だった。「ここは……」 何度辺りを見回しても、ここは見たことのない場所だ。もちろん海なら今まで何度も見たことがあるが……しかしこの海は知らない。それどころか……この場所、そもそも日本なのか……?「××くん……」 いい加減俺を呼ぶ姉さんを無視するわけにもいかず、そのそばに歩み寄る。俺の接近を受け姉さんは……その視線を海に向けて、隣までやってきた俺の手をそっと取った。「姉さん……?」 なんだか……波の音のせいだろうか、不思議と心が安らいで……けれども何一つ状況が分からないので、海を見つめる姉さんの横顔に尋ねた。俺の声を聞くや否や……姉さんはゆっくり首を横に振る。そして、俺の手を握る手に僅かばかり力を込めた。俺の手のひらに……姉さんの体温が染み込んでくる。「大丈夫、心配しないで。全部うまくいくから、わたしを信じて、ね?」「全部うまくいくって……どういうこと? 何が……?」「……今はまだ……分からないかもしれない……。けど、世界の始まりに……眩い光が降り注いだように……今度はわたしたちが……やさしく、全てを抱きしめればいいの。そして……最も大切なこと、それは……××が××自身のことを愛すること。××くんの孤独は永遠かもしれないけど……信じて、あなたを愛して、あなたに笑いかけてくれる人の、その思いは……決して、嘘でも軽薄なものでもないんだよ」「……」 いったい、なんについての話なのか分からない。けれどもどうしてか、その言葉は胸に響いてくるものがあった。 胸の中に、今まで抱いたことのない感情が渦巻く。しかし同時に、もう何度もこんな思いこの胸に刻んできているような気もした。それは……孤独。まるで何もない暗闇で、ただ空しく自分の呼び声だけが反響しているような感覚だった。だれも俺の言葉には応えず……それどころか聞こえてすらいない。どうあがいても、冷たい壁が……全てを閉じ込めてしまうのだ。「……ん? あれ……?」 ふと、違和感がして手の甲で頬を拭うと、濡れていること
「やっと……仮面が剝がれたね、先生様? 胡散臭いただ穏やかなだけの中身のない表情より、そっちの方が好感持てるよ」 先生は皐月の言葉に、その瞳に怒りの色を浮かべる。傷のふさがった腕で頭を抱え、どこか狂気的に笑った。「ふざけないでください! あなたとわたしに通う血が同じ!? 自惚れないでください! 高潔な魂を持たない紛い物が、わたしと同じ……!? ああ、愚か……!! あまりにも愚かっ……!! ですが……」 感情のままに激昂していた先生だったが、その怒りを徐々に収めていく。そして先ほどまでの取り乱した様子は数回の呼吸の後に鳴りを潜めた。「ですが……許しましょう。その愚かさこそ……あなたたちがあなたたちたる所以ですから……。無尽の生命の祝福が……わたしに囁いている。ああ……そう、わたしはこの不完全な生命を導かねばなりません。ですから……まず初めに、あなたは分をわきまえるということを学ぶ必要があるかもしれませんね……」 未だ攻撃のタイミングを窺っている皐月の眼前で、先生は静かに……そしてあまりにも無防備に人差し指を立てる。それを自身の唇に添え「静かに」とでも言うように、皐月を見つめる目を細めた。「……!」 その瞬間、皐月が目の色を変える。先生は……ただ人差し指を立てるというプロセスだけで、皐月から言葉を奪ったのだ。 しかし……先生による干渉はそれだけに留まらない。視覚的には何が起こっているわけでもないのに……皐月は言葉の次に身動きを封じられた。これをゲームの対戦で例えるなら、まるでチートを使っているようなものだろう。しかしダンジョンにおいても……こうした保有する能力による壁はほとんどチートのように高くそびえる。 だから皐月は……この理不尽に対しては……特別な感情は湧かなかった。ただこうして自分の理解の及ばない状況に際しても、小さな頭蓋骨に収まった脳は懸命に突破口を模索し続けるだけだ。既にこの数秒のうちに、皐月は自身にできるやり方を六つ試し……そしてすべて失敗していた。「ふふ……やっと他の子供たちみたいに可愛らしくなりましたね……。あなたは……今は立場上難しいのかもしれませんが、もう少し素直になるべきですね。それとも……そんなに自分自身を直視するのが怖いですか?」「……」 一切の抵抗を封じて、置物同然になった皐月の顎を指先で撫でる。
「水瀬! 水瀬……!」 皐月は倒れた優になんども語り掛けるが、反応はない。肩を揺すれば……揺すっただけ頭がガクガク揺れるだけだ。 皐月はこの状況に舌打ちしながらも、冷静さを取り戻して立ち上がる。そして再び、優を他の”生徒”達のように眠らせた張本人である先生を睨みつけた。「ふふ、心配は要りません。彼は自ら望んで起源へと沈んでいったのですから……。郷愁……この感情に抗える人間は居ません。それは何よりも……あなたたち自身が、そしてわたしが分かっていることです。歪で不完全な生命よ……今度はあなたの番ですよ……」「来るな! 訳の分からない言葉を重ねるのはやめてって、私さっきも言ったよね? あなたは何で……ここで何をしている? それが何であれ……止めるけど」「ああ……可哀想に……怯えているのですね?」 先生は皐月の言葉などまるで聞かずに、ゆっくりと近づいて行く。皐月はそれを牽制するように、スキルを使って先生の足元を凍り付かせた。水分も冷気もなかったはずの場所に氷結した氷の刃は、それ以上脚を踏み出すことを許すまいと輝いていた。「……ふふ、あなたの中にはもう……芽が出ているじゃありませんか。同じことですよ、わたしがしていることも……。ただ彼らが、彼らの望むあるべき姿に還れるよう手助けをしているのです……」「あんたが……闇雲に一般人のスキルを覚醒させているって認識でいいの? だったら……まどろっこしいのは嫌いだから、私も躊躇わないけど」「あなたの欲しいものは……本当にそんなものでしょうか? あなたの目は……ふふ、全く違うものを物語っているようですが……。もしかしたら、ここに居る他の誰より……あなたはわたしの助けが必要かもしれませんよ? 不信、失望、卑屈、孤独、諦め……そして羨望……。言葉に当てはめてしまうと少し陳腐に感じるかもしれませんが……わたしならそれらを、あなたのあるがままを受け止めてあげられますよ」「ふざけないで」 皐月はこの先生という人物とは話が通じないと判断して、とうとう本格的に短剣を構える。何の特徴もない、地味な短剣。しかしそれはあらゆる素材や労力を躊躇わず注ぎ込まれ極限まで鍛え上げられた刃だった。 しかし、あの先生というのも……ただものではない。先ほどの一瞬の展開……皐月の攻撃を躱し、優に迫ったあの瞬間……。あれは皐月でさえそ
「水瀬……念のため私の後ろに……」「え、あ……ああ……」 皐月の背に身を隠すというのは、なんだか複雑な気分だが反発するわけにもいかず俺は後ろに下がった。それを見た先生は……相変わらず穏やかな笑みを浮かべたままだった。「ふふ、そう警戒する必要はないのですよ。あなたたちが欲するのであれば……ええ、なんだって答えて差し上げましょう」「……」 皐月は……未だ眼前に居る人物の底を測りかねているいるようで出方に迷っているみたいだった。「何も……聞きたいことはありませんか……? なら……そうですね、お話しするより……実際に私に心を預けてみてはどうです? そう……彼らのように……」 先生は「御覧なさい」と手を広げる。そこにあるのは……先生の手によって意識を失った者たちだ。皆……まるで死んだかのように眠っている。「あなたは……何者……?」 皐月が先生を視線で牽制するようにして、問いを投げる。先生は……そんな視線などまるで意に介さず、しかし皐月を刺激しないためかそれ以上一歩も動かず答えた。「わたしは何者か……ですか? ふふ、見ての通り……わたしはここでは”先生”でしかありませんよ」「そういうことを聞いてるんじゃない。それくらいは分かってるでしょ。こっちは無駄な問答がしたくてここまで来てるんじゃないの」 皐月はインベントリから……簡素な見た目の短剣を取り出す。先生はその刃の輝きを瞳に映すと、少し目を細めた。「……なるほど、そういうことですか……。どうやら今宵ここを訪れたのは……特別なお客さんのようですね。ですが……ええ、やはり……あなたも彼らと変わらないですよ。じきに分かります……」 先生はまるで無防備に、ゆっくりとその腕を持ち上げる。皐月が「動くな!」と切っ先を向けるも、今度はその制止に従わなかった。「大丈夫、おびえることはありませんよ。あなたにとって……世界は優しく温かいですから……。あなたの望みは何であれ、全て叶うと約束しますよ。仮初のカタチを捨て、生命の種を芽吹かせるのです。最も……あなたらしい姿で……」 歩みを止めない先生に、皐月は迷わず剣を突き出す。しかしその一瞬の刃の閃きは……心臓を貫くことも喉を切り裂くこともなかった。ただ空を切り、何も傷つけることなく……変わらぬ姿で皐月の手に握られている。そして……。「え……」 頓
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